第6章 part1
部屋に飛び散った大量の血しぶきや、倒れた《捕獲屋》を見て、ユーニスは青ざめた。続いて、この惨劇に耐えられなくなったのか、おえっ、とむせるような音を喉から出して部屋から出た。
この地区に来てから、何度か嗅いできた臭いが鼻を容赦なく責める。アーネストにこの臭いの正体を聞いても、彼は答えてくれなかった。そのうちわかる、と、言うだけ。そして今、ユーニスは臭いの正体を知った。
《捕獲屋》の血の臭いだ。
彼が廊下の隅で嘔吐している間、ヨランダとアーネストは部屋から出なかった。ユーニスのことは眼中にない。
「まさか……捕まるなんて」
ヨランダは掠れた声を出す。腕の中にカルテをしっかりと握り締めている。彼女の顔は青ざめていた。
アーネストは血の臭いから判断した。スペーサーは、彼なりに戦ったのだろう。だが、《捕獲屋》の血の臭い以上に、スペーサーの血液の臭いが強い。彼が負傷して弱ったところで《捕獲屋》に捕えられたのだ。このせまい部屋の中、身動きはとりづらい。一対一ならばともかく、この血しぶきの具合からして、彼は少なくとも五人以上の《捕獲屋》と戦ったのだ。床に落ちた金属の文鎮には、血液が付着している。《捕獲屋》の血だろう。
壁に残った焦げ跡が目に入る。これは、《捕獲屋》の使う麻酔銃だ。アーネストも一度撃たれたことがある。撃たれればたちまち全身が痺れ、意識を失う。しかしながら狙いを外すとこのように焦げ跡がつく。スペーサーは撃たれなかったかもしれないが、彼の血の臭いに混じるかすかな毒液の臭いから判断して、変身系の能力者を捕える際に使われる毒液を塗ったナイフで切られたのだろう。血の臭いがこれだけ強い。おそらくスペーサーは深手を負ったのだ。おまけに毒が体内に回って動きが取れない状態。《捕獲屋》にとっては、好都合だ。無抵抗状態なのだから。そして、診察室の窓は、明り取りの役もあるため、他の部屋より広く作られている。《捕獲屋》は窓を破ってそのまま逃走したのだ。
「アタシ、院長に報告してくる……」
「ああ……」
歩き出したヨランダの背中を、アーネストは見送った。
「そうか……」
院長室。
院長は、ヨランダの報告を聞いて、溜息をついた。
「元々干渉系の能力を持っていた。人一倍狙われてきたからな……」
「院長。それで――」
「わかっているとも。二週間以内に戻らなければ、裏に墓を立てておく」
基本的に《捕獲屋》にとらわれた後は生死の確認が出来ないため、二週間以内に戻ってこなければ死亡とみなされる。これはこの地区独自の法律だ。もちろん二週間を過ぎて戻ってこられる者もいるが、それは極めて少数だった。
ヨランダが戻ってきたとき、スペーサーの診察室では、院内の清掃員が数名、部屋を掃除し、片付けていた。廊下の隅に出来た、ユーニスの吐瀉物のカタマリもだが。
アーネストは廊下に出て、壁にもたれかかってヨランダの帰りを待っていた。彼女の姿を見つけると、廊下の壁から体を離す。
「何だって?」
「二週間以内に戻ってこなければ、お墓作るって……」
「そうか……」
ヨランダの沈んだ表情に、アーネストの表情も沈む。予想はしていたのだろうが、あえて口に出されると――。
「なぜお墓なんか作るの。まだ死んだって決まったわけじゃないでしょ」
脇からユーニスが入る。
「死んだって決まったわけじゃないけど、生きていると決まったわけでもないわよ」
ヨランダは返答した。いつもの気の強さを感じられない、弱い声だ。
「だから二週間以内に帰ってこなければ、死んだってみなすのよ。そりゃ、二週間経って帰ってくる事だってあるかもしれないけど」
ユーニスは返答せず、首を少しかしげて、二人に背を向け、なにやら呟いた。
やがて、片付けと掃除が終わり、部屋は元通り綺麗になった。たった一つだけ違う事といえば、この部屋の主がいないこと。
アーネストとヨランダは、ふと、ユーニスの呟きが耳に入った。
「そうか、コストをおさえるから……となるから、少しは減ってもまかなえるのか。となると、……いやいやそうじゃない。でもこれは本当にいいのか?」
そこで、ユーニスは呟くのをやめた。そしてアーネストを見る。
「どうしたの」
「……」
アーネストは、ユーニスの両肩をがしっと掴んだ。その行動の意味が解らず、ユーニスは目を丸くする。
「お前、知ってるだろ」
「知ってるって、何を?」
「決まってるだろ! この地区の出口のある場所だ!」
その言葉に、ユーニスはぎくりとする。アーネストは構わずユーニスを強く揺さぶった。
「知ってるだろ! お前は外から来たんだからな!」
「あの、出口って、なんでそんな事聞くの」
「決まってるだろ! 助けたいんだよ、あいつを!」
アーネストの目は真剣そのもの。少しも冗談などない。ユーニスはその迫力におされて一言も喋れなくなっていた。ヨランダはもちろん、止めに入れない。
「何とか言えよ! 出口知ってるだろ!」
「で、でもこの地区は出入り禁止――」
「じゃあなんでお前がいる?!」
「僕は、と、と、特別……それよりどうして出口の場所なんか聞きたいの」
「さっきも言ったろ! 助けたいんだよ! それに、あいつには個人的な借りだってあるし――」
アーネストの声が尻すぼみになっていった。視線がユーニスからそれて、宙を漂う。ユーニスはきょとんとした。
アーネストはユーニスの肩から手を放して、フウと息を吐いた。興奮が冷めて、落ち着いてきたのだろう。そのまま彼は廊下を歩いていった。
その背中を見送って、ユーニスはヨランダに問うた。
「ねえ、個人的な借りって何?」
「そうね……」
ヨランダは、まだ握り締めているカルテを、より強く握った。言っていいのかわからない。だがアーネストもスペーサーも、今はいない。
「……アーネストが能力を暴走させた事があるの」
「暴走?」
ユーニスは首をかしげる。暴走といわれても、能力者ではない彼にはピンと来ないのだ。
「ええ、あなたにはわかんないでしょうけど」
ヨランダは溜息をつき、そのまま話す。
「暴走ってのは、言葉通り、能力が制御できなくなる状態のことよ。アーネストの能力、知ってる?」
「うん。狼に変身できる」
「あ、もう知ってるの。一般に、変身系の能力者が暴走すると、他の能力の暴走と比べて、沈静化が難しいといわれてる。そして、アーネストの暴走を止めたのが、スペーサーなのよ」
「暴走を止めたって、それだけで貸し借りになるの?」
「なるわよ、『あれ』なら――」
ヨランダの表情は一段と暗くなったが、ユーニスにはいまひとつ話が理解できない。アーネストの能力が狼に変身するということだけは知っている。しかしながら、ユーニスは、能力の暴走と言うのがどんなものなのか、一度暴走が起きれば一体どんな被害が出るのか、全く想像もつかなかった。
「暴走を止めただけで貸し借りが出来るなんて、すごいね」
「あら、その『すごい』ってどういう意味?」
「だって、沈静化の難しい暴走を一人で止めたって言うから――」
「まあ、一人じゃないけど――そうね。本当ならもっと人数いたけど、実質的に止めたのはスペーサーだものね」
「もし暴走を止めなかったら、どうなってた?」
ユーニスの問いは何気ないものだったが、ヨランダにとっては恐ろしい事のようだった。彼女の顔は、青ざめていた。
「そうね……この病院丸ごと、下手すればこの地区の一部が――」
一旦言葉を切る。
「破壊されたでしょうね」
暫時の沈黙。
ユーニスは、眉をひそめた。
ただの狼が、地区を破壊できるほどのパワーを持っている?!
ヨランダが大げさな事を言っているのだろうか。
だが、嘘をつくにはあまりにも表情が真面目すぎる。暴走というのがどんなものなのか想像のつかないユーニスだったが、ヨランダの表情を見る限り、能力暴走による被害が甚大であるということは解った。
アーネストが戻ってくるのが見える。ジャケットに返り血がついているのも見えた。
「どこ行ってたのよ」
ヨランダが問うた。アーネストは面倒くさそうに答える。
「トイレだよトイレ。ついでに《捕獲屋》を叩きのめしてやった」
ストレス解消でもしていたかのような口ぶりに、ユーニスは軽く身を震わせた。この地区に来て《捕獲屋》に追われていたところをアーネストに救われたときの事を思い出した。アーネストが具体的に何をしたのか、ちょうどユーニスは見ていなかったが、《捕獲屋》がアーネストによって殺されたのは事実だった。そして、この地区の住人は、《捕獲屋》を殺す事に慣れきっている。《捕獲屋》から逃げる、あるいは戦う事が、この地区では日常茶飯事だからだ。外部から来たユーニスには考えられないことだった。殺人がこの地区では日常的に行われている。
「そりゃこの地区で何が行われてるか知りたかったけど……でもこれじゃ、管理部の目をかいくぐるには……あの《捕獲屋》を使うのかも。そうすれば低コストだし――」
「へえ《捕獲屋》って結構便利なの」
「そうだと思うけど。管理部の目に触れたらそれこそ研究所は閉鎖だね」
「なぜ閉鎖になるの」
「だって、この地区それ自体が大きな――」
急にアーネストが部屋を横切り、窓をピシャッと乱暴に閉めた。その窓の向こうで、落下の悲鳴が聞こえてきた。
どうやら、《捕獲屋》が、開いている窓の縁に掴まって部屋の中を覗こうとしていたようだった。アーネストが窓を閉めたために、落ちたのだろう。突き破られた窓だが、さすがに割れたガラスを掴むほど、《捕獲屋》は間抜けではない。自分の血の臭いをわざわざ知らせるようなものだからだ。
ユーニスは、アーネストが突然窓を閉めた理由がわからず、思わず口を閉じていた。
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