第6章 part2



 日の暮れかかる頃、アーネストは一人で、スペーサーの診察室にいた。《捕獲屋》に荒らされたこの部屋は、今では元通りに片付けられている。ちり一つ落ちていないし、血痕は綺麗にぬぐわれて掃除されている。唯一違うのは、この部屋の主がいないこと。
 破られた窓に、はためくカーテン。
 アーネストは、数年前のことを思い出していた。

 彼を保護していた男の下から離れた後、特にすることもなく日がなぶらぶらしていた。この頃は、路地裏を通らざるを得ない能力者が《捕獲屋》に襲われたときに助けてやることも多かったが、逆に自分が助けられる事もあった。ピンチに陥って捕えられかかっても何とか逃げ出した事もあった。
 そんなある雨の日の戦闘中、些細なミスで、《捕獲屋》の使う毒塗りナイフでかすり傷を負った。かすり傷でも容赦なく毒が回り、体が痺れる。それでも何とか《捕獲屋》の追跡を振り切って逃走したものの、回る毒には勝てず、大粒の雨が降り落ちる細い路地で意識を失ってしまった。
 意識が戻ってきたのは、それからどのくらい経ったのか。最初は何もわからなかったが、感覚が戻ってくると、頭が重くなり、めまいがした。それが収まってくると、寝台の上に寝かされているということがわかってきた。体の痺れはだいぶ取れているが、身を起こそうとすると、まだ体に力が入らなかった。傷を負わされたことを思い出して、首を動かして傷口を見る。が、その箇所からは血が出ておらず、手当されている。毒抜きもされているようだった。
 誰かの声が聞こえた気がした。まだ十分に力が入らないので、首だけを動かして、部屋の中を見回してみる。寝台の死角にデスクがあり、そこからは薬の臭いが発せられている。戻りつつある嗅覚が、その薬が病院で使われるものであり《捕獲屋》の使う薬物とは違うと教えた。
――起きたのか。
 誰かの声が、デスクから聞こえてきた。そしてその声の主は、アーネストの寝かされている寝台へと歩み寄ってきた。
 気分はどうだ、と聞こえた。聴覚は戻ってきているが、頭が多少ぼんやりするので、相手の言葉を理解するのにも少々時間がかかる。目の前がだいぶはっきりと見えてきて、彼を覗き込んでいる相手の顔も細部まで判別できる。
 歳は彼と同じくらい。頭は良さそうだが、眠そうな顔がそれを半減させている。ちゃんとアイロンのかけられた清潔な白衣を着ているが、その下は動きやすさを重視した暗色の私服を着ていた。かがみこんで目線を合わせているように見えたが、よくよく見ると、相手は猫背だった。
――大丈夫か、アーネスト。
 相手に名前を呼ばれた。が、アーネストは、なぜ相手が自分の名前を知っているのか解らない。なぜ名前を知っている。掠れた声で問うた。すると相手は、少し首をかしげて言った。
――憶えていないのか? まあ、無理もないか。
 あの白い建物の中で、同じ時期に暮らしていたという。しかしアーネストには覚えが無い。何度も説明してもらい、ようやっと思い出せた。皆が遊んでいるときに、部屋の隅やグラウンドへ下りる階段にいて、一人で皆が遊んでいるのを見ていたあの子供。あの頃から眠そうな顔をして、泣きも笑いもしなかった、存在感の薄かった子供。あの白い建物から子供たちが第五地区へと出されたとき、なぜか彼だけ、灰色ずくめの何者かに付き添われ、子供たちを見送った後で建物の中へ戻っていった。
 思い出したところで、アーネストは、なぜ助けたのかと相手に問うた。相手はまた話しかけてきた。
――道端で倒れていたから、ここへ運んできただけだ。毒にやられていたから、毒抜きもしておいた。まだ私は勉強中だが、診察の練習にもなるからな。
 練習台扱いされたアーネストは怒って思わず身を起こす。身を起こすことはできたものの、しかしながら相手につかみかかる事はできなかった。そこまで力が戻っていないのだ。
――体内に残留している毒が完全に消えるまで、まだ時間がかかる。寝ていろ。
 起き上がった拍子に、頭がぐらぐらした。そのまま寝台に押し倒される。これが患者に対する扱いかよ、とアーネストは頭の中でグチをこぼす。
 相手は、アーネストの傷口の当て布を外し、温かい湯に浸した清潔な布で傷口を拭う。どうやら解毒薬を入れた湯らしく、傷口に触れられると、ひどく痛んだ。
――まだ毒が抜け切っていないからな。薬がしみて当たり前だ。ところで、今、何をやってる?
 何といわれても、特に仕事などない。その日その日を生きているだけに過ぎない。そう答えた。
――そうか。それなら……
 相手は一度言葉を切る。
――薬剤を運ぶ仕事でもしてみるか?
 思わず身を起こす。
――病院の薬剤を保管している倉庫は、ここから一区画離れた所にあるんだが、強盗が多くて、道中がかなり危険だからな。よほど腕の立つ者でないと行き来が難しいんだ。それに、最近、薬剤運びのアルバイトが強盗に殺されてしまってな。……院長には、私から話してみるが、どうだ、やってみる気はあるか?

(考えてみれば、俺はあいつに借り作りっぱなしだよな……今の仕事も、『あれ』も、何もかも)
 夕日は沈んでしまったのか、部屋の中はだいぶ暗くなる。病院の廊下に電灯がともり、室内は少し明るくなった。
 憶えのあるニオイ。
 振り返ると、部屋の入り口にユーニスがいた。ヨランダと一緒に別室にいたはずだが、出てきたのだろう。
「ねえ」
 ユーニスは、口を開いた。
「知りたいんでしょ――あのお医者の居場所」
 その言葉に、アーネストは反応した。数歩で部屋を横切るや否や、ユーニスの両肩をがしっと掴んだ。
「知ってんのか?」
「そ、そりゃ知ってるというか、見当はついているよ」
「知ってるのと見当がつくのとじゃ意味が全然違うんだよ! とにかく、居場所を知ってるのか?」
「確証はないけど、連れて行かれた場所なら、わかるよ」
 ユーニスは、アーネストのすさまじい迫力に負け、思わず声が震えるのを感じたほどだった。一方でアーネストはユーニスが自分の迫力に気圧されている事も知らず、彼の肩を掴んだまま揺さぶった。
「わかるなら教えろよ! あいつはどこへ連れて行かれたんだよ!」
「だ、だ、だからっ」
 ユーニスは、揺さぶられたため、舌を噛んだ。
「らから、ちょと、手え放して……」
 アーネストはようやく、ユーニスの肩から手を放した。それでも、アーネストが興奮しているのは目に見えてわかった。
 ユーニスは、噛んだ舌の痛みが引くまで待つ。それから深呼吸して、口を開いた。
「あのね――」

 刹那。

 アーネストはユーニスを脇に抱えて、跳んだ。
 直後、アーネストが先ほどまで立っていた場所に、毒塗りのナイフが数本突き刺さった。
 破られた窓から、《捕獲屋》が数人。ざっと四人だろう。
 アーネストは、ユーニスを床におろし、壁を背にする。
 (こいつら、気配を消してやがったのか?)
 彼の知る限り、《捕獲屋》は気配を消さずに襲ってくる。
(それとも、俺に落ち度があんのか?)
 ユーニスから話を聞きだそうとして、警戒を忘れていたのだろう。
《捕獲屋》は、窓から入ってくる。手にはナイフだけでなく、麻酔銃やネットも持っていた。幸い廊下からは気配が無い。廊下へ逃げる事もできるが、それはアーネスト一人だけならばの話だ。ユーニスというお荷物がある以上、アーネストは機敏に動けない。
《捕獲屋》が飛び掛ってくる。アーネストはこれを迎え撃った。
「そこにいろ!」
 ユーニスに言い、向かってくる《捕獲屋》のナイフの一閃をかわす。直後に左から飛びかかる《捕獲屋》のみぞおちに拳を叩き込み、ナイフを持った《捕獲屋》が再度ナイフを突き出そうとすると、気絶した《捕獲屋》をそのまま盾にしてナイフを防いだ。アーネストは、飛来したナイフを床から引き抜く前に、この盾代わりの《捕獲屋》を勢いよく、麻酔銃を撃とうと構えていた《捕獲屋》めがけて投げつけた。ぶつかった衝撃で麻酔銃が窓の外へ放り出された。
「今回は、しつっこいな!」
 近接戦闘ならば、素手でも《捕獲屋》を叩きのめせる。が、遠距離攻撃可能な麻酔銃を持っている相手は早めに叩かねばならない。サブウェポンとしてナイフやネットを持っていることは珍しい事ではない。銃を取り上げたからと言って油断すると、やられかねない。そして今回襲ってきた《捕獲屋》は、しつこかった。
 強い。
 アーネストの攻撃が、何度か受け流される。アーネストは護身術には自信のあるほうだが、それでもこれだけ強い《捕獲屋》と戦った事は無い。
 左から襲いかかる《捕獲屋》の一瞬の隙を突き、アーネストはその首めがけて手刀を勢いよく叩き込む。ボキリと首の骨が折れる音が響くとともに、《捕獲屋》は床に倒れた。首がありえない方向に曲がっている。次に、アーネストは、ナイフの毒が回った《捕獲屋》の腕を引っつかむが早いか、背負い投げの要領で壁に向かって投げ飛ばす。飛びかかってこようとする《捕獲屋》は、毒の回って動けない《捕獲屋》に向かってネットを放ってしまう。すかさずアーネストは、ネットを放った《捕獲屋》との距離をつめ、相手が後退する暇も与えず、膝蹴りで相手の顔面を壁に叩きつけて潰した。頭蓋骨の割れる音。能力者の腕力はヒトの数倍。それが、日々の戦闘で鍛えられているのだ。通常の蹴りだけでも、鉄筋を叩き割れるほどの威力を持っている。ましてや人間の骨など、能力者にとっては、わずかに力をこめるだけでたやすく折れる枯れ枝同然。
 ユーニスは、壁に背を引っ付けたまま、この狭い室内での戦闘を、目を閉じる事ができずに凝視し続けていた。アーネストは《捕獲屋》と戦っている。そして、彼と戦って殺される《捕獲屋》たち。骨の折れる音、ナイフで切りつけられて飛び散る血しぶき、蹴り潰されて割られた仮面の下からは、ドクドクと血が流れている。仮面の破片が顔に刺さったのだろう。その顔すらも、蹴り潰されてぺしゃんこになっているはずだ。床の上には血の海が広がり続けている。
 最初アーネストに助けてもらったとき、彼がどうやって《捕獲屋》を殺したのかわからなかった。だが今は違う。ユーニスは、アーネストが戦っている場面を、目の当たりにしている。
 震えが止まらなかった。
《捕獲屋》は次々にアーネストに倒される。アーネストは遠慮も情け容赦も無く、相手の息の根を確実に止めていく。遠慮も容赦も出来ない。能力者にとっては、《捕獲屋》との戦いが、生きるか死ぬかの分かれ目なのだ。
 アーネストは両肩で息をするほど消耗していた。《捕獲屋》は、思った以上に強い。それでも彼は確実に相手の隙を突き、攻撃できるチャンスは決して逃さなかった。
 最後の《捕獲屋》が倒れたとき、相手の返り血を浴びたアーネストは、壁にもたれかかって荒い呼吸を繰り返した。これほどまでに消耗したのは、初めてだった。呼吸が落ち着いて口が利けるようになるまで、どのくらいかかったのか、わからない。
 周りの気配を確認した後、アーネストは改めてユーニスを見る。ユーニスは青ざめたまま、床に座り込んでいる。腰が抜けたようだ。
 話を聞きなおそうと思って、窓を背にし、歩き出す。が、ユーニスは大きく身を震わせ、背中の壁に向かって後ずさりした。もうそれ以上下がれないが、まだユーニスは下がろうとする。ユーニスを落ち着かせようとアーネストが口を開いた。
 突然、背中に何かがぶつかったと感じた。
 全身から力が抜けた。
 立つこともできず、アーネストは床に倒れた。
(まさか、麻酔銃……!?)
 ユーニスが仰天し、それでも恐怖を顔に貼り付けたままで、おそるおそる彼のほうへ這いずってくる。
(そうか、外にまだ……迂闊だった……)
 全身の麻痺と同時に、意識が失われていく。頭が重くなり、目を開けることすら困難になる。
 闇に包まれていく視界の隅に、窓から入ってくる、麻酔銃を持った《捕獲屋》の姿があった。
 ユーニスが、何度も名前を呼んでいるように聞こえた。が、それが本当に自分の名前を呼んでいるのかすら、アーネストには解らなかった。


part1へもどる書斎へもどる