第9章 part2
「ユーニス」
その日の夕食後、新鮮な旬の果物をふんだんに使ったデザートを口にしながら、父は言った。
「なに、父さん」
浮かぬ顔で、ユーニスは父の顔を見る。目の前においてあるデザートには手をつけていない。食後、ずっとテーブルばかりを見つめていたのだ。
「浮かない顔だな、ユーニス。具合でも悪いのか?」
「何でもないよ……」
答えるユーニスの顔は、晴れないままだ。
「お前のそんな顔は、母さんを亡くした時以来だな……」
父の顔も少し暗くなる。だが、すぐに晴れる。
「そうだ。せっかくだから、明日の朝行われる今期最後の試合に連れて行ってやるぞ」
ビクッとユーニスの体がこわばる。
「なに、長い事は続かん。たったの一試合。一番賭け額の高いサンプル同士を戦わせるだけだよ。これが最後だからな、大丈夫だ」
父は笑いながら言う。だが、ユーニスの顔は晴れるどころか、少しずつ青ざめてきて、体が小刻みに震え始めた。
「その試合が終わったら、どうなるの……?」
「どうなるって? ああ、サンプルたちのことか。決まっているだろう。クローンを作るか、遺伝子レベルまで分解して新しく研究しなおすのだ」
「でも父さん、これは能力者の保護でも何でもないよ、これは条例違反――」
「違反だと? 馬鹿なことを。私は、能力者を増やし過ぎないように、適度な数に保たせているだけのこと。増えすぎると、今度は第五地区の維持費を管理塔がより多く出さねばならんからな。適度に間引いてやるのだ。だが、ただ間引くだけでは可哀想だからな、最期に――」
「殺し合わせるの」
「言葉には気をつけるのだぞ、ユーニス。殺し合いではない。我々の娯楽のために、そして更なる研究の発展のために、命を捧げてもらうのだよ」
父の言葉が終わるや否や、ユーニスは席を蹴って立ち、走って部屋を出て行った。
バタンと乱暴に戸の閉まる音。
「……旦那様」
心配そうな執事の声に反し、父の声は冷たかった。
「ユーニスの奴、あのサンプルに情が移ったのか? 我々の保護なしには存在すら出来ぬ化け物に――」
ユーニスは自室の隅で、ダンゴムシのように丸くなっていた。部屋の明かりもつけないで。
賭け額の一番高い能力者。想像はつく。珍しい能力を持つ能力者、たとえポピュラーな能力を持っていてもこの数日のコロシアムでの戦闘を勝ち抜いた能力者。ユーニスはこの数日の試合全てを見させられてきた。そのため、誰が明日戦わされるかは、もう想像がついている。
止めることはできないのだろうか、明日の殺し合いを。
だが、ユーニスに何が出来るというのだろうか。あのドームでのイベントは父が全て取り仕切っている。とうていユーニスの出られる幕ではない。様々な客にチケットを配っている以上、イベントを中止させる事などできないだろう。だが、イベントの開始を中止できなくとも、イベントを中断させる方法はないだろうか。
一計を思いついた。
(そうだ、こうすれば!)
ユーニスは、立ち上がった。
父が入浴している間に、父の部屋から研究所の鍵を盗み出す。何食わぬ顔でパジャマに着替えて、九時にベッドへもぐりこむ。メイドがおやすみなさいませとお決まりの挨拶をして、部屋の電気を消す。ユーニスは寝たふりをして、時計が時間を刻むのを耳元で聞き続けていた。心臓が高鳴って、興奮状態が続いているため、眠気は払われていた。
時間が来た。一時まで、あと十五分。研究所が閉まるのは、夜の一時。閉まった後は、職員によって、三十分おきに見回りが行われる。最初の見周りは施錠直後の一時。その次の見回りは一時半に行われる。ユーニスは、父から説明してもらい、そのことを知っている。そのため、研究所が閉まった後で、尚且つ見回りが来る前に、研究所内へ忍び込むつもりだった。
ユーニスは起きだして、すばやく着替える。音を立てないように用心に用心を重ねる。ドアを開け、音を立てないように閉める。廊下のカーテンの隙間から、月の光が差し込んでいる。彼は足音を立てないように気をつけて走るが、廊下には絨毯が敷いてあるため、彼の足音はほとんど消されていた。
父の書斎に入る。当然だが、誰もいない。暗いので、手探りで、カーテンの裏の壁を探る。あまり時間を無駄にしたくなかったので、記憶を頼りに壁を探っていると、ボタンを見つけた。腕を伸ばせばギリギリ届くので、背伸びして何とかボタンを押してエレベーターを出す。エレベーターに乗って地下へ降りている間、時計を見る。時刻は既に一時五分を指している。
地下二階の終着点。エレベーターから降りると、柔らかなオレンジの光が廊下を照らす。見回りの職員用だろう。懐中電灯では全てを照らしきれないほど、研究所内は細かくて広いのだから。
光を頼りに、試験管の並ぶ部屋を横切り、ドアに近づく。指紋認識システムが使われているとはいえ、研究所が閉まった後で触れても、ドアが開かないことはわかりきっていた。鍵を使ってドアを開ける。このときだけは手動で開けるしかない。
(ええと、この先にあった部屋だよね)
能力者たちが人工授精で生みだされ、人工羊水で育てられる部屋。いつ見ても、おぞましい。
この部屋の一角に別のドアがあり、様々な薬剤の置かれた薬剤室となっている。ユーニスはこのドアを開け、静かに閉めたあと、この薬剤室の電気をつける。明かりが眩しい。目のくらみが治ると、彼は、様々な棚を見渡す。父から薬剤や遺伝子工学の知識を教え込まれてきたとはいえ、ユーニスにわかる範囲は僅か。だが今回の目的を達成するためには十分だった。
棚の一つを見つける。目的のものがあるのはここだ。椅子を使って、高いところにある薬を探す。急がなければ、見回りが来てしまう。それより早く目的の薬を見つけなくてはならない。
「これじゃない、これでもない、ああ違う!」
焦る。ポケットに入れた時計は容赦なく時間を刻む。一時二十四分。液状の薬やカプセル状の薬が瓶につめられて百以上も並んでいる上、様々なラベルが貼られている。読むだけでも大変だ。
見回りが来るまであと数分というところで、
「あった!」
ユーニスは喜びの声をあげ、目的の薬瓶を手にした。そして急いで椅子を片付け、部屋の電気を消す。今度は闇で何も見えなくなるが、ユーニスは手探りでドアを閉め、部屋を横切り、入ってきた入り口を抜けた後、鍵をかけた。エレベーターに飛び乗って、ドアが閉まり、動作が始まると、時計は一時半をさした。
研究所とは別の方向にある、戦闘後の能力者を監禁しておく建物に、ユーニスは入った。ここも鍵がなければ入れない。幸い、鍵は研究所のものと同じで、研究所の鍵さえ持っていればこの建物にも入れるのだ。
柔らかなオレンジの光が辺りを照らす。記憶を頼りに、区画を移動する。細い通路を進んでいくと、この区画で最も狭い場所に出る。干渉系の能力者を入れる区画だ。使われている部屋は一つしかないので、すぐわかる。
(確かここは、ガスが送られてるんだっけ)
ドアを開ける前に、深呼吸して、息を止める。それからドアを開けた。
闇の支配する狭い部屋の奥に寝台がある。闇に目が慣れ始めると、その寝台に、スペーサーが横たわっているのが見えてきた。怪我の治療中なのか、片腕に点滴がついている。点滴の量から見て、明日の朝までにはなくなってしまうだろう。
ユーニスは、点滴の袋を取り外して、その中に、薬剤室から盗み出した瓶の中身を空ける。そしてまた点滴の袋を元に戻す。息が苦しくなってきたので、急いで部屋の外へ出てドアを閉めた。
「はあ、はあ。これで、いいはず」
呼吸が落ち着くまでその場で深呼吸を繰り返し、収まってから、ユーニスは建物を抜け出した。
点滴の袋に入れられた薬は、チューブを通して、スペーサーの体内に少しずつ送り込まれていった。
朝から、どこかどんよりした雲の色。灰色だ。
「おはようございます」
メイドがさわやかな笑顔でユーニスに挨拶する。ユーニスはまだ眠っていたが、メイドに揺り起こされて、嫌々起きた。
「おはようございます、坊ちゃま」
メイドの出す朝食を、半分上の空で食べる。メイドはカーテンを開け、着替えをタンスから取り出す。味のないスープとトーストを胃に流し込み、熱いだけの紅茶を飲んだ後、ユーニスは着替えた。眠くて仕方がない。
(あの薬、どうなったかな)
髪を梳かしてもらいながら、ユーニスは考えていた。点滴の袋の中に満たした、薬剤室から盗み出した液体。研究所の鍵や瓶は、元あった場所にちゃんと戻しておいたが、あの液体はどうなっただろうか。研究者が見つけて、捨てていないだろうか。それだけが心配だった。
廊下に出ると、父の姿が目に入る。
「起きたか、ユーニス」
その表情にはどこか憂いがある。
「お前がそんなにつらそうな顔をしていては、私も辛いよ。だから、試合で気を晴らそうではないか」
「……うん」
ユーニスは、返事をした。
「そうか、行く気になってくれたか」
ユーニスの肩を叩く。その顔は少し晴れた。
点滴の袋はすっかり空になっていた。スペーサーはまだ眠っていたが、なぜか、全身が小刻みに震え始めていた。
ドームのコロシアムに客が集まり始める。今期最後の『試合』を観るためだ。プラチナ・チケットを配布されている第一地区の住人と管理塔の役員達が、それぞれの席に着く。ユーニスも父と共に貴賓席へ来ていた。
ユーニスはドキドキしていた。父は席に座ってくつろいでいたが、彼はとてもくつろぐ気にはなれなかった。朝の眠気は、貴賓席に来たときには、吹き飛んでしまった。
「おお、始まるぞ!」
父の声と同時になるゴング。会場は水を打ったように静まり返った。グラウンドの一部が下がり、檻を押し上げてくる。
二つの檻の中に、ユーニスが想像していた通りの能力者がいた。
能力を半ば暴走させられたままの、二足歩行の狼。
まだ怪我を引きずっているのか、体が少しふらついているスペーサー。
再度ゴングが鳴ると同時に、檻が開けられる。
「あっ……」
ユーニスは目を見張った。
ふらついて立っているスペーサーの体が、小刻みに震え始めた。首枷が赤く光るが、彼の震えは止まらない。二足歩行の狼は、早くも彼を標的とみなしたか、唸り声を上げはじめた。
首枷が熱を放ち、薬が脳内により多く投与される。が、スペーサーは動けない。全身が熱っぽくなり、続いて寒気が訪れる。頭が急に痛み出し、続いて何かで引っ掻き回されているような奇妙な感覚が続く。目の前の景色がぼやけ始め、揺らぎ、また元に戻る。
頭の中に浮かぶ無数の記憶。ドームの中で暮らし始めたもの、様々なテストを受けた後に出されたもの、保護された頃のもの、医者としての勉強を始めたもの、今は亡き医師の墓標の前で独り涙を流したもの――。
これまでの記憶が幾度も頭の中を巡りめぐっていく。胸が熱くなったり冷たくなったり、わけのわからない感覚に襲われる。めまいがする。
「た、すけて――」
彼は、言葉を発した。
ぼやけた景色の中、何かがこちらへ向かって突進してくるのが見える。だが、それが何であるのか、彼は認識できなかった。
「たすけて――」
右腕につけられた金属の腕輪が少しずつ膨張し始める。
頭の中を流れる記憶、同時に体内に流れてくる、説明のつかない熱さ。もう抑えつける事は出来ないし、彼自身も抑える方法を知らない。
彼の口から、悲鳴がほとばしった。
「こ、これは一体どういうことだ!?」
ユーニスの父は、驚愕して思わず席から立ち上がった。ユーニスは、窓に貼り付いて外を見たまま、自分の計画が成功したことを知った。
昨夜、スペーサーの点滴の中に入れたのは、感情を制御する薬物の成分を分解する薬。感情喪失の実験で、薬の分量を調整するために作られたものだ。そして、その全ての薬物をスペーサーが摂取したとしたら、感情が失われた彼に何が起こったのかは、説明するまでもない。
薬によって抑えつけられてきたスペーサーの感情は、解放されると同時に暴走した。そして、首枷からは、能力を一部だけ暴走させる薬物がまだ投与され続けている。
「逃げるぞ、ユーニス!」
ユーニスの手を引っ張り、父は非常ボタンを押した。
スペーサーの右手につけられた腕輪の膨張が止まらない。やがて破裂せんばかりに膨れ上がった腕輪からは、無数の槍が生み出され、目にも留まらぬ速度で、天井といわず窓といわず壁といわず、様々な場所を貫き始めた。
観客は、最初のうちは驚愕の声を上げていたが、次には悲鳴を上げ、今は逃げ惑っている。
その観客の悲鳴や避難をよそに、狼は、怯む事無く突っ込む。突き出される無数の槍をかわしながら、相手を引き裂こうとして勢いよく突っかかってきた。
槍の一本が勢いよく伸びる。狼は難なく左へよけてかわす。槍は狼を狙っているわけではなく、無差別にあちこちへ伸びているだけだが、それでも、貫かれれば無事ではすまないだろう。
槍の攻撃をかわした狼が、スペーサーを引き裂こうとして腕を突き出す。が、相手の首に腕が届く直前、腕輪から新たな槍の一撃が生み出され、狼を直撃した。
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