第4章 part1



 カチャン。
 アーネストが部屋のドアを閉める音が聞こえてきた。
 ヨランダは希望を抱いていたが、その音を聞くなり、失望してしまった。
「奴は部屋に戻ったらしいな」
 氷のように冷たい声が、彼女の真後ろから聞こえる。その声の主は誰あろう、《青き狐》であった。ヨランダが入浴を終えて着替えを済ませ、バスルームから出てきたところで、すでに部屋に侵入していた《青き狐》に襲われたのである。彼は背をドア近くの壁にぴたりとつけ、息を殺して、ほぼ完全に気配を消していた。
 ヨランダは口をふさがれ、喉にセラミックナイフを押し当てられていた。わずかでも彼女が身動きすれば、ナイフの鋭利な刃がその喉を切り裂く。助けを呼ぶことも抵抗することも出来ない彼女にとって、アーネストが唯一の希望であったが、部屋に戻ってしまったため、助けに来てくれそうにない。おそらくこの男の侵入に気づいてはいないだろう。
「おとなしくしていれば、今回は何もしない。だが騒げば、その顔を目も当てられないほどに切り刻むぞ」
 脅迫の言葉に、ヨランダは硬直した。それをイエスの意味に受け取ったか、《青き狐》は、彼女の口をふさぐ手だけを放す。喉に押し当てられたナイフが、彼女の顔の近くまで移動する。そのとき、上着の襟がわずかに引っ張られたような気がした。
「な、何の用なのよ。部屋に勝手に入ってきて」
 ナイフを見ないように視線を上に泳がせ、半ば震えた声でヨランダは言った。
「ひとの部屋に入るときには、ノックくらいするものでしょ……。れ、礼儀も知らないのね、あんたは。マナーの勉強、しなさいよね……」
「ふん。この状況でも冗談口が叩けるとは、誉めるべきかな?」
《青き狐》は冷たく笑い、ナイフの刃をピタピタとヨランダの頬に当てる。ヨランダはセラミックナイフの堅くて冷たい感触に背筋を震わせた。背後にいるこの男は、冗談半分でこんなことをしているのだと、すぐわかった。
「雑談はこれくらいにして、用件に入ろうか」
 ナイフが、また彼女の顔の周りをうろつく。それから、《青き狐》は静かに言った。
「お前のつけている首飾り、それを私によこせ」
 ヨランダが驚いたのは、無理からぬことであった。彼女がつけている青い宝石つきの首飾りは、彼女の祖母からもらった形見の品なのである。お守り代わりにいつも身に着けておくようにと祖母から言い渡されていたのを、彼女は忠実に守ってきた。しかしなぜそうしなければならないのか、彼女にはわからなかった。
「あ、アタシの、首飾りを……?」
「そうだ」
《青き狐》は何の感情もこもっていない声を出す。
「お前にとってはただのアクセサリーでしかないだろうが、それは私にとっては非常に重要な意味を持つものだ」
 嘘をついているとは思えないような声であるが、ヨランダはそんなことはどうでも良かった。ナイフが顔の周りをちらついているのを忘れ、思わず振り向いて言った。
「冗談じゃないわ。あれは形見の品よ! 絶対に手放すなって、おばあさんに言われているもの」
「お前が素直にくれるとは、端から思っていない。あの女に似たお前のことだ、金をいくら積まれても渡しはしないだろうな」
「お金の問題じゃないわ。それに、あんたのような血も涙もない奴なんかに、渡す気なんかあるもんですか!」
 平手打ちのために振りあがった右手は、相手の左手であっさりはじかれ、逆に腕をつかまれた。
「いたっ……」
 はじかれたとき、彼女は手に痛みを感じた。相手の手ではじき返されたはずなのに、まるで自分の手に鉄の塊でもぶつけたかのような鈍い痛みが走ったのである。
《青き狐》は冷ややかな目で彼女を見下ろす。セラミックナイフはいつのまにか鞘に収められている。
「血も涙もなくて、悪かったな」
 ヨランダは抗うが、相手の腕力のほうが強かった。その上、つかまれた腕がまるで万力で締め上げられているような強い痛みを覚えた。自由な片手で何とか相手の手を振りほどこうとするも、無駄な努力に終わった。相手の氷のように冷たい手は、彼女の腕を捕らえて放さなかった。
「いたっ……」
 骨に響く痛みで、彼女は思わず後ずさりする。相手の力はますます強くなり、腕を折ろうとしているかのようである。
「は、なして……」
「このまま腕を握りつぶしてやってもいいんだぞ」
《青き狐》の眼には激しい憎悪が渦を巻いていた。本当にヨランダを殺してしまいかねないほどの冷たい殺意が部屋に充満する。それにともない、彼女の腕を締め付ける力も一段と強くなり、骨がミシリと音を立てた。
 痛みに耐え切れず、ヨランダは悲鳴を上げた。
 バンと勢いよく扉が開く音がして、続いてドタドタとやかましい足音が聞こえてくる。
 ドアを乱暴に蹴り開け、弾丸のごとき勢いでアーネストが飛び込んだ。だが同時に《青き狐》がヨランダをアーネストに向かって突き飛ばす。飛び込みで勢いがついたままのアーネストは突然ヨランダにぶつかられたので、体勢を崩した。その隙に、素早く《青き狐》は窓に駆け寄る。
 窓はすでに開けられている。
「待て――」
 片手にヨランダを抱えたまま、アーネストが引き金を引こうとしたときには、《青き狐》は窓から飛び降りていた。
「くそっ。逃がしたか」
 アーネストはヨランダのほうを見る。
「大丈夫か?」
「腕、痛い……」
 アーネストはヨランダの腕を取り、具合を調べる。
「骨には異常ないぜ。ひびも入ってねえと思うけどな」
「ひび……?」
「だから、入ってねえって」
 ヨランダをあれこれ言ってなだめすかしたが、泣きそうな当の本人は、気の緩みからか、急にアーネストにしがみついて泣き出した。アーネストは、どうなぐさめるべきかさっぱり分からず、泣かせるままにしておいた。泣かれるのは苦手だったからだ。
 長いこと泣いていたヨランダはやっと泣き止んでくれた。そして、ポツリポツリと話を始めた。
「首飾りの取り引き?」
《青き狐》にもちかけられた取り引きの話を聞くと、アーネストは眼を丸くした。
「何だかすごくほしがっていたみたいなのよ。大金を積んででもゆずってほしそうだった」
「オーパーツを、他人を殺して盗ってく奴が、首飾り一つに取り引きかよ。信じられねえな。今までのように殺すほうが簡単に取れるだろうに」
 確かに、アーネストの言うとおりである。《青き狐》はオーパーツを手に入れるためなら殺人も平然と行う。だが今回、ヨランダの首飾りに対しては、彼女を殺さずあくまで交渉して入手しようとしていた。
「アタシに死なれちゃ困るのかしら」
 ヨランダは首飾りを見た。青い宝石は、金の縁取りの中で、美しい光を放つ。
「どう見てもただの宝石よ。換金するにしても、これだけ古ぼけてるし、傷があるんだもの、たいした値段にならないわ」
「じゃあ一体何のために、そんな首飾りを?」
「知らないわよ。何だかあいつにとっては、とても大事そうだったのよ」
 ヨランダは首飾りを部屋のライトにすかしてみた。だが、表面に傷があるだけのこの青い宝石には、別に何にも怪しいところは見つからなかった。
「そういえば、この都市にあったわよね、宝石の鑑定屋さん」
「ああ。宿探して、道に迷ったとき見つけたな。それがどうした」
「明日、この宝石を調べてもらいましょ。そうすれば、なぜこれが狙われたのかわかるかもしれないもの」

 さて、窓から飛び降りた《青き狐》は、実は下の部屋の窓のひさしにつかまっており、宙ぶらりんの状態であった。下の階には客がいないため、この宙ぶらりんの姿を見られることもない。窓が開きっぱなしのため、外にいても、アーネストとヨランダの声はちゃんと聞こえてくる。長いことヨランダは泣いていたが、ようやく泣き止んだ様子である。やがて二人の会話が聞こえてきたが、どうやらヨランダは自分の首飾りを、この都市唯一の宝石鑑定屋の所へ持っていくつもりのようである。
 それだけわかれば十分だ。
 アーネストが窓を閉めてしまった後、《青き狐》はそのまま手を放して芝生の上に音もなく降り立ち、目の前にそびえる五メートルもの高さの木の枝に、これまたバッタのごときジャンプ力でもって飛び移った。太めの枝に乗った後、そのまま音もなく跳んで鉄の柵を越え、舗装された道の上に降り立つ。
 街灯の光も射さぬ闇に閉ざされた道を、どこにもつまずくことなく歩きながら、彼は防護服の胸のポケットから親指くらいの長さの小さな機械を取り出す。赤いボタンのようなスイッチを押し、小声で話す。
「私だ。ちゃんとアレを仕掛けてきたぞ。案ずるな、そのうち奴のほうから餌に食らいついてくるさ。それまでは、こちらが餌をまいてやる必要があるだけだ。もっとも、余計なものまでくっついてこないようにする必要もあるが……」
 彼の姿はそのまま、闇の中へと溶け込んでいった。

 その翌日。一人部屋を取ったというのに結局同じ部屋で二人一緒に寝たため、床で寝かされたアーネストは首を寝違えた。
「いててて……これじゃキャンピングカーで寝たほうがましだ」
「あら、じゅうたんの敷いてある床で寝て、どうやったら寝違えられるのよ?」
 朝の七時頃に起きだし、朝食をとりに階下へ向かう。階段を下りて食堂に入り、空いているテーブルについた。メニューを見て、ウェイトレスに注文をしてしばらく待つ。二人分の食事が運ばれてきて、ごゆっくりとウェイトレスがお定まりの挨拶をして下がったとき、そこで、ヨランダが声を上げる。
「ねえ、見てこれ」
 ランクの高い宿には、大抵新聞がついている。ヨランダはテーブルの側に備え付けられたボックスから朝刊を取り、一面の下についている記事を指差した。アーネストは、皿の上のドライトーストをつまみ、口に入れようとするところであったが、彼女の指す記事をとりあえず横目で見た。
 手が宙で止まった。
「宝石店の鑑定人が、急死……?」
 タイトルを読んだアーネストは、口をぽかんと開けた。その表情があまりにもおかしかったので、第三者が見れば思わず吹き出していたであろうが(そのお返しとして殴られるのを覚悟の上でならばの話だが)、あいにく誰一人として彼らの方を向いている客はいなかったし、彼の表情を見たヨランダは吹き出すところであったが、なぜか顔の筋肉が緊張して、笑えなくなった。
「おい、鑑定人て……」
「宝石見てもらうために、行こうとしてた店の人よ」
 二人は記事を読んでみた。今朝方、鑑定人の友人が用事で訪ねてきたところ、鑑定人が床に突っ伏しているのを見つけ、医療センターに報せた。だが鑑定人はすでに死亡しており、死亡時刻は昨夜晩くであったという。死亡の原因は心臓麻痺。鑑定人は、七十八歳という高齢ながら、心臓に異常はなかったという。だが、心臓に異常を与える原因が特定できないため、結局この事件は老衰による心臓麻痺として扱われた。
「……なんだか、変じゃない?」
 記事を読み終えたヨランダは言った。アーネストはきょとんとした表情になる。
「何でそう思うんだ? 七十八なんて歳なら、いつお迎えが来たっておかしくねえだろ」
「変っていうのはね、死亡のタイミングが良すぎるってことよ。アタシたちがお店に行く前に、お店の人が死んじゃったんだから、これじゃ首飾りを見てもらえない――」
 そこでヨランダの言葉が止まる。
「ねえ、もしかすると、鑑定人は殺されたのかもしれないわ」
「はあ?」
 アーネストは、彼女の突拍子もない言葉に、口をあんぐり開けた。
「殺されたって? 何でそう思うんだよ。ってか、誰にだよ」
 そこでヨランダは呼吸を落ち着けるために深呼吸する。そしてその名を口にするまで、やや時間を要した。
「……《青き狐》」
 呆けたアーネストの表情が一変した。ぽかんと口を開けていたのが、途端に何かを警戒するような表情に変わる。
「奴にだと?」
「だって、そうとしか考えられないわ。この首飾りが一体何なのか、ただの宝石なのかそうじゃないのかを調べてもらうために、今日行くつもりだったでしょ、鑑定屋さんに。でも鑑定人は先に死んでしまった。この首飾りを専門家に見てもらえなくなったわけ。つまりね、この首飾りには秘密があって、それを誰にも知られたくはないのよ。だからアタシたちの先回りをして、鑑定人を殺したんだわ」
 ヨランダの説明を、アーネストは半ば聞き流したようである。
「よくわかんねえけど、結局その首飾りに何か秘密があるってことだよな。で、その秘密を、《狐》の奴は知っているわけだな? でも突拍子もねえ考えだな」
「自覚してるわ。でも、アタシにはそうとしか考えられないのよ。いい?」
 ヨランダは半ば強引に話を締めくくった。だが頭の中では、どうも納得のいかないモヤモヤしたものがいくつかあった。


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