第6章 part1



 蔵書館は臨時休館となっていたが、別館は開いていた。二日酔いで気分の悪いアーネストを宿に残して、ヨランダは一人で別館へ行き、器具を借りて首飾りを調べてみた。倍率レンズは二百から二千までそろっていたので、どれか一つの倍率レンズが当たりかもしれないと思っていたのだが、彼女の期待は見事に外れた。
「うそ……傷だけしか見えないわ」
 その通り。手紙に載せられていた通り、どの器具の、どの倍率レンズを使おうが、彼女の眼に映るのは、宝石の表面につけられた傷だけであった。これ以上は何も見えない。
「あいつの言ったとおりなの? 何を使おうが無駄だって……」
 結果が何も得られないまま、別館をでるヨランダ。
「あっ」
 表通りを通ろうとしたとき、人ごみの中に、裏路地へ入っていく《青き狐》の姿を見つけた。昨日もチラッと見たとはいえ、おととい逃げ出した男が、まさかこんな近くにいるとは思わなかった。どこへ行くのか知りたくなり、ヨランダは後を追った。
 彼女が裏路地に入った時点で、《青き狐》が突然振り向き、ヨランダを見つけた。ヨランダはびくっとした。強盗を避けるために道の真ん中を歩いていたので、今の彼女には隠れるところがない。足がすくんで、逃げることも出来ない。
 だが《青き狐》はそのまま体の向きを戻し、彼女を無視するかのように歩き出した。その理由がわからず、ヨランダは少し離れて彼の後を追った。
 時折周囲の建物に目をやったが、強盗と思しき男たちの姿が窓や壊れかけの扉の陰から見えていた。だが出てこようとしない。やがてエミリアの家に着き、《青き狐》は戸をノックする。すぐにエミリアが出てきて、彼を出迎えた。入ってほしいという意思表示に、彼は素直に従ったが、入る前に、ヨランダの方を見て、「来い」と手招きした。少し離れた所にいたヨランダは早足でエミリアの家に入って、ドアを閉めた。
「いらっしゃい。……あら、あなたは昨日いらした方ですね? 私、気配でわかりますの」
 エミリアが出迎えた。ヨランダの答える暇なく、エミリアは彼女を客間に通す。黙って帰るわけにもいかず、ヨランダは《青き狐》から離れた場所に座る。あまり側に近寄りたくなかったのである。エミリアの前とはいえ、何をされるかわかったものではない。
 エミリアが紅茶とケーキを持ってきて、二人の前のテーブルに置き、彼女も座る。それから四方山話を始めた。話題を提供するのはもっぱら《青き狐》で、エミリアは話の聞き手であった。ヨランダは、求められた時にあいづちをうつだけで、話にはほとんど加わらず、紅茶を飲みながら二人を観察していた。話を聞いていると、《青き狐》がかなりの博識であり、同時に優れた話し手だということがわかる。エミリアの質問には具体的な例を挙げて答え、彼女が納得するまで話し方を変えて説明を続けるのである。話を聞いているだけのヨランダも、かなりわかりやすい話し方だという感想を持たずにはいられなかった。
 ふとヨランダは変わった事に気づいた。《青き狐》は紅茶やケーキに手をつけないで、話だけを続けているのである。普通ならば、話の合間に一口飲んで渇きを癒し、それからまた話を始める。彼はかなり長いことしゃべるが、話がいったん途切れても、紅茶を飲まないままである。時折、テーブルの上にあるカップやケーキに目をやるが、少しがっかりしたような表情を浮かべるだけで、手を伸ばさない。
(飲みたいなら、飲めばいいのに。何で手をつけないのかしら?)
 話をしている時の表情を見ると、笑っている。いつも彼女が見ている冷笑ではない。エミリアと話をしている時の彼は、純粋に笑っている。あんな表情は、初めて見た。意外とかわいい。だが気のせいか、その笑い顔の中に寂しさが見えた。
「次はどちらへいかれますの?」
「そうだな、東のほうに行く予定だ。そこなら、珍しいものも色々見られるから」
 一時間ほど話をした後、彼はそろそろ帰ると言った。エミリアは残念そうな顔になったが、椅子から立った。
「わかりました。玄関まで送らせてください」
「ああ、頼む」
 二人が立ち上がったのを見て、ヨランダも思わず立ち上がった。
「あ、ごちそうさまでした!」
 エミリアは玄関口まで送ってくれた。だがそこでもヨランダは奇妙なことに気づいた。エミリアが案内のために手を差し出しているが、彼は手を避けるようにしてエミリアから離れて歩いている。まるで触れてほしくないかのように。
 エミリアが戸を閉めてしまってから、ヨランダは窓から家の中を覗く。ちょうど客間が見えている。エミリアがもてなしの片づけをしていたが、カップの一つに触れると、沈んだ表情になった。それは、紅茶が入ったまま手をつけられていないカップだった。長いこと話をしていたのだ、紅茶はすっかり冷めてしまっているだろう。
(なんで手をつけないのかしら? 紅茶の飲めない体質の人なんて聞いたこともないけど……)
 ヨランダは思い、先を歩く《青き狐》の後を追った。
 ヨランダと《青き狐》は表通りへ向かって歩いた。ヨランダは彼の少し後ろを歩いている。強盗たちは建物の陰に隠れたまま、出てこない。
「誰も襲ってこないわね……」
 ヨランダの独り言に、《青き狐》は答えた。
「この辺り一帯を陣取っていた強盗団を、根こそぎ狩りだしてやった。それ以来、強盗は私とエミリアに対しては手を出さない」
 勢力の強い強盗たちを皆殺しにした……ヨランダはそう解釈した。ヨランダを襲ってこないのは、彼女が《青き狐》の近くにいるからであろう。
 表通りに出る前、《青き狐》はヨランダの方をくるりと振り返った。そして、つかつかと足早に歩み寄る。ヨランダはその行動の意味がわからず、本能的に後ずさりして、建物の壁に背中をぶつけてしまった。
《青き狐》は彼女の体を挟むように建物の壁に両手をつき、低い声で言った。
「エミリアには手を出すな。もし彼女に手を出したなら、地獄の果てまでお前たちを追いかけて、八つ裂きにしてやるからな!」
 すさまじい殺意に圧され、ヨランダは建物の壁に身を預けたまま、声も出せなかった。《青き狐》の目には、いつもの冷たい殺意ではなく、炎のごとく激しく燃え上がるような殺意が秘められていた。
 急に殺意が退いていく。そして彼は、ヨランダをそこに残して、表通りの向こうに見える駐輪場まで歩いていった。

 宿に帰り着いたヨランダを、ベッドに大の字になって昼寝しているアーネストが出迎えた。あまり長いこと彼女が戻ってこないので、待ちくたびれてしまったのだろう。ヨランダはバツが悪くなった。
(そういえば、急いで戻るって言ったっけ……)
 時計は昼の二時半を指している。宿を出たのが昼食をとった直後だった。昼の一時には戻るつもりでいたのだが、エミリアの所で四方山話に付き合ったため、予定より一時間以上も遅れてしまったのである。
 アーネストを起こそうかと思ったが、サイドテーブルに置いてある物を見て、目を丸くした。サイドテーブルには氷水の入ったコップが置いてある。コップの側においてあるのは、アルミのパッケージに包まれた錠剤である。そして、それは睡眠薬だった。
「睡眠薬? 寝つきが良すぎるくせに、どうしてこんなものを……?」
 ヨランダは慌てて彼を揺り起こすが、薬が効いているのか、彼の眠りは深かった。それでもひどく揺さぶってやると、ようやく目を覚ました。
「なんだよ、もう朝か〜?」
「寝ぼけるんじゃないわよ! 顔洗って目を覚ましてきなさい!」
 アーネストが顔を洗って戻ってくると、ヨランダはサイドテーブルの薬を取り、問うた。
「あんたどうして睡眠薬なんか頼んだの? 寝てもすぐには二日酔いなんか治らないわよ。二日酔いを治したかったら、普通は酔い覚ましでしょう?」
「睡眠薬? 何言ってんだ。俺が頼んだのは酔い覚ましだぜ」
 確認のためにフロントに電話してみると、確かにアーネストが酔い覚ましの錠剤を注文している事が判明した。だがヨランダが更に突っ込んで、薬を届ける途中で変わったことなどなかったか、あるいは薬から目を離したりしたかと聞いた。すると、薬を運ぶ途中でトレジャーハンターらしい客とすれ違ったがその際に客が廊下に機械のパーツをいくつか落としてしまったので拾うのを手伝った、それ以外に目を離してはいないという返答が来た。ヨランダがその客の特徴を聞いた所、妙に冷たい雰囲気のある、濃紺の服を着た男だったという返答が来た。
 ヨランダは礼を言って電話を切った。アーネストは彼女の傍らで、いまだに眠そうな顔をしている。
「で? 何だって?」
「間違いないわ。薬はすり替えられていた。《狐》の仕業よ」
 ヨランダは、自分が別館を出た後の行動を詳しく話した。寝ぼけ眼のアーネストは、話を聞くにつれ、目をパッチリと開けていった。
「あんたが薬をすり替えられたのは、お茶していて帰りの遅くなったアタシを探しに行かないようにするためだろうし、アタシがあいつと一緒にエミリアさんの家でお茶したのも、たぶんあいつの策ね。雑談に混じって、次の目的地を聞かせるためだわ」
「目的地?」
「東へ行くって言っていたわ。きっとアタシたちを誘ってるのよ。そうに決まってるわ。あの手紙であれだけ挑発的なことを書いていたんだもの。誘われたんだから、のってやらないとね!」
 ヨランダは荷物の中から、《青き狐》の手紙を取り出し、握り締めた。
「あいつはもう町を出て行ったわ。アタシたちもあいつを追いましょう!」

 アーネストの二日酔いがどうにか治った翌日。宿を引き払った二人はまず食料品や医薬品を買い込んで、それから都市を出て東へ向かった。
 朝から天気が悪く、雨が降っていた。アーネストはメタルボールをキャンピングカーに変えて運転し、ヨランダは自分のベッドに座って、封筒に入っていた写真を見ていた。彼女自身とそっくりな女性。ヨランダはこの女性を自分の祖母だと確信していた。ヨランダは祖母の若いころのことを何も知らない。どんな容姿だったのか、どんな職業についていたのかすら知らない。だが、写真に写っているこの女性が自分の祖母であると確信できた理由は、首飾りだった。全く同じ形の首飾り、そして《青き狐》の手紙の内容から併せて考えると、ヨランダの祖母がかつて機械生物研究所の研究員だったのではないかという推論が出る。
 ヨランダが機械生物研究所の情報を欲していると知っての上で、この手紙と写真をよこしたのだろう。だが、一体何の意図があってよこしたのか、わからない。
《青き狐》自身にも謎が多い。100年戦争時代に滅んだはずの研究所の存在を知っていたり、十年以上の歳月を経ても年をとっていなかったりと、そういった不思議な事柄についての謎は、いまだに解けていない。接触を重ねているのに、彼は尻尾すらつかませようとしない。むしろ接触するごとに謎が増えていくのである。《青き狐》が何者なのか知ることが出来れば、機械生物研究所とヨランダの祖母との関係ももっと明らかになるに違いない。ヨランダはそう考えていた。
 アーネストにとっては、《青き狐》がどんな意図で自分たちに接触してくるのかなど、どうでも良いことだった。アーネストが考えるのは、どうも自分たちが相手に引っ張られているような気がしてならないことであった。
(ヨランダの奴は、自分のばあさんの過去を調べようと躍起になってるし、《狐》の奴は神出鬼没だし、なんだかつきあってる俺が馬鹿みてえに思えてきたぜ。一連の出来事は、みんなそろって《狐》がらみなんだからなあ)
 そう考えると、アーネストはひどく苛立った。
(ああ、くそ! 何で俺が《狐》なんぞと関わり合いにならなきゃならねえんだ。奴はトレジャーハンター殺しじゃねえか。関わってイイことなんかあるわけねえだろ!)
 頭の中に、最初に《青き狐》の姿を見て、自分が怯えてしまった場面が現れる。
(最初のうちは怯えちまったが、顔つきあわすうちに慣れちまったのかな。さほど恐怖心を感じなくなってきた。それに、実際奴と殴り合ってみればわかるが、何なんだ、あの体は。あいつ本当に人間なのか?)
 アーネストも、《青き狐》に関する謎をいくつか抱えている。アーネストを投げ飛ばした怪力、金属のように固い体、異常なまでに重い体重、人間離れした雰囲気。《青き狐》の行動などどうでもよかったが、アーネストは彼をとっ捕まえて、その体の謎を調べてみたかった。
 調べ物をしたい点では、アーネストもヨランダも変わらないではないか。


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