第9章 part2



「さて、話はもう終わりにするか」
《青き狐》はアーネストから離れ、暗がりの中にある機械の側に歩み寄る。機械の中に、人間の体が入っている。彼はそれを愛しそうに見つめた。
「データ化された記憶がこの肉体に宿れば、私は改めて人間に戻ることが出来る。そうすればこの研究所との縁を断ち切って生きることが出来る!」
 声を上げて笑った。だが、何故なのだろう。ヨランダにもアーネストにも、その声が泣いている様にしか聞こえてこなかった。
 なぜこんなに哀しそうに笑うのだろう。
 エミリアの言葉が浮かんだ。
(哀しいだけじゃありません。怯えているようにも感じました。理由はわからないのですが、何かを恐れているような……)
 エミリアの家で見た光景が、ヨランダの頭の中に浮かぶ。エミリアと話をしながらも、彼の表情にはわずかに哀しさと怯えが見られた。エミリアの差し出す手を避けるようにしていた。
「あんた、本当に喜んでるの?」
 ヨランダは口を開いた。《青き狐》は彼女の方を振り向いた。
「人間の体を手に入れることが、あんたにとっては嬉しいはずなのに、どうしてそんなに哀しそうに笑うの?」
「哀しそう?」
「そうよ。あんたは喜んでなんかいない。あんたは怖がってるのよ! 新しい肉体を手に入れたとしても、エミリアさんがあんたを受け入れてくれるかどうかわからないから!」
 ヨランダは思いつくままに話を始める。相手を誘うように話を始め、それによって《青き狐》が何を考えているか、知ろうとしたのである。
「あんたがエミリアさんの手を避けて歩いていたのは、そしてあんたが彼女の眼の治療に反対したのは、彼女に触れてほしくなかったし、見てほしくなかったからよ。自分の体が機械仕掛けだと知られたくなかった――彼女が教えてくれた怯えっていうのはそれね」
 徐々に、《青き狐》の目が大きく見開かれる。
 ヨランダの言葉はだんだん大きく強くなる。
「目が見えない分、彼女は気配で人を識別できる。新しい肉体を得たあんたは、確かに見かけは変化しないだろうけど、中身まで変わらない保証は無いわ。だからあんたがいくら言ったところで、エミリアさんが否定してしまえばそれまでよ。それに、あんたが肉体を得るまでにやってきたことを知ったら、エミリアさんはあんたをさぞかし軽蔑するでしょうね、人として許されないことをやってきたんだから。自分が一体何をしてきたのか、あんたにはわかっているはず――」
「お前ごときに、何がわかるというんだ!」
 ブリザードのごとく吹き付けるすさまじい殺意と共に、《青き狐》が声を荒げた。
「戦争の開始と共に体を改造された私の存在理由は、殺戮だけだった。敵を殺すことが、この肉体の存在意義であり、その実験台となった私の存在理由だった。だが眠りから覚め、とうの昔に戦争が終わってしまったと知ったとき、機械の体を持つ私の存在理由は消滅した。――お前に理解できるか、己が己である事柄をしっかりとつなぎとめるものが失われる虚無感を。過去もなく、自分が何者であるのかもわからず、たった一つの拠り所であった兵器としての己自身の存在理由すら奪われた私は、一体《誰》なんだ? 人間か? ただのポンコツの機械か? それとも『化け物』か?」
 割れたレンズの中に、怒りと哀しみの混じる光が宿る。
「者が存在するためには、必ず何かの理由が必要となる。だが戦争の終わった今、私の機械の体はもはや必要がなくなった。そうなると私の存在理由も失われ、ただ『在る』だけになる。これがどういうことかわかるか?」
 ヨランダは無意識的に首を横に振っていた。
「ただそこに『在る』だけ。それは、私の存在それ自体が全く必要ないということだ。生きていようが死んでいようが、道端に落ちている石ころのように、私の存在は誰からも目を向けられることはない」
 冷たい光を宿す右目と、ヨランダの視線とがかみあった。
「だが、エミリアは、私の存在理由を掴む糸口を与えてくれた。彼女を守り、生きる手助けをすること。それが……やっと掴めた私の存在理由だ」
「存在理由ですって? 馬鹿な事いわないでよ! あんたは利用していただけじゃないの、彼女の目が見えないのをいいことに善人ぶって、その上、あんたは目を開かせようとしないじゃない! それはあんたが見られることを怖がっているからに違いないからよ!」
「……」
「目が見えなければその変な体の秘密を知られることだってないし、生活費を渡しておけば相手はいつかあんたに依存するようになる……。エミリアさんを餌付けして、結局あんたは、彼女を自分の都合のいいように使っているだけよ!」
 彼女の言葉が終わると同時に、《青き狐》の腕がふっと掻き消えたように見え、次の瞬間にはベゴッと鈍い音を立てて、壁に右の拳が半ばめり込んでいた。ヨランダは思わず口を閉じた。
「口だけは達者な女だな。私を動揺させ、命拾いをしようという算段だろうが、そうはいかん」
 口調はいたって平静そのものだったが、その奥に込められた殺意を感じ取るのは容易だった。最初に出逢ったときの殺意が、ヨランダの体を貫いた。体が震え、彼女は身動きが取れなくなった。
「私が彼女に近づいたのは、私の姿が見えなかったからではない。……私を、《人間》として認めてくれたからだ。盲目だからこそ、《人間》としての私を見つけてくれた。それが嬉しかった。『あの時』以来、私は誰かとのつながりを断ち切っていたからな」
 いったん話が途切れる。
「私が外に出てしばらくは、普通のトレジャーハンターとして、他の連中とチームを組んでいたことがある。ほしいパーツは譲ってもらえたし、情報収集を優先する場合には適当な口実を設けて機械に連中を近づけないようにもした。それなりに、上手く付き合っていた。だが、あの日を境に、私のあり方は変わった」
 心なしか、声が震えているように聞こえる。
「地震による遺跡の崩壊により、メンバーの多数が怪我を負った。私自身逃げ遅れたので瓦礫の下敷きになったが、どうにか脱出することが出来たし、生き埋めになりかけたメンバーを助けることも出来た。だが外に出た後、そこにいた全員が私を見て、恐怖した。なぜだかわかるか」
 首を振るヨランダ。
「瓦礫の下敷きになったとき、私も傷を負った。その傷口から、私の体内にある機械が見えていた。機械仕掛けの人間など、技術の衰退した戦争後の世界には《存在》しない。だから機械仕掛けの体を持つ私に怯えた。助けてやった奴さえ、私を指して言った。……『化け物だ!』と」
 握られた拳が、震えている。
「……この体では普通の人間のように振舞うことのできない事がある。飲食が絶対に出来ないことと、喜怒哀楽なんらかの感情が一定値以上まで高まれば、私が自動的に殺戮に走るようになっていることだ。あの時、高ぶっていた何かの感情がおさまって意識を取り戻したときには、既に皆を手にかけた後だった。周りには、物言わぬ屍と化したかつての仲間が、血の海の中に転がっていた。そしてそれ以来、私は誰かと組むのを止め、独りでやってきた」
《青き狐》は、きっとヨランダをにらみつけた。これまで以上に冷たく、すさまじい殺意を込めて。
「……だが、私は断じて《化け物》などではない、《人間》だ! だからこそ私は血肉ある肉体を求め続けたのだ! たとえ自分の手を血塗れにしようとも、貴様をこの手で殺し、記憶を取り戻して肉体を得るのだ!」
「……それこそアタシには身勝手に聞こえるわ。おばあさんがあんたにやった事は許されることじゃないけど、あんたが今までにやってきたことも許されはしないわよ!」
「だからどうだと言うんだ。私はもう迷いはしない。私を《私》たらしめるために、十年以上もの歳月をかけて準備を整えてきたのだからな、今更、私に説教などしても無駄なことだ!」
「そうね、無駄かもしれないわね」
 ヨランダは冷静になっていた。ある推測が、《青き狐》との対話で、確信に変わりつつあったからだ。
「あんたは自分の願いのためだけに、大勢の人を手にかけ、利用してきたもの。今更あんたに良心なんかあるはずないものね。それに、あんたが肉体と記憶を手に入れることが出来たとしても、そんな良心のない人間は本当に『血も涙もない』奴としか思われないわね。特に、エミリアさんにそんなことが知られたりしたら、あんたは受け入れてなんかもらえないわね」
「……お前は自分の立場を理解できていないようだな。今のお前は、ただの遺伝子情報の詰まったスイッチでしかない。私の記憶を抽出するために、あの女の遺伝子情報を持つお前はこの場で完全に消滅し、この男も同じく息絶える。誰も私のことなど話しはしない。だからエミリアに知られることもない。彼女は何も知らぬほうがいいんだ、その方が、彼女のためだ」
《青き狐》の返答で、ヨランダは確信した。この男は怯えている。人間の外見を持ちながらも、人間としての存在を否定されることに怯えている。人間の肉体を得ようと躍起になっていたのは、怪我をしても『化け物』呼ばわりされないようにするため。血肉をもつ存在として認めてほしいため。
 そして、笑い声が哀しそうに聞こえてくるのは、人間の肉体を得ることを嬉しがっている反面で、エミリアに《新しい自分》を拒絶されることを恐れているから。この男にとって、エミリアは精神的な支えであり続けてきた。だが、もし彼女に受け入れてもらえなかったら……

 相手の心の声が、聞こえたような気がした。


 モウ、独リハ嫌ダ……。


「いずれにしろ、雑談の時間は過ぎた。準備は全て整っている。後はお前の命を使うだけだ」
 筒の側に足音もなく歩み寄ってくる《青き狐》。ヨランダは思わず、筒の反対側まで退いた。床の上に横たわったアーネストは、全身を激痛にさいなまれ、出血が続いているために起き上がることすら出来ない。
《青き狐》は、筒の側にある機械に取り付けられた、大きな赤いボタンに手を伸ばす。
「お前の遺伝子が、私の記憶をよみがえらせてくれる。そして新たな肉体に私の脳を移植すれば、人間としての《私》が完成するのだ。これでお前との、いや、あの女との忌まわしい縁も、断ち切れる」

 機械仕掛けの指先が、ボタンに触れた。


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