第9話



何秒間か、部屋の中は沈黙で満たされていた。
「何しにきたのよう」
 チラーミィが先に口を開いた。キルリアのツノの先にピリピリと感じとれる、複雑な感情。喜びなどカケラもない。
「公園に捨てられてた入学願書、届けに来ただけ……」
「そんなの、もういらないもん!」
 プイとチラーミィはそっぽを向いた。
「コンクールで入賞出来なかったんだもん、入ったって、笑われるだけ。前に学校見学に行ったけど、あそこのスクールの生徒は、コンクールの上位入賞者ばっかりだもん! 入賞しないのに入ったって意味ないの、どんなにスクールで誉められたって、入賞したって肩書がないと駄目なの!」
 チラーミィはそれからひたすら、こぼしつづける。キルリアは口をはさむ余地がなく、黙っているしかなかった。チラーミィの言葉はひたすら、「コンクール入賞という肩書がないと、スクールに入ってもだれからも認めてもらえない」というものだけ。
 チラーミィの愚痴はだんだん涙声に変わっていく。それでも尽きること無く、愚痴はあふれ出てくる。キルリアのツノに、強い感情が感じとれる。怒りではない。悲しみとは少し違っている。だが一体何なのかと言われても、彼女にはわかりにくい。マイナスの感情であることは疑う余地など無いのだけれど。
 またしてもチラーミィは泣きだしてしまった。キルリアは本当に困り果てた。もう、どうしたらいいのかわからない。ツノに感じとれる感情は、悲しみと悔しさがほとんどだった。その強い感情が自分のツノを経由して自分の頭をも刺激するため、頭が痛くて仕方がない。結局キルリアは、カーペットのしかれた床に座り込んでしまい、頭を抱える羽目になった。チラーミィが泣きやんでくれれば、この感情はだいぶ和らいでくれるのに、かける言葉が見つからない。泣かせるままにするしかないのだろうか……。
「お願いだから、泣くのやめてよおおお」
 チラチーノがジュースを持ってきたとき、ひどい頭痛に耐えきれなくなったキルリアも泣きだしていたのだった。
「本当にごめんなさいね、キルリアちゃん」
「い、いいんです。思い切り泣いたら、ツノがすっきりしましたから……」
 キルリアは自分のツノをさわった。このツノ、自分の感情を感じ取ることはできないが、他者の感情を敏感に感じ取れる。ラルトス種族が生まれながらに持つツノの力なのだから、それは仕方がないのであるが、先ほどチラーミィが思い切り泣き続け、ぐちを吐き続けたおかげで、ツノを刺激していたマイナスの感情はだいぶ和らいでいた。キルリアが部屋を去る時、チラーミィはふてくされてしまっていたが、それでも、思いっきり愚痴を吐いたおかげなのか随分と大人しくなっていた。
「おうちまで送っていってあげましょうか、キルリアちゃん」
「いえ、いいんです。ありがとうございました」
 キルリアは大急ぎで帰宅した。やっぱりチラーミィのことは、自分ではどうにもならないのだろうと思いながら。

 翌日、キルリアは大量のそうめんを持って、「ダンス・コジョンド」へレッスンに出かけた。コジョンドは再びそうめんに舌鼓を打ち、十人前はあろうかという量のそうめんを、薬味やつゆを含めて全部食べつくしてしまった。そうしながらも、キルリアの話を聞いていた。チラーミィの愚痴についての話を。
「で、お友達とは仲直り出来たのかしら?」
 コジョンドに問われて、キルリアは赤くなってうつむいた。
「そう。仲直りは早めにね。時間がたてばたつほどこじれてしまうからね」
 そう言って、コジョンドは、空になった器を机の上においた。
「あー、食べた食べた。ごちそうさま。ありがとうねえ」
「先生、そのダンススクールって、本当に、コンクールで入賞してないと駄目なんですか?」
 からのタッパーを保冷バッグにしまいこみながら、顔を赤くしたままのキルリアは聞いた。コジョンドはハンカチで優雅に口元をぬぐう。
「ああいう学校への入学に当たっては書類に必要事項を記入するだけのはずだから、コンクールで入賞している必要はないと思うけどね。願書が学校側から送られているなら、その子は学校側が選んだと言っても過言ではないもの。むしろ誇ってもいいわよ」
「はあ」
「そりゃあ、コンクールで賞を取った方が、箔が付くのは確かよ。貴女だって、博士とかプロとかそういう肩書の付いているひとを見たら、偉いひとだとか、すごいって思うでしょう? ひとかどの人物だって思うでしょう?」
「はい」
「たぶんそれと同じなんじゃないかしら。……その子がスクールの見学に行った時、たまたまその時の生徒が皆、コンクールの入賞者だったのかもしれないわ。だから、入賞者じゃないとだれも認めてくれないって、思いこんでるのかもしれないね。ところで、そのスクールの名前は?」
 キルリアの答えに、コジョンドは全身の毛を逆立て、とびあがった。
「なんたる幸運! ミラクル!」
「何がミラクルなんですか先生」
「幸運よ、幸運! そのスクールで、マラカッチが臨時講師を務めているのよ!」
 今度はキルリアが飛び上がる番だった。五分後、近くの公衆電話で、父から昔もらったキルリアのテレホンカードを使って、コジョンドはマラカッチの携帯電話に電話をかけていた。長いコール音の後、やっとマラカッチが出てくれたようで、コジョンドは最初のうちは雑談をしていた。キルリアは、傍の自動販売機でミネラルウォーターを買い、ちびちび飲んで、無駄話が早く終わらないかと密かに願っていた。
「でねえ、マラカッチ。あんたが臨時講師を務めているスクールについて聞きたいんだけど――」
 キルリアは耳をそばだてた。しかしマラカッチの声はボソボソとしか聞こえず、コジョンドの相槌しか聞こえなかった。ようやっとコジョンドが礼を言って受話器をフックにかけたとき、キルリアは問うた。
「どうでしたか?」
「確かに入賞者は多いけど、入賞した生徒が必ずしもスクールで高い評価をもらえるとは限らないそうよ。むしろ、自分が入賞者だっていう立場に甘えて、練習をおろそかにしがちな生徒もいるそうなのよね。それか、在籍している生徒のダンスのレベルの高さに愕然として、そのショックで辞める生徒も多いんですって」
 キルリアが仰天したのと、そばの茂みがガサガサ音を立てたのは同時だった。キルリアとコジョンドがふりかえると、その茂みの傍には、何と、チラーミィがいたではないか。数秒間、互いに驚いて口もきけなかった。
「こんにちは。なにしてるの」
 最初に口を開いたのはコジョンドだった。チラーミィは口を開きっぱなしだったのを、閉じる。
「えっと、その――今のは本当なの?!」
 飛び上がって、チラーミィは問うた。
「入賞者が高い評価を得られるとは限らないって、本当なの?!」
 たまたま通りがかって偶然聞いたのか、それとも最初から盗み聞きしていたのか。コジョンドはそれを非難する様子もなく、言った。
「マラカッチはそう言ってたわ」
 チラーミィの顔が、晴れていく。
「マラカッチ先生がそう言ってたの?!」
 どうやら、チラーミィの師事したいポケモンとは、マラカッチで間違いないようだ。包帯を巻いた片脚をかばいながらもチラーミィは立ちあがり、嬉しそうな顔で回れ右しようとする。
「あ、お水飲み終わったの。じゃあボトル捨ててくるから、ちょっと待っててね」
 コジョンドは、キルリアの手に握られた空っぽのペットボトルをさっと取りあげ、キルリアが止める間もなく、わざわざ離れた所にあるゴミ箱へ向かって歩いていった。キルリアとチラーミィは、とりのこされた。しばらくの沈黙。互いに、顔を見られないまま、汗だけが顔を滑り落ちていく。キルリアは、早くコジョンドが戻ってきてくれないかと願った。道路を車が行き来するエンジン音や、自転車のベルの音、プールへ行こうとはしゃぐ子供たちの声などが、響いている。だが彼女らの周りだけは沈黙しかなかった。重い空気が肩にのしかかった。
 空気が動いた。
 キルリアのツノに、感情が流れ込んできた。怒りや悲しみと言ったものではない。それは、感じとると同時に頭痛を引き起こすものだから。
「あ……」
 チラーミィは、周囲の騒音にかき消されかねない小さな声を出した。キルリアは、チラーミィの顔を見ようとしたが、なぜかそれが難しく、その口元しか凝視出来なかった。
「……スクールの願書、出さなくちゃ」
 消え入る声だったが、キルリアはそれを聞きとった。
 キルリアのツノに、また感情が流れ込んできた。温かで、柔らかで、少しくすぐったくて、頭痛を引き起こさない――これは、嬉しさと喜びの気持ちだ、間違いない。昨日は、泣きだしたくなるほどひどい頭痛を引き起こすマイナスの感情だらけだったのに。これは、チラーミィの機嫌がいい証拠だ。
「がんばって」
 キルリアが意図しなかったのに、その言葉は彼女自身の口から発せられた。去りかけていたチラーミィが立ち止まる。キルリアのツノに、別の感情が流れてくる。先ほどの機嫌のいい感情とはまた別の、とてもくすぐったいものだ。
 何か小さな声でチラーミィはつぶやいて、精一杯足をかばいながら駆けて行った。それが何なのか、キルリアは聞こえなかったが、ツノがチラーミィの気持ちを代弁していた。
「やー、最近はマナー守らない連中が多いわねえ。ゴミ拾いしてたわ」
 コジョンドが戻ってきたのは、チラーミィが公園から去った後だった。
「さ、レッスンの続きしましょうか」
「は、はい」
 キルリアはベンチから立ちあがって、コジョンドの後を追った。
 その日のレッスンがおわり、キルリアは帰宅した。シャワーを浴びて汗を流し、両親と一緒に夕食をとってからテレビを観る。好きなバラエティ番組を見ている最中、電話がかかってきた。父は風呂、母は別室で家計簿付けの最中。面倒だと思いつつ、キルリアはテレビの音量を下げて、受話器を取った。
「はい、もしもし」
 向こうから聞こえてきたのは、チラーミィの声だった。
「……夜にごめんね」
 キルリアは目を丸くした。まさかチラーミィが電話をかけてくるとは。
「う、ううん。いいの」
 そう答えたが、なんとなく照れくさい。
「で、その、ええと、どうしたの」
 しばしの無言。キルリアの片耳から、テレビの音が入ってくる。
 受話器の向こうでやっと声がした。
「……昨日は、ごめんね」
 それだけ言って、電話は切れた。ツーツーと、音を立てる受話器を耳にしたまま、キルリアはしばし呆然と立ちつくし、それから機械的な動作で受話器を戻した。
 さらにしばらく立ちつくしたキルリアは、やがて、にこりと笑った。


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