第1章 part1



 見え始めたのは、十歳くらいからだった。
 空の中に、赤い空間があらわれて、そこから何か得体のしれないものが飛び出し、あるいは中に戻っていく。
 あれはいったい何なのだろうか。最初は友達にも聞いてみたけれど、誰一人として、「そんなの見えない」と言われてしまった。自分にしか見えないのだと気が付いてからは、何が見えようとも、誰にも話さなくなった。
 時が流れて、大人になった今でも、それは見えている。時々空が裂けて赤い空間があらわれ、何かが飛び出して人々の間をすり抜けていく。人々はそれに気が付いていない。触られたことさえも気が付いていない。不思議なことに、それらは一度も自分の傍には寄ってこなかったけれど……。

 夕方。
「あー、やだやだ。カサ持ってくるの忘れてたー!」
 どんよりとした雲からは、大粒の雨が降り始めていた。ヨランダは一生懸命走って、近くの店の軒下に飛び込む。
「通り雨だといいんだけどなあ」
 カバンから取り出したハンカチで髪や最新流行の服を拭く。しかし彼女の独り言に反して、雨はやむどころか、ますます雨脚を強め始めた。道を行きかう人々の中には、持ってきたカサをさす者もいれば、建物の軒下に飛び込む者もいる。
 いっこうに雨はやまない。時間がたつにつれて空は暗くなってくる。そろそろ日没なのだ。ヨランダは周りを見回し、コンビニを見つけると、大急ぎで飛び込んだ。そして数分後、カサを買った彼女は、悠々と道を歩いていた。
 腕時計に目をやると、時計の針は五時五十分を指していた。
(……そろそろなのね)
 上空から、赤い光が降ってくる。ヨランダは脚を止めて見上げる。いつもの、赤い空間だ。周りの人々はその赤い空間に気づくこと無く、脚を動かしている。赤い空間が一瞬ゆがんだかと思うと、その中から、得体のしれない者たちが次々に飛び出してきた。あるものは獣のような姿、あるものは鳥のような姿、あるものは何とも形容しがたい液状の姿。それらは人々の間に飛び込むや否や、ものすごいスピードで駆け抜けていく。風ひとつおこさず、雨の一滴も受けず、音もなく。
(やっぱり来たのね)
 それらは、ヨランダの傍に近づくこと無く、人々の間をすり抜けていく。まるで彼女を避けているかのようにも見える。ヨランダはため息をついてまた歩き出した。あの奇妙なものは一体何の目的で人々の間を走り回るのか分からないが、別に悪さをしているわけではないようだ。何より、見えている自分に危害を加えるつもりはないのだとわかっている。見あきているのだ。
「何も危害は加えてこないんだもの、大丈夫よ」
 自宅に帰りつき、玄関を施錠してからリビングのソファに荷物を投げだす。カーテンを閉めて電気をつけてからさっさと浴室に入り、服を脱いで熱いシャワーを浴びる。バスタオルで体を拭き終わると部屋着に着替えた。
「仕事は明日から、もう。雨で気が滅入ってしかたないわ」
 カバンから取り出したデザイン用紙に鉛筆を走らせることもせず、彼女はソファに身を投げ出した。くたびれていて、仕事の続きをやる気にはなれなかった。あの奇妙な連中を見た後はいつもそうだ。体中から体力を抜きとられたような、そんな疲れ方。だるい。自分はだるさを感じるだけなのだが、あの奇妙な生き物たちに触れられ、通り抜けられた人々はどうなのだろう。同じようにだるさを感じているのだろうか。
 ふと、彼女は顔をあげ、ソファから身を起こす。窓の傍により、シャッとカーテンを勢いよく開ける。
「あっ……」
 思わず声に出していた。空を覆い尽くしていた黒雲はすっかり取り払われ、代わりに、あの赤い空間が空を覆い始めているのだ。赤い光はどんどん広がっていき、やがて辺りは真っ赤に染まった。思わずヨランダは窓を開けてベランダに出る。通りを行きかう人々も、隣人も、この異常な空の色に気が付いていないようだ。ヨランダだけが、気が付いている。
 遠くで、犬の吠える声が聞こえたと思うと、急に、広がった赤い空間は縮み始めた。赤い光はその空間に吸い込まれて行く。その光の中に、町の中に飛び出していった不思議な生物たちが見える。なんだか、あの赤い光につかまってしまったように見えた。耳障りなうめき声も聞こえてくる。それが悲鳴のようにも聞こえてくる。赤い空間が完全に消え去った時、空は晴れ渡っており、夜の帳が町を覆っていた。
「何あれ。初めて見た……」
 ヨランダは室内に戻って窓を閉め、カーテンを閉じる。それからコーヒーでも飲もうかとリビングに体を向けた。
「えっ……」
 部屋の中がゆがんで、赤く染まっている。やがて家具が全部消え去って、目の前には赤い空間が広がっている。いつも見てきた、空の赤い空間。
「ど、どうなってるの……?」
 ヨランダはうろたえた。いや、うろたえたどころではない。離れたところに、黒い生き物が姿を見せたのだ。あの赤い空間からいつも姿を現していた謎の生き物のひとつと思われるそれは、彼女を見つけるなり、ニチャニチャと汚い音を立てる。イヌに似ていなくもないが、その腹はでっぷりと肥大化し、毛はところどころにしか生えておらず、開いた口には黄色い牙がたくさん並んでいるのを見る限りでは、イヌではありえない。その生き物は、口から泡とよだれを垂らしながら、ヨランダにゆっくり近づいてくる。本能が、逃げろと命じた。だが、ヨランダの脚は動けない。ショックに耐えられず、体が震え、動くどころではない。今まで近づいてこなかったはずのそれが、近づいてきている。しかも、笑っているようにすら見える。それは、ゆっくりと歩み寄ってきた。何かが腐敗した悪臭が鼻をつき、吐き気がこみ上げてくる。
「や、こないで……!」
 やっと口に出せたのはそれだけだった。それは、震えている彼女との距離を徐々に詰め、あと数メートルほどのところまできた。脚が動けないヨランダは、ついに立つ力も失せて、腰が抜けてしまった。
 奥から、一筋の閃光。
 何かが、それの脳天をぶち割った。黄色い嫌な汁を飛び散らせたそれは、げろおお、と嫌なうめき声をあげて息絶え、くずおれた。そしてその体はまるで燃えカスのごとく砕け灰のように更に細かく砕けてその場に落ちて山を作り上げた。
 赤い空間が、完全に消える。
 ヨランダの目の前には、いつもの彼女の部屋が再び姿を現した。
(アタシの、部屋……?)
 緊張の糸が切れた。
 数時間後、ヨランダは寝室のベッドに座っていた。晴れていたはずの空はまた曇り始め、ときどき雷の音が聞こえてくる。まだそんなに近くはない。
(あれはいったい何だったの? 今まで近づいてこなかったはずなのに、初めて近づいてきた。それにあれは、明らかにアタシを狙ってた……)
 思い出すだけで身震いが止まらない。
(でも、あれはいったい何だったのかしら。あの変なのを一撃で倒したあれは――)
 目の前のあの不気味な生き物に気を取られていたため、その正体は分からない。彼女に見えたのは、一筋の閃光だけだった。それがあの生き物の頭をかち割った。
「あれは、一体……」
 窓を、激しい雨が再び叩き始めた。

 赤い空間が見えるようになった時、何か変わったことがあっただろうか。ヨランダは、古いアルバムを引っ張りだした。明日は休日、今日は徹夜しても構わない。
(今までそんなに気にしてこなかったけど、また襲われちゃたまんないわ!)
 日記をつけておけばよかったと後悔しながらアルバムをめくる。学校行事から友達との遠足まで色々ある。色々めくっていったが、手がかりになりそうなものは見つからない。学校時代の思い出がよみがえってきたことくらいか。
「駄目ねえ、あの赤いのが見える原因が分かれば、対策を練られるかもしれないのに……」
 思い出せないくらい些細なことが原因かもしれない。ヨランダは深く思い出そうと、ベッドに寝転んで目を閉じた。
 再び目を開けた時、東の空からの光がカーテンごしに部屋の中に差し込んでいた。
「うそ、寝ちゃったの……?」
 ヨランダはベッドから起き上がった。部屋の明かりを消してカーテンを開け、朝の光を中に入れる。時計を見ると、七時半を指していた。夢も見ずにぐっすり眠っていたようだ。朝食を作ってのんびり胃の中に納めてから、彼女は部屋の掃除をし、洗濯機を回した。昨夜の出来事が嘘みたいだった。青空は晴れ渡り、雲ひとつない。鳥たちがさえずり、人々の声や車の音が聞こえてくる。何も変わりの無い日常。
(平和ねえ。あれさえなければ)
 毎日、夕方になると現れる、あの赤い光さえなければ……。洗濯物を干してから、アルバムやら卒業文章やらを片づけ、買い物に出かけた。
 道を歩いていると、ふと、誰かの視線を感じて振り返った。だが、彼女を見つめているであろう人物は誰もいなかった。休日出勤のサラリーマンや、買い物に出かける主婦や、遊びに出かける子供たちくらいしかいない。気のせいだったのだろうかと思いながらも店に入って買い物を済ませ、次に別の店に入って画材を調達する。
(新しい流行を考え出すのも、一苦労なのよねえ)
 本屋でファッション雑誌を何冊か買って、帰宅する。荷物を片づけ、雑誌をリビングのテーブルに置いてソファに座った。
 いきなり彼女は後ろを振り返った。だが後ろには壁があるばかり。
(気のせいなのかしら)
 また視線を感じたのだ。だが何もない以上、本当に何もなかったのだろう。昨日のあの出来事から神経質になりすぎているのだ。体を戻し、雑誌を一冊取って広げる。だが手はページをめくっていくものの、彼女の頭の中には、何にも入っていない。目は宙を泳ぎ、いつしか窓に向けられている。時間はどんどん過ぎて行った。昼を過ぎてから洗濯物を取り込み、食事を作り、昼寝をする。夕方近くに成って彼女は目を覚ました。夕飯の準備に取り掛かったところで、買い忘れの食材に気付き、あわてて財布を持って外に出た。太陽は大きく西へ傾いていて、空の西側は少しずつ赤く染まり始めている。
(やだわ、もうこんな時間になってたなんて……)
 大急ぎで店に飛び込み、野菜と肉を買い物袋につめた彼女は数分後に会計を済ませて店を飛び出した。早く帰らなくては。またあの異様な生き物にこんな人の多いところで襲われてしまうかもしれない。空は徐々に赤く染まってくる。見るまでもない、あの赤さは太陽の赤さではない。
 家に飛び込み、ドアを閉めたところで、あの現象は始まった。空が裂けて赤い空間が完全に姿を現し、その中からいくつもの生き物が飛び出すのだ。それとも今日は、昨日のように部屋がまた赤い空間に化けてしまうのだろうか。とにかくヨランダはドアのかぎを閉め、荷物を台所に置こうと思い振り返る。
 部屋がぐんにゃりとゆがんできた。続いて、周りが赤く染まり始め、置かれている家具が消えていく。
(昨日と同じことが起きた!)
 そして、遠くに見えてくる、黒い塊。昨日見たものとは違う形をしている。昨夜はイヌに似たものだったが、あれは手足のはえた魚に見える。人魚という美しいものではない、とんでもなく醜悪なモノ。そしてその塊から漂ってくる、生臭いにおい。腐りかけた魚のにおいだ。
 それはヨランダを見つけた。覚悟はしていたが、正体が分からない以上、怖いものはこわい。それでも必死でヨランダは自分を奮い立たせていた。幸い、この赤い空間の後ろには何もない。本当ならドアがあるはずなのだが、全く別の空間に入り込んだ以上、ここは彼女の狭い家ではないのだ。逃げ場があるならば、逃げ出せる。そう言い聞かせられる事だけが唯一の救いだった。
 その魚のような不気味な生き物は、脚を引きずりながら近づいてきた。ヨランダは少しずつ後ずさりする。大丈夫、後ろに壁はない。逃げられる。だが、どこまで逃げれば?
 その不気味な生き物は最初こそゆっくりと近づいてきたが、その速度は徐々に上がり始めた。ぱっくり開いた口からよだれと泡がこぼれ、吐き気を催す悪臭を立てる。ヨランダは最初のうちこそ後ずさりしていたが、相手がまだあきらめないとわかるや否や、背を向けて走り出した。その不気味な生き物は彼女を追ってきている。しかもその距離は徐々に縮まってきている。一生懸命走っているはずなのに、あの不気味な生き物はそんなに脚がはやくないはずなのに。
 どのくらい逃げたのだろう、ついには、相手の呼吸音がすぐ近くで聞こえてくるほど距離が縮まってしまった。
 何かとすれ違った?
 ぐぎゃああ、と嫌な声が聞こえた。脚を止めて、荒く呼吸しながら振り返ると、あの不気味な魚がグチャリと嫌な音を立ててとろけていくところだった。そしてその不気味な黒い塊の傍に、誰かが立っていた。
 屈強な体つきの一人の男。炎のように赤い髪、血のように不気味な赤い瞳、男の背丈ほどに長い黒刃の剣。だが着ている服はどう見ても軍用の迷彩服。しかも派手に胸元が破れて血糊がべっとりついている。
 ヨランダは呼吸が落ち着くまで待った。黒い塊の傍に立つ男はヨランダには目もくれず、黒い塊にその黒い剣を突き刺す。すると、黒い塊はそこに吸収されてしまい、後には何も残らなかった。
「あ、ありがとう……」
 その声で、相手はヨランダの顔を見た。声をかけられるのを予期していなかったかのような表情を見る限り、明らかに相手は驚いている。
「あの……」
 ヨランダが近づこうとすると、相手は首を振って、身振りで「来るな」と示した。ヨランダは一瞬立ち止まったが、一体なぜ近づいてほしくないのだろうかと不思議に思い、さらに近づいてみようと一歩踏み出した。相手は困惑した表情になったがすぐに、剣で近くの赤い空間を切った。空を切ったと思ったがそこに黒い裂け目があらわれた。男はさっと飛び込んでしまい、それと同時にその裂け目は閉じられた。
 視界がゆがみ、赤色が消え、ヨランダは自分の家の玄関に立っていた。あれだけ走ったはずなのに、彼女は玄関から一歩も動いていなかったのだ。
(アタシを助けてくれたあの男の人、誰なのかしら)
 軍用の迷彩服を着ているということは、あの男は軍人なのだろう。あれほど派手に胸元が破れている上に血もべったりとついている。ということは、あの男は怪我をしているのだ。それにしては痛がる表情など見せていなかったし、傷口をかばうような動作も見せていなかった。痛覚がないのだろうか。まさかそんな……。
 部屋の中に入り、荷物を台所に置く。窓の外を見ると、あの赤い空間ではなく、太陽の夕焼けが見えた。今日の赤い空間イベントは、これでおしまいのようだった。
 あれから、あの黒い生き物に襲われること無く、数週間が過ぎて行った。
 月曜日。ヨランダは朝八時半に出社した。服のデザインを担当する彼女は、今日もチームの同僚たちと一緒にデザイン画を突き合わせ、話をする。昼休みが終わったら、今度は色合いや小物についても話をする。定時になったら、日報を提出してさっさと帰宅する。
(何も起こらなければいいんだけどなあ)
 帰り道、商店街は赤く染まっている。夕日の赤だ。ヨランダはそれでも大急ぎで帰宅する。あの赤い空間があらわれる前に。
 誰かが後ろから彼女を追い越した。その後ろ姿が目に入り、ヨランダはあっと声をあげた。彼女を追い越したのは、いつか、彼女を化けものから助けてくれた男だった。その男は足音もなく、風も起こさず、真っ黒な刃を持つ長剣を片手に走り抜けていく。ヨランダがあっけにとられて見ていると、その男は、人が前にいようが建物が前にあろうが構わず突っ込んでいく。そしてぶつかったと思うと、男の体は何事もなかったかのようにすり抜けていく。物にはへこみもできず、人々はぶつかられたことにも気が付いていない。あの、赤い空間の中から現れる生き物たちと同じだ。あの男は、あの生き物たちと同じだ。
 男の後を追って、ヨランダも駆けだした。男は赤信号の交差点を渡り(当然車にひかれることもない)、続いて閉店後の宝石店をすり抜け(近道なのだろう)、最後にたどりついたのは六階建ての廃ビルだった。ヨランダは何度も回り道をしなければならなかったが、幸い男を完全に見失うことはなかった。
 彼女がやっと廃ビルの前までたどり着いた時、男はその向こうにいた。そこには空き地があり、鉄条網で囲いが作られているところだ。ヨランダはビルの陰に隠れて、男の様子をうかがうことにした。
 空があの赤い空間によって赤く染まってきた。男はそれを見上げ、鋭い指笛をふいた。すると、赤い空間の中から、彼女が見たこともないような赤い犬が姿を見せる。その犬はただの犬ではない、血のような毛皮はところどころ炎に包まれ、首は三つ、口からのぞく牙から赤いものが滴り落ち、尻尾はまるで大蛇のように太く巨大。
 不気味な犬は、男の傍に降り立つ。男の背丈ほどもある巨大なその三つ首の犬は、男の飼い犬なのだろうか、嬉しそうに尻尾を振っている。男は首の一つをなでてやる。犬が顔を上げる。同時に、あの赤い空間から黒い筋があらわれる。黒い筋はあの不気味な生き物たちだ。犬は飛び上がり、その黒い筋の中へ突っ込んだ。空から聞こえる悲鳴。そしてその悲鳴と同時に黒い筋は消滅した。地面の上に黒い塊がボタボタと落ちてきて、ヨランダは驚いた。
(何なのあれ、何が起こってるの?)
 ボタボタと落ちた塊は、地面の上に立っている男が次々と切り捨てていく。黒い塊が刃で切られると、その黒い塊は刃の中へと吸い込まれていく。ヨランダはその光景をじっと見つめていた。
 不意に、自分の周りの空間も赤く染まる。そして背後から聞こえた不気味な息遣いに気付いた時には遅かった。彼女が振り返った時、その、ネコに似た黒い生き物は彼女めがけて飛びかかってきた。彼女はとっさに身をひねったが、生き物のツメが彼女の肩をかすった。服が破れ、直後に肩がかっと熱くなる。
 何かが後ろから飛来した。
 勢いよくその生き物の腹を突き破ったのは、黒い刃の長剣だった。倒れたヨランダの上にのしかかろうとした生き物は、空中で耳障りな断末魔の鳴き声を上げながら、ドロドロの塊となって崩れ落ちた。剣が塊の中に落ちたが、刃はその黒い塊を残らず吸収し、元の黒い剣に戻ってしまった。
 後ろから、長剣を投げたと思われる男が駆けよってきた。長剣を拾い上げ、それからヨランダを見る。彼女の肩にできた傷を見るなり目を大きく見張り、続いてその表情に焦りがあらわれる。その血の色をした赤い瞳にも同じく、焦りがあらわれる。
「あの……」
 肩の痛みも忘れて、ヨランダが声をかけた。その時、周りの赤い空間が一気に暗くなった。上空から闇が降り注いできたかのように。そして、ヨランダの知りうる限りでは一度も聞いたことがない不気味な音が、上空から降り注いできた。唸り声とも苦しみの声とも聞こえる。音というよりは声に近いのだろう。その音声のような鳴き声のような、不気味な音を聞いていた男は、上を見上げて、弁解するように必死で何か喋っている。だがこの男が何をしゃべっているのか、彼女にはさっぱり分からない。外国の言葉なのだろうか。いつのまにか、男の傍に、あの巨大な三つ首の犬が姿を見せる。だがその犬は尾を股の間にはさみ、首を垂れて、プルプル震えている。怯えているのだろうか。
 上空から大きな音が降ってくる。ヨランダは、怒鳴られているような気がして背筋が寒くなり、思わず首を縮めた。
 上空から声が降ってきた。先ほどまではただの音としか聞こえなかったが、今は、ヨランダの耳にもはっきりと聞こえてきた。
――さあ、来るが良い。
 また、闇が滑り落ちてきた。


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