第1章 part2



 ヨランダはひとりぼっちで、道の上に立っていた。足元は細かな石が敷き詰められ、道の端は不気味な赤い炎が列を作って道を照らしだしている。そしてその前方には、門のような形を作る巨大な炎の柱がある。その向こうには闇だけしか見えない。
「なにこれ……ここどこ?」
 ヨランダは周りを見回した。見たことの無い場所だ。さっきまで自分はどこにいた? 廃ビルの陰に隠れていた、赤い空間にのまれ、異形の生き物に襲われてけがをした、それからどうなった?
 不意に背後から聞こえてきた足音で、ヨランダは振り返った。
 巨大な三つ首の犬が、いつのまにか彼女の後ろにいた。思わず彼女は悲鳴を上げた。あの巨大な犬がこんなに近くに。しかも目の前まで迫ってくると、頭一つの大きさが彼女の腕の長さほどもあった。こんな大きな犬にかみつかれでもしたら、ただではすまないだろう。
 犬は彼女の体に顔を摺り寄せ、しめった鼻をすりつけてくる。甘えている? だがヨランダは怖くてなでてやるどころではない。震えあがってしまった。
――ケルベロス。
 声が降ってきた。それは、とうてい生き物の声とは思えない、低く、うつろで、ぞっとするものだった。犬はすぐヨランダから身を離し、三つの首を同時に上に向ける。
――その魂を連れてまいれ。
 声の命令に従い、ケルベロスと呼ばれた赤い犬は、ヨランダの襟をくわえ、背中に放り投げた。やわらかな毛皮の上に落ちた彼女は、ところどころ炎に包まれるその赤い毛皮からわずかに血のにおいが発されているのを知った。
(何なの、この生き物……)
 彼女はおりたかった。だがそれより早く、犬が地を蹴った。彼女はあわてて毛皮にしがみついた。
 熱い。危うく手を離してしまうところだった。
 犬は炎の門をくぐり、着地する。そこは、ただ単にだだっぴろいだけの場所に見えた。周囲を取り囲んでいる青白い炎。犬は首を回し、彼女の襟をくわえて、地面に下ろす。そして自身はその場に座った。ヨランダは、また周りを見回した。寒い。暗い。ここはいったい何なのだろう。
――魂よ。
 いきなり頭上から声が降ってきて、ヨランダは思わず上を見上げた。だが、彼女の目に入るのは、闇ばかりだ。
「あの」
 ヨランダは何とか口を開いた。
「ここは、一体どこなの?! あなた誰なの?」
――ここは、冥府の入り口。生者は決して来ることのできぬ場所。
「め、冥府……?」
――お前たち命あるものが、死後の世界と呼ぶ場所。
「し、死後の世界……?!」
――お前は本来この場所に来るべきではない。だが、お前は冥府の獣に傷を負わされ、傷の中に冥府の力を注ぎこまれた。
 ヨランダは、あの不気味な生き物に襲われて傷つけられた肩に手を当てる。痛みがない。そして、手には血がついていない。それなのに傷口だけは服の破れから見える。赤黒い嫌な色の傷口だ。
――冥府の力を注がれたお前は、生きながらにして死んでいるという存在となった。それゆえ、お前はこの場所にいる。だがお前はまだ生者の世界にいるべき魂、本来はここにきてはならぬ。
「来ては駄目って……じゃあ帰して!」
――今はまだ叶わぬ。
「叶わないって?」
――お前の中に注ぎ込まれた冥府の力を弱めねば、戻ることは出来ぬ。そのままお前を戻せば、生者の世界はお前を受け付けず、この場所に戻してしまう。だがお前がこの場にとどまり続けるには冥府の力は弱い。獣どもの餌食となるだろう。
 声は、犬に言った。
――ケルベロス。この魂に炎を。
 彼女が振り向く間もなく、三つ首の犬は炎を口から吐き出した。炎はあっという間に彼女を包み込んだ。が、それも一瞬だった。
「え、何が起こったの?」
 自分の体が炎に包まれたように思ったが、別に体は何ともない。服も焦げていない。
――炎の洗礼は終わった。冥府の力が弱まるまでの間ならば、この場所から先に進むことが出来る。
「あの……」
――冥府の奥底に向かい、死神に許しをもらうがいい。そこまでの案内人をひとりつけてやろう。
 彼女の少し先に一筋の赤い光があらわれ、それが消えると、そこには、あの赤髪の男が立っていた。どこか気まずそうな顔で。
――紅蓮。この魂を死神の元まで連れて行くがいい。
 フウと男は息を吐いた。
「わかった……」
 紅蓮と呼ばれた赤髪の男は、派手に破れた迷彩服から見える血糊をいっこうに気にかける様子もなくヨランダに歩み寄った。
――これ以上獣をのさばらせてはならんぞ。
 男は舌打ちした。
 声は聞こえなくなった。
「行くぞ」
 苦々しげに、男は言った。

 男の名は、紅蓮。
 だがそれは、この冥府の中での名前。本当の名前は、死と同時に忘れ去ってしまった。名前だけではない、生者の世界にいた時の記憶はすべて忘れ去っている。
「俺だけじゃない、この冥府にいる奴らはすべてそうだ」
 紅蓮は、ヨランダの少し先を歩きながら言った。三つ首の犬ケルベロスはヨランダの後ろを歩いている。
「冥府は、魂を炎で浄化し、新しく生まれ変わらせて、生者の世界へ連れ戻すための場所。冥府の炎を浴びればその時点で過去の記憶は全部消えちまうんだとさ」
 クウン、とケルベロスはかわいく鳴いた。
「でもアタシは覚えてる……」
「そりゃ、冥府がケルベロスに命令して特別に洗礼させたからだろ。ケルベロスは冥府の番犬だからな、主人の命令には忠実だ。生者の世界の記憶を消さないように手加減させたんだろ」
 肯定するように、ケルベロスは鳴いた。
 一同は、暗い道を歩いていた。紅蓮には道が見えているのか、迷わず歩き続けている。ヨランダは道がわからない以上、彼の後をついて行くしかない。周りは寒い。明かりは、ところどころにある青白い炎だけ。
 急に紅蓮が立ち止まる。ケルベロスは低く唸り声をあげる。
「どうしたの」
 ヨランダは、前に踏みだしたケルベロスの脇からのぞこうとする。が、
「ケルベロス、そこから動くな!」
 紅蓮は背中の長剣を抜き放つが早いか、前方に向かって飛ぶ。人間の跳躍力とは思えぬ飛距離。そして長剣を振りおろした先には、ドロドロした液状のもの。だがそれはうごめいている。長剣がズブリと突き刺さるや否や、そのドロドロした液状のものは断末魔の悲鳴を上げて長剣の中に吸収された。後には何も残らなかった。
「何なの、あれ」
 ヨランダは思わず身震いした。紅蓮は戻ってきて、言った。
「冥府の獣。冥府の炎を浴びてもなお生に執着する連中がいきつく、成れの果ての姿だ。命あるものにものすごい嫉妬心を抱いてて、スキさえあれば命をかっさらって自分のものにしようと冥府をしょっちゅう抜け出すんだ。……お前も見ただろ」
 あの黒いものが、人々の間を駆け抜けていくのを、ヨランダはいつも見ている。
「本当はアレを管理してるのは冥府自身だ。が、俺がアレらを狩らなきゃならんのよ」
「どうして?」
「……」
 言いたくないようだ。たぶん、何かとんでもないことをしでかしたのだろう。ヨランダはそれ以上聞かないことにした。
 しばらく歩いて行く。少しずつ周りが明るくなってきたが、それらは皆青白い光の集まりによるものだとわかる。その青白い光の集まりは徐々に密度を増していく。そして、
「ついたぞ」
 紅蓮は言った。
 彼らの目の前に広がるのは、青白い光がいくつも集まって作られた巨大な樹木と、その樹木の足元に根を張り巡らせる、巨大な赤い円。円は光を弱弱しくはなっている。樹木の枝を見ると、青白く光る球体のようなものがいくつもぶらさがっている。光源はこれのようだ。
「なに、ここ」
「死神の住まいだ。こいつは、冥府の力で作られた魂の樹木だ。浄化する前の魂をここにぶら下げておくんだよ。……死神ってのは、冥府から魂の管理を任されてる奴さ。できれば近づきたくないんだが……」
 死神と言うと、ぼろいローブに身を包み大きな鎌を持った骸骨というイメージ。きっとここにいる死神もそんな感じなのだろうとヨランダは思った。
 だがその考えはすぐ打ち砕かれた。
 不気味な樹木が一部分盛り上がり、何かが姿を見せた。それは、一目見ただけでヨランダが悲鳴を上げるほど不気味なものだった。
 一枚の灰色の布。その下には闇ばかりがあり、まるで闇が布をかぶっているようにも見える。そして目と思われる不気味な赤い点が二つ。伸ばしたものはおそらく腕に当たるのだろうが、それも闇で形作られている。が、よくよく見るとその闇は微妙にうごめいている。まるで小さな虫がびっしりとその腕にまとわりついてうごめいているかのようだ。
――冥府カラ、話ハ聞イテイル。
 体の血液すべてが凍りつきそうな冷たい声。その不気味なものは、ヨランダに目(と思われる赤い点)を向けた。思わずヨランダはケルベロスの脚にしがみついた。
――コノ冥府カラ、出タイノダロウ? ナラバ、ココヘクルガヨイ。
 紅蓮を先に歩かせ、ヨランダはおそるおそる後ろからついて行った。ケルベロスはついてこなかった。
 死神があらわれた樹木の中には、空洞があった。そこには青白い炎のともされた巨大な台座が一つ置かれている。台座の周囲には、若木が円形に植えられている。だがその若木はどう見ても枯れている。
「あら」
 ヨランダはふと、台座の上に見えるものに目を止めた。それは樹木の中に埋め込まれた青くて透明な水晶のようにも見えた。
「あれ、何かしら」
 応えたのは、死神だった。
――アレハ、浄化ヲ許サレヌ魂。冥府ノ意思ニヨリ、アノ魂ハ、魂ノ樹木ニ、永遠ニツナギトメラレルコトニナッタノダ。
 ヨランダは目を凝らして、水晶の中をよく見る。その水晶の中には一人の男がいる。目を閉じて眠っているように見える。さらに目を凝らすと、その男の手足には重そうな分厚い輪がつけられている。まるで、枷のような……。
 死神が、ヨランダを促した。
――コノ炎ヘ飛ビコメバ、オマエハ、生者ノ世界ヘト戻レル。冥府ノチカラハ、コノ炎ニヨッテ浄化サレ、生者ノ世界ヘ向カウノダ。サア。
 しかし、「さあ」と言われても、火の中へ飛び込む気にはなれなかった。
「戻りたいなら、早く行け!」
 紅蓮が彼女の背中を強く押した。押されてバランスを崩した彼女の体は、巨大な青白い炎の中へと投げ出された。一瞬だけ全身が熱くなり、続いて、彼女は自分の体がどこまでもどこまでも落ちて行くのを知った。
 悲鳴が上がった。闇がどこまでも彼女を捕らえて離さなかった。

 ドサッ!

 彼女の体は何か柔らかなものの上に落ちた。しばらく衝撃で目を回していたが、やがて起き上がって確認した。
 自分のベッド。
 彼女は周りを見回した。
 自分の部屋。
 ベッドを飛び出し、窓を開け、ベランダへ出る。
 月の光が辺りを照らす。車の通行音、街灯の光、商店街のネオン。
 何もかもが、彼女の知っている世界だった。

「帰ってきた……!」
 ヨランダはベランダにくずおれ、安堵で泣きだした。
 三日月は彼女に優しく光を投げかけ、そっと見守った。

 冥府の世界に、死の秩序が再び訪れる。生者の存在しない、完全な死の世界。存在するのは魂たちとそれを管理するもの、生者の世界へ抜け出していこうとする獣。
 ケルベロスは冥府の入り口に寝そべっている。死者が訪れれば素直に通すが、逃げる者がいれば即座に捕まえる番犬。今は用事がないので暇を持て余している様子。
 冥府の奥深く。どん底とでも言うべき場所に、長剣を背負った紅蓮はいた。前方には闇が広がるばかり。
――紅蓮。あれはお前の過失であったな。
「……」
――冥府に近しい魂を拾ってきてはならぬと、あれほど言っておいたはず……。
「……」
――あの魂に、獣どもをこれ以上近づけてはならぬ。二つの世界の均衡を崩しかねない。
「わかってる……」
――そのために、死神に命じて、あの魂を目覚めさせる。
 紅蓮は驚愕した。
「冥府、それはいったいどういう事なんだ!」
――あの魂も冥府に近しい者。冥府の獣は奴も標的にしていることは、お前も知っているだろう。
「そりゃ知っている。でも、どうして目覚めさせようなんて考えたんだ。奴を浄化させないで魂の樹木に封印しようと決めたのは、お前だろう」
――奴を目覚めさせよと死神に命じておく。お前はそのままケルベロスと共に狩りを続けるがいい。
 冥府の声はそれきり聞こえなくなった。紅蓮は何かつぶやいていたが、やがて闇の中へ歩き去った。

 魂の樹木。たくさんの魂が枝につりさげられ、青白い光を放っている。木の傍にいた死神は、ふいに樹木の中へと入り込む。そして、浄化の炎の上に埋め込まれたあの青白い水晶に不気味な手を載せた。
――冥府ノ命令ニヨリ、キサマヲ目覚メサセル。
 青白い水晶は赤く光り、続いて、その光が収まると、その中で眠っていたと思われる男の目が開いた。うつろな目。その目は、明らかに何も見えていない。口が動く。声は全く聞こえてこない。
 なぜ目覚めさせた。私を永遠に眠らせておくのではなかったのか?
――冥府ノ命令。キサマト同ジ、冥府ニ近シイ魂ガ、アラワレタノダ。
 水晶が白い光に包まれ、それが収まると、水晶は樹木から外れて地面に降りた。そして、その横たわった水晶から半身を起し、冷たい銀色の枷がつけられた手を両目にあてて、忌々しそうに男は言った。
「……わかった。だがその前に、この目を何とかしてもらおうか」


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