第2章 part1



 冥府からこの生者の世界に戻ってきた。
 あれから一ヶ月過ぎた。ヨランダは相変わらず、赤い空間の中から冥府の獣が姿を見せるのを目撃している。これまで一度も襲ってこなかったはずの、むしろ彼女を避けていた冥府の獣たち。だが、彼女を二度までも狙うようになった。今は、冥府の獣は誰も彼女を狙ってこない。紅蓮が狩っているのだろうか。たびたび聞こえる犬の遠吠えはケルベロスのものだろう。ケルベロスも、獣を狩る手伝いをしているのかもしれない。
 肩の傷はいつの間にか消えていた。冥府の力が完全に消えたということだろうか。
(あんな嫌なこと、早く忘れたいなあ)
 どんな嫌なことも時がたてば忘れていくものだ。だから早く忘れてしまいたい。ヨランダはそれを願いながら毎日を過ごしていた。赤い空間の中から冥府の獣があらわれるのはもう日常茶飯事なので、慣れっこになっていたとはいえ……。
(そういえば)
 紅蓮の派手に破れた迷彩服。あれを着るのは軍人だとわかっている。だが彼はいつの時代の軍人なのだろうか。
(男性のファッションに、久しぶりに迷彩柄を取り入れるのもいいかもしれないから、ちょっと調べてみよう)
 会社の書庫には該当するものがなかったので、休日を利用して図書館に向かった。軍服や迷彩服の本を見つけ出し、調べる。見つけた。あの迷彩服は百年前の軍人が着ていたものだ。
(百年も前なのね……。ということは百年も冥府の獣を狩り続けているってことなのかしら)
 歴史の授業で習ったはずだ、およそ百年前に起こった近代の出来事。そうそう、大きな戦争が一つ起こっていた。ひょっとしたら彼はあの戦争で命を落としたのかも。
 本を片づけた時、彼女は振り返った。だが後ろには、本棚があるばかり。
(変ね……誰かに見られてたような気がしたんだけど……)
 冥府の獣の視線ではなかった。あれはもっとねちっこい。だが、本棚の向こうには壁しかない。神経質になりすぎているのだろうか。
 ヨランダは図書館を出た。夕刻、空は赤く染まり、太陽は西の空から地平線に沈んでいく。そろそろ時間だ。ヨランダが走って帰宅しドアを閉めて施錠したところで、始まった。空が別の赤に染まり、そこから冥府の獣たちが走り出てくるのだ。あの獣たちは生者の世界にどうやって抜け出しているのだろうか。冥府の知らない抜け道があるのだろうか。
(まあいいわ、いつものことなんだし、襲われなければ――)
 途端に、自分の周りが赤く染まった。赤い空間。家が消えて、周りは赤い空間に呑み込まれる。
 冥府の獣の気配だ。
「餌ならここにもいるだろうが……」
 ヨランダが振り向くより早く、背後から男の声が聞こえ、続いて、何かが蒸発するジュワッという音。振り返ると、何メートルか後ろの空間に、煙が昇っているのが見えた。冥府の獣の気配は消えた。そこには誰もいなかった。誰かが冥府の獣を倒したのだ。
「今のは――」
 紅蓮の声ではなかった。
 赤い空間は元に戻った。
「今のは、誰の声なの?」
 周りを見回したが、誰の姿もなかった。ケルベロスの声も聞こえてこなかった。
 ふと彼女は後ろを振り返る。だが、そこにはドアがあるばかりだった。
(また、誰かが見ていたような気がする)
 紅蓮だろうか。だが先ほどの声はどう聞いても紅蓮ではなかった。他の誰かの声だ。一体誰なのだろうか。彼女の知らない冥府の住人であろうか。
(やっぱり、アタシが死ぬまで冥府の獣とおつきあいしなくちゃいけないのかしら)
 ヨランダはため息をついた。
 忘れられそうにない……。

 冥府の奥底。
「やっぱり俺ひとりじゃあ獣どもは手に負えない。だから奴を目覚めさせたんだろ、冥府」
 紅蓮の握る長剣は、黒くない。青白い光に包まれている。そして刃の黒色は、闇の中へと吸い取られていっている。それにともない、刃は少しずつ青白く変わっていく。
――そうだ。
 長剣のやいばはすっかり青白くなり、不気味な光を放った。
「類は友を呼ぶってやつか?」
――その通り。
 紅蓮の頭上から声がまた降ってきた。
――これ以上、《カリビト》を産み出すわけにはいかぬ。魂の均衡が崩れてしまう。
「奴だけは例外か」
――貴様の愚行ゆえに。
 紅蓮は舌打ちした。そして長剣を背中の鞘に納める。
「あいつを目覚めさせたことを、お前は後悔してないのか?」
――後悔などしておらぬ。
「……《奴ら》が暴れ出してもか?」
 返事の代わりに、低く笑うような不気味な音が、頭上から降ってきた。紅蓮は構わず、闇の中を歩き去った。
 冥府の入り口にて、ケルベロスは退屈そうに丸くなっていた。だが、三つの顔をあげ、嬉しそうに起き上がって尻尾を振りながら駆けだす。紅蓮は犬の顔のひとつをなでてやり、
「狩りに行くぞ、ケルベロス」
 背中に乗ってから言った。三つ首の犬は、一声ほえてから、駆けだす。やがて闇は明るい赤に変わり、生者の世界が見えてきた。
 風の音。だがそれは、風の音ではない。風に乗って、冥府の獣が飛び出てくる音なのだ。紅蓮は、青白く光る長剣を抜き放ち、ケルベロスの背中から飛び降りた。
 狩りが始まった。

 魂の樹木。
「冥府はなぜ私を《カリビト》にしない? あの男だけでは手におえまい」
 目を閉じたまま、男は問うた。死神は、男の体に手をあてていた。死神の不気味な手には、男から吸い出された不気味な闇がうごめいている。そして、手を当てられている男の胸は異様に黒く、なにかがうごめいている。まるで死神の腕のような、不気味な体。
――魂ノ均衡ヲ、クズサヌタメ。コレ以上浄化ノ出来ナイ魂ガ存在スルコト自体、本来ユルサレヌノダ。
「私は例外、か」
――貴様ハ、獣ニ喰ワレスギテイタ。ダカラ冥府ハ貴様ヲ封印スルコトニシタノダ。コノママ貴様ヲ浄化シテ生者ノ世界ヘ転生サセテモ、冥府ノ獣ニマタ狙ワレルダケデハスマナイカラダ。冥府ノ炎ヲ浴ビタトハイエ、貴様ノ魂ニ傷痕ガ残ルカギリ、貴様ニハ、肉体ノ死ヌ直前ノ記憶ダケハ、ハッキリト残ッテイルハズダ。
 死神が手を離す。男の体の黒い部分は少しだけ薄くなり、血色の悪い肌色になった。
 男は初めて目を開けた。紅蓮と同じく、瞳は血の色をしていた。
「そうだな、あの時はろくな死に方をしなかった。とはいえ、見えなかったのがせめてもの救いだな」
――……獣ガ来ル。早ク行ケ。
「言われなくとも」
 男は、青白い炎の燃えさかる台に向かう。そして、何のためらいも見せずに男は飛び込んだ。男の両手と両足につけられた銀色の輪は、不気味な光を放った。すると、体を焼いていた青白い炎は完全に消え去り、男はそのまま生者の世界へと落ちていった。
 魂の樹木の周辺に、不気味な冥府の獣が集まったが、死神が姿を現すと、皆、尻尾を巻いて逃げだしていった。

(どうして獣たちは急にアタシを避け始めたのかしら)
 自分の傍を通り過ぎる獣たち。人々の間を抜けていく冥府の獣。何かを目指して一生懸命駆け抜けていくように見える。今までの獣たちは手当たり次第に色々なところへ走って行ったが、今では違っている。どこか一か所に向かって走って行くようになった。
 一体どこへ行くのだろうか。追ってみようと考えたが、紅蓮の時のように、覗き見している隙をついて背後から襲われてしまうかもしれないので、止めた。とにかく冥府の獣たちが彼女を避けてくれるのはありがたい。もう二度と襲われたくない。
 自宅に帰りつくと、同時にあの時間になる。赤く染まった空。冥府の獣の気配。獣たちは跳び出すが早いか、一か所を目指して走り出す。彼女のことは眼中にないらしい。彼女はホッとしてドアを閉め、鍵をかける。
「!」
 周りが急に赤い空間に変わる。冥府の獣が彼女に目をつけたのだ。背後から冥府の獣の気配。振り返るより早く、
「面倒臭い奴」
 けだるそうな男の声と共に、誰かが彼女の後ろに姿を見せる。ヨランダが完全に振り返った時、冥府の獣は断末魔の悲鳴を上げて蒸発した。
「え……?」
 振り返ったヨランダはぽかんとした。何が起きたのだろう。目の前に見知らぬ人物が立っていて、その人物の掌からは煙が昇っている。冥府の獣の姿はなく、気配も感じ取れない。
 彼女に背を向けていた人物は振り返った。その瞳は、紅蓮と同じ血の色をしている。
 青い髪。年のころは紅蓮やヨランダとさほどかわるまい。光を飲み込むような黒い服を着ており、血色の悪い痩せた体つきをしている。その両手と両足には、鈍く冷たい光を放つ銀色の厚い輪をつけている。どこか冷たい雰囲気を漂わす男だ。
 ヨランダは思い出した。今、目の前に立っている男は、魂の樹木に埋め込まれた水晶の中で眠っていた魂だったのだ。
「……」
 聞きとりづらいハスキーボイスで、男は何かを呟いた。ヨランダは何をつぶやいたのか聞き取れなかった。
「あの……」
 ヨランダはやっと口を開けた。
「助けてくれて――」
 だが最後まで言い終わらぬうちに、男はまるで煙のように消え去った。
 赤い空間が消え去って、ヨランダは自宅の玄関に立っていた。何秒間か、彼女は口をあけっぱなしだった。出すべき言葉が出てこなかったからだ。
 遠くで、ケルベロスの吠える声が響いた。ヨランダはやっと自分がどこにいるのかを知った。
「また襲ってきた……」
 そして、襲われそうになった彼女を助けてくれたのはいったい誰なのだろう。
「誰だったの……?」
 あの目は間違いなく、紅蓮と同じ血の色をしていた。赤い空間の中に現れ、冥府の獣を何かの方法で退けた。ならば、あの男も紅蓮と同じく冥府の住人なのではないだろうか。だがあの男は水晶の中に封印されていた。死神の話だと、あの男は魂の樹木に永遠につなぎとめられている、という。だがなぜ今は生者の世界に姿を見せているのだろうか。出歩いているということは、封印がとかれているということだ。なぜ封印がとかれたのだろう。そしてなぜ自分を守ってくれたのだろうか。
 ヨランダにはわからないことだらけだった。だが、その理由を確かめたいとは思わなかった。あの件以来、冥府の力を持つ存在に必要以上に接触することは、自分の死を意味することだと、彼女は考えていたからだ。

 赤い空間がまた空を覆う。そしてその空間から、冥府の魔物が一匹飛び出してくる。今度は動物のような姿ではない。無数の角と牙、骨組だけの異様な翼、関節の曲がり方が明らかにおかしい脚……他にも色々な、不気味なパーツを組み合わせた黒い魔物。身の丈は軽く三メートルはある。不気味ないきもの。いや、いきものと呼ぶことすらできない存在。
「出たな、忌々しい《奴》が」
 その異様な姿の魔物を下から見上げ、男は呟いた。ヨランダを助けた時よりも、その血色の悪い肌は浅黒くなっている。魔物は男を見つけると、舌なめずりして急降下する。
 男の赤い目に、明らかな憎悪の炎が宿る。両手足につけられた銀色の輪が不気味な光を一瞬だけ放つ。落ちてくる魔物は耳障りな笑い声をあげ、鋭い爪をぎらつかせた。
『エサ! エサ! ゲハハハハ!』
 途端に、その体が真っ二つになった。男は一瞬目を大きく見開いた。が、その目は元に戻る。
 落ちてくる魔物の残骸。その上から降下してきたのは紅蓮だった。携えている長剣には魔物の残骸が吸収されていく。青白く光っていた刃は一気にどす黒くなった。着地した紅蓮は長剣を背中の鞘におさめ、指笛をふいてケルベロスを呼ぶ。冥府の番犬は素直に姿を現した。
「《カリビト》じゃないお前が、単身で《奴》に立ち向かえると思うなよ、氷雪」
 ケルベロスの背中に飛び乗り、紅蓮は言い捨てた。
 残された男は不機嫌な顔で、ケルベロスの去った空間をにらみつけ、自らも傍の空間のゆがみの中へと姿を消した。

(思った通り、あいつを狙う《奴ら》も姿を見せてきた。俺の仕事は倍増か)
 冥府の奥底で紅蓮はため息をついた。
 長剣のどす黒い刃は、冥府の力を抜きとられていくにつれ、青白い光を取り戻していく。
(誰かの中に入り込んで行動や意思に干渉できる《奴ら》がついに現れたのか。冥府が氷雪の封印を解いたんだ、奴を喰いたくて仕方の無い連中ばかりだろうな。獣とはもっと違う、とんでもなく忌まわしい《奴ら》……)
 思わず身震いした。
(俺一人じゃあ、どんなにケルベロスが頑張ってくれていても、獣どもを全部狩り尽くすことはとてもできない。だからといって氷雪を目覚めさせるなんて、狂気の沙汰と言っても言い過ぎじゃないぞ。あの連中が表に出てくるようになったんだ、《奴ら》から見れば、餌が増えただけにしか見えないはずだ。だけどまさか《奴ら》が出てくるなんて……)
――紅蓮。何を怯えている。
 冥府の声が上から降ってきた。紅蓮は下を向いたまま、冥府に問うた。
「……冥府、お前の傷は、どのくらい広がった?」
 しばらく間があった。やがて冥府は答えたが、その答えを聞いた途端、紅蓮の体が大きく反応した。
「まさか、そこまで――」
――紅蓮、貴様が己の役目を果たさんと常にこの冥府から出て狩りを続けていることは、知っている。だがそれだけでは十分ではない。我が傷口がふさがりきらぬのがその証。氷雪に刻みつけられた傷の浄化が上手くいかぬのも、その証。
「封印から目覚めた氷雪を喰いに出てきた《奴》がいた。《奴》が出てこられるほど傷口が広がっているんだな?」
――そうだ。
 紅蓮の顔は青ざめている。
「なあ、やっぱり氷雪を目覚めさせたのは間違いじゃないのか? かえって事を厄介なものに変えてしまったんだぞ。あいつを狙う《奴ら》は数多い。しかも抜け出てくるようになったんだ、あの時みたいにまた喰われでもしたら――」
――奴のことは死神に任せてある。アレは死神に打ち勝つ事はできぬ。それよりも、貴様は生者の世界へと向かい、あの、冥府に近しい魂の傍におらねばならぬ。
 理由を聞いた紅蓮は、青白い光を取り戻した長剣を鞘におさめ、急いで冥府の奥底から姿を消した。
「急ぐぞ、ケルベロス!」
 冥府の入り口で、三つ首の番犬は、素直に紅蓮を背中に乗せて生者の世界へ向かった。

 魂の樹木には、青白く光る魂がたくさん、枝につりさげられている。死神はいくつかそれをもぎとると、青白い炎の中にまとめて放り込む。すると、魂は真っ白に輝いて、生者の世界へ向かって落ちて行った。
 死神は、樹木の中に入ってきた者に声をかけた。
――戻ッタカ。氷雪。
「浄化してくれ、もう耐えられん」
 かつて封印されていた男は、憔悴した顔で死神の傍に歩み寄る。死神は振り返り、その不気味な腕を氷雪の体に触れさせる。その体はどす黒くなっており、更に首筋から顎にかけて、その暗黒は広がっている。死神の手に体のどす黒さが吸収されていく。少しずつ、体は元の色に戻り始める。
「私に《奴ら》を浄化できるだけの力をくれ」
 氷雪は言った。
「このままでは、また喰われてしまう」
――ソレハ、デキナイ相談ダ。
「なぜ」
――冥府ガ貴様ニ守リノ枷ヲツケテイルトハイエ、貴様ニハ浄化デキヌ傷痕ガ残サレテイル。コノママ、貴様ニ新タナ力ヲアタエテモ、イズレ貴様ハソノ力ニ呑ミ込マレ、今度コソ完全ナ《獣》ニナルカモシレヌノダ。ソウデナクテモ、貴様ガ獣ノ浄化ヲ行ウタビニ、貴様ノ傷ハ深クナル一方ナノダゾ。
「なら冥府はなぜ私を目覚めさせたんだ。《カリビト》の助手がほしかっただけなのか?! 私を《カリビト》に出来ないのなら、それに匹敵する力を与えてくれてもいいだろうに。冥府の獣だけじゃない、私を直接狙う《奴》までも姿を見せたんだからな。己の身くらいは守れんでどうする」
――冥府ノ命令ハ一ツダケ。貴様ヲ目覚メサセルガ、《カリビト》ニハシナイ。ソレガ、冥府ノ言葉。
 氷雪は口の中で何やら不満そうなつぶやきをもらす。死神が腕を離すと、彼の体は元通りの、血色の悪い肌色に戻った。死神は、相手の考えを見透かすかのように言葉を投げてきた。
――冥府ハ、貴様ガ考エテイルホド、万能ナ存在デハナイ。
「神とは違うと言うことか」
――貴様ラガ神ト呼ブ《存在》カラ、冥府ハ役目ヲサズカッテイルダケ。冥府ニハ、手出シノデキナイコトモ数多イノダ。ソレヲ忘レルデナイゾ。冥府ハ何モシナイノデハナイ、出来ナイノダ。
「……その言葉、紅蓮にも投げてやれ」
 氷雪は青白い炎の燃える台座に歩み、その炎の中へと飛び込んだ。
 魂の樹木の周りに、冥府の獣とは違う、もっとまがまがしい姿のナニカが姿を見せる。死神が樹木の外に姿を見せるが、獣と違って退散しない。それどころか襲いかかってきた。だが死神が片腕をつきだすと、そのナニカから激しい煙が昇り、一瞬にして蒸発した。
――貴様ラニ喰ワセル魂ナド、ナイ。
 死神は、樹木の周囲に現れたナニカを、次々に蒸発させていった。
――紅蓮ノ過失ハ大キスギル。奴ダケデハ、コレダケノ連中ヲ浄化デキマイ。冥府ノ傷口ガコレホドマデニ広ガッテシマッタノダカラナ……。
 ナニカを完全に怯えさせるまで、死神は攻撃を続けた。やがて樹木の周りには誰もいなくなった。ナニカは逃げ出してしまったのだ。
――シバラクハ、ココヘハ来ナイダロウ。
 死神は枝から魂をもぎ取り、青白い炎の中へと投げ込んだ。浄化された真っ白な魂は、生者の世界へと旅立った。

(まただわ……)
 ヨランダはたびたび、紅蓮が傍を駆け抜けていくのを見るようになった。それは、赤い空間の現れる時刻にだけ限定されてはいるけれども。
(忙しそうね。まあいつもこんな調子なんだろうけど……)
 人々は、走っていく彼に気づくこと無く、道を歩いて行く。空が急に赤く染まり、その赤い空間から冥府の獣たちの気配があらわれた時、紅蓮は彼女の傍を駆けていく。獣の気配が消えると、紅蓮の姿も消えてしまう。なんだか紅蓮がヨランダ専属のボディーガードのようにも思えてくる。実際、ヨランダは何度か冥府の獣に目をつけられている。戦うすべがない以上、紅蓮に守ってもらうしかない。また冥府に落ちるのだけは嫌だ。いつかは彼女もそこに逝かねばならないとわかっているのだが……。
(そういえば、もう一人は――)
 黒い服を着た、血色の悪い男。あの目を見る限り、あの男も紅蓮と同じく冥府の住人のはず。だが、ちかごろ全く姿を見かけなくなった。冥府の中で休んでいるのだろうか。紅蓮と違い、あの男に、ヨランダはどこか惹かれているのに気が付いていた。初めて会ったときから。いや、恋愛ではない。これは全く違うのだ。理由は分からないが、あの男が身近な存在であるようにも感じる。なぜなのだろうか。だが、ヨランダは相変わらず、それ以上追及しようとはしなかった。
 別の変化も現れた。紅蓮が彼女の周りに現れるようになってから、彼女は頻繁に事故にまきこまれそうになったのだ。青信号の交差点を渡っている時に、いきなり離れた場所から自動車がつっこんできたり(運転手はなぜアクセルを踏んだのか分からないと言うとぼけた回答を警官にしていたけれども)、工事現場の傍を通れば上空から鉄骨が降ってきて危うくつぶされそうになったり……。
「一体どうなってるの。アタシには疫病神がついてきたのかしら」
 ヨランダがこの災厄に襲われるようになってから、二週間ほど経過した。五月になり、少しずつ日中の気温が上がって汗ばむ陽気になる。衣替えの季節はもうすぐだ。去年彼女がデザインした案が採用されて、今年の夏服にそれが店頭に並ぶ。それを見るのが彼女の楽しみなのだが、今は楽しむ気分ではなかった。周りで起きる謎の現象。最初は運が悪かったと思っていた彼女だが、次第に、「自分の命を狙っているのではないか」と疑い始めていたのだから。気に病みすぎるのはよくないとわかってはいたが、彼女は外出を控えるようになった。仕事には行くが、休日は外に出ずに家の中で過ごした。
 そんな日が続いたある日。雨の中、彼女は家に帰る途中だった。今日は残業で遅くなってしまった。
「ついてないわねえ! こんな忙しい時に案がボツにされちゃうなんて。ほかのアイディア考えるのだって結構時間かかるのに、もう!」
 どしゃぶりの雨は弱まっていた。傘をさしていた彼女だが、いったん店の軒下に入って傘の雨を払い落す。雨は小雨になっていく。
(あ)
 店の向かい。紅蓮がいる。何かを探しているのか、左右を見回している。しかも切羽詰まった表情で。何を探しているのだろうか。冥府の獣ならば、そろそろ空から降りてくるころなのだが。
 急に紅蓮が車道を振り返る。ヨランダはつられて車道を見る。ちょうど、青信号になったばかりで、人は動き始めたところだ。彼女の正面には横断歩道があり、人々がわたって行くのが見える。車は止まっている。紅蓮は何を見ているのだろうか。車道のどこをみているのだろう、いや、車道ではなくて向かいの道路の建物だろうか。紅蓮の頭の向きを見ると、どうやら彼女から見て左側の車道を見ているようだ。車道が混んでいるほかは特に何も気になるところはない。車が大人しく止まっているだけだ。
 紅蓮が不意に走り出した。走りながら聞こえた鋭い指笛。空から、ケルベロスが赤い炎をまとって降りてくる。同時に横断歩道の信号は変わり、赤になる。代わりに車道の信号は青になり、車が走り始めた。
(何か見つけたのね。でもアタシは帰らなくちゃ……)
 これ以上ここにいると、また冥府の獣に襲われるかもしれない。雨もやんだのだ、さっさと帰らなくては。だが、彼女の住むアパートは、この横断歩道の向こう側。どうしても渡らなくてはならないのだ。しかも信号は変わったばかり。しばらく待たなくてはならない。紅蓮とケルベロスは車の群れの中へ飛び込んで行ったきり、姿を見せない。その方向をずっと見ているうちに信号が変わり、横断歩道に歩行者があふれ出る。
「急ごう……」
 ヨランダは横断歩道を渡った。
 周りが急に赤くなった。同時にあの冥府の獣の気配。
「うそ、こんなところで――」
 だがすぐに赤い空間は消え、彼女は横断歩道の真ん中に立っていた。
 横断歩道の信号は、とっくに赤に変わっていた。
 左から冥府の獣の気配を感じ取ると同時に、彼女の体は強い衝撃を受けて、宙を舞った。


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