第2章 part2



 意識が戻った時、ヨランダの目の前は闇と青白い光とに覆われていた。焦点が合ってこない。だが少し経つと、周りの景色がはっきり見えるようになり、続いて音も聞こえ始めた。闇と青白い光、そして後ろから感じ取れる炎のような熱さ。獣の息遣い。
 ヨランダは体を動かす。だるい。気力を振り絞ってなんとか起き上がり、座る。後ろにいる熱い何かが彼女の前にゆっくりと姿を見せる。三つ首の犬。
 ヨランダはまた冥府の入り口に倒れていたのだった。
「何があったの……?」
 なぜここにいるのだろう。ぼんやりした頭を精いっぱい働かせ、記憶をたどっていく。仕事の帰り、横断歩道を渡っている最中に突然赤い空間があらわれた。だがその空間はすぐに消え去り、気が付いた時、信号が赤に変わった状態の横断歩道に立っていた。そして、左側から感じた冥府の獣の強い気配を感じ取ると同時に――
「まさか、車にはねられたの?!」
 最後に覚えているのは強烈な衝撃と痛みだけ。だが今はそれがない。当たり前だ、ここは冥府。魂の来る場所なのだから。
「じゃあ、アタシは今度こそ本当に死んじゃったの?!」
「まだまだ」
 声が聞こえてきた。ヨランダは座ったままの状態で、声の聞こえたほうを見る。ケルベロスも首の一つをそちらへ向ける。少し離れたところに、男が立っている。紅蓮ではなく、黒服を着た青髪の男だ。
「あんたの肉体は自動車にはねられ、病院に担ぎ込まれて手術中なんでね、意識の無い間、不安定な魂がここに来ているだけだ」
 冷たいハスキーボイスで、男は言った。ヨランダは目を丸くした。
「やっぱりはねられたんだ……でも、アタシはまだ死んでいるわけじゃないのね」
 ほっとした。自分でも驚くほどすんなりと現状を受け入れている。ケルベロスは彼女の体にその大きな頭をこすりつけてきた。尻尾を振っているところからすると、嬉しいのだろうか。
 ヨランダはケルベロスの鼻を押しのけて男を見る。
「そうだ、あなた誰? 前に助けてくれたことあったでしょ」
 上から降ってきた声が、応えた。
――氷雪。無駄話はそれまでだ。ケルベロス、その魂を死神の元へ運ぶがよい。
「……」
 氷雪は答えなかったが、ヨランダに手を差し出した。立てと言うことか。ヨランダは手をとったがすぐに手を離してしまった。なぜってその男の手はまるで氷のように冷たかったからだ。
「あっ、ごめんなさい……」
「いや」
 氷雪は気を悪くした様子も見せなかった。ヨランダはその手の冷たさを我慢してやっと立ち上がる。ケルベロスが彼女の後ろにその大きな顔をあてて背中から支えた。が、すぐに襟首をくわえて自分の背中に乗せた。相変わらず熱い毛皮だ。
「走れ。《奴ら》が来る前に」
 氷雪はケルベロスに背中を向けた。ケルベロスは素直に走り出した。
 三つ首の犬が姿を消した後、氷雪の周囲を、冥府の獣が取り囲んだ。だが氷雪はあわてもせず、銀の輪がつけられた両手を獣に向けた。腕を一振りすると、獣はすべて一瞬にして蒸発したが、代わりに彼の体は闇色にそまりはじめた。
「まだ、来るか……!」
 体が黒く染まっていく中、氷雪はさらなる闇をにらみつけた。そこには、不気味に光る眼が二つあった。

 魂の無数につり下がる枝。魂の樹木の傍に、死神はいた。ヨランダは、ケルベロスの背中からおろしてもらう。死神は、布の下から不気味な赤い目を彼女に向ける。
――マタ戻ッテキタノダナ……。
「戻ってきたくなかったわよ、こんなに早く」
 二度目の来訪ゆえか、ヨランダは驚くほど早く冥府に順応しつつあるのに気が付いていた。
「早く戻りたいわ、病院のベッドの上でもいいから。ねえ、あの時みたいに通してちょうだいっ」
「着いた……」
 くたびれきった声が後ろから聞こえ、ヨランダは振り返った。
 離れたところで、刃のどす黒くなった長剣に身をもたせかけるようにして、紅蓮がやっと立っていた。だがその姿は何かと格闘したかのようにボロボロで、体のところどころに黒ずんだ裂き傷ができている。そして、その肩には、ぐったりとした氷雪をかついでいる。
「くそぉ、群れで襲ってきやがった……」
 死神が音もなく歩み寄り(?)、紅蓮の方へ片手を向ける。すると、氷雪の体がふわりと浮いた。その際に見えたが、あおむけになった氷雪の体は、どす黒く染まっている。続いて紅蓮に手をもう一度向けると、今度は紅蓮も浮き上がった。
――冥府ニ近シキ魂ガ二ツモアルノダ。襲ワレテモ不思議デハナイ。
 魂の樹木の内部。樹木の根を変形させて作りあげた簡素なテーブルの上で、死神は二人の男と長剣から黒い何かを手の中に吸収し始めた。死神がその黒いものを吸収すればするほど、氷雪の肌の色は明るくなり、紅蓮の傷はふさがっていく。どす黒い長剣は少しずつ青白い光を取り戻していく。
「何をしているの」
 ヨランダの問いに、死神は答えた。
――傷痕ヲ癒シテイル。コノママデハ、冥府ノ獣ニ変ワリハテテシマウ。
 冥府の獣の気配。外から、ケルベロスの唸り声が聞こえた。同時に長剣が青白い輝きを取り戻す。だが紅蓮の傷は治り切っていない。目を閉じたまま、死神の治療に身を任せきっている様子。先に目を開けたのは氷雪の方だった。
「また来たのか」
 面倒くさそうに起き上がり、樹木の壁を通り抜けて外へ出て行った。
「ねえ、あの人は一体誰?」
 ヨランダはその背中を見送った後、死神に問うた。
――アレハ、貴様ト同ジ、冥府ニ近シキ魂。本来ハ永遠ニ封印セネバナラナイノダガ、冥府ノ命令ニヨリ、封印ヲ解イテイル。
「どうしてアタシを助けてくれたの?」
――コレモ、冥府ノ命令。貴様ヲ獣カラ守ルタメ。紅蓮ダケデハ、モハヤ手ニ負エヌトコロマデ、獣ドモハ解放サレテシマッテイタカラダ。
 ちょうど紅蓮の傷が完治し(血糊のついた胸元の傷はそのままであったが)、起き上がった。
「また来たのか!」
 だが飛び出るより先に、氷雪が中に戻ってきた。顔色が悪くなっている。
「終わった。浄化してくれ」
 言われなくとも、と死神は手をかざす。すると、氷雪の体でうねる不気味な闇が死神の手に吸い上げられた。
「獣が増えた。まあ、餌がここに二人分もあるのでは、仕方がないだろうな」
 外から聞こえる不気味な声。紅蓮は長剣を素早くひっつかみ、外へ走った。ケルベロスの唸り声が聞こえてくる。
「私も行った方がいいか?」
 死神に聞く氷雪の表情は、どうやら出るのを嫌がっているようである。死神は目を伏せて(いるようにも見えた)から、言った。
――ヤメテオケ。今ノ貴様ハ、傷ガ深クナリスギテイル。
「ありがたいな」
 氷雪は根っこの一つに腰をおろし、深くため息をついた。黒い服の隙間から見える血色の悪い肌は、浅黒くなっている。しばらくして紅蓮が戻ってきた。今度は長剣の刃が少し黒くなっている程度で、怪我はしていない。死神がその刃から闇を抜き取ると、長剣は再び光り輝いた。
 紅蓮は、隅に立っているヨランダにやっと目を止めた。何かを言いかけて口を開き、がっかりした表情になり、肩を落としてため息をついた。
「……冥府の炎の洗礼を受けていないのが唯一の救いか」
――生死ノ境ヲ彷徨ッテイル状態。生者ノ世界ノ者ハ、コノヨウニ言ウノダロウ?
 死神はヨランダに近づいてきた。ヨランダは思わず一歩下がった。死神の赤い目が彼女の目を捉えると同時に、彼女はその赤い瞳に吸い込まれていくような不思議な感覚に支配された。意識が戻ったとき、死神はいつの間にか彼女の傍から離れていた。
――獣ニハ、魂ヲ傷ツケラレテハイナイ。紅蓮ノ攻撃ニ妨害サレタタメノヨウダ。
 死神の言葉に、紅蓮はふーっと安堵のため息をついた。
「よかった……」
「私の二の舞にはならなかったか」
 氷雪はつぶやいた。
「とにかく、《奴ら》にこれ以上の力を与えることは阻止できたわけか」
「《奴ら》ってなあに?」
「冥府に近しい魂を喰った獣どもだ。生者の心や体に干渉して好きなように操り、魂を奪い取ろうとする。貪欲に生者を襲うだけのただの獣じゃない、知恵を持ち確実に魂を狙う忌まわしい《奴ら》だ」
 話す氷雪の口調に怒りがこもっている。
「あんたを冥府に追いやったのも、《奴ら》の仕業だ」
 ヨランダは目を丸くするばかり。どうも話がわからない。だが、頭の中を何とか整理しようと努める。生者に干渉して思いのままに操る獣。そういえば最近、よく事故に巻き込まれそうになった事があったが、もしかすると獣たちの仕業だったのだろうか。
「うん、そりゃ《奴ら》の仕業だ」
 紅蓮は大きく息を吐いた。
「俺はそいつらを見つけ出すために、お前の周りをあちこち走り回ってた」
 なるほど、それで紅蓮の姿を頻繁に見かけるようになったわけか。
「まあ、事故を防げなかったのは悪かったが……」
 紅蓮の視線がヨランダからそれていく。たぶん、運転手を操っていた獣を見つけた時にはもう遅かったのだろう。事故を防ぐことは出来なかったが、ヨランダの魂が獣に食われることだけは防げたということか。
「でもアタシはまだ死んでないのよね?」
――死ハ迎エテオラヌ。ダガ、貴様ハ極メテ不安定ナ状態デイル。貴様ガ生者ノ世界ヘ戻ルカ、ソレトモ冥府ニテ浄化サレルカ、ソレヲキメルノハ、冥府自身。我々ガ決メルコトハデキヌ。
「冥府が決めるって、それって、冥府の決定次第では、アタシが本当に死んでしまうかもしれないって事?」
――サヨウ。
 前回ここへ来た時は、彼女は冥府の獣に傷つけられたために、特別に生者の世界へ戻してもらった。だが今回は事故によってここへ来ている。前回と今回は全く違うケースだ。冥府の判断次第で、ヨランダは本当に死んでしまうのだ。
 重くのしかかってきた、死という現実。
「そんな、そんな……」
 ヨランダは震え、へたりこんでしまった。
 気持ちが落ち着くまでどのくらい経ったのだろうか。泣きはらした目を上げると、いつのまにか紅蓮も氷雪もいなくなっていた。死神の姿もない。生者の世界へ戻る時に飛び込んだ、魂の樹木の内部で燃え盛っているはずの青白い炎は、どこにも見当たらなかった。
 ヨランダは涙を拭いて立ち上がった。さんざん泣いて、気持ちは少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
(まだ死にたくない。冥府が全てを決められるなら、冥府にかけあえば何とかしてもらえるかもしれない!)
 彼女が生きて帰れるか、それとも冥府の炎で浄化されて他の何かに生まれ変わるのかは、冥府が決めること。何とか冥府を説得できないだろうかと思いながら、彼女は樹木の外へ出てみた。変わらぬ冷たさと静けさ。自分の周囲が、青白い魂の光でやっとわかる程度。魂たちが青白く輝き、魂の樹木の枝にたくさんつりさげられている。一つ一つをよく見ると、輝き方が皆ちがっている。綺麗だけれど、じっと見つめていると本当にひきこまれてしまいそうな、不思議な輝き。どんな宝石にもこんな輝きは出来ないだろう。ヨランダはしばらくじっと見とれていた。
 背後から聞こえた足音。彼女は振り返った。
 憔悴した顔の氷雪がゆっくりと歩いてくるところだった。

 冥府の奥底。
 紅蓮は顔を上に向け、言った。
「お前のことだ、もう決めてあるんだろ、冥府。あの、冥府に近しい魂をどうするか」
――……。
「このまま生者の世界に帰しても、また《奴ら》に目をつけられる。かといって浄化しても、冥府に近しい限り《奴ら》は狙ってくる。ならばこの冥府の世界にしばらくとどめておく。そうすれば獣も《奴ら》も生者の世界にあまり逃げなくなってくる。そこを一網打尽にして数を一気に減らす。それから改めて生者の世界に帰すなり浄化するなり、お前の好きなようにする。そうじゃないのか?」
 低く笑うような音が、上から降ってきた。
――少しは頭を使うようになったのだな、紅蓮。
「今しゃべったのは、全部俺の思いつきなんだけどな。が、今の言葉を聞いた限りじゃ、お前はそれをやる気でいるみたいだな」
 また、低く笑うような音が上から降ってきた。
「で、氷雪をまだ起こしておくつもりなのか? 生者の世界であの魂を守るために目覚めさせて視力と浄化の力を与えたんだとばかり思ってたんだが。あの浄化の力は使えば使うほど自分の身にかえってくるからなあ。俺だって、よほどのことがないと使わないのに、あの野郎、自分にダメージがくるのにも構わずに使い続けてやがる。さっきみたいに、《奴ら》にすら立ち向かおうなんて無謀なことまでやろうとするんだからなあ。獣のように浄化できない《奴ら》を相手にしたって、ただ喰われるだけだってのがわかってねえんだろう。……やろうと思えばお前は強制的に眠らせることもできるはずだしな、それをしないってことは、まだこの冥府の中で使い道があるってことなんだろ? お前のことだ、用がなければ、傷の広がりを防ぐためにまた封印するはずだしな」
 冥府は答えなかった。
「はん、図星かよ」
 答えは、低く笑うような音だけであった。
「氷雪が獣に変わっても知らないぜ。もっともその時はお前が手を下すか、俺が奴を狩ることになるんだろうけどな」
――愚かなる紅蓮。我は、貴様らが生者の世界へ転生するよりも遥かな昔に、《意思》によって作り出された傀儡にすぎぬ。我は《意思》より役目を授かっているだけの存在。貴様の考えるほど我には力がないのだ。
 紅蓮は眉をひそめた。
「《意思》?」
――貴様らの言葉で《神》という単語が、一番近い呼び名であろう。我が《カリビト》をこれ以上産み出すことが出来ぬのも、《意思》の決めたこと。我は《意思》には逆らえぬ身なのだ。貴様がどれだけ罵詈雑言を我にあびせようともな。
「逆らうつもりはないのかよ」
――愚問。《意思》には、決して逆らえぬ。《意思》は絶対たる存在。
「神には逆らえないってか」
 冥府は答えなかった。

 ヨランダの傍まで歩いてきた氷雪は、急に倒れ込んだ。だが、すんでのところで木の幹にやっとつかまり、倒れるのを防ぐ。
「あ、あの、だ、大丈夫……?」
 それを言うのが精いっぱいのヨランダ。氷雪は彼女など眼中にないかのように、あえぎながらもシャンと立ちなおし、樹木の中へ入っていく。ヨランダが後を追うと、彼は死神に体内の闇を吸い出してもらっているところだった。あの闇はいったい何なのだろう。吸い出し終わると、体はまた血色の悪い肌色に戻る。
「少し眠らせてくれ……さすがに苦しくなってきた……」
 死神の不気味な腕が光ると、氷雪の体はあの青白い水晶に包みこまれた。水晶は木の幹に埋め込まれ、氷雪はその中で目を閉じていた。
「どうして眠ったの? 今は夜じゃないはずだけど」
 ヨランダは、弱弱しい光を放つ大きな水晶を見上げる。死神は水晶の傍から離れた。
――氷雪ハ、魂ノ傷ヲ癒スタメニ、眠リニツイテイルダケ。今ガ夜カドウカハ、関係ナイ。コノ冥府ニハ、時間トイウ概念ガ存在シナイノダカラ。
「傷? 疲れているだけじゃないの?」
――奴ガ獣ヲ浄化スルタビ、ソノ力ハ奴ヲ傷ツケテイル。ソノ傷ヲ癒スニハ、眠ルノガ最モ手ッ取リバヤイノダ。ツカレテイルノデハナイ。
 ヨランダは、幹に埋め込まれた水晶をもう一度じっくり眺めてみる。水晶の中で眠る氷雪の両手と両足につけられている銀の輪がぼんやりと光を放って、彼の体を照らし出している。
「あの輪はなに?」
――冥府ガ奴ヲ封印スル時ニツケタモノ。守リノ枷。
「枷?」
 冥府が氷雪を封印する前につけさせた、守りの枷。冥府の力を凝縮したそれをつけている限り、己の傷を徐々に癒していくことは出来るが、代わりに浄化の炎を浴びても転生できない。
「傷って、どこか怪我してるの?」
 傷と聞いて、ヨランダの頭の中に浮かんだのは、紅蓮の、派手に破れた迷彩服。あそこは血の色で染まっている。死神は彼女の考えを読みとったようで、
――氷雪ハ、魂ニ傷ヲ負ッテイルノダ。
 急に彼女の額にその手を伸ばしてきた。

 目の前が真っ暗になった。
 何かが燃えている音がする。何かがガラガラと倒れてくる音も聞こえる。だが、目の前には何も映らない。真っ暗で何も見えてこない。音は聞こえ、衝撃は伝わってくるのに、何も見えない。
 不意に、何かが体に乗った。そして不気味な唸り声をあげた。
 正体のわからない激痛が体を襲った。
 それきり、何も分からなくなった。音も聞こえず、何の衝撃も感じ取れなかった。

 死神の手が、目の前に見えた。
 ヨランダは悲鳴を上げていたらしかった。口を大きく開けて、肩は大きく上下し、ぜえぜえと荒く呼吸していたからだ。
「い、今のは――」
 彼女はその場にへたり込んでしまった。死神は彼女を見下ろした。
――奴ノ肉体ガ死ヌ直前ノ記憶。奴ハ、冥府ノ獣ニ、生キナガラニシテ喰ワレタノダ。
 冥府の獣に喰われた?
――魂ガアトスコシデ完全ニ喰ワレソウニナッタトコロデ、紅蓮ガ奴ヲ助ケタ。ダガ、魂ノ傷ハ、冥府ノ炎ノ洗礼ヲ受ケテモ癒エヌモノ。奴ハ、冥府ノ炎ノ洗礼ニヨッテ生前ノ記憶ヲ失ッタガ、肉体ノ死ノ直前ノ記憶ダケハハッキリト憶エテイル。冥府ハ、奴ノ傷ガ広ガルノヲ防グタメニ、奴ヲ封印スルコトニシタノダ。奴ガ冥府ノ獣ニナリハテテシマワヌヨウニ。封印サレテカラ、傷ハ徐々ニ癒エテキタ。ダガ、傷ハ完治スルコトハナイ。冥府ノ獣ガ残ラズ狩リ尽クサレヌカギリハ……。
 冥府の獣が一匹残らず狩り尽くされる時。おそらくそれは、生者の世界が存在する限り永遠に来ないだろう。
――奴ヲコノママ転生サセテシマッテモ無意味。魂ニ付ケラレタ傷ノ記憶ガ、前世ノ記憶ト冥府ノ記憶ヲ呼ビ起コスカラダ。
「記憶が呼び起こされると、なにか不都合でもあるの」
――冥府ノ獣ドモガ、生者ノ世界ニアル冥府ノ力ヲ持ツ魂ヲモトメテ、喰オウトスルノダ。前世ノ記憶ト冥府ノ記憶ヲモッテイル者、アルイハ冥府ノ存在ヲ見ルコトノデキル者、ソレヲ我ラハ、冥府ニ近シキ魂ト呼ンデイル。極マレデハアルガ、冥府ニ近シキ魂ハ、浄化ノ炎ヲクグッテモナオ、冥府ノ力ヲモッテイルノダ。獣ドモハソノ冥府ノ力ヲ喰ッテ、生者ノ世界デ魂ヲ直接喰ウツモリナノダ。冥府ノ存在ガ、生者ノ存在ニ直接フレラレルヨウニナルカラダ。
「冥府に近しき魂……」
――貴様モ、冥府ニ近シキ魂。
「えっ、どうして?」
――貴様ハ、生者デアリナガラ、冥府ノ獣ヲ見ルコトガデキタデハナイカ。ソシテ、貴様ハ、二度目ニココニ来タトキ、冥府ノ炎ノ洗礼ヲ受ケテオラヌガ、我々ノ言葉ヲ理解デキルデハナイカ。
 そう言われればそうだ。ヨランダは冥府の獣が町中を走りまわるのを見ることができた。そして、最初に冥府に来る前は、紅蓮の言葉も冥府の言葉も分からなかった。だが、冥府の獣に傷を負わされて冥府の力を注ぎこまれてから言葉がわかるようになった。それから浄化の炎に寄って生者の世界に戻り、今度は事故によってこの冥府に戻ったわけだが、冥府の洗礼の炎を浴びていないのに(いつ浴びるのかわからないのだが)、彼女は紅蓮や氷雪、死神や冥府の言葉を理解できている。
――ソシテ、冥府ニ近シキ魂ハ、冥府ノ獣ドモノ好物。貴様ハ、獣ドモニ狙ワレタコトガアルハズダ。チガウカ?
「ええ、確かに狙われたことあるわ、一度傷つけられもしたし。でも、それまでは獣たちはみんなアタシを避けていたみたい」
――獣ドモハ、貴様ガ本当ニ冥府ニ近シキ魂ヲ持ッテイルカドウカ、観察シテイタノダ。ソシテ貴様ガ冥府ニ近シキ魂ヲ持ッテイルトワカルト、トタンニ、襲撃ヲ開始シタ。ソウナル前ニト、冥府ガ紅蓮ニ命令ヲアタエ、貴様ヲデキルカギリ守ラセタノダガ……。
 結局彼女を守りきることは出来なかった。一度目は傷つけられ、二度目は事故で冥府に送られることになった。
 完全にヨランダが事情を飲み込みきるまでに、ずいぶんかかった。それが完了してからも、混乱の残った頭で、ヨランダは言った。
「冥府の獣にずっと狙われていたアタシがこの冥府にいるってことは、猛獣の檻に生肉を投げ込んでやるのと同じことじゃないの!」
――ソノトオリ。冥府ノ獣ドモハ、貴様ヲ狙ッテ、姿ヲアラワシハジメテイル。貴様ハ、コノ魂ノ樹木カラ外ニ出ヌ方ガヨイ。
「どうして」
――冥府ノ獣ドモニ、喰ワレタイカ?
 シンプルな言葉だったが、ヨランダには効き目抜群だった。
 魂の樹木の外では、死神の言葉を裏付けるかのように、無数ともいえる数の冥府の獣が、周りを取り囲みつつあったのだ。
 死神が樹木の外へ出ると、獣たちの半数はひるんで逃げたが、残りは襲いかかってきた。だが、死神が腕をさっと振るだけで、襲ってきた獣は皆、蒸発した。
「何あの数……」
 樹木の割れ目から外を覗いたヨランダは身震いした。あれだけの数、見たことがない。いつも見てきた冥府の獣たちは、多くてもせいぜい十匹程度だったはず。だがあれは――
「あんなのに襲われたら命がいくつあっても足りない――」
 一瞬で爪と牙の餌食になることは、わかりきったことだ。死神の言うとおり、ヨランダはここから外に出られそうにない……。


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