第3章 part1



 病院。
 手術室の中で、ヨランダは、意識の無いまま、寝台に横になっている。外科医が彼女の周りを囲み、手術をしている。冥府の獣は彼女の周りには集まっていなかった。
 冥府の獣たちは、彼女の魂のありかを探しに、冥府まで戻って行ったのだ。

 魂の樹木。
 死神は、襲ってくる冥府の獣を一瞬ですべて蒸発させた。それから魂を枝からもぎ取る。樹木の中に入り、青白く燃え盛る炎の中に放り込むと、魂は皆生者の世界へ向かっていった。
「帰りたいわあ」
 ヨランダはぽつりとつぶやいた。彼女は先ほどその青白い炎に触れようとしたのだが、炎は彼女の手が近づいた途端に、いきなりかき消えてしまった。まるで彼女に近づかれるのを嫌がっているかのように。
――冥府ガ貴様ノ処置ヲ決メルマデハ、貴様ハココカラ出ルコトハデキヌ。
「それはわかってるけど……」
 しばしの沈黙。
「なんでかな、なんだか疲れが……」
 急にヨランダはだるさを感じた。体から力が抜けてきたような、虚脱感に襲われる。続いて訪れる寒気。服の上からではなく、体の中からその寒さが忍び出てきているような、よくわからない寒気だ。
「寒い……」
――冥府ノ獣ノ力ガ、貴様ノ内部ニ入リコミ始メタノダ。
「さむ……」
 ヨランダは死神の言葉を聞いていなかった。寒気が全身へ広がり、急速に体が冷え込んでしまった。身震いを始めた彼女の方へ、死神はその不気味な腕を向けた。すると、彼女の体は赤い光で包まれる。冷えていた体はあっという間に温かくなった。
「ありがとう……」
 ヨランダはほっとした。
――冥府ノ獣ドモガ、マタアラワレタヨウダナ。貴様ノ中ニソノ力ガ入リコミハジメテイルノダカラ。
 死神は足音も立てず、樹木の外へと向かった。
 外から聞こえてくる、何かの悲鳴と蒸発音。死神が、冥府の獣を倒しているのだろう。温かな光に包まれたヨランダはしばらく音を聞いていた。一体どのくらいいるのだろう。さっきは、百匹以上あるいはそれ以上いた。今度はもっとたくさん来ているのかもしれない。この木の外に出たら最後、彼女は間違いなく喰われるだろう。身を守るすべのない彼女は、この木の中で死神に守られているしかない。早く冥府が生者の世界に帰してくれないだろうか。こんな寂しい世界にいつまでもいたくない。
 死神が戻ってきた時、ヨランダは問うた。
「ねえ、冥府と話をするには、どこに行けばいいの? それとも、ここから声は届くの?」
――冥府ハ冥府ノ望ム時ニ、言葉ヲ発スルノミ。貴様ノ声ハ、冥府ニイルカギリ何処ニイテモ届ク。ダガ、冥府ガ貴様ノ言葉ニ対シテ返答スルカドウカハ、冥府次第。イツデモ話ヲシタイトイウノナラバ、冥府ノ奥底ヘ向カウシカアルマイ。
「冥府の奥底?」
――アレハ、冥府ノ意識ノ集合体トモイエル場所。ダガ、《カリビト》デナケレバ、行クコトハ出来ヌノダ。
「……《カリビト》?」
 死神の説明によると、《カリビト》とは、冥府が魂の中に直接その力を注ぎこんで生み出す、冥府の一部のような存在であるという。魂は浄化の炎をくぐり抜けて、生者の世界で新しい生命となる。だが冥府の一部である《カリビト》は浄化の炎をくぐることも触れることもできないので、冥府の入り口から生者の世界へ向かうしかない。その代わり、冥府の獣や《奴ら》と対等に戦う力を持ち、冥府の傷口から抜け出す者たちを狩ることができる。その名の通り、冥府にかわって獣を《狩る》ことこそ、《カリビト》の役目なのだ。
――冥府ノ奥底ハ、冥府ノ一部分トモイウベキ《カリビト》デナケレバ、タドリツクコトハデキナイ。冥府ノ奥底ニ接触デキルノハ、《カリビト》ノミ。魂デアル貴様デハ、無理ナノダ。
「あなたも行けないの?」
――行クコトハ、許サレテハオラヌ。
「どこに冥府の奥底があるかは知ってるんでしょ、行くことを許されてないってことは」
――知ッテイル。ダガ、行クコトハデキヌ。タトエ、《カリビト》トトモニ冥府ノ奥底ヘ向カッタトシテモ、タドリツケルノハ《カリビト》ダケナノダ。他ノ者ハ、コノ冥府ノ内部ニ戻サレテシマウ。ダカラ、冥府ノ元ヘ行クコトハデキヌ。
「……」
 冥府に直接話してみようと思ったが、これでは無理だろう。たとえ彼女と死神の話が全て冥府に筒抜けであったとしても、ヨランダとしては、直接冥府と話が出来る方が良かった。自分をどうするつもりなのか、その答えを聞きたかった。
「残念だわ……」
 ヨランダは、根っこのひとつに腰を下ろした。
――貴様ハ、獣ノ力ヲ受ケテ消耗シテイル。少シ、眠ルカ?
 死神の言葉に、ヨランダは疲れている事に気が付く。冥府には会えない、分かった途端に、急に疲れが襲ってきたのだ。
「でもここ、ベッドなんかないわ……」
 死神が手を差し伸べると、温かな光に包まれたままの彼女は、もう目を閉じていた。
 紅蓮が、今にも倒れそうなほど疲れた顔をして、脚を引きずるようにして樹木の内部に入ってきた。全身に黒い裂き傷がつけられ、持っている長剣の刃はどす黒くなっている。死神は、紅蓮の傷を癒してやり、刃から闇を吸収した。紅蓮は、赤い光に包まれたまま眠っているヨランダに目をやる。
「消耗したんだな、無理もない。冥府の炎を浴びてない上に、獣どもがうろうろしてる。生者の世界の力が残ってるんじゃ、疲れて当たり前だな」
――心配ハ要ラヌ。コノ樹木カラ外ヘ出ナイ限リ、コノ魂ハ安全……。
「わかってる」
 それから紅蓮は、樹木の壁に埋め込まれている、大きな青白い水晶を見上げる。夢なき眠りについている氷雪の体には、守りの枷から漏れ出る光が入り込み、傷を少しずつ癒している。魂の樹木からも冥府の力が入り込み、氷雪の傷をゆっくりと癒している。
「……あれだけ永く眠ってやっと癒えてきた傷がまた開いたんだな。冥府が眠らせたのか?」
――奴ノ意志。奴ハ己ノ限界ヲ知ッテイル。……マダシバラクハ、目覚メサセルツモリハナイ。コレ以上浄化ヲ続ケレバ、奴ガ獣ノ力ニ呑ミ込マレル。フサガリカケテイタ傷モマタ口ヲ開ケテイルノダカラナ。
 黒くなっていた刃が完全に青白い輝きを取り戻した。紅蓮の傷も完全に癒される。彼は長剣を背中の鞘におさめた。
「傷口に近づく獣はあらかた仕留めた。傷口に思いっきり浄化の力をたたき込んで応急処置をしておいたから、しばらくは《奴ら》は動けないだろうな。おかげで疲れた、少し休ませてくれ。冥府の奥底だと、冥府がうるさくて休めやしない」
――構ワヌ。
 紅蓮はその言葉に甘えた。彼の姿はドロリとした不気味な黒い塊に変化し、不規則に脈打つ球体となって、死神の手の中におさまった。この脈打つ闇色の球体こそが《カリビト》の本当の姿。青白い輝きを放つ魂とは全く反対の、冥府の色に染まったもの。魂にして魂にあらざるもの。
――眠ルガヨイ。休息ヲ得ラレルノハ、今ダケナノカモシレナイノダカラ。
 死神は新たな魂をたくさんもぎとって、炎の中へと投げ入れた。魂たちは炎の中をくぐり抜け、生者の世界へと旅立っていった。

 冥府はうごめいていた。
 冥府の一部には、大きな傷が付いている。過去、獣によって傷つけられ、そこからほかの獣たちが一斉に生者の世界へ向かって飛び出していった。今でもそこには、多数の獣たちがたむろしている。隙あらば逃げ出そうと、群れをなして傷口をにらみつけている。だが今は、獣たちは遠くにいる。紅蓮が傷口を浄化し、近づく獣たちをことごとく浄化させているからだ。浄化の効果はいつまでも続くわけではない、力はいずれ弱まってしまう。だが弱まるまでの間ならば獣たちが生者の世界へ向かうことを止めることが出来る。一方、浄化の力をありったけ注ぎ込んだために紅蓮は大幅に消耗してしまい、撤退した。
 冥府は、つけられた傷を癒すために、少しずつ力を送りこんでいる。だが全ての力を傷の治癒にあてるわけにはいかない。死の世界の秩序を保つためには、一か所にだけ力を注ぎこんではならないのだ。傷を癒すことが出来ても、今度は冥府の別の個所が弱体化して、獣はそこを狙う。魂の樹木を守る死神が獣たちに敗北するかもしれぬ。冥府が冥府であるために、《意思》から命じられたことは山ほどある。そして冥府は、《意思》には絶対に逆らえない。
 冥府の入り口でケルベロスによって洗礼の炎を浴びる魂たちは、いくつかは素直に樹木へ向かって飛んでいく。標識もないし、どこへ行けと指図する者もいないのに、魂たちは、魂の樹木のありかを知っている。だがまれにそこへは飛んで行かない魂もある。それはやがて冥府の隅にたどりつき、魂の持つ生への執着が形となってその魂の姿は醜い獣となる。
 冥府の炎を浴びて、生者の世界の記憶をすっかり失った魂たちは、魂の樹木にたどりつくと、自ら枝につりさがる。それから、死神が魂を枝からもぎとって、樹木の内部で燃え盛る炎の中に投げ込む。冥府の力はこの炎で浄化され、魂たちは生者の世界へ戻り、新しい生命として生まれ変わるのである。しかし極めて稀に、冥府の力が完全に浄化されない魂が存在する。それが、冥府に近しき魂だ。生者の世界でごくふつうに暮らすことのできる存在だが、例外なく、冥府の力を持つ者を見たり感じとったり、前世の記憶を持っていたりする。冥府に近しき魂は他の魂と同様、肉体の死後に冥府に戻ってくるが、冥府の洗礼の炎と浄化の炎を浴びて転生を繰り返すうちに、冥府に近しき魂に残る冥府の力は少しずつ弱くなっていき、最後には普通の魂になる。だが別の魂が冥府の力を少し残したまま生者の世界へ旅立つので、冥府に近しき魂の数は減らないが、増えることもない。常に一定数だ。獣に喰われてしまっても、別の魂が、冥府に近しき魂となるだけ。獣がどれだけ増えようとも、冥府に近しき魂の数は絶対に変わらないのだった。

 ヨランダは目を覚ました。自分の体は、温かな明るい光に包まれたまま。ここは冥府の中、病院のベッドではない……。それを思い出し、彼女はため息をついた。まだ冥府は彼女の処置を決めていないのだ。
 明るい光は消えてしまった。立ち上がる。どのくらい眠っていたかは分からないのだが、体の疲れはすっかりとれている。座った状態で寝ていたようだが、腰や背中は痛まない。周りを見回す。死神の姿はない。樹木の壁に埋め込まれた水晶の中では、まだ氷雪が眠っているまま。安らいだ寝顔とは決して言えないが……。
 ヨランダは外へ出てみることにした。幸い、何も嫌な気配は感じ取れない。樹木の壁に頭を突っ込んで外を見る。闇がまず目に飛び込むが、樹木の木の放つ青白い光を頼りに、周りを見回す。何も見えない。この魂の樹木だけが、彼女の目に映るもののすべてであった。とても寂しい世界。生命と呼べるものなどかけらも見当たらない。完全な死の世界だ。
「やっぱり何もないわ……」
 ここは、魂が新しく生まれ変わる前に一休みする世界でしかないのだろう。ヨランダはそう思い、頭を引っ込めた。根っこの一つに腰をおろすと、冷たい一陣の風が吹いてきた。死神が、彼女の傍に現れると、思わず彼女は小さく声をあげてしまった。やはり死神は不気味だった。
「あっ、ごめんなさい……」
 ヨランダの小さな謝罪の言葉に、死神は気を悪くした様子も見せない。そもそも顔がないのだから相手が怒っているかどうかすら分からないのだが。
「まだ冥府はアタシをどうするか決めていないの?」
――既ニ、冥府ハ決メテイル。
「もう決めてるの?! だったらさっさと――」
――冥府ハ、貴様ヲコノ冥府ニ留メルコトヲ、決メタノダ。
「ええっ」
 ヨランダは立ち上がった。
「この冥府にとどめるって、どういうこと?」
――聞イタ通リ、貴様ヲ、冥府ニ留メル。浄化ノ炎ヲクグラセルノデモナク、生者ノ世界ニ返スノデモナイ。タダ、留メルダケ」
 ヨランダの口はしばらく開閉を繰り返した。やっと死神の言葉をすべて呑み込んだ彼女は、
「留めるって、つまり、アタシはまだ、生きているのと死んでいるのと、中途半端な状態なわけ?」
――サヨウ。
「冗談じゃないわ! 生きているのか死んでいるのか、はっきりさせてちょうだいよ! 生きているならすぐ返して! 死んでしまったんならあの炎の中に通してちょうだい!」
 死神は答えなかった。
「どうして黙ってるのよ!」
 ヨランダは思わず死神に詰めよった。が、死神は臆する様子もなく、煙のように消え去った。ヨランダは口をあけっぱなしにしたまま立ちっぱなし。出るべき言葉は出てこなかった。
 外から聞こえてきた悲鳴と蒸発音で、彼女は我に返った。どうやら外に獣たちがいるようだ。何も音が聞こえてこなくなったが、死神は戻ってこなかった。

 水晶の中、氷雪は、夢なき眠りについている。魂の樹木と冥府の力がそれぞれ彼の中へ入り込み、肉体の死の直前に冥府の獣によって食いちぎられた魂の傷を少しずつ癒している。本当に少しずつだ。それは、大海の中へ真水を一滴ずつ落していくようなもの。本当は、冥府がその気になれば氷雪の傷はもっと早く癒えるのだが、冥府が彼に割ける癒しの力はほんのわずかなのだ。一か所にだけ力を集中すれば、他の個所がもろくなり、冥府の獣たちはそのもろくなった個所をさらに押し広げて脱出しようとするからだ。
 眠っている氷雪の中に、冥府が語りかけてくる。冥府の声は夢と言う形で彼に届く。
――氷雪、聞こえておるか。
 夢。氷雪は闇の中にひとりで立っている。声が上から降ってくる。返事の代わりに、彼は首を上に向ける。だがその目は開いていない。閉じられたままだ。もっとも、周りは闇しかないのだから、目を閉じていても開けていても、変わりはない。
――貴様をむしばむその傷、さらに深くなってきているようだな。……与えた浄化の力を過信してはおらぬか。
「……過信だと?」
――浄化の力は、我が力の一部。そして獣どもは我が力に染まった存在。《カリビト》ではない貴様が使えば使うほど、獣の力を己の内部に取り込むことになる。浄化はあくまで獣を滅するのみ。滅された後に残された我が力の破片は貴様の内部に入り込み、貴様の傷をむしばむ。貴様はただの魂、《カリビト》紅蓮とはことなるモノにすぎぬ。紅蓮は消耗のみで済むが、貴様は浄化を行うたびに己の傷をさらに深く広げている、それを知らぬわけではあるまい。
「……ならば、これ以上私の傷が広がるのを防ぐためにも、浄化の力をとりあげればすむことだろう。もうあの魂はこの冥府に来てしまったんだからな、私の役目は終わったろう。それとも、私を第二の《カリビト》として迎えるつもりなのか?」
――これ以上、《カリビト》を産むことは出来ぬ。
「では、私をどうするつもりだ? またいつか起こすつもりか? それともこのまま眠らせるつもりなのか?」
――いつか、貴様は目覚めねばならぬ。だが今はまだその時ではない。それまでに、貴様は傷を少しでも早く癒さねばならぬ。我が力を、貴様にもう少し多く注いでやる。我は、《意思》には逆らえぬ身。《意思》のゆるし無き事は行使できぬ。だが、これだけは、《意思》のゆるしが出たのだ。
 冥府の声は少しずつ遠ざかっていく。夢がただの闇に戻っていく。
「冥府! あんたはいったい私に何をさせるつもりなんだ!」
 氷雪の言葉に、冥府は答えなかった。
 先ほどの冥府の言葉通り、守りの枷から漏れ出る光は強く、明るいものとなった。

 死神の体内で、《カリビト》は眠りについている。《カリビト》にとって、冥府の力を凝縮して生み出された死神の体内は、心地いいベッドだ。だが死神自体はその不気味さゆえに、あまり近づきたくない。長い付き合いとは言えども……。
 傷と疲れが癒え、紅蓮は目を覚ました。死神の体内から飛び出した、不規則に脈打つ黒い球体は、ヒトの形に変わる。
「やっと回復したぜ。ありがとよ」
――……。
 死神は何も言わず、枝から魂をもぎ取って、樹木の中へと入って行った。
「やっぱ近づくのはなあ……」
 紅蓮はぶつぶつ言って、周りを見た。獣の残骸が辺りに漂っているのが見える。先ほどまで死神は戦っていたのだ。
「本当は俺がやらなきゃならんのだが……」
 紅蓮は指笛を吹いた。ほどなく、ケルベロスがどこからか駆けつけてきた。嬉しそうに尻尾を振り、三つの頭を紅蓮にこすりつける。だがすぐに、後ろを向いて唸り声をあげる。
「来たな」
 紅蓮は背中の鞘から長剣を抜いた。集まりつつある冥府の獣たちは、ケルベロスを見るなり、怯えた声をあげた。ケルベロスは口から炎を吐き出す。炎は辺り一帯を包み込み、獣たちを燃やす。ひるまずに跳びかかってくる獣を、紅蓮が片っ端から長剣で切り払う。ほどなく冥府の獣たちは全滅。
「ここを襲う獣が増えた……。冥府に近しい魂がいるからだな」
「グルル……」
 ケルベロスの鼻がひくひく動く。紅蓮は長剣を鞘におさめぬまま、目を細めた。
「あれは――」
 獣の群れではない、今度は、もっと忌まわしいモノたちの群れだ。もっとヒトに近い形をして、もっと貪欲でずる賢い――
「《奴ら》のお出ましか!」
 長剣を構えて駆けだす紅蓮を、忌まわしいモノは笑った。
「ゲハハハハ! オロカナ《カリビト》! ゲハハハハ! メイフノ、イヌ! ゲハハハ!」
 忌まわしいモノの首が、長剣の刃で断ち切られた。
「……」
 紅蓮は、忌まわしいモノどもに斬りつける。多勢に無勢であるが、忌まわしいモノたちはそんなに攻撃してこない。せいぜい爪でひっかこうとするくらいだ。紅蓮は容赦なくその忌まわしいモノたちを斬りつける。忌まわしいモノは刃に触れた途端に消滅し、残骸と思われる不気味な黒い塊が落ちていく。紅蓮は、忌まわしいモノたちが攻撃をためらっている理由を知っている。死神を恐れているからだ。死神は《カリビト》とちがい、冥府の力のみで生み出された純粋な存在。死神は冥府の分身と言っても差し支えない。冥府のどこにでも行ける《カリビト》とは違って、魂を守る役目を授かっているために魂の樹木の傍から離れることは出来ないが、その攻撃能力は《カリビト》の比ではない。この場に死神が姿を現わせば、一瞬で忌まわしいモノは消滅する。それでもこの忌まわしいモノたちがここへ来ているのは、己の貪欲さに克てなかったからだ。だが、この場で派手な戦闘を繰り広げればすぐに死神が姿を現してしまう。ならば死神が現れる前に魂を喰おうと、ちまちま攻撃を繰り出しているのだ。
「メイフノ、イヌ! ゲハハハ!」
 忌まわしきモノどもは、下品な笑い声をあげて、紅蓮を嘲り笑う。
「……」
 そのたびに、紅蓮のふるう長剣の刃が、不気味な頭部をかちわり、胸部を貫き、胴を断つ。勢いよく振り回した長剣が最後の敵の頭を薙ぎ払う。まるで八つ当たりのような乱暴な攻撃に、最後の敵は倒れた。
 どす黒くなった長剣を手に持ったまま、紅蓮は、敵の残骸を見つめた。ドロドロの不気味な塊は、やがて冥府の中へと吸い込まれて行き、後には、魂が残った。ケルベロスが洗礼の炎を吐くと、黒い魂は白くなった。白くなった魂たちは自ら魂の樹木の元へ漂い、枝につり下がった。
 紅蓮は鞘に長剣を収めた。
 声が降ってきた。
――紅蓮。傷の元へ向かえ。獣どもが動き始めた。
 紅蓮は何も言わず、ケルベロスの背中にまたがる。番犬は力強く走り出し、あっというまに魂の樹木から遠ざかった。やがて目的の場所にたどりつく。ケルベロスは炎を吐いて、周りにたむろする獣たちを焼き払う。紅蓮は飛び降り、長剣を抜き放つ。
「……そうさ、俺は冥府の飼い犬だ!」
 紅蓮めがけて襲いかかってきた獣たちの群れに自ら飛び込む。前列の獣たちがあっという間に刃で薙ぎ払われ、ドロドロの塊に変わる。紅蓮は獣たちから爪や牙で攻撃され傷を負うが、構わず長剣を振り回して獣たちを切り捨てていく。ケルベロスが片っ端から炎を浴びせて獣を焼き払い、魂を炎で浄化する。獣たちは、飛んで行こうとする魂を捕まえようとするが、紅蓮がそれを許さない。長剣のとどかぬ相手に浄化の力を浴びせ、次々に獣たちをしずめていく。力の反動で疲労が押し寄せる。だが休んでなどいられない。獣たちが怯えてここから全て去ってしまうまで、戦わなければならない。
 戦いは長く続いて、やっと獣たちが撤退してしまうと、辺りは急に静かになった。憔悴した紅蓮は長剣にもたれかかって荒く呼吸している。体についたどす黒い傷は、かなり増えている。ケルベロスは体をぶるっとふるって、その見事な毛皮についた獣の残骸をふるい落とす。紅蓮の呼吸が落ち着いてくると、彼は後ろを振り返った。
 真っ赤な裂き傷が闇の中に浮かび上がっている。まるで爪で乱暴に引き裂いたような裂き傷だ。ケルベロスの体ほどもある大きな裂き傷は、不気味に脈打っている。傷の向こうには闇ではなく、青白い光がわずかに見える。冥府の外側。生者の世界と冥府をつなぐ、通路のようなものだ。冥府の獣は、この傷口を通って生者の世界へ出ていたのだ。
 傷がピシリと音を立て、ほんのわずかに広がる。目で確認できるかできないかの、ほんのわずかな広がりだが、紅蓮は見逃さなかった。
「傷が……!」
 ケルベロスが尻尾を垂らし、情けない鳴き声を上げた。
「馬鹿な! 傷の広がりが早すぎる!」
 青ざめた紅蓮に、声が上から降ってきた。冥府の声を聞くなり、紅蓮は、
「お前は本当に正気なのかよ! 傷口がこんなに早く広がってるんだぞ、それなのに――」
 裏返った声で怒鳴った。
――正気だ。そしてこれは《意思》が命じたこと……。
 冥府の答えはそれだけだった。《意思》の命令には、冥府は決して逆らえない。どんな理不尽なものであっても。
「また《意思》なのか……。それは一体誰の《意思》なんだ?」
――……。
「そいつは、お前でも正体が分からないほどの、雲の上の存在なのか? それとも、話したくないのか?」
 だが冥府は何も答えなかった。
 冥府の傷口は、苦しそうに、そして不気味に脈打った。
 紅蓮は、冥府の傷口に浄化の力をたたき込んだ。傷口は眩しく輝いた。
(これで、もうしばらくは来ないだろう……)
 疲労が回復するまで待ってから、紅蓮はケルベロスを帰し、自らは傷を癒すために冥府の奥底へと向かった。


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