第3章 part2



 ヨランダは暇を持て余していた。冥府の獣に狙われている身、観光などできっこない。どこへも行けないのならば世間話でもしたいところだが、あいにく話し相手が誰もいない。氷雪はずっと水晶の中で眠っているままで、彼女が話しかけてみても、目覚める様子はなかった。時間をつぶせることは何も見つからない。彼女はずっと暇を持て余していた。
 死神が、戻ってきた。
「ねえ」
 ヨランダは死神に話しかけた。
「……退屈なんだけど」
――暇ヲツブセルモノナド、コノ冥府ニハ存在シテオラヌ。
「わかってる。でも、何にもしないでいるのは、退屈すぎるのよね。せめて話し相手がほしいわ。彼とかどう?」
――奴ヲ目覚メサセルワケニハイカヌ。傷ガ深クナリスギテイル、当分眠ラセテオカネバナラヌノダ。
 氷雪を目覚めさせることは出来ないようだ。
「もう、だったらどうしたらいいの。起きたばかりだから眠くないし、観光するにしても獣ばかりがいるだろうから外には出られないし。だいたいこの冥府に「観る」ところなんてあるとは思えないけど……」
 ヨランダがぶつぶつ言い始める。死神は彼女の顔に視線を向けていたが、やがて言った。
――ソレホドマデニ暇ヲツブシタイノナラバ、我ガ話デモ聞キタイカ?
「話? そうねえ。それもいいかもしれないわ。アタシ、実は結構知りたいことあるのよねえ」
 ヨランダは、根っこの一つに腰をおろして、死神の話に耳を傾けることにした。
「まずはね、この冥府の歴史について簡単に教えてほしいの」

 死神は、冥府によってつくられた存在ではあるが、冥府のすべてを知っているわけではない。
「全部知らなくてもいいの。あなたが知っていることだけ、教えて頂戴」
 死神は一度目を伏せて、長い話を始めた。
 要約すると次のようになる。

 冥府は、《意思》によって生み出された。いつ生み出されたのかは、死神は知らない。とにかく、時すらも忘れてしまうほどの昔、冥府は、生者の世界と対をなす存在として、《意思》から役目を授かった。生者の世界から渡ってくる魂を浄化して、新しく生まれ変わらせる。それが冥府の役目だ。
 冥府は《意思》から授けられた役目を果たし続けてきた。ごくまれにだが、魂の持つ生者の世界への執着が、冥府の浄化の炎を浴びても消えないことがあった。執着が消えぬ魂は醜くゆがみ、不気味な獣に姿を変えた。生への執着に支配された獣は、魂を喰って数を増やし勢力を広げようとした。《意思》は冥府に命じた、獣を狩って魂を守るための番人を作れと。冥府は命令通りに、冥府の入り口を守る三つ首の番犬ケルベロスを生み出した。そして魂が無事に生者の世界へ旅立てるように、魂を管理する死神と魂の樹木を生み出した。ケルベロスと死神に獣を狩らせ魂を守るように命じた。ケルベロスは冥府の入り口を守り、死神は魂の樹木を守って、近づく獣をことごとく滅した。
 さらに、生者の世界で時が永く過ぎ去った。冥府の中に潜む獣たちは、生者の世界へ向かうことを考え付いた。生者の世界は、冥府よりもはるかにたくさんの魂があふれているに違いない。獣たちは皆それを考えた。そして、冥府から出るために、知恵を絞った。
 魂の一つに語りかけることにした。魂は必ず冥府の入り口からやってきて炎の洗礼を受け魂の樹木へ向かうが、たまにフラフラと別の方向へ向かうものもあるのだ。そんな時は死神やケルベロスが誘導してやるのだが、それよりも早く獣たちは魂に語りかけた。魂は獣の話に耳を傾けた。獣は訴えた、魂の樹木へ向かわなくても、生者の世界へ戻れる場所がある、と。魂は、既に浄化の炎を浴びた後だったが、生への執着が弱く残されていた。獣にそそのかされるまま、魂は、冥府の力がやや薄い場所へと向かった。獣たちが苦心してつけた引っかき傷に触れると、魂の中にその冥府の傷口の力が流れ込んでいった。力を吸われたことで、引っかき傷は回復するどころか徐々に広がりを見せていき、中でもひときわ巨大な獣は、待ち切れず、その鋭い爪をふるった。
 悲鳴にも似た嫌な音を立てて、冥府の壁は引き裂かれた。獣たちは、裂けた個所から、一斉に外へ飛び出していった。
 冥府は《意思》の命令により、自らが手を出すことは出来ない。代わりにケルベロスを放ったが、冥府の獣は四方八方に逃げてしまったので、全てを探し出すには時間がかかりすぎた。《意思》は冥府に命じた、獣を狩る役目を持つ魂を生み出せと。本来ならば、二つの世界の魂の均衡が崩れてしまうことになるのだが、《意思》は特別に許可を出した。冥府は命令通り、生み出した。獣にそそのかされ傷口を広げる手助けをした魂に、冥府の力を注ぎこみ、《カリビト》として生まれ変わらせたのだ。戦うための剣と浄化の力を与え、外へ逃げ出して行った冥府の獣を狩らせるために。
 冥府から命じられるまま《カリビト》は己の使命を果たすべく、生者の世界に逃げ出す冥府の獣たちを狩り続けた。だが、獣をどれだけ狩ろうとも、後から後から獣は生まれてきてしまう。冥府へ来た魂が生への執着を持つ限り、数は少なくなってはいくけれど、冥府の獣を根絶やしにすることは出来ないのだった。
 冥府は、《カリビト》が冥府の獣を狩る間も、引き裂かれた箇所をふさぐべく、傷口に少し多く力を注ぎこんだ。その結果、傷口はふさがってきたが、今度は別の問題が浮上した。逃げ出した冥府の獣は、冥府に近しき魂を生者の世界で探し始めたのだ。冥府の力をわずかでも持っている魂ならば、冥府の獣は触れることが出来る。ただの魂ならば、生気を奪い取るくらいしかできないのだが、冥府に近しき魂は違う。生者の世界と冥府の二つの力を持っているため、冥府の獣がそれを喰えば、生者の世界の普通の魂も喰う事が出来るようになる。《カリビト》はこの忌まわしい獣も狩り始めた。冥府に近しき魂の絶対数は極めて少ないが常に一定だ。冥府の獣が冥府に近しき魂を喰っても、喰われた分の、冥府に近しき魂が冥府から出てくるだけ。忌まわしい獣は増える一方だった。
 時が流れるうち、冥府の傷はかなりふさがってきた。とはいえ、小さな獣ならばすんなり逃げ出せるほどの大きさであったが。冥府に近しき魂を食らった忌まわしい獣は、《カリビト》にあらかた狩られてしまい、生き残っているのは、満足して冥府の中に戻ってきたもののみだった。《カリビト》は冥府の傷口にむらがる獣と、生者の世界に逃げ出す冥府の獣を狩り続けた。

 死神の話は中断された。
 外から物音が聞こえてきたのだ。ヨランダは思わず身をすくめた。冥府の獣の気配だが、これはさらにぞっとするものだ。《忌まわしいモノ》が来たのだ。
「なに……?」
 死神はすぐには動かなかった。
 魂の樹木の外で何かがうごめいている。冥府に近しき魂を食らった《忌まわしいモノ》の群れだ。獣は一匹も姿を見せていない。紅蓮があらかた狩ったためだ。《忌まわしいモノ》は、魂の樹木を取り囲んでいる。本当は、枝につりさがる魂で腹を満たそうとしている。だが、これ以上近づくと死神が姿を現すことを知っているので、遠くで眺めているだけになっている。
 死神が姿をなかなか現さないので、《忌まわしいモノ》の一匹がしびれをきらした。魂の樹木に近づくが、死神の姿はない。それに気が付いた他の《忌まわしいモノ》は、おそるおそる近づいた。やはり死神は出てこない。死神はいないのだと思ったらしく、《忌まわしいモノ》たちは、嬉しそうな鳴き声を上げ、その醜い腕を伸ばして、枝に吊り下がった魂をもぎ取ろうとした。
 途端に《忌まわしいモノ》たちの体がすべて、一瞬にして蒸発した。
――愚カ者ドモ。
 死神は、魂の樹木の中で、呟いた。
――魂ノ樹木ノ外ニオラズトモ、コノ場所カラ貴様ラヲ滅スルコトガデキルノダ。
 それから死神は、ヨランダの方に向き直った。ヨランダは茫然とした顔で死神を見つめている。
――何ヲ驚イテイルノダ。
「だって、何したのか、わからなかった……」
 死神が《忌まわしいモノ》を滅した時、死神の体は一瞬だけ不気味な紫色の光を放ったのだ。たったそれだけで《忌まわしいモノ》は全て消されてしまった。ヨランダには、魂の樹木の外側で何が起こったのか、本当に分からなかった。ただ死神の体が光った、わかったのはそれだけだ。
――冥府ノ力、侮ルデナイ。
 それから死神は言った。
――マタシテモ、多少貴様モ消耗シテオルハズ。獣ドモノ力ハ、生者ノ世界ノ魂カラ生気ヲ奪ウノダカラ。
「平気よ、何ともないわ」
 ヨランダは立ち上がった。が、彼女の足はなぜかふらついた。
――消耗シテイルトイウ自覚ガナイカラダ。貴様ハ、モウシバラク眠ッタホウガイイダロウ。
「ええっ、また寝るの? まあ、暇をつぶせるならいいかもしれないけど――」
 彼女がいい終わらぬうちに、死神がその不気味な手を彼女に向けると、彼女はまた暖かな光に包まれ、眠りに落ちた。
――退屈ダトイウナラバ、夢ノ中デ話ヲスルガヨイ。
 死神が次に手を向けたのは、樹木の壁に埋め込まれた水晶であった。

 夢。
 ヨランダは闇の中にいた。だが彼女の周囲は暖かな赤い光に包まれていて、彼女自身の体ははっきりと見える。
 不思議なことに、彼女はこれが夢の中だとわかっていた。誰かが教えたわけでもないのに。
 不意に、彼女から少し離れた場所がぼんやりと白く光った。そしてその光の中央に現れたのは、目を閉じて眠っていると思われる氷雪であった。が、目を閉じているだけのようであった。彼はまぶたを開けた。が、彼の目の焦点が全く合っていない。そしてその瞳の色は、紅蓮と同じ血の色ではない。
「またなのか、冥府」
 ヨランダが目の前にいるのにもかかわらず、氷雪はうんざりした声を出す。
「違うわよ」
 ヨランダが応えると、相手は驚いたようだ。
「あ、ああ。これは失礼」
 彼女の方を向いたが、その目は彼女が立っている場所よりも左側を見ている。
「さっきも冥府が夢を見せてきたものだから、てっきりまた冥府かと思ったんだ」
「あなた、まさか、目が見えないの……?」
「見えないとも」
 ぶしつけな質問に対して、あっさりと相手は返答した。そして、まぶたを閉じた。
「今まで見えていたのは、冥府が私に視力を与えたためだ。目覚めている間だけだが、あんたの身辺をうろつく冥府の獣を退けるのに支障がないようにな」
 死神が話したことを思い出した。氷雪は冥府の命令で封印を解かれ、ヨランダを守るために冥府の獣を狩っていた。紅蓮ではもはや手に負えぬほど、獣が生者の世界へ逃げ出していたから。
「それに、私の方があんたよりも獣を引き寄せやすかったからな。生者の世界へ逃げた獣のほとんどは私のところへ来たはずだ」
「確かに、アタシ以外の方向へ向かう獣たちは多かったけど、それはあなたを狙っていたってことなの? どうしてなの?」
「獣どもが、私の傷跡に引き寄せられるからだ。傷痕に獣の力が残されている。奴らはそいつを嗅ぎつけ、喰いかけの餌があるのだと認識し、全て喰い尽くすために競って私の元へ現れた。そこを一網打尽にして浄化するというわけだ。あんたに獣が近づかないようになるべく離れたところにいたんだが、それがかえって裏目に出てしまったな……」
 紅蓮と同じく、彼女を守ることは出来なかった。
「もう、どうでもいいわよ、済んだことなんだから」
 ヨランダは首を横に振った。
 しばらく沈黙が流れた。ヨランダは、何とかこの沈黙を破ろうと話題を探す。だが、既に冥府の炎を浴びて生前の記憶が失われたこの魂に、彼女の知っているイマドキの話題が通じるとはとても思えない。それとも、話せば興味を示してくれるだろうか。
「ああ、そうだ」
 ヨランダが迷っていると、思い出したように、氷雪は言った。たぶん、彼も話題を作ろうとしていたのだろう。
「死神の話だと、生前、私は目が見えていたらしい。見えなくなったのは、死の直前だったそうだ。あんたは死神に私の最期の記憶を見せてもらっているはずだろう?」
 何かが燃える音や、衝撃による痛み、そして最後に、獣の唸り声と謎の激痛。思わずヨランダは身震いした。
「見せてもらった、というか、音と感触だけしか伝わってこなかったけど……でもどうして知ってるの、アタシが死神にあなたの記憶を見せてもらったこと」
「封印されて眠っている間でも、たまに外の様子が夢と言う形で伝わってくるからだ」
 なるほど。
「死の直前、何らかの事故で視力がなくなったんだろう。そこを獣に襲われ、喰われた」
「……ずいぶん淡々と話すのね、自分のことなのに。アタシだったら、思い出すのもいやだわ」
「夢に見すぎて、慣れてしまったからだろう。冥府の炎を浴びても、魂自体につけられた傷に刻まれた記憶は消えないと、死神は言っていたからな」
 表情も淡々としている。
「本当は、夢などない方がありがたいんだがなあ。夢を見なければ、何も知らないうちに、目覚めの時は訪れるはずだから」
 また沈黙。今度はヨランダが口を開いた。
「……あなたずっと封印されてたんでしょう。嫌じゃないの、ひとりぼっちでこんなところにいるなんて。アタシだったら耐えられない」
「封印は、眠っているのと同じ。冥府や死神が夢を通じて私に話してくることもあるが、寂しさはあまり感じたことがない。生身の人間と話をしたいと願っても、冥府では叶わないことだから、これは諦めているが、封印自体は嫌じゃない。もっとも、ずっと目覚めていたら、耐えられないかもしれないが」
「結局寂しいんじゃないの」
「私よりも永く独りでい続けている奴に比べればマシだと思う」
「独りで――」
 ヨランダの頭の中に浮かんだのは、紅蓮の顔だった。

 冥府の奥底。
「冥府、お前は本当に何をしたいんだ」
 だいぶ傷の治ってきた紅蓮は、はるか上空に広がる闇を見て、言った。
「氷雪の回復を早めて目覚めさせるために、傷に注ぐ力を弱めるなんて正気の沙汰じゃないぞ。ますます傷口が大きく広がるだろ。いくら獣が魂の樹木へ集まってきてると言っても、まだ外に逃げ出そうとするやつはいるんだ。それに――」
――口を閉じよ。
 冥府の声が降ってきた。
――貴様の言わんとしておることはわかっておる。だが、我が肉体につけられた傷を完全にふさぎきるには、氷雪をまず回復させ、目覚めさせねばならぬのだ。
「俺はその間のつなぎに過ぎない、と?」
――そうだ。
「そしてお前の望んだとおりに事態が丸く収まったら、運が良ければ獣たちはほぼ消えてしまうだろう。お前は今度こそ傷を治すのに専念すればいい。氷雪は晴れて浄化の炎を通り抜けて転生できる。で、そうなったら、俺は《カリビト》から解放されるのか?」
 だが冥府は低く笑っただけだった。
――忘れたわけではあるまい? なぜ貴様が《カリビト》となったのか……。
 答えになっていないが、紅蓮には冥府が何を言いたいか分かったようだった。
「何をやったか、なんて聞くなよ……」
 苦虫をかみつぶしたような表情。紅蓮は、青白く輝く長剣を背中の鞘に収めた。傷は完全に癒えて、また戦える状態に戻る。
――貴様が《カリビト》から解放される『時』など、獣が存在する限り、訪れはせぬ。
「……そう答えるだろうと思った」
 紅蓮はため息をつき、くるりと回れ右した。
「あの時、獣の囁きに耳を貸して、お前の体に穴をあける手伝いをしたのは、俺だからな……」
 紅蓮は闇の中に去った。

 急に、二人の周りが明るくなり始めた。
「なに、急に明るくなってきたわ」
 驚いたヨランダは周りを見る。青白い光が周りを包んでいる。そして、上から声が降ってきた。それは、冥府の声だ。
――目覚めの時だ、氷雪。
 周りが一瞬にしてまばゆい光に包まれ、ヨランダは思わず目を閉じた。
 ヨランダは夢から覚めた。目を開けると、魂の樹木の中だった。まだ冥府の中にいるのだ。
「夢が覚めた……」
 彼女を包んでいた赤い光はいつのまにか消えている。ヨランダはあくびをひとつして立ち上がった。周りを見回すが、死神の姿はない。さらに周りを見るが、樹木の中に埋め込まれていたはずのあの青白い水晶がどこにも見当たらない。夢が覚める直前に聞こえた冥府の声は、目覚めの時だと言っていた。そして、この樹木の中に水晶が見当たらないと言うことは、冥府は、氷雪を目覚めさせたのだろう。
 どこへ行ったのだろうかと、ヨランダは樹木の壁から頭を出してみた。
 辺りは静寂と闇が支配している。冥府の獣の気配もない。静まり返り、魂の樹木の光以外は何も明かりを見つけることが出来ない。
「何処行っちゃったのよ……」
 小さいつぶやき声だったが、その小さな声が辺りに大きく響いた気がした。
「もー、どこ行っちゃったのよ!」
 彼女は顔を引っ込めた。外に出る気にはなれない。身を守るすべを持っていないのに闇と静寂だけしかない冥府の中を独りで歩き回るなど、とてもできっこない。せめて冥府の中が明るい太陽の光で照らされていれば、闇や獣に対する恐怖心もやわらぐのに……。
 この魂の樹木は死神が守っているため、冥府の中で最も安全な場所だと頭の中ではわかっているものの、独りになるのは嫌だ。さびしいだけではない、怖い。早く生者の世界へ帰りたい。だが、浄化の炎の台座には、炎がともされていない。
「もう……」
 ヨランダがしばらくひとりで樹木の中を歩き回っていると、
「はあ、疲れた……」
 後ろから声が聞こえた。くたびれきった顔の氷雪が、樹木の壁を通り抜けて入ってきた。
「どこ行ってたのよう。夢から覚めたと思ったらいなくなってて!」
 ヨランダは思わず相手に詰めよった。氷雪は、めんくらった顔で、血のように赤い瞳を彼女に向けた。
「どこって、ずっとこの辺り一帯にいたのに――」
 魂の樹木の周りに群がる獣の群れを一掃していたところらしい。が、ヨランダがちょうど目覚めた時、魂の光の届かぬ場所にいたので、彼女は彼を見つけることが出来なかったのだ。
「じゃあ、死神はどこへ行ったの? この辺りからは離れられないはずだけど――」
 周りを見回すヨランダ。死神はこの魂の樹木を守るために、この木の近くにいなければならないはずなのに、先ほどからちっとも姿を見せていない。一体どこへ行ってしまったのであろうか。
「……」
 氷雪は何か言いたそうであった。ヨランダは待った。しばらく渋った末、氷雪は口をあけた。
「……死神は、冥府の力で、私と同化した。今の私は、死神そのものだ」
 ヨランダは事情が全く呑み込めなかった。
 冥府は、氷雪を目覚めさせた後、死神と同化させた。死神の力は完全に氷雪のものとなり、より強力な浄化の力を使うことが出来るようになっただけでなく、いくら使っても自分に力の反動が押し寄せることはなくなった。だが、そんなに長く同化していられるわけではない。
「同化って……」
 ヨランダが完全に事情を飲み込むまでに長くかかった。
「同化して、どうするつもりなの、あなた」
「冥府の傷口から逃げ出す獣たちを狩り尽くす。それしか冥府は言わなかった。だが、それだけならば本来紅蓮の役目なのだから、私に力を与える必要はない。何か他に、私にやらせたいことがあるのは間違いないんだがなあ」
 氷雪の視線は宙をさまよった。なぜだろう、ヨランダはその口調がどこかそらとぼけたように聞こえてくる。何か隠しているような言い方だ。
「また来たな」
 氷雪はくるりと回れ右して、樹木の外に出る。ヨランダは顔だけを外に出して周りを見る。
 この魂の樹木の周囲に、ぞくぞくと集まってくる獣の群れに、彼女は思わず小さな声をあげてしまった。無数の獣。見渡す限り、獣の群れ。百や二百ではとても少なすぎる、千はいるのではなかろうか。
「これでも、冥府の獣の総数のほんの数パーセントにすぎないというんだからなあ」
 氷雪はうろたえもせず、片腕を獣の群れに向け、なぎはらうような動作をする。その直後、この樹木の周囲に近づきつつある獣の群れが全て、蒸発した。もちろん、彼の後方から近付きつつある獣の群れも含めて、だ。
 ヨランダは茫然とした。腕を振っただけなのに、一瞬にして獣の群れが消滅したのだから。これが、死神の力なのだろう。氷雪に疲労の様子は見られない。後から後から押し寄せてくる獣たちを、その強力な力で滅していく。滅された獣は、残骸となり、本来の姿である魂が樹木の元へ飛んでくる。飛んでくる魂を食おうとする獣たちを、浄化の力が全て滅する。
 完全に獣の群れが消え失せてしまうと、さすがの氷雪も疲れが出てきたようだった。魂の樹木に体を預け、大きく息を切らした。ヨランダはやっと我に返り、樹木の壁の中から外に出てきた。
「あの、大丈夫……」
「なに、少し疲れただけ……同化したとはいえ、力の反動は避けられないようだな」
 氷雪はしばらく呼吸が落ち着くまで待った。
 魂の樹木の中へ戻る直前、彼は上空に目を向けた。闇だけが、彼の眼の中に飛び込んできた。
(冥府、いつまでも彼女を欺けると思わない方がいい……)
 闇は、うごめいた。


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