第4章 part1



 ジュウウ!
 目の前の、冥府の獣の群れが、激しい音を立てて蒸発した。
(力の反動はなくなったと思っていたが、私の思い違いだったか。純粋な冥府の力のみで生み出された死神と、魂である私とは別物。完全になじむわけではないのか……)
 氷雪は自分の掌を見つめた。血色の悪い肌。目覚めさせられ、浄化の力だけをもらった時は、冥府の獣の力を内部に吸収してしまい、肌がだんだん闇の色に近づいていったが、今はどれだけたくさんの獣を浄化しようとも、そんなことはない。だが、疲労は少しある。
(魂の樹木の番人である死神をわざわざ私と同化させた理由……。冥府の言葉を信じるなら、冥府はとんでもないことをやろうとしている)
 獣の群れは次々と現れる。氷雪は次々と獣を浄化する。獣は山ほど現れるが、不思議なことに《忌まわしいモノ》は姿を全く見せていない。とはいえ、氷雪がそれを気にする余裕はなかった。押し寄せる獣の数が多すぎて、相手にするだけでも忙しいのだ。
 一段落した。押し寄せてきた獣は全て、浄化の力で鎮められた。待ち構えたかのように、魂の樹木の中からヨランダが顔を出す。
「もう、みんないなくなったの?」
「やっと終わった……」
 息切れが収まるまで、氷雪は壁にもたれていた。
 ヨランダは外に出てきた。
「ずっとここにいると退屈なのよね。身を守れないから仕方ないことだけど」
「そうは言うが、私もここから離れられん。魂の樹木の番人がいなくなれば、獣どもが魂を食い荒らしに来る……」
 結局二人とも動けない。この魂の樹木の中にいるヨランダは退屈でしかたがないのだが、冥府の獣が襲ってくるこんな危険な場所で出歩くわけにはいかない。そもそもこの冥府に観光地などあるはずがない。
「だから私はここを――」
 不意に、彼女の目の前がぐんにゃりとゆがんだ。頭が痛くなり、耳の奥がキイインと鋭い音を立てた。目の前が赤くなり、やがて別の白い色が目の前に広がってきて、景色がはっきりと見え始める。
 ヨランダはまた目を開けなおした。
 明るい白い光が目に飛び込んできた。それは、蛍光灯の光だった。戻ってきた他の感覚。全身の痛み。薬のにおい。固い布団。
 ここは病院のベッド。
 ヨランダは、冥府から戻ってきた。
(もどって……きた……)
 それをのみこむまでにだいぶ長くかかったに違いない。
(やっと戻ってきたんだわ……)
 病室のカーテンの隙間から、東雲の光が差し込んできた。
 生者の世界には何もかもがあった。冥府には無い何もかもが……。光が、音が、色が、生きている存在が……。

 冥府の奥底。
「本当にあれで良かったのか?」
 先ほどの戦いで《忌まわしいモノ》につけられた無数の傷を癒しながら、紅蓮は問うた。
「死神を氷雪と同化させて、直接その力を与える……なんで、死神に匹敵する力のある奴を作りださないんだよ」
――これ以上力を割くことは出来ぬ。死神を作り上げるのにどれほどの力を要したか、貴様にはわかるまい。
「わからねえよ」
 青白い輝きを取り戻した長剣を鞘に収める。
「結局、同化させて戦う力を与えたとはいえ、魂の樹木の傍から動けないんじゃ、俺のアシスタントにもならないぜ。あれならずっと眠らせておいた方が良かったはずだ」
――貴様は《忌まわしいモノ》を狩れるだけ狩っておればよい。これ以上、獣どもに力を与えてはならん。魂の均衡が完全に崩れてしまう。
「命令だけか。お前は本当に何もできないんだな。お前はこの世界そのものだろ、お前がその気になれば、獣を滅することなんかたやすいはずなのによ……」
 傷が完治した紅蓮は、くるりと回れ右した。
 紅蓮が去った後、冥府は低く笑った。
――愚かな紅蓮。氷雪の回復を早めて死神を同化させたことについては、理由があると言うのに。貴様には最期まで分かるまい……。

《忌まわしいモノ》の群れは、確実にその個体数を減らしつつあった。氷雪が魂の樹木の周りの獣を滅している間、紅蓮が《忌まわしいモノ》の群れを探し出して、体の動く限り狩り続けていたからだ。《忌まわしいモノ》の数は確実に減っていたが、連中は冥府の獣に比べて数段悪知恵がはたらくので、紅蓮が簡単に見つけられないよう、冥府のあちらこちらに散らばり、移動している。そのため紅蓮がどんなに頑張っても一掃するのは難しい。ケルベロスの鼻をもってすればたいていは嗅ぎだせるのだが、冥府の入り口から逃げ出そうとする獣もいるので、いつも狩りにつれて行くわけにはいかない。
 紅蓮は、ようやっと見つけ出した《忌まわしいモノ》の群れを狩り始めたところだ。襲ってくる連中は紅蓮に爪や牙を突きたててくる。
「メイフノイヌ、イヌ! ゲハハハハハ!」
 全ての《忌まわしいモノ》は、皆、紅蓮をあざ笑いながら、青白い刃で体を切り裂かれて倒れていく。
「そのセリフ、聞きあきたっ!」
 最後の《忌まわしいモノ》をから竹割りで真っ二つにする。
「半分仕留めたが、残りは逃げたか……!」
 紅蓮は大きくため息をついた。
「根絶やしにするまで、まだかかりそうだなあ」
 そんなに傷は負っていない。疲れがひどいだけだ。紅蓮は呼吸が収まるまで待った。
(冥府の犬、か)
 呼吸が落ち着いた紅蓮は、長剣を鞘に収め、闇の中へ歩き始めた。ケルベロスを連れていきたいが、今は獣を焼き払うのに忙しいらしく、呼び出しに応じない。ひとりで探すしかない。だが不思議なことに、紅蓮にはわかるのだ、どこに《忌まわしいモノ》がいるのか。きっとここにいるだろうと見当をつけて歩いていると、必ずと言っていいほど群れに出くわすのだ。
 なんとなくだが、今までのことを、思い出しながら歩いて行く。
(獣どもの言葉に耳を傾け、冥府に穴をあける手伝いをしたのは俺だった。獣どもと一緒にそこから外へ出て――)
 そこで脚が止まる。
(何をしたんだ?)
 頭の中に浮かんできた光景。冥府の壁に獣がするどい爪の一撃を浴びせて引き裂いた。その裂けた個所から獣たちが飛び出した。自分もそれに乗って飛びだした。
「何でそこだけ何も覚えてない?!」
 紅蓮の記憶をどんなにたどっても、自分が冥府の獣と一緒に外へ飛び出した所までしか覚えていない。そして次の記憶は、どこかわからない、火災の起こっている建物の中。炎の中で燃え上がっている人間の肉体の前でぶるぶる震えている、食われかけの魂。獣の牙の痕があった。
(あの焼け落ちる建物……そこに行くまで、俺は何をしていたんだ? なぜそこだけ記憶が途切れているんだ?)
 冥府から抜け出し、燃え盛る建物の中で魂を発見するまでの記憶が、完全に途切れている。どんなに思いだそうとしても思い出せない。
「何で、思い出せないんだ?」
 冥府に来てから今に至るまでの出来事は全て思い出せる。だが、あの場面だけが、全く思い出せない。
 だがそれ以上気にする余裕はなかった。《忌まわしいモノ》の群れが紅蓮に襲いかかってきたのだから。
「仕留めた奴らの残りだな……!」
 紅蓮のふるう長剣で、前列の《忌まわしいモノ》が不気味な肉塊となった。
「メイフノイヌ! ゲハハハハハハ!」
 あざ笑いながら、《忌まわしいモノ》は紅蓮を囲み、攻撃を開始する。紅蓮はひるまず次々と切り捨てていく。青白く輝いていた刃が徐々に黒ずんでくる。そうして最後の《忌まわしいモノ》がから竹割りで真っ二つにすると、
「アッサリト、メイフノワナニ、オチイッタ、アワレナヤツヨ……」
 その言葉を残して、《忌まわしいモノ》は不気味な肉塊となった。
「冥府の罠……?」
 紅蓮は息を切らしながら、《忌まわしいモノ》の最後の言葉を繰り返した。
「罠って、どういう事だ?」
 だが考えている暇はなかった。いつのまに現れたのか、冥府の獣の群れがぞくぞくと近づきつつあったからだ。
 紅蓮は長剣をふるい、浄化の力を浴びせて、獣たちを次々にしずめる。獣の数が減っていくにつれて、急に紅蓮は自分の体が己の意思とは無関係に動くのに気が付いていた。脚が勝手に走り、腕が勝手に長剣をふるう。獣はどんどんしずめられていくが、どこかへと走っていく紅蓮を追いかけてくる者もいる。
 紅蓮はやがて立ち止まった。獣たちが、牙や爪をぎらつかせ、一斉にとびかかってきた。
 冥府に、獣の咆哮が響き渡った。

 ヨランダが生者の世界に戻ってきてから、半月ほど過ぎた。見舞いに来てくれる同僚たちは色々な話を聞かせてくれて、病室では盛り上がった。あいにく共同部屋が空いていなかったので彼女は個室となってしまったのだが、それがかえって良かったかもしれない。遠慮なく騒げるのだから。
 どんよりと曇ったある日。おいしくない病院食での昼食を終え、もらった最新の雑誌を読んでいた彼女は、ベッドに横たわりなおした。
(少し寝よう……)
 十分ほど後になって、ヨランダは眠りに落ちていた。時計の針は、二時半を過ぎていた。
 夢の中、彼女は赤い空間の中を落ちていた。だが彼女は不思議と怖がってはいなかった。どこへ行くのかは知っていたから。
「だから、私はここを離れられないんだ」
 ヨランダが降り立ったのは、魂の樹木の傍だった。氷雪が話している最中のようだが?
「全く冥府ときたらいったい何を考えているのやら――」
 氷雪が彼女を見た。が、ヨランダは彼が一体何をしゃべっていたのかわからない。
「あの、一体何の話をしてたの?」
「は?」
「だって、アタシ生者の世界へ戻ってたんだもの」
「戻っていた? まだ私は話の途中だったのに……」
 血のような不気味な赤い瞳で、穴のあくほど彼女の顔を見ているので、ヨランダは思わず目をそらす。
「話の途中って、何の話をしてたの」
「あんたが退屈だとか何とか言っているから――」
 そうだ、思い出した。氷雪自身も、死神と同化したために魂の樹木の番人がいなくなり、代わりに彼がそれを務めねばならないのでここから動けない。そう言おうとしていたはずだった。が、彼女が途中で生者の世界へ帰ってしまったのだ。
(本当に時間が存在していないのね。病院で半月も過ごしたのに、ここじゃ全然時間が経ってないんだもの。まだ話の途中だったなんて信じられないわ)
 死神の言葉通り、冥府に時間は存在しないのだ。
「でもどうしてここにまた来たのかしら。本当に死ぬ時まで、ここには来たくないのに」
「さあ」
 氷雪は冷たく言った。
「冥府に聞かないとわからんだろうなあ」
 ヨランダは氷雪から目を離し、別の方向を見る。その目を離した一瞬だけ氷雪の表情が驚愕にかわったのを見ることは出来なかった。
 氷雪は枝に手を差し伸べる。枝にぶら下がるたくさんの魂は吸い寄せられるかのように彼の手の中にいくつも落ちてくる。ヨランダは、落ちてくるそれを一つ取ってみたが、羽のように軽く、綿よりも柔らかな手触りに驚いた。だが氷のような冷たさだ。
「魂って、こんな感触なのね……。なんだか冷たい綿を持ってるみたい」
「生者は触ることも見ることもできないらしいが、冥府に近しき魂ならば、冥府の炎を浴びた後の魂を触ることもできるんだろう」
 魂の樹木の中に入り、青白く燃え上がる浄化の炎の中に、魂たちを投げ込む。魂たちは一瞬燃え上がると、すぐ消え去った。生者の世界へと旅立ったのだ。だがヨランダが近づくと、いきなり浄化の炎は消えてしまった。
「また消えちゃった。一体どうしてなの」
「あんたが生者の世界の者だから浄化できない、らしい」
「らしいって?」
「頭の中にピンとくるんだ」
 氷雪は死神と同化しているのだから、死神の持つ知識が彼の頭の中にも伝わっているのだろう。
「わかんないわ」
 ヨランダは首を振っていた。
「なにが?」
「冥府の炎を浴びてないなら、アタシは死んでない。でもここは死者だけが来られる特別な場所。同じ事言うけど、アタシは本当ならここにいちゃいけないはずなのよね? でもどうして何度もここへきてしまうのかしら」
「……」
「アタシは生きているの? それとも死んでいるの? 急に分からなくなってきたわ……」
「それを確認するのは簡単だと思う」
「あら、どうするの」
「手を握ってみればいい」
 差し出される相手の手を、ヨランダは握った。氷のように冷たい。
「あたたかいな……。生者の証拠だ」
 名残惜しそうに、氷雪はヨランダの手を離した。
「生者の魂は温かいが、ここにくる魂は皆冷たい。冥府の炎を浴びることで生者の世界の力を完全に焼きつくされるからだ」
 まだぬくもりが残っているのか、自分の右手を見つめる。
「それよりも、ヨランダ、私は――」
 彼が何か言いかけた時、ヨランダの目の前は真っ白になった。

 ヨランダが目を開けた時、時計の針は二時四十分をさしていた。冥府から戻ってきたというのに時間はそんなに経っていない。
「また戻ってきたんだわ……」
 眠っていたはずなのに、ヨランダの頭はさえている。
 いつの間にか、雨が降り出している。遠くで雷が鳴る音が聞こえてくる。薬のにおいが充満する小さな病室の中で、ヨランダはためいきをついた。
(アタシって、死んでるの? 生きてるの?)
 心臓は動いている。ならば彼女は生きているのだ。では、冥府で彼女の心臓は動いているのだろうか。いや、動いていないだろう。なぜなら、冥府にむかうのは魂であり、心臓を持つ肉体ではないのだから。まあ実際に確かめてみなければわからないのだが。
(アタシは、生きているのよね?)
 生者の世界にいるのだ、彼女は生きている。だが今の彼女には、自分が生きている存在なのか死んでいる存在なのか、本当に分からなくなり始めていた。冥府の獣だって、紅蓮だって、この世界に出てこられるのだ。だが彼らは、生者の目に姿が映らないし、触れることもない。冥府に近しき魂を持つ存在は冥府の住人を見ることが出来るが、本当は生者の世界に属するものだ。例外的に冥府の力をわずかに残して生者の世界に降りてきた魂だからこそできる。氷雪は彼女を「生者の世界の存在」と言ったが、彼の言葉も疑わしくなってしまう。
 ヨランダはベッドからおりた。まだ傷が痛む。退院するにはまだ早い。普通なら早く退院したいと願うかもしれないが、今のヨランダはこの傷の痛みをずっと感じていたいと思っていた。肉体が痛みを感じ取れるのは、自分が生者の世界で生きている証拠なのだから。
 その後、医師の診察が終わり、ヨランダはまた部屋にひとりとなった。時計はいつの間にか四時を指している。そろそろ、空が赤くなるころだ。しばらく曇り空を眺めていたが、空の色は全く変わらない。冥府の獣の気配すらない。
「……また来ないわ」
 病院で目覚めた後も、空は太陽以外に赤くなることはなかったのだ。冥府の獣の気配はあれから途絶えてしまった。いつも見てきたものなのに、見えなくなるとなんだかさびしくなる。しかし冥府の獣が現れて彼女を襲うのは、勘弁してほしい。
「でも病院の中までつけ狙われなくてよかった」
 ヨランダはカーテンをしめた。だがすぐ開けた。空が、あの不気味な赤に染まり始めたのだ。だが冥府の獣の気配は一切感じ取れない。
「何も出てこないわね」
 彼女はしばらく空を見つめた。ふと、赤い空間の中央に、何かが見えた。燃え盛る炎のようなもの。ケルベロスの毛皮だろうか。その炎のようなものは、数秒ほどいたが、赤い空間の中へと吸い込まれていった。そして、赤い空間は消滅し、曇り空が戻ってきた。
「一体なんだったのかしら」
 彼女はまたカーテンをしめた。
(それにしても、話の途中でここへ戻るのも、なんだかスッキリしないわね……)
 しかし話の続きを聞くためだけに冥府に向かう、などという愚行は嫌だった。
 それから、日々は過ぎていった。空はそれから一度も赤くならず、眠っている間に冥府に戻ってしまうこともなかった。彼女の怪我は順調に回復し、無事に退院の日を迎えることが出来た。もう九月の終わりごろであった。

 耳障りな断末魔をあげて、最後の獣が倒れた。
「!」
 傷だらけの紅蓮は、ふと我に返った。自分の周りには、浄化された後の、冥府の獣の群れの残骸がうず高くつもっている。まるでほこりのようだ。
「いつのまにこいつらを……? ハイになりすぎて忘れちまったのかな。こんだけ傷だらけになってるんだ、よっぽど無茶なことやらかしたんだろうな」
 紅蓮はそれ以上気に留めなかった。傷を癒すために冥府の奥底へと向かう。彼の姿は黒い球体に変化し、急上昇する。上にある、底知れぬ闇の中へ向かうと、球体は生前の姿に戻る。
 冥府は、紅蓮の傷を癒してやる。どす黒くなった長剣が徐々に青白い輝きを取り戻し始める。
「おい、冥府」
 紅蓮は言った。
「あの《忌まわしいモノ》が言ったんだよ、今わの際に。俺の事を、冥府の罠に陥った哀れな奴だってな」
――……。
「一体どういう意味なんだ。それとも、あれはただの戯言にすぎないのか?」
――……愚か者め。《忌まわしいモノ》の言葉に耳を傾けるとは。そそのかされるまま、もう一度我が体内に穴をあけるつもりか。
 紅蓮は歯噛みした。
「その言い方からすると、あの言葉には意味がなかったって事か。なら、もう一つ聞きたいことがある」
 一呼吸。
「なぜ俺の記憶は完全じゃないんだ。この冥府に来てから《カリビト》になるまでの記憶の中で、きれいに抜け落ちているモンがある。獣どもの囁きに耳を傾けて壁を破った後、生者の世界で俺はいったい何をしていたんだ!? その記憶だけが綺麗に抜けてるんだ! 全てを見ていたお前なら知ってるはずだろ! 教えてくれよ!」
――愚かなる紅蓮。欠落した記憶を取り戻し、己の愚行を知りたいと? 貴様の愚かさには、つける薬など存在せぬようだ。
「やっぱりお前は知っているんだな。教えろ!」
 一瞬、紅蓮の両眼が濁った。しばらく呆けた顔になり、彼はぼんやり立っていた。だが、そのうちその両目の濁りが消えて、元通りの不気味な血の色に戻る。
「もう行ってくる……」
 先ほどまでの剣幕はどこへやら。傷の癒えた紅蓮は長剣を鞘に収め、回れ右をして去った。紅蓮の姿が闇に呑まれてしまうと、冥府は不気味な声を降らせた。
――貴様の犯した愚行については、貴様が《カリビト》として生まれ変わる前に、我に申したではないか。時が来るまで、記憶を戻してはならぬ、とな。愚か者め。
 冥府のどこかで、獣の咆哮が響き渡る。
――獣と《忌まわしいモノ》どもをさらに減らさせねば……。獣の意思が紅蓮に働きかける限り、何も手は打てぬ。
 次に紅蓮が傷を治しに訪れた時はどうなっているだろう。冥府の獣はどのくらい減らされているだろうか……。氷雪と死神の同化が解けてしまう前に手を撃てるだろうか……。


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