第4章 part2
「ああもう、締め切りは来週じゃないの、早く原稿ちょうだい!」
「ヨランダ、このデザイン画おねがい」
「はーい」
いつもの仕事が始まった。ヨランダは退院してから色々と身の回りの整理をした。もう冥府に行く事もなくなり、ほっとしているところだ。あそことは、本当に彼女が寿命を迎えるまで、行く必要のない場所になってしまったのだろう。空が赤くなる事もなくなったし、冥府の獣の気配は全く感じ取れないのだから。
多忙な日々が過ぎて行った。十一月の終わりごろ、同僚と一緒に近くのレストランへランチを食べに出かける。冷たい風の吹き付ける外から店の中に入ると、少しききすぎた暖房の熱い風が吹きつけてくる。すぐコートをぬぎたくなるほどだ。
注文した料理が運ばれて、皆がしゃべりながら食べている時、ふと話題が変わる。
「わたしの友達ね、おじいさんがこないだ死んじゃったんだって。八十歳越えててさ、あんまり歩けなくなったから病院のベッドで延命措置をうけてたんだけど、自分でその装置を壊したか何かしたらしいのね。それで、安定していた体調が急に悪くなって、家族が駆けつける前に死んじゃったって」
「どうして壊しちゃったの」
「わかんない。チューブで生かされるのが嫌だったんじゃないのかな。それとも、寂しさに耐えられなくってそうしたとかじゃないのかな。友達の家族はみんな忙しくてさ、めったに会いに行けなかったらしいのね」
「生かされるのが、嫌だったんじゃないの? そのひとは自然死を望んでいたとか」
「わかんないわよ、本人じゃないんだもの」
「人間の尊厳ていうけど、チューブまみれになってまで生かされるのはちょっとねー」
「でも、死にたくないってのが普通の感覚よね。だからずっと生かされ続けるのかもしれないわ」
「老衰で眠るように死ぬのが一番楽かもしれないわね」
「でもさ、やっぱり死ぬのって嫌じゃない?」
「どうしたって死ぬのは避けられないって。ならさ、生きているうちにハデにぱーっとお金つかっちゃって、豪遊、なんてやってみたいのよね」
「それが出来れば苦労も何にもしないって」
「そうよねー、まず金持ちを見つけたほうがいいわよねー」
あれこれ喋っているうちに、ランチの時間が終わりに近づき、店をあわてて出る一同。会社に戻った時、午後の仕事は始まった。
書庫で過去のデザイン画を探していたヨランダは、ふと手を止めた。ランチの間に交わした会話が頭の中に引っ掛かっていたからだ。
(どうして、死ぬのが嫌なのかしら)
肉体の死後、魂は冥府に向かうことを知っているし、その魂が浄化の炎をくぐって生者の世界に再び戻ってくる事も知っている。だが、ヨランダは思う。「死にたくない」と。
最初に冥府の入口に立った時、まだ自分は冥府に来るべきではないとして、生者の世界へと戻された。二度目は《忌まわしいモノ》によっておこされた事故であったが、冥府は死亡判定を下さずただ彼女をとどまらせたにすぎなかった。
二度目のとき、彼女は死にたくないと切実に思った。なぜそう思ったのだろう。やり残したことがある、誰かに会いたい、……色々あるだろうが、結局は生者の世界への未練にすぎないのだろう。いつか必ず冥府に行かなければならないのだ、それがわかっているからこそ、それを先延ばしにしたいだけなのかもしれない。だからといって、
「死ぬのは避けられないけど、冥府の獣になるのはまっぴらね!」
ヨランダはまた仕事を始めた。
(もし、本当に死ぬ時が訪れたなら、なにも未練を残さず綺麗に冥府にいきたいものね。たぶん、百歳くらいまで生きていればいいんじゃないかしら。そこまで生きていれば、やることなんてやりつくしているかもしれないしね)
はたしてそんなことが出来るのかと、自問した。
仕事は終わり、日報を提出した後、ヨランダは荷物をまとめて会社を出た。黄昏時。帰りを急ぐ人々で混雑する道路。
「あーあ。今日も疲れたわね。デザイン画が山ほどあるから、いつも調べなおすの時間かかっちゃうんだから」
今日も、空間は変化しない。買い物を済ませて家に帰り、玄関に鍵をかける。夕飯を作り、それが終わったらシャワーを浴びて寝室に入る。雑誌を読んだりラジオを聞いたりしてから、部屋の明かりを消す。
「今日も疲れたわねえ」
時計の針は十時半を指している。ヨランダはそれを確認して、目を閉じた。
目を開ける。
ヨランダは、赤い空間の中を落ちているところだった。
そうだ、これは冥府へ向かう空間の中だ。夢ではない事を、なぜか彼女は知っている。
「それよりも、ヨランダ、私は少々不安になってきたところなんだ」
聞き覚えのある声が聞こえた。だが少し遠くから聞こえてくる。ヨランダの体はどんどん落ちて行き、赤い空間はやがて青白くなり始める。冷たい風が吹きつけてくる。
「このままだと冥府は――」
ヨランダは氷雪の目の前に立っていた。何かをしゃべりかけていた氷雪だが、彼女を見るなり、口を半分開けたまま話すのをやめてしまった。
「あの……」
しばらくの沈黙の末、ヨランダはやっと声を出す。氷雪は、開けかけの口をいったん閉じた。
「服装が違っているが……また戻っていたのか? 私の喋っている途中で?」
「ええ……そうだったみたい」
今のヨランダの服装は、寝間着姿。とても人に見せられたものではない……。前回は入院着だったが、どちらがよかっただろうか……。
「戻ってから半年くらい経ったんだけど――」
「半年?」
相手の表情から見ても、この冥府ではほとんど時間が過ぎ去っていないのは明らかだ。
「ええ、半年くらい。無事に退院したのに、また戻ってきたのよ……。もう、本当に死ぬときまでここには来たくないのに」
「しかも冥府の入り口には行っていない……。ならばあんたはまだ生者の世界の住人だな」
ヨランダはふと顔を横に向ける。
「ねえ、何か聞こえてこない?」
「何が」
「あっちから、何かが聞こえてくる気がするの」
ヨランダの指差す方向には、闇が広がるばかりだ。だが彼女はその方向から、何かを聞きとっていた。その何かは、
「獣の声……?」
だがおかしい。冥府の獣の気配は感じ取れない。氷雪も同じく。目を細めて闇の中を見つめているのだが――
「確かに獣の声なんだが……あの気配がない……」
そのうち、闇の中に赤い点が現れる。ケルベロスの毛皮だろうか。いや、先ほど聞こえてきた獣の声はこのケルベロスのものではなかった。ケルベロスのそれよりも遥かに不気味な声、冥府の獣に近いものであった。
赤いそれは、近づいてくる。ゆっくりと。近づくにつれ、その姿が徐々に分かり始める。四足ではない、二足歩行の、赤く燃え上がる炎のような姿をしたモノ。ケルベロスではない。別のなにかだ。
「な、なにあれ!?」
ヨランダは裏返った声をあげた。姿がはっきり見えてきたそれは、燃え上がっている獣だった。だが今まで見てきた獣の中では、最も人間に近い姿をしている。背丈はおよそ二メートル、二足歩行、腕は脚の先まで垂れ下がるほど長く、爪は恐ろしくとがっている。筋骨隆々とした肉体、口が耳元まで裂けている顔、不気味に光る両眼。獣でも《忌まわしいモノ》でもないような……?
(!)
氷雪は悪寒が走ったのを感じ取った。あの不気味なモノには覚えがあるのだ。だが、あんな獣は見たことはないはずだ。ましてや《忌まわしいモノ》とも違っている。それなのに、彼はあの不気味に燃え上がるモノを知っているのだ。
「……何だ、あれは……?」
わからない。
燃え上がるモノは、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。そのモノが歩いた後、足跡も燃えていたが、すぐ闇に呑み込まれた。ゆっくりと徐々に近づき、そのモノは、吠えた。先ほどヨランダたちが聞いた、不気味な声。
「ヨ……コ……セ……!」
不気味な声が耳に届く。人の声に近いが、冥府のように無機質な感じはない。そして不思議なことに、ヨランダも氷雪も、その声をどこかで聞いたことがあるような気がした。
燃え上がるモノは、腕を突きだした。その突きだされた片腕は、氷雪を指している。
「ヨ……コ……セ! キサマ……ノ、タマ、シイヲ……!」
氷雪はヨランダの腕をつかみ、魂の樹木の内部へと、放り投げるように押し込んだ。同時に不気味なモノの腕が異様なまでに赤い炎を帯び、炎の球体を打ち出してきた。
「ヨコ、セ!」
すんでのところで、樹木全体に結界を張る。炎の球は結界にぶつかったが、結界全体を包み込んで燃え上がり、数秒ほどで消えた。
「な、何だこの力は……」
氷雪は身を震わせた。あと一瞬、結界を張るのが遅かったら、魂の樹木は焼き尽くされていたかもしれない。結界に当たった途端、結界越しにその熱さが伝わってきた。とんでもない高温の炎だ。だが、この冥府に、熱を持つ炎を操ることのできるモノがいるはずがない! ケルベロスですら、毛皮は熱いのに、その炎は冷たいのだ。
燃え上がるモノは、再び炎の球体を放つ。今度も結界で防ぐ。だが、結界を覆い尽くせる威力の炎の攻撃を、いつまで防げるだろうか。結界を張るだけでも、獣を山ほど浄化するのと同じくらいの消耗があるのだ。
何度も炎の攻撃が続き、結界がそれを防ぐ。氷雪の肩が大きく上下し始め、結界の大きさが少しずつ小さくなってくる。燃え上がるモノは容赦なく炎を浴びせる。
「キサマ、ノ、タマシ、イヲ……」
その時、燃え上がるモノの全身から炎がいきなり消えた。そして苦しみ始める。
「ヴウウウウ!」
もがき、のたうちまわる。突然のことに、氷雪は結界を張るのも忘れて、燃え上がるモノが突然苦しみ出したのをポカンとして見ていた。
「ヴォォォォオ!」
激しい炎が燃え上がり、燃え上がるモノはそれに包まれる。数秒ほど経って、炎は消えたが、燃え上がるモノも消え去っていた。いや、燃え尽きたのではない。炎と一緒にどこかに消えてしまったのだ。焼けた跡が、どこにもなかったのだから。
「い、いなくなったのか?」
脱力した氷雪。ヨランダは顔を出した。
「さっきの、変なのは? やっつけたの?」
「わからない。去ったことは確かなんだが……」
氷雪は呼吸が落ち着くまで待った。それから、しゃんと立ちあがる。
「あれはいったい何だったんだ? 獣でもない、《忌まわしいモノ》でもない……。しかも私を直接狙ってきたぞ。それに――」
あの不気味なモノが燃え上がった場所に目をやる。もう闇がその場を覆い隠している。
「私は、あれを知っている気がする」
「知っている? 会ったことがあるの?」
「ないはずなんだ……」
氷雪は、血色の悪い顔をさらに悪化させている。
獣に食われた箇所が、痛み始めた……。
(知らないはずなのに……何故知っているんだ?)
冥府の奥底。
全身が傷だらけになり、憔悴しきった紅蓮は、やっとのことで到着した。冥府は彼の傷を癒してやる。どす黒い長剣からも闇が抜き取られて、次第に青白い輝きを取り戻していく。
「だ、だいぶ減らしたぞ、冥府……」
傷は徐々に治っていく。だが紅蓮の憔悴はなかなか回復しない。傷はふさがったのに、彼は長剣にもたれかかってあえいでいる。激しい戦闘の末、数百匹もの獣の群れを全て浄化することに成功したのだ。残念ながら、獣を動かしていた《忌まわしいモノ》には逃げられてしまったが。
――貴様にしては上出来。
「こ、このまま上手く減らせれば、獣どもを根絶するのも、時間の問題かもな……」
紅蓮は大きく息を吐いた。その顔からも憔悴は消えていない。
「次の群れに行くまでに、もう少し休ませてくれ。もう限界だ、くたびれたどころじゃねえ……」
――貴様にしては気弱な言葉。
「うるさい。傷は治っても、消耗までは回復しきらないんだよ! 立ってるだけでもつらいんだからな!」
それ以上言わせず、《カリビト》は本来の姿に戻る。黒くて、不気味に脈打つ球体だ。球体は沈み、闇の中へ自らもぐりこんでいった。《カリビト》は眠ったのだ。この様子では当分目覚めはしないだろう。
――眠りに堕ちたか……。
冥府の低い音声だけが辺りに響く。
――紅蓮の消耗が激しくなっている。《奴》がとうとう動き出したのだな。餌として食らい続けてきた獣どもが紅蓮によって減らされたために、空腹を我慢できなくなったか……。
冥府は、音を放った。
――既に《奴》は魂の樹木へ向かったが、飢えに耐えきれず撤退……。ならば、再び《奴》が襲い来る前に、手をうっておかねばならん。氷雪の力が尽きれば、死神との同化は解けてしまうのだから。
「!」
二人は同時にハッとした。
音が、降ってきたのだ。
ヨランダの耳にも、氷雪の耳にも、はっきりと聞こえてきた。冥府の音だ。
冥府の音は、二人に伝えた。新たに現れた存在についての情報だ。
熱い炎を身にまとった不気味なモノ。あれは、《忌まわしいモノ》よりもはるかに貪欲な存在。元々は《忌まわしいモノ》の一体でしかなかった。生者の魂では飽き足らず、他の獣どもも食らって腹を満たそうとしている。だが獣をいくら食らっても腹は満たされず、しかも獣どもは《カリビト》によって数をさらに減らされてきたために、喰うものが少なくなり、とうとう姿を現したのだ。魂の樹木を襲い、魂を食らうために。幾多の獣や《忌まわしいモノ》を喰ったためにその力は連中の数倍以上もあり、生命力もケタ外れ。
《忌まわしいモノ》よりもはるかに忌まわしい存在。
「ボスみたいなやつなのね」
ヨランダはぽつりと言った。
「でもどうして冥府は直接自分でそいつを倒そうとしないの? 冥府はこの世界そのものなんでしょ。自分の体の中の異物を排斥するくらいたやすいと思うんだけど」
「冥府は直接手出しが出来ない。そう決められているそうだ。だから死神やケルベロスや《カリビト》がいるんだ。でなければ全部自分の手で何とかしているはず」
「決められているって、誰に?」
「巨大な存在。死神の知識の中ではそれを《意思》と呼んでいるようだけれど……」
その時、遠くから唸り声が聞こえてきた。それは、れっきとした、冥府の獣の声だった。ぞくぞくと集まりつつあるその獣たち。だが、不思議なことに、その唸り声が徐々に近づくにつれて、獣の数が徐々に減っているように見えてくる。
獣たちが集まる中、なぜか断末魔が聞こえてくる。さらには、魂の樹木の放つ青白い光ではなく、炎の赤い光が見えてくる。
「来た!」
二人は同時に叫んだ。
燃え上がるモノが、冥府の獣を喰いながら、近づいてくるのだ。他の獣たちは、自分たちを喰おうとしている者が傍にいるのに、いっこうに気にかけずに魂の樹木に向かってくる。獣は貪欲さによって動いているだけで、群れをなす個体がどんどん喰われても、決して疑問に思う事はないのだ。
「獣の浄化が先だな!」
氷雪は大きく息を吸い込んだ。ゆっくりとだが、体力は戻りつつある。獣を一掃することが出来れば、余計な力を使わずに済むだろう。あの燃え上がるモノからの攻撃を防ぐために張り巡らせる結界は、浄化より多くの力を消費するのだから、それにそなえておきたいのだ。
(獣が一掃されただけであの不気味な《奴》が撤退するとは思えんが……)
氷雪は、もう一度深呼吸した。ヨランダは思わず彼の後ろに回る。
獣たちは数を減らしながらも、徐々に魂の樹木を取り囲んでくる。燃え上がるモノの姿がはっきりと確認できるほど、近づいてくる。しかも、手近な獣を手で乱暴に掴み、大きく裂けた口の中へ抛り込んでいる。喰われた獣は鋭い牙で噛み砕かれ、断末魔の悲鳴を上げて絶命した。獣の残骸は残らずその裂けた口の中へ吸い込まれて行く。
(気持ち悪い……)
ヨランダは吐き気をこらえた。
獣の群れは確実に減っている。だが確実に魂の樹木を囲みつつある。
ふいに、魂の樹木の輝きが増した。その輝きは、氷雪の手首と足首につけられている守りの枷に向かっていく。枷が光を吸収する。氷雪の力が、戻ってくる。
「冥府が力を貸しているのか?」
それ以上疑問視する時間はなかった。氷雪はすぐに浄化を行う。腕の一振りで、獣の半数以上が消滅する。反動による疲労はない。やはり、冥府が彼に力を与えているのだ。氷雪は次々に浄化を続け、獣の群れを完全に消滅させた。喰うものがなくなり、燃え上がるモノだけが残される。何度も浄化の力を叩きつけたにもかかわらず、消滅していない。
「何てタフな奴だ。ろくに傷ついていないぞ」
燃え上がるモノは遠くから炎の球を投げつける。結界を張って防ぐ。
「熱い……!」
思わず漏らした言葉。高温の炎が結界を包んだが数秒ほどで消える。だがその熱さは、先ほど襲いかかってきた時の比ではない。もっと熱くなっている。
「ヨ、コセ……!」
燃え上がるモノの声が、炎の向こうから聞こえてきた。高温の炎が再び結界を取り囲み、燃え盛る。徐々にだが、その燃え盛る時間が伸びてくる。
「キサマヲ、クワセ、ロ!」
燃え上がるモノが徐々に近づいてくる。ヨランダはその不気味さに圧倒され、声も出せない。氷雪はそんなことお構いなしに、結界を張るために必死で集中している。わずかでも集中が途切れれば終わりだ、魂の樹木は炎に包まれて燃えてしまう。そうすれば魂が冥府に飛び散り、獣どもの腹におさまってしまうだろう。
炎の攻撃はしつこく続く。燃え上がるモノは徐々に近づいてくる。そして、何度目か分からなくなるほどの炎の攻撃が終わると、燃え上がるモノは結界のすぐそばまで近づいていた。思わずヨランダは悲鳴を上げる。氷雪自身もぎょっとした。いつのまにこんなに近づかれたのだろう?!
「ヨ、コセ、タマシ、イノ、ノコリ!」
燃え上がるモノはその長い腕を振りあげた。鋭い爪が結界に当たり、弾き返される。
「ぐっ」
急に氷雪の体に激痛が走った。体を裂かれたような痛み。そして激痛の走った個所は、冥府の獣に喰われた部分であった。激痛で集中が途切れ、結界が弱まる。燃え上がるモノはもう一度腕を振りあげる。爪が結界に当たる。今度は弾かれないが、すぐに燃え上がるモノは腕を離してしまった。二度目の攻撃でも、氷雪には激痛が走る。痛みに耐えきれず、彼は膝をついてうずくまってしまった。
結界がさらに弱まる。もう一度腕が振り下ろされ、今度はたやすく結界を割ってしまった。パリンと音を立て、結界は粉々に砕け散ってしまう。燃え上がるモノは勝利の雄叫びをあげた。
「ヨ、コ、セ!」
腕が振り下ろされると同時に、その腕はガチンと弾き返された。すんでのところで、結界が張られたのだ。魂の樹木を守れるほど巨大ではないが、氷雪とヨランダを同時に守れるほどの大きさ。
燃え上がるモノがひるんだ。氷雪は気力を振り絞って、燃え上がるモノに、直接、浄化の力をありったけたたき込んだ。
耳をつんざく絶叫。青白く光った後、燃え上がるモノはよろめいた。氷雪はすぐ手を離したが、その右手はどす黒くなっている。火傷のあとではない。直接触れたために、獣や《忌まわしいモノ》の力を若干吸収してしまったのだ。
「ガ、アアアア……」
燃え上がるモノは、よろめいた。氷雪は追い討ちをかける。浄化の力が再び叩きこまれる。氷雪は立てなくなるほど消耗してしまったが、相手には大きなダメージを与えることが出来たようだ。燃え上がるモノの、氷雪に触れられた部分が青白く光って、魂がいくつも飛び出したのだ。魂たちは樹木を目指して飛んでいく。喰いためてきた魂を抜かれたためか燃え上がるモノはさらに大きくよろめき、一瞬にして炎の中へと包まれた。炎が消えた時、そこには跡形もなくなっていた。
「逃げたか……」
ぜえぜえと荒く息をつきながら、氷雪は、先ほどまで燃え上がるモノの立っていた場所を見た。勢いよく炎は燃え上がった。なのに、跡形もなくなっている。燃えた形跡など見つからない。
「た、助かったの……?」
ヨランダは緊張の糸が切れ、その場にへたり込んでしまった。脚がガクガク震えている。
「助かった、と思いたい……」
呼吸が落ち着いてきた氷雪は呟いた。掌の痛みは消えているが、黒ずんだ掌が元通りになるには時間がかかりそうだ。魂の樹木の光は急激に弱まった。守りの枷の輝きはいつのまにか消えている。これ以上冥府は彼に力を注げなかったのだろう。
(また攻めてくると、私はもたないかもしれない……)
何かが割れる音が聞こえてきた。だがどこが割れたかなど、音源を探さずとも、彼には分った。
冥府の傷口が、また少し開いたのだ。
(くそっ、紅蓮は何をしているんだ! 狩りに夢中で傷口を守るのを忘れているのか!?)
獣の気配はない。このあたりの者はあらかた浄化してしまったし、燃え上がるモノもそのうちのいくらかを喰ったのだから……。
(冥府にはまだあんな《奴》がいるのか……。だが、なぜなんだ。なぜ私は奴を知っているんだ? 一度も遭遇したことはないはずなの、に……)
急に目の前がゆがんだ。目の前が真っ暗になって、そのまま、氷雪は倒れてしまった。
「だ、大丈夫?」
ヨランダは手を差し伸べた。触れると、その体は氷のように冷たかった。いや最初から冷たいのだ、彼は、冥府の炎を浴びた死者なのだから。
「ね、ねえ、一体どうしちゃったの?」
ゆすってみるが、反応がない。目を開けもしなければ身動きもしない。
「ねえ、起きてってば!」
強くゆするが、反応はない。
――それ以上触れてはならぬ。
急に音が降ってきた。冥府のものだ。ヨランダは上を向いて叫んだ。
「ね、ねえ! 彼を起こしてよ!」
――氷雪は消耗しすぎている。しばらくは目覚めぬ。
「起きないの? で、でもその間どうするのよ? ここを誰が守るのよ!? アタシは何にも出来ないし――」
その時、氷雪の体が不気味な闇に包まれた。その闇は彼から分離した。見覚えのある不気味な二つの赤い目が、ヨランダを闇の中から見つめてくる。
死神だ。
――同化を解き、死神に再び守らせる。先ほどの戦いで氷雪は消耗しすぎているのだ、これ以上力を使わせるわけにはいかぬ。
死神は魂の樹木の傍までフヨフヨと漂い、それから氷雪に不気味な腕を向ける。目を閉じたままの氷雪の体は青白い水晶で包みこまれ、空中に浮いた。青白い巨大な水晶は魂の樹木の中へと入る。ヨランダも後を追う。水晶は魂の樹木の壁におさまり、魂の樹木が彼に力を送り始めた。
冥府は言った。
――紅蓮も狩りにて消耗し、今は眠りについている。……《奴》が現れるのがこれほど早かったとは、誤算であった。
「ねえ、冥府。あなた知らない? 彼が、「知っているような気がする」って言っていたんだけど、どういう事なの?」
暫時の沈黙。
「ねえ、教えてくれない? あの燃えている奴は、彼を明らかに狙っていたの。どうしてなの?」
暫時の沈黙。やっと冥府は音を落した。
――あの《忌まわしいモノ》は、生者の世界で肉体の死を迎えつつあった氷雪の魂を食らったのだ。
ヨランダの頭の中に、何かが燃える音や、熱さが思い出される。氷雪が命を落としたのは、火災が起きている建物だったのだろう。
――氷雪の魂が全て喰われる直前、《奴》はケルベロスによって我が体内に引きずり戻された。だが、《奴》は諦めること無く、己の貪欲さに身を任せて獣どもを食らって糧にし、氷雪を狙う機会を待ち続けてきたのだ。
「待ち続けたって、あんた知ってたの!?」
――この体内で起こることは全て知っている。
「知っていたのに、何も手を打たなかったの?」
――必要以上に手を出してはならぬ。我は《意思》より命じられている。我は直接手を出すことが出来ないのだ。《意思》には逆らえぬ。たとえ《奴》が我が体内で暴れ狂っていても。
「……《意思》って誰の意思?」
――生者の世界と、我、すなわち冥府を創造し、生と死を作り上げた存在。我が伝えられるのは、それだけだ。《意思》の前では、我など矮小なる創造物にすぎぬ。そして、《意思》の命令は絶対。
「神様、なの?」
――貴様らは、そう呼んでいるのであろう。
冥府の答えはあいまいだ。
――《意思》は、貴様に夢の道をさずけた。
突然の話の切り替え。
「夢の道?」
ヨランダは目を丸くした。
――《意思》は、生者の世界と冥府を行き来できるよう、貴様に夢という名の道を授けたのだ。
冥府は繰り返す。だが彼女には事情が呑み込めない。
「道を授けた……アタシがこの冥府にいるのはもしかして――」
――夢を通じて、貴様の魂は我が体内に訪れたのだ。そしてこれは、貴様の意志とは関係なく起こる事。貴様は《意思》の望む時に我が体内に召喚され、《意思》の望む時に生者の世界へと戻るのだ。
どうしてそんなことを、と言いかけたが、冥府は彼女の言葉を引き継ぐように、言った。
――貴様は、本来ならば、浄化の炎を浴びて転生せねばならぬ身。《忌まわしいモノ》の起こさせた事故とはいえども、我は貴様を転生させるべきと判定した。だが《意思》は貴様を生者の世界に戻すことにした。そして、生者の世界と冥府を行き来できるように、夢という道を貴様に与えた。《意思》が何を考えてそのような事をさせるのかは、我には全く分からぬ。
二重の衝撃。
本当なら、ヨランダは、あの事故で死んでいた。
――《意思》が貴様に何を望んでいるのか、我には全く分からぬ。だが、《意思》は絶対たる存在、我はその命令には決して逆らえぬ……。
最後の言葉など、ヨランダの耳には入っていなかった。
彼女の視界が急に白くなり、冥府の闇が完全に白に呑まれた。
ヨランダは、自室のベッドの上に起き上がった。全身が汗だくだ。時計を見ると、まだ十時四十五分だった。眠ったのが確か十時半、そんなに時間は経っていない。冥府で過ごした時間の方は一時間にも感じられたのに……。
「アタシは、死ななくちゃならなかったの……?」
彼女は全身を震わせた。心臓は動いている。体は温かい。彼女は確かに生きている。だが、冥府の言葉が本当ならば――
いつの間にか、ヨランダは泣いていた。
時計は、黙々と時を刻んでいった……。
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