第5章 part1



《意思》はヨランダを冥府から生者の世界へ戻した。これ以上彼女を冥府にとどめるつもりはなかった。
 冥府につけられた大きな裂き傷は、少しずつ広がりを見せている。だが、冥府の獣も《忌まわしいモノ》も、そこから抜け出そうとはしなかった。
 燃え上がるモノが、冥府の傷口の前に陣取り、獣どもを喰い続けていたからだ。冥府の獣も《忌まわしいモノ》も、もともとは冥府の魂、それらを喰って腹を満たしているのだ。燃え上がるモノが傷口の前に陣取っている限り、獣たちは生者の世界に逃げることは出来ない。燃え上がるモノは、冥府の傷口に近づこうとする愚かな獣を片っ端から捕まえ、口に押し込む。断末魔の悲鳴があがり、獣は体内に取り込まれた。
「タ、リナイ……」
 近づく者をあらかた喰った。だがその腹は満たされていないままだ。
「タリ、ナイ……」
 足りないと言っているのにもかかわらず、燃え上がるモノはその場から動こうとしない。ここに陣取っていれば、愚かな獣がいくつか近づいてくる事を知っているのだろう。だが、なぜ、自ら生者の世界に向かおうとしないのか。獣はそのうち怯えて姿を消してしまうが、生者の世界ならば、冥府に近しき魂を持つ者以外には姿が見えないので標的となるものがたくさんあるのに。
 燃え上がるモノは、近づいてきた獣を捕まえ、裂けた口に無理やり押し込んだ。冥府の獣は断末魔の声を辺りに響かせながら、喰われていった。
「タリナイ……!」
 燃え上がるモノが動き始める。だがその後も、冥府の傷口に近づこうとする獣や《忌まわしいモノ》はいなかった。なぜなら、その場所には、炎が燃え盛っていたからだ。そこに近づけば焼け死ぬということを、獣たちは知っていた。
 冥府の傷口は、不気味に脈打ちながらも、徐々にその傷を広げていった。それでも、飛び込んで生者の世界へ向かおうとする者は、誰もいなかったのだった。

 冥府の入り口。
 ケルベロスは暇を持て余しているところであった。三つの首はかわるがわるあくびを繰り返し、あくびをしていない首は冥府の獣が姿を見せていないか油断なく見張っている。たまに魂が訪れるので炎を吐きつけて洗礼を施してやる。浄化されて生前の記憶を失った魂はそのまま魂の樹木を目指して、誰かが指示したわけでもないのに、自ら飛んでいく。そして、獣に喰われなければ、無事に魂の樹木の枝につりさがるのだ。ケルベロスはそれを見送っている。
 ケルベロスは暇を持て余している。いつも紅蓮が狩りに連れて行ってくれるのに、なぜか呼んでくれない。この冥府の入り口から逃げ出そうとする獣がちっとも姿を見せていない。普通なら、群れをなしてやってくるのに……。奴らを炎で焼き、激しく焼かれた体から飛び出てくる魂を浄化して魂の樹木へと導く作業が、大好きなのに……。
 冥府の番犬は、さびしそうに鳴いた。その長い三重奏の遠吠えは、冥府の中にうつろに響いていった。

 冥府の奥底。光の一筋も見当たらぬ闇の中。不気味に脈打つ黒い球体がその中で深い眠りについている。《カリビト》の消耗は激しすぎた。夢すら見る事のない、深い眠りで体を休めている。当分目覚めることはないだろう。燃え上がるモノが本格的に行動を開始してから、《カリビト》の消耗が激しくなった。いつもの狩りよりも、何倍も激しい消耗。立っていることすら辛く感じるほどの消耗ゆえ、《カリビト》は眠りについている。いつ目覚めるのかは冥府にすらわからないだろう。
 いや、ある事実を知ったら、冥府が命じたとしても、《カリビト》は目覚めを拒んだだろう。

 魂の樹木に埋め込まれた青白い水晶は、一段と強い光を放っている。冥府は、眠っている氷雪に力を送って回復させているのだ。だが、彼は目覚める様子が無い。消耗しすぎたのだ。冥府に来た時から生者の世界で言うところの「長い時間」をかけて、彼は回復しつつあったのだが、あの燃え上がるモノとの戦いで一気に消耗してしまった。氷雪の消耗が激しすぎたので、死神はいったん同化を解除され、いつもどおり、魂の樹木の番人としてのつとめを果たしている。新しい魂が、樹木の枝につりさがり、休憩する。死神は、これまでつりさがっていた魂をもぎとって、樹木の中で燃え盛る青白い炎の中へ放りこんで、生者の世界へと転生させる。
 冥府は、彼に接触するために夢を見せる。氷雪は抗えないので、嫌でも夢を見てしまう。本当は夢などみたくない。夢の無い眠りならば、目を閉じているだけであっという間に「時間」はすぎさっていくのだ。悪夢を見てうなされ、早く目覚めたいと望む事もないのだ。
 夢の世界は、うごめく闇の世界。氷雪は目を開けているが、その焦点は全く合っていない。上から冥府の音が降ってくる。
――氷雪。消耗したな。
「もう少し手助けをしてくれたら、私はこれほど消耗せずに済んだ。また《意思》の指示があったのか、手助けをするな、と」
――そうだ。
「また手助けできないのか。このぶんだと、そのうち私も《カリビト》もやられるぞ。死神も対抗できるかどうか分からんのに……」
――死神では対抗できぬ。《カリビト》でも対抗できぬ。貴様が死神と同化せねば、あのモノを排除することは出来ぬ。
「死神単体ではだめで、私と同化して初めて奴に対抗できるのか。私と死神を同化させた時、あんたは、ある敵を消去するのが目的だと言っていた。私はてっきり獣の群れか、あの《忌まわしいモノ》どもを相手にするのだとばかり思っていたのだが、まさかあの燃える敵を相手にしなければならないとは思ってもみなかった。それより、またあの燃える敵が襲ってこないとも限らないのだから、はやく私を目覚めさせるべく力を送る方がいいのではないか? 私と死神を同化させなければ対抗できないのだろう?」
――これ以上力を増幅させることは出来ぬ。
「それもまた《意思》の言葉か?」
――そうだ。
 氷雪はため息をついた。
「冥府、本当に《意思》に逆らうつもりはないのか?」
――我にとって、《意思》は絶対たる存在。逆らう事は出来ぬ。
 また氷雪はため息をついた。
「本当にダメなのか? 愚痴はこぼしているくせに、逆らえないと?」
――我の行動ひとつで、冥府という魂の世界は危機に陥る。《意思》はそのように我を作ったのだ。全ては《意思》の考え一つで決まるのだ。貴様らがかつて存在していた生者の世界は、生者が自ら考え行動する。だがこの冥府では、《意思》が全てを決めているのだ。我には何の決定権もあたえられておらぬ。ただただ、《意思》に命ぜられるままとなるのみ。
「とんだ独裁だな。だがそうしなければ冥府の存続は危ういのか。ならばあんたにも意思それ自体は必要ではないだろうに。この冥府のあり方全てを《意思》だけが決めるのならば、冥府が愚痴を言うための意思はいらぬはずだからな。完全な操り人形がほしいなら、人形に意思など与えないだろう」
 氷雪の言葉の後、しばらく沈黙が続く。
「冥府。そろそろ教えてもらいたい」
 彼は切り出した。重苦しい空気を破るために。
「魂の樹木を襲ったあの不気味な奴。あれを、私は知っているような気がするんだ。だがどこで会ったのか、とんと憶えていない。あれは一体何だ?」
――知りたいと申すか? 愚かな。
 あざけるような声が降ってきた。
「その通りだ。なぜ私をつけ狙うのか、それも知りたい」
 しばらく沈黙が流れたが、やっと冥府は伝えた。
 ……。
 事実を伝えるのに、そんなに長い話はしなかった。だが、その短い話を聞き終えた途端、全く焦点の合っていない両眼を大きく見開いて、氷雪は体を震わせていた。
「まさか、そんな――」
――我が伝えた全てが、真実なり。それを信ずるか否かは、貴様の勝手。
「そんな、そんな……!」
 氷雪は何度も首を横に振った。
「冥府、その言葉が本当なら、なぜ奴は私を襲ってきたんだ!? 襲ってくる必要など何もないはずなのに!」
――貴様を求めているのだ、一つになろうとしているのだ。獣の貪欲さに支配されながらも、奴は貴様を求め、一つになろうとしているのだ。
 顔色の悪い氷雪だが、その顔色の悪さがさらに悪化した。しばらく震えていたが、やがて彼は、小さな声で冥府に問うた。
「《カリビト》は――紅蓮はこれを知っているのか?!」
――我は何も、奴に伝えてはおらぬ。
「そうか」
――不安か? 紅蓮が知っていたらどうなるか、不安か?
「……あんたに言う必要はあるまい」
 そう言って、氷雪は大きく身震いした。冥府は夢を終わらせようとしたが、氷雪はそれをとめた。
「冥府、もう少しこのままでいさせてくれ。きちんと考えたいんだ」
――……。
 冥府は返答しなかったが、夢の世界は残された。
 氷雪は、夢の世界にひとりで残された。

「タリナイ……」
 燃え上がるモノは、獲物を求めて冥府の内部をさまよい歩いている。獣たちや《忌まわしいモノ》たちは、燃え上がるモノを避けて隠れているが、ごくまれに、興味本位で近づく者がおり、燃え上がるモノはその間抜けな者を捕らえては喰い、魂を己のうちにとりこんでいる。それでもまだ足りないと見え、不気味な唸り声をあげながら、
「タリナイ!」
 燃え上がるモノの体から、勢いよく炎が噴き上がる。
「タマシイノ、ノコリ! ノコリヲ、テニイレネバ……!」
 再びさまよい始める。これまで歩いてきた足跡には、わずかに燃える炎が残されたが、すぐに闇の中に消え失せる。
「ノコリ、ノコリノタマシイ……」
 魂の樹木とは反対の方向へ歩き始めている。燃え上がるモノは再び、冥府の傷口の傍までたどり着いた。獣の姿は見えない。皆、逃げてしまったのだ。
「タマシイヲ――」
 燃え上がるモノは、傷口に手をかけた。傷口が燃え上がる。まるで悲鳴を上げたかのような音があたりに響き渡り、傷口はぐにゃりとゆがむ。激痛で身をよじっているかのようだ。
「タマシイヲ、トリモドス……! メイフノチカラ、テニイレテ……」
 傷口にがぶりと噛みつくと、一気に冥府の力が流れ込んできた。
 燃え上がるモノがその傷口の一部を食いちぎった。すると、傷口が、まるで身をよじるかのように、激しくうねり、ゆがんだ。食いちぎられた箇所から、まるで血液を想わせる不気味な黒い闇がほとばしった。

 冥府の入り口。
 ケルベロスは、辺りに響き渡った悲鳴のような音を聞くや否や、あくびを止めた。
 不安そうに周りを見回す。三つの頭の三つの鼻をヒクヒク動かして、何かの臭いをつきとめようとしている。やがて、一つの方向をむき、急いで駆けだした。
 魂の樹木があっというまに見えてくる。その魂の樹木は、普段よりもずっと弱弱しい光を放っていた。

 夢の世界が急にぐらついた。
「な、何だ? 何が起こった?」
 氷雪は思わず周りを見回していた。上から、冥府の声が降ってきたが、それは悲鳴といって差し支えなかった。
 キーンと甲高い悲鳴のような音が辺りに響いて、頭が割れるような痛みに襲われる。続いて周りが揺れる。まるで地震でも起こったかのようだ。揺れが激しくなるにつれ、少しずつ、だが確実に、夢の世界が壊れていく。
「冥府、一体どうしたんだ!?」
 バリンと派手に割れる音がして、水晶が割れた。氷雪は眠りから覚めて、地面に落ちた。死神が姿を見せる。
「いてて……眠りがとけるなんて……」
 氷雪は起き上がった。疲労は十分に回復していないので、立つことは出来ない。血のように赤い両眼が、死神を見る。
「死神、一体何があったんだ」
――何者カニ、冥府ガ攻撃サレタ。冥府ハ力ヲ抜キトラレテイルノダ。
 死神の言葉通り、氷雪を回復させるために力を送り続けていた魂の樹木の光が、少し弱くなっている。
「何者か? 獣ではないのか?」
――獣デハナイ。モット、禍々シイモノガ、冥府ヲ喰ッテイルノダ。
 氷雪の頭の中に、あの、燃え上がるモノが浮かんだ。
「まさかあの燃える敵が来たのか?」
 死神は答えなかったのだが、それは肯定を意味しているのだろう。氷雪は立ち上がろうとしたが、足腰に力が入らない。疲労から回復し切っていない。死神がその不気味な手で脚に触れると、触れられた部分が青白く光る。それが消えると、普通に立てるようになった。
「ありがとう」
――礼ハイラヌ。
 辺りに、いきなり甲高い音が響いた。冥府の悲鳴だろう。
 遠くから犬の遠吠え。やがてケルベロスが魂の樹木の前に駆けつけた。誰かに呼ばれたわけでもないのに。しかし、紅蓮は姿を見せていない。
「紅蓮はどうしてるんだ。真っ先に駆けつけると思ったのに。……いや、今はいない方がいいだろうな」
 氷雪はつぶやいた。
 魂の樹木の外に出る。ケルベロスが全身の毛を逆立てている。警戒しており、しきりに周りを見回している。魂の樹木の光を頼りに、ざっと見渡しても、冥府はどこも変わったところが無いように見える。だが、魂の樹木の光が、弱くなっている。薄暗い。
「グルルルルル!」
 ケルベロスが唸り声をあげた。何か見つけたらしい。いや、獣の気配は感じない。だが確実に何かがいる。中途半端な回復で目覚めさせられた氷雪は、死神との同化ができていないので、ただの浄化の力しか使えない。しかも使うほど彼は獣の力に汚染されていく。それを防ぐには、やはり死神との同化と冥府のサポートが必要だ。
「近づいてきているのか? こんな時に襲われたら打つ手が無いぞ……」
――奴ハ、近ヅイテハオラヌ。傷口ヲ喰ッテ、力ヲ貪ッテイルノダ。オソラク、フタタビ魂ノ樹木ヲ襲ウタメニ。
「傷口を喰う?」
――傷口カラ、直接力ヲ奪ッテイルノダ。
「わざわざ冥府の壁を破るよりは、すでに穴の開けられた箇所を食いちぎって力を直接吸収する方が手っ取り早いものな。だが、奴が力を蓄えている間、こちらはどうしたらいいんだ? こんな中途半端な状態では奴を滅することはおろか、戦うことすらできない。この状態でまた襲われたら、私は今度こそ喰われるぞ」
 生者の世界ならば、銃やナイフや戦車など色々な武器があるものだ。だがここにはそれらが何もない。
 またしても、あの甲高い音が辺りに響いた。ケルベロスは怯え、尻尾を股の間にはさんでしまった。情けない声がもれる。
「またやられたのか……」
 その時、氷雪の頭の中に、何かが流れ込んできた。音、声、何とでも受け取れるソレは、彼の中に一つの情報を残す。
 死神は、言った。
――《意思》ガ、冥府ニカワリ、貴様ニ情報ヲアタエタノダ。
「《意思》が?」
――《カリビト》ガ動ケヌ以上、《意思》ハ、貴様ヲアテニシテイルノデアロウナ。
「……」


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