第5章 part2



 冥府の傷口。獣や《忌まわしいモノ》の姿はどこにも見当たらない。皆そろって、燃え上がるモノに怯えて、どこかへ避難し、隠れてしまったのだ。あるいは、近づくモノはことごとく喰われてしまったのだ。
「メイフ、ノ、チカラ……モット……!」
 燃え上がるモノは、冥府の傷口を喰っていた。一口噛みつくごとに、冥府の悲鳴が辺りにこだまする。そのたびに燃え上がるモノの中に、冥府の力が徐々に入ってくる。氷雪が二度、浄化の力を直接たたきこんだために、燃え上がるモノの中にある魂はかなり失われてしまった。だからそれを補うために獣を喰い、それでも足りなかったのでとうとう冥府の傷口を喰って直接冥府の力をとりこんでいるのだ。
「メイフノ、チカラ、ツヨイ……」
 燃え上がるモノの体から、燃える炎にまじって、小さな闇の塊が噴出し始めた。その体はメリメリと音を立てている。まるで亀裂でも入っているかのような音だが、その体には本当に亀裂が入り始めているのだ。そして、その亀裂のできたところからは、闇の塊が血液の如くふきあがってきた。たびたびそれは炎と一緒にふきあがっていく。炎にも勢いがついてきた。
「タリ、ナイ……モット、クウ……!」
 燃え上がるモノの牙が冥府の傷口を噛むたび、甲高い音があたりに響き渡った。燃え上がるモノはひたすら傷口にその鋭い牙をつきたてては食いちぎり、冥府の力を己の内部に吸収していく。闇の塊が炎を呑み込み始める。やがてその赤い炎は、どんどん黒い色に変わっていく……。

 冥府の奥底。
 深い眠りについている《カリビト》は、目覚めねばならなくなった。冥府の命令だ。最初は拒絶したが、冥府が執拗に命令を続けるので、とうとう根負けした。闇の中から現れた不気味な球体は、《カリビト》の姿にかわる。紅蓮はやっと目覚めた。
「まだ眠りたいのに……」
 すぐ、紅蓮は異変に気がついた。冥府の奥底に流れてくる冥府の力に、乱れがあるのだ。
「冥府、何があったんだ!」
 耳をつんざくような悲鳴。いや声というより音と言う方が正しいだろう。甲高いキーンという音が辺りに響く。紅蓮はすぐ、目的の場所へ向かう。いつも獣を狩るときに向かう場所、冥府の傷口だ。
「な、何だこいつは……!」
 紅蓮は仰天した。冥府の傷口を喰っているのは、彼が見た事もないモノだったから。体からは絶えず炎と闇をふきあげ、一心不乱に傷口をむさぼっている。それが紅蓮に気がついて振り返る。不気味な両眼が紅蓮をにらみつける。耳まで裂けた口から、炎がちらちらと漏れてくる。
 紅蓮は自分が恐怖したのを知った。
(俺が、おびえただと……?!)
 どんな獣や《忌まわしいモノ》にもひるまなかった紅蓮が、この敵を目の前にして、恐怖を覚えたのだ。気付くと自分の体が小刻みに震えている。
 長剣を背中の鞘から抜こうとする。だが柄に手をかけることは出来ても抜く事が出来ない。それどころか、腕が、長剣を抜くのを拒絶している。
 その不気味なモノは、紅蓮を凝視していたが、何もしてこないのだと思ったらしく、また冥府の傷口をかじろうとする。がぶりと噛みつくたび、甲高い音があたりに響き渡り、頭が痛くなる。傷口から激しく闇が飛び散り、辺りの闇に呑まれる。
 冥府の命令が紅蓮の体を無理に動かす。紅蓮の腕はやっと長剣を抜いた。体がぎこちなく動きだし、あの不気味なモノを攻撃する。全て紅蓮の意志ではなく、冥府が動かしているのだ。
 背中を斬られた不気味なモノは、冥府の傷口をかじるのをやめた。紅蓮を敵と認識し、臨戦態勢に入る。
「キサマ、ナニ、モノダ……」
 裂けた口から洩れる不気味な声に、紅蓮の背筋がぞっとした。確かに恐怖を覚えたのだが、それ以上に彼が怯んだのは、その声に聞き覚えがあったからなのだ。どこかで聞いた声。だがそれが誰の声で、どこで聞いたのかは全く分からない。
(なんだ、あの声は……聞いた事があるぞ……でもこんな奴に会ったのはこれが初めてだし……)
「ナニモノ……」
 その不気味なモノの腕が赤く光って、炎の玉を打ち出してきた。氷雪の時に放った赤くて高温の炎ではない、闇そっくりの、氷よりも冷たい不気味な黒い炎だ。冥府が操らなかったら、紅蓮はそのまま炎に呑まれていただろう。
「ナニモノ、ダ……!」
 再び、黒い炎の玉が打ちだされる。今度も、冥府が操って炎を回避させる。紅蓮は一歩も動けなかったのだ、またしても。理由は分からないが、あの不気味なモノを見た途端に、身動きが取れなくなるほど恐怖してしまっているのだ。冥府が彼を操らなければ何もできなくなるほどに。
――紅蓮、動かぬか。愚か者め。
 冥府の声が頭に響く。弱弱しい声だ。この不気味なモノに傷口を喰われて力を奪い取られているためであろう。冥府が命じても、紅蓮の体はなかなか動いてくれない。恐怖で固くなってしまっているのだ。
「なんで、何で動けないんだよ……」
 もう一撃、炎の玉が襲いかかる。今度も冥府が紅蓮を操ってよけさせる。炎の玉は闇に呑まれた。紅蓮は震えているだけで、自分でよけることはできなかった。
 不気味なモノの全身がいきなり炎に包まれた。
「キ、サマノ、チ、カラ……! ヨコ、セ!」
 やっと紅蓮の脚が自由になった。相手の突進をかろうじてかわし、長剣を勢いよく振るう。背中を派手に割られると、不気味なモノの背中から派手に闇が飛び散る。まるで血液のように。
「ヨコセ!」
 黒い炎の玉がまた打ちだされた。紅蓮はすばやくそれをかわして、指笛を吹いた。助っ人がいる。ケルベロスを指笛で呼ぶが、なかなか来ない。不気味なモノは突進と炎の攻撃を交互に繰り返す。紅蓮はそれらをかわしながらケルベロスの到着を待つ。
(遅すぎる……どっかで足止めを食らったのか?!)
 もう一度指笛を吹く。不気味なモノが突進するが、紅蓮はかわす。
 来ない。
 なぜ来ない?!
 何度か、隙を見て指笛を吹いたが、来ない。
「冥府! ケルベロスはどこにいる!」
 長剣を振って、不気味なモノの腕を片方斬り落とす。激痛に襲われ、不気味なモノは悲鳴をあげて後退した。
――魂の樹木の傍。当分は離れることができぬ。
 ケルベロスは魂の樹木の傍にいる。たぶん、獣の数が多すぎて死神だけでは対処できなかったのだろう。冥府の番犬が助っ人に来られない以上、一人で戦うしかない。さいわい冥府に操られずとも体は動かせる。恐怖はある程度ふきとんでくれた。
 不気味なモノの腕が斬り落とされた後、その部分が急にうごめいて、何かが飛び出した。
 魂だ。
 魂は辺りを飛び回る。不気味なモノがそれを喰おうとする前に、紅蓮は浄化の力を浴びせ、魂を浄化する。魂はすぐ、魂の樹木を目指して飛んでいった。
「不気味な姿をしているが、やはりこいつも《忌まわしいモノ》か獣の一種だな。とはいえ、この力は異常過ぎるぞ。あっというまに刃が駄目になっちまいそうだ……」
 腕を斬り落としただけで、紅蓮の持つ長剣の刃が、輝きを失いつつある。少しずつどす黒くなってくるのだ。完全に闇色になったら、もう長剣は何も切れなくなってしまう。その前にこの不気味なモノを仕留めてしまわねば。
 紅蓮は攻撃を開始する。だがそのたびになぜか一瞬だけためらいが生じてしまう。斬られるたびに長剣はどす黒くなるが、獣や《忌まわしいモノ》を斬った時の比ではない。あっというまに切れ味が鈍ってくる。
 わずか三回の攻撃しかしていないのに、完全に刃が闇の色になってしまった。長剣をぶつけても、不気味なモノにはカスリ傷一つつかない。ただ殴っているだけになってしまった。
「くっ、もうだめか!」
 紅蓮は、今度は浄化の力をたたき込むことにした。死神と同化した魂である氷雪の使う浄化と、魂に直接冥府の力注ぎこんで生まれ変わらせた《カリビト》の使う浄化では、威力が全く違う。死神よりも戦闘に特化している《カリビト》たる紅蓮は、倍の威力を持つ浄化の力を使えるのだ。長剣に浄化の力を注ぎこむ。浄化の力が、どすぐろい刃を少しだけ青白く戻す。長剣に注ぎ込まれた浄化の力を見た不気味なモノは、攻撃のチャンスと見たか、左腕の爪をぎらつかせて振りあげた。引き裂くつもりか。紅蓮はそれより早く長剣を斜めに降りおろし、相手の左胸を派手に切り裂く。裂かれた箇所から魂がたくさん飛び散った。
 不気味なモノが悲鳴を上げる。
「ぐっ」
 紅蓮の体に激痛が走った。不気味なモノを切り裂いたのと同じ個所。
 不気味なモノは痛がるよりも魂を喰おうとする。紅蓮は激痛をこらえ、魂を捕まえようとする不気味なモノに向かって直接浄化の力を浴びせる。顔にくらってのけぞったところを、魂たちに浄化の力を浴びせる。浄化された魂は、魂の樹木へ向かって飛んでいく。途中で獣の声を聞かなければいいのだが……。
 紅蓮は、もう一度、今度は直接その手で、怯んでいる不気味なモノに浄化の力を叩きこんだ。ありったけの力を注ぎこむと、不気味なモノは悲鳴を上げた。触れられたところから、さらに大量の魂が飛び出す。
「!」
 紅蓮は腕を引っ込めようとしたが、なぜか手が相手の体にひっついたまま、離れない。それどころか、その手が徐々に呑み込まれて行く。
「な、なんだこりゃ?!」
 もがく不気味なモノの体に、左手が呑み込まれる。紅蓮は必死で左腕を離そうとするが、接着剤でくっつけたかのように離れてくれない。それでも、浄化の力を緩めずにそのまま引っ張り続けると、やっと左手は離れた。離した途端に左手に走った痛み。見ると、手が異様なまでにどす黒くなり痙攣している。ただ手が黒くなっているように見えるが、獣や《忌まわしいモノ》の負わせる傷よりも、はるかに深い傷なのだ。
(なんて奴だ。これだけ力を叩きこんだのに、完全に浄化できないなんて。それどころか《カリビト》の俺にこんな傷を負わせられるとは、こいつはやっぱりただの獣や《忌まわしいモノ》なんかじゃあないぞ。やつらよりも遥かに強力な、しかもとんでもなく貪欲なやつだ)
 不気味なモノは、怒りの咆哮をあげた。紅蓮は、長剣で相手を薙ぎ払い、少し遠ざける。どすぐろくなった長剣はもう切れない。そして、先ほど叩きこんだ浄化の力のために、紅蓮は消耗してしまった。疲労が押し寄せてきた。とどめをさせると思って、使える力は全て浄化に注いでしまったのだ。予想が外れ、大打撃を与えたものの仕留め損ねてしまった。だが、これ以上、剣を浄化することも浄化の力を叩きこむことも出来ない。疲労のため息が荒い。立っているのがやっとだ。
「くそ、こんな、ところで……」
「キサマノ、チカラ、ヨコセ!」
 不気味なモノが、黒い炎をその口から吐いた。球体ではない、ケルベロスの吐くような、波のような炎だ。紅蓮は疲れてよけきれない。
 紅蓮の体が勝手に跳んだ。炎は、足元をなめ尽くし、闇に呑まれる。紅蓮は、自分が冥府の力で上に引っ張りあげられたのだと気がついた。
「冥府?!」
――貴様は消耗しすぎている。退くがいい。
 紅蓮の体はそのまま引っ張りあげられていく。不気味なモノは、今度は黒い炎の玉を打ちだす。だが、あと一歩のところでそれは届かなかった。不気味なモノの体につけられた傷から、魂がどんどん飛び出していく。魂がどのくらい喰われていたかは分からないが、魂が飛び出したことが不気味なモノの体力をどんどん奪っていくらしく、不気味なモノはついに膝をついてしまった。そのまま不気味なモノは倒れ伏す。その体を、冥府の闇が包み始める。まるで闇の中に沈めて封印するかのようだ。やがてその闇の塊は、冥府の闇の中に沈んでいった。
 疲労に伴う眠気。紅蓮は不気味なモノが倒れ伏して封印されるのを見届けてから、眠りに落ちた。氷雪と同様、消耗しすぎていたのだった。
 冥府の奥底にて、《カリビト》はもう一度深い眠りについた。冥府は《カリビト》に少し力を送りはじめる。回復を早めるために。
《意思》は命じた。傷口を完全に癒すのを最優先事項にするように、と。冥府は命じられるままに、己の傷を癒しはじめる。これまでは氷雪の回復に力を注いできたが、今は己の傷を癒すのが先だ。多少は紅蓮にも力を送って目覚めを早めなくてはならないが、喰われてしまった分を優先的に取り戻さなくてはならないのだ。あの燃え上がるモノが冥府の傷口を食いちぎってはその力を己の内にとりこんでしまっている分、冥府は弱ってしまっている。一刻も早く傷をふさいでしまわねば。
 やっとの思いで封印した燃え上がるモノが封印の闇を食い破って、再び冥府の中を歩き回る前に……。そして何より、冥府には成さねばならない事がもう一つあるのだ。
――紅蓮の記憶を完全なものにするには、まだ早すぎる。

 魂の樹木の輝きが、少しだけ戻ってきた。冥府の力が少し回復してきたのだ。
――一時的ダガ、危機ハ去ッタ。
 死神は淡々と言った。氷雪はほっと息を吐いた。ケルベロスは嬉しそうに三つの口で遠吠えをし、尾をちぎれんばかりに振った。その遠吠えのうるさい事といったら、冥府の悲鳴よりも大きな音で、思わず耳をふさいでしまった。
「とりあえず、安心と言っていいのか」
 たくさんの魂が飛んでくる。いくつかは浄化されていない。ケルベロスは炎を吐いて、魂を全て浄化した。浄化されて青白い輝きを放つ魂は、魂の樹木の枝につりさがった。死神は、これまで枝につりさがっていた魂をもぎとり、魂の樹木の中で燃え盛る炎の中へと放り込んだ。魂たちは炎を通って、生者の世界へと向かっていく。
 ケルベロスは、燃え上がるモノの脅威が今のところ去ったのだと知ったか、さっさとどこかへ走り去っていった。冥府の入り口で番をするためであろう。
 死神は、ぽつりともらした。
――イマハ、安全ダ。
「だが、そのうち来るだろうな」
――オソラクハ。
 氷雪はため息をついた。
――モウ一度、眠ルガヨイ。
 死神の言葉を、彼は断った。
「考えをまとめたい事があるんだ。夢の中では邪魔されてしまったからな。だから、後にしてほしい」
 死神は何も言わず、魂の樹木の内部から出て行った。氷雪は根っこのひとつに腰を下ろすと、考え事を始めた。が、ため息が、最初に出てきたのであった……。


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