第6章 part1



 冥府から生者の世界へ返されたヨランダ。あれから二週間が経過した。どういうわけか、最近はテレビも雑誌も「来世」ブームだ。「霊能者」だの「来世からの帰還者」だの、色々な人が雑誌やテレビをにぎわせている。
 それら全てを、ヨランダは冷めた目で見た。
(こんなテレビに出演するような人たちの言うことなんて、全部でたらめに決まってるじゃないの。アタシは本物の死者の世界を知っているんだから)
 それでも何となく、番組を見たり、本を立ち読みしたりした。そして、予想していた通り、全部放り出す。彼女が思っていた通り、彼らの語る「来世」はでたらめな描写ばかりだったのだから。
(冥府には、全てを吸い込む掃除機みたいなブラックホールなんてないわよ。世界を隔てるための川だって流れていないわ。太陽を想わせる眩しい明かりなんて無いわ、魂の青白い光しか見た覚えが無い。海もなければ島もないし、木はあるけど、若葉なんて見当たらなかったわねえ。魂だって、そこらじゅうをうろうろしているわけじゃないわ。そんな事をしたら冥府の獣に食われてしまうもんね。死神だって、大きな鎌なんて持っていなかったし、役目は魂の樹木の番人だもん。地獄いきが決定した魂を断罪する役目なんか持っていないわ)
 冥府は闇の世界だ。冥府の番犬によって炎の洗礼を受けた青白く光る魂が、死神の守る魂の木につりさがり、生者の世界への転生を待っている場所。冷たく、暗く、静かな場所。生者が訪れてはならぬ場所。
(寿命が来るまで、行きたくない場所なのよね、本当に)
 だが、《意思》はヨランダに夢という名の架け橋を与えた。彼女は《意思》の望む時に、夢を通じて生者の世界から冥府へと運ばれて行くのだ。それを防ぐには眠らないのが一番だが、さすがにそれは無理だ。
 来世ブームは彼女の職場にも到来していた。
 近くのレストランで昼食をとっているとき、その事が話題に上る。
「あの世から生還したっていうけどさ、皆あの世がどんなものかっての、全部違ってるわよねー。本当にあの世に行ったのかしら。疑わしすぎ」
「そうそう。実は、死の間際に見ていたまぼろしなんじゃないの」
「それかさ、その人が思い込んでる天国や地獄を頭の中で浮かべてたとかさ。死生観の違いってやつも混じってるんじゃないかしら」
 ヨランダは話に混じらず、聞いているだけ。自分だけなのだ、本当の死の世界を知っているのは。だがそれを口にするつもりはなかった。そう軽々しく口に出せるようなものではない。彼女は冥府について話す事をタブーとしていることに気が付いている。たぶん、ワイドショーを騒がす連中と同じ扱いをされるのが嫌だから、なのだろう。
 食事を終えて、会計を済ませ、レストランを出る。会社に戻ってから、ヨランダはトイレに入り、用を足してからメイクをなおす。
「あと五分でお昼休みは終わりね。さーて、そろそろ――」
 急に目の前に闇が滑り落ちた。視界がすぐ赤く染まり、ヨランダは自分の体がどこかへ落ちていくのを感じた。驚く暇も与えられなかった。
 彼女は、次の瞬間、どこかに足を踏みしめていた。冷たく、暗く、静かな、闇の世界。生者が足を踏み入れることを決して許さぬ世界。
「冥府……」
 彼女は、冥府に立っていた。
「そんな……アタシは眠っていないわ! ちゃんと目覚めているのに、どうして?!」
 彼女のうろたえに応えてくれる者はいなかった。
 周りを見回す。魂の樹木の傍ではない。魂が遠くを飛んでいくのが見える。たぶん魂の樹木に向かっているのであろう。後ろを振り返ると、思わず彼女は小さく声をあげた。
 無残に食い破られた、冥府の傷口。どくんどくんと不気味に脈をうっている。傷口は弱弱しい光を放っており、光っている個所はとくに損傷がひどい。光はそれを治しているのだ。
(やっぱり冥府も、イキモノなんだわ……この生々しい傷口は、生き物のそれだもの)
 この傷口から、冥府の獣や《忌まわしいモノ》が生者の世界へ逃げ出しているのだ。だが今はどこにも見当たらない。
「ねえ、冥府!」
 ヨランダは上を見て、広がる闇に向かって、大声をあげた。
「ねえ、聞こえてるんでしょう?! 返事をして!」
 音が降ってきた。
――《意思》が貴様を呼んだのだな。
「アタシは眠ってないのに、冥府に来てしまったのよ……どういうことなの? あの架け橋は寝ている時しかつながらないんじゃなかったの?」
――そうだ。だが《意思》は貴様を急いで呼ばねばならなかったようだ。
「これじゃ夢の架け橋の意味がないじゃないの。で、《意思》は一体どういう理由でアタシを呼んだのか知っている?」
 無言。
「わかんないのね」
 ヨランダはため息をついた。
「ねえ、魂の樹木のところへつれていってほしいの! ここにいると冥府の獣に襲われちゃうかもしれないわ」
 彼女の体が浮き上がったと思いきや、次の瞬間には別の場所に立っていた。青白い光を放つ、魂の樹木の傍だ。ヨランダはほっとした。同時に違和感を覚える。
「でもおかしいわね。光が弱まっている気がするわね」
 魂の樹木の光は、確かに弱まっている。暗い。
 死神が、魂の樹木の内部から姿を見せる。ヨランダは思わず声をあげてしまった。死神は不気味だ、やはりいきなり現れると驚いてしまう。
 死神はその不気味な赤い両眼で、彼女を眺めた。
――マタ、ヨバレタノダナ。
「見ればわかるでしょ」
 ヨランダは不機嫌に言って、魂の樹木の中へ入る。とりあえずこの中にいれば、獣が襲ってきても死神が守ってくれるので、彼女が知っている限りでは、この冥府で最も安全な場所なのだ。
 魂の樹木の内部には、青白い水晶が埋め込まれている。そしてその中で氷雪が眠りについている。あの燃え上がるバケモノとの激しい戦いの後だった事を思い出すヨランダ。青白い水晶は強く輝いており、彼に力が多く注ぎこまれている事を現している。
「やっぱり、消耗してたのね」
 ヨランダはぽつりとつぶやいた。
「でも、《意思》はどうしてアタシを呼んだのかしら。寝てもいないのに、冥府へ呼ぶなんて。何のための夢の架け橋なのかしら。いつでも呼べるんなら、夢の架け橋なんかいらないじゃないの」
 どうして彼女を呼んだのか、わからない。
「とにかく、退屈なのよね、ここにいても何にもすることがないんだもの。唯一の話し相手は寝ているし……」
 冥府には娯楽など何もない。生者のための施設など存在しないのだから、生者であるヨランダが冥府へ来ても、何もすることがないだけだ。話し相手となりそうな氷雪は眠っているために彼女の期待にこたえることは出来ない。
 死神を話し相手にしようと思い、ヨランダは死神に言った。
「ねえ、今、アタシの身の回りで来世についての話がはやっているの。どんなのかって言うとねえ……」
 ヨランダの話す事を、死神は黙って聞いたが、相槌が一切ないので、本当に聞いているのかどうかよくわからない。実は全然聞いていないということもありうるのだ。
「というわけなのよね。みんなてんでバラバラだし、あの世からの生還だなんて、絶対ウソに決まってるわよ!」
――……。
 死神はしばし黙っていた。
――ダガ、ソレハ、間違イデハナイ。
「間違いじゃないって、どういうこと?」
――ソノ者タチハ、冥府ニハイル前ニ、生者ノ世界ヘ戻ッタノダ。マレニ、ソノヨウナ行動ヲトル魂ガアル。戻ッタ魂ガ、冥府ニツイテ語ル時、ソレゾレ異ナッタ事ヲ喋ルノハ、魂ニ刻ミコマレタ記憶ガ冥府ト一部結ビツイテイルニスギナイ。
「冥府について語っているのは間違いないけど、それは生者の世界の記憶とごっちゃにしているってことなのね?」
――ソウダ。
「でもどうして生者の世界へまた戻ろうとするの? 冥府が戻れと命令したわけでもないし、ケルベロスが追い払ったわけでもないんでしょう?」
――未練ガ、強スギルノダ。未練ガ強イホド獣ニ狙ワレヤスイガ、強スギルト冥府カラ逃亡シテシマウ。ケルベロスノ洗礼ノ炎ヲアビナイノデ、生者ノ記憶ハ失ワレナイ。ダカラ、生者ノ世界ヘ戻ルコトガデキルノダ。
「冥府から逃げ出せるのね……生者の世界への未練ってそんなに強い力を持っているのね!」
――炎ノ洗礼ヲ受ケルマデ、ソノ魂ハ生者ノ世界ノ存在ナノダ、炎ヲ浴ビル前ニ、生者ノ世界ヘトモドルコトモデキル。
「でも、何度逃げ出す事が出来たとしても、その魂はいつかは必ず冥府に行かなければならないのよね?」
――ソウダ。
「その時にも未練が強すぎたら、どうなるの」
――来タルベキ時ガキテイルナラバ、ソノ魂ハ、冥府ニハイラネバナラヌ。ドンナニ未練ガ強カロウトモナ。
 どんなに未練が残っていようとも、結局魂は冥府に入らねばならないようだ。結局どんなに抗っても死にはかてないということか。
「どうして、死にたくないのかしら」
 なぜかヨランダはぽつりともらしていた。
「誰だっていつかは冥府に来なければならない。それはわかってる。でも、死にたくないと思うのはどうしてかしら。アタシだって、いつか冥府に魂として訪れる事はわかっているけれど、まだ死にたくない……」
――生者ノ世界ニ住ム者ハ、イズレモ己ノ意思ヲ持ツ。ソノ意思ハ、生者ノ世界ニ留マルコトヲ望ムモノ。ソノ意思ガ肉体ノ死ニ打チ克ツコトモアル。
「生者の世界へとどまる事を望むって、生への執着ということでいいの?」
――ソノトオリ。ソシテ、浄化サレテ転生シテイルタメ、生者ノ世界ニ存在スル者ハ、死ヲ恐レル。死ヲ知ラヌカラダ。ソレハ、冥府ニ近シキ魂モ同様。
「そうよね。自分が死んだら、それからどうなるかなんてことわからないものね」
 ヨランダがこれから先どのように生きていくか、生者の未来は分からないものだ。だが、死だけはいつか必ず訪れるもの。確実に分かっている未来はそれだけ。そして死んだ後、彼女の魂は冥府に戻り、浄化されて新たな魂として転生する。彼女はそれを知っているが、他の者はどうだろうか。死んだらどうなるか、など、誰にもわからないはずだ。
「死んだらどうなるか、アタシは知っている。でも、アタシはやっぱり、まだ死にたくないわ。これもやっぱり生への執着なの?」
――ソウダ。
「アタシの持つ執着はどのくらい強い?」
――冥府カラ逃ゲ出セルホドデハナイ。ドンナ魂モ持ッテイルテイドノ強サ。
「どんな魂も持っている程度……人並みって事でいいのかしら」
 急に死神が動いて、樹木の外へ出た。ヨランダは後をおわない。気配は感じないが、たぶん獣が来たのだろう。わざわざ頭を出してやられに行く必要はない。死神に任せておけばいい。
 死神はすぐ戻ってきた。
「あれ、もう冥府の獣はいなくなったの?」
 死神は何も言わない。たぶん、もういなくなったのだろう。そう思いたい。
「ねえ、あの燃えている変な奴は、どうなったの?」
――ヤツハ、冥府ガ封印シタ。ダガ一時的ナモノ。
「一時的に封印したって、滅したわけではないの? 冥府がその気になれば、消滅させるくらい簡単だと思うんだけど」
 死神はヨランダにその不気味な手を向ける。すると、ヨランダの頭の中にひとつの光景が浮かび上がった。それは、紅蓮が燃え上がるモノと戦う場面。激しい戦いの末、冥府は、弱った燃え上がるモノを封印した。
「結局封印だけにとどめてしまったのね。しかも、あの敵は冥府の傷口を喰って直接力を取り込んでいた。だから、紅蓮と戦わせて弱らせなければ封印することすら難しかった。そうなのね、そう考えていいのよね?」
――ソウダ。
 氷雪との戦いで消耗した力を、直接冥府の傷口を喰うことで回復しようとした、燃え上がるモノ。消耗し切って戦えない氷雪の代わりに、冥府は、眠っていた紅蓮を無理に起こして戦わせ、燃え上がるモノを消耗させた。目覚めたばかりの紅蓮自身も消耗がとても激しく、封印が成功したのを見届けて、また眠りについた。紅蓮も氷雪も、当分は目覚めない。現在、冥府は彼らと己の傷口に優先的に力を送り続けている。彼らを早く目覚めさせ、そして傷口をふさいでしまうために。
「二人とも戦う力を持ってるのに。消耗しすぎて眠らざるを得ない状態。でも、その間に、あいつが襲ってきたらどうするの。アタシは戦えないわよ。というか、嫌よ、たたかうなんて。あんな不気味な奴なんて触るのもいやよ!」
 ヨランダは身震いした。
――ヤツヲ完全ニ滅スルコトガデキルノハ、氷雪ノミ。ダガ、弱ラセルダケナラバ、貴様デモ可能。
「弱らせるだけって、戦いたくないって言っているでしょう! もう! 《意思》が何のためにアタシを連れてきたのか分からないけど、早く返してほしいわ。今、忙しい時期なのよ、たくさん仕事あるんだからっ。デザインの校正とか、昔の流行の焼き直し用の雑誌探しとか、制服のデザインについて取引先との話し合いとか、いろいろあるんだから、本当に!」
 冥府から生者の世界へ戻るころにはたぶん仕事が始まっているだろう。目覚めるといつも、眠る前の時間よりもいくらか過ぎているのだから。
「ねえ、アタシを生者の世界に戻してちょうだいよ」
――無理。
 ストレートすぎる答え。
――《意思》ノミガ、貴様ヲ生者ノ世界ヘト戻スコトガデキル。冥府デスラ、ソレハ不可能ナノダ。
「もう!」
 ヨランダはふくれっつら。
「ねえ、《意思》に話しかける事って出来る?」
――不可能ダ。《意思》ハ、必要ナ時以外、アラユル接触ヲ断ッテイル。冥府デスラ、声ヲ届ケルコトハデキナイノダ。
「そうなの……帰らせろっていうつもりだったのに」
 ヨランダは、今度はがっくりと肩を落とした。
「一体どんな理由があって、《意思》はアタシを冥府に呼び戻したがるのよ?! せめてそれだけは知りたいわ!」
――……。
「何度も何度も呼び出されるんだもの、本当はアタシを転生させるつもりなんじゃないの?」
 死神に八つ当たりしているヨランダ。死神は何も言わずに彼女の喚く事を聞いている。いや、聞いていないのかもしれない。ヨランダは死神が話を聞いていようがいまいがお構いなしに、喚き続けた。そうしてヨランダが疲れて口を閉じたころ、やっと死神が言葉を出す。
――少シ、眠ルカ?
「そうね」
 ヨランダはため息をついた。
「お昼ごはんの後だし、いつ帰れるかもわからないし。お昼寝は暇つぶしにちょうどいいかもね。お願いするわ」


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