第7章 part1



「ここは……」
 ヨランダは、夢の世界にいた。
「あら、どうして夢を見てるのかしら。ただ寝てるだけでいいのになあ。きっと冥府が夢を見せているんだわ。んもう、寝かせておいてくれないのかしら」
 周りは闇に囲まれており、誰もいない。ヨランダは上を見る。闇が頭上を覆い尽くしており、何も見えない。
「ねえ、何か用なの、冥府!」
 ヨランダは大声を上げて冥府を呼ぶ。しかし、音が降ってこない。ヨランダはもう一度、大声をあげた。
「ねえってばあ! 何か言ってちょうだいよう! 何のために夢を見せているのよう!」
 音が降ってきた。だがそれは冥府の音ではなかった。聞いているだけで、全身がズシリと重くなるような、極めて不気味で重々しい音。聞きなれた冥府の音よりもさらに重い。聞いているだけで、体がその音の重圧に押しつぶされてしまいそうだ。
 その不気味な重い音は、ヨランダの耳に響き、同時に頭の中にも響いてきた。耳で音を聞くがそれはただの音に過ぎなかった。冥府の場合は音を声としてはっきり認識できたが、これはただの音だった。だが、その音が何を伝えたがっているのかは、頭の中でわかるのだった。
「貴方は、誰なの? 冥府ではないみたいだけど……」
 その音は名乗った。《意思》だと。
「あなたが《意思》なの?」
《意思》と名乗ったそれは、また彼女の心の中に不気味な音を落とした。
「ちょうどよかった。色々知りたい事があったの。質問してもいいかしら」
 質問を許可してくれた。
「ねえ、貴方は、《何者》なの? まずそれを知りたいわ。アタシにアタシの《意思》があるように、《意思》っていうからには、その《意思》の本体があるはずよね? それは一体誰なの?」
 だが、《意思》はそれを拒絶する。ヨランダが《意思》について理解するには、あまりにもその魂の器がちっぽけだからだというのだ。
「ちっぽけって……。そりゃあ冥府を作り出した貴方から見れば、アタシなんてアリみたいにちっぽけでしょうよ!」
 そして、ちっぽけだからこそ、《意思》は、彼女が理解するにはあまりにも巨大すぎると言う。
「巨大すぎるって、つまり、何かの入れ物で例えると、アタシは貴方の知識を詰めるには、小さすぎる器ということ?」
 その通り。無理に理解しようとすれば、ヨランダは破滅する。
「ということは、貴方は神様なのかしら? アタシみたいな凡人に理解できない存在だなんて言うんだもの。でもアタシは神様なんて信じていないけどね」
 自分は神と呼ばれる存在ではない。《意思》は否定した。ヨランダが《意思》を神と呼ぶのは、生者の世界に住む者が作りあげた言葉が独り歩きしているためであって、《意思》は生者の世界の者が言葉で言い表せる存在ではないという。
「あら、アタシたちみたいなちっぽけな者が作った言葉の中では最高の誉め言葉だと思うんだけど。全知全能で、出来ないことなんて何にもないしあらゆることを知っている、最高の言葉じゃないの」
 だからこそ《意思》を表す事は出来ない。
「神様じゃあ不満なの?」
 不満なのではなく、神という言葉では《意思》を表せないだけ。
「じゃあどういう言葉なら、貴方を表す事が出来るのよ?」
 無理だ。返答は簡潔すぎた。
「もういいわ」
 ヨランダは諦めた。
「で、次の質問なんだけど、貴方はアタシに夢の架け橋を通じて、眠っている間だけ冥府に来させるようにしたのよね。でも、アタシが今回ここに来た時は、まだ寝てもいない真昼間だったわ。一体どうしてなの? これじゃあ意味がないじゃないの」
 この冥府の中に何度も来させることで、冥府の力にまたなじませるためだった。冥府に近しき魂とはいえ、生者の世界の力しかもたぬ彼女が、冥府に長くとどまることは出来ないからだ。そして今回は、切羽詰まっていた。本来はあと何回かにわけて呼び寄せるつもりでいたのだが、今は違う。急いで彼女を呼び寄せねばならなかった。
「一体どうしてアタシを冥府になじませる必要があるの。だったらアタシが事故に遭ったあの時にずっと冥府に留めておけばいいのに」
 あの事故は《忌まわしいモノ》によって引き起こされたものであったが、冥府は、ヨランダを転生することに決めていた。だが《意思》はそうさせなかった。彼女を転生させずにそのまま生かすことに決めた。近いうちに、生者の世界の力を持つ者がどうしても必要となるであろうから、ヨランダを一度生者の世界に戻したのだ。
「どうしても必要になるって、どういうこと?」
 あの燃え上がるモノを完全に滅するのに、そして、永く冥府につなぎとめられざるを得なかった氷雪と紅蓮を転生させるのに、どうしてもヨランダが必要だったのだ。いや、正確には、生者の世界の力を持つ魂ならば誰でもよかったのだ。
「何よそれ。その言い方だと、アタシ個人が必要なんじゃなくて、アタシと同じような境遇の魂ならば例えミジンコでもよかったっていうことなの?」
《意思》は肯定した。
「ひどいわ! まあ貴方みたいに冥府や生者の世界を作り上げた存在なら、アタシたちなんて、指先一つでどうにでもできるでしょうから、そんな言い方できるんでしょうけどね」
 不思議な音が降ってきた。
「ひがみじゃないわよ。その上から目線のもの言いが嫌だと言っているだけよ。それより、アタシを早く生者の世界へ返してちょうだい。今はあの不気味なやつが封印されているから安全なんでしょう? 獣の数だって減っているはずだし」
 だが、否定の音が降ってきた。
「どうして?」
 間もなく、あの燃え上がるモノは封印を自力で食い破るからだ。だが、冥府が必死で力を送っているとはいえ、紅蓮と氷雪が目覚めるにはまだまだ時間が必要。少なくとも、対抗できる力を持っているのは、死神と同化した氷雪、そしてヨランダ。
「対抗できる力を持ってるって……あんなバケモノと戦えっていうの?」
 ヨランダが直接戦うのではなく、彼女の持つ力を氷雪に分け与える必要があるのだ。そのために、《意思》は彼女を、真昼間に呼んだのだ。燃え上がるモノが封印を自ら破ってしまうより先に、彼女をここに呼び寄せねばならない。
「それじゃあ何のために夢の架け橋を作ったのよ。昼間でも呼び出せることができるのなら、わざわざ作る意味がないと思うけど」
 就寝中は、魂が最も肉体から離れやすいのだ。だから呼び寄せやすい。逆に、肉体の覚醒している間は呼び寄せにくい。
「アタシの力がそれほど必要なの。でも、前々から思っていたんだけど」
 ヨランダはいったん視線を足元に落とす。首が疲れた。
「冥府も貴方も、ここでは創造主のような存在なのでしょう? だったら貴方達が何とかすればいいんじゃないの? 魂や死神は、自分たちが管理しているものなんだし。それに、冥府を生み出した貴方なら、あの燃え上がるモノを滅することぐらい、赤子の手をひねるくらいにたやすい事だと思うわよ? あんな姿をしているけど、元々は魂だったんでしょう?」
 そう、確かに、冥府や《意思》ならばたやすい事だ。だからこそ、手を出せないのだ。
「どうして手を出せないの?」
 答えてくれない。
「ねえ、教えて頂戴」
 答えてくれない。
「黙秘権の行使はずるいわね。まあいいわ、何か事情があって貴方も冥府もあの不気味なヤツに手出しできないってことにしておくわね」
 ヨランダはふうと息を吐いた。
「ねえ、その燃え上がるモノが封印を食い破るまでに、あの二人が回復することは出来ないの、本当に?」
 できない。燃え上がるモノは冥府の傷口を喰い、その力を直接取り込んでしまい、より強大な力を手に入れているからだ。その力の強さは、獣や《忌まわしいモノ》の比ではない。弱っている冥府の封印など、一時しのぎにすぎない。
「だったらなおさら早く目覚めさせないと駄目じゃないの……。もっと力を注がせる事は出来ないのかしら」
 これ以上冥府が回復のために彼らに力を注げば、今度は封印が弱まって、燃え上がるモノが封印を食い破るまでの時間が短くなる。
「力の配分て、難しいのね」
 他人事のように言うヨランダ。実際、《意思》の伝える事柄の規模が大きすぎて、彼女にはピンとこないのだ。《意思》の伝えている事柄のうち半分は、彼女には理解できない。
「ところで、どうしてアタシが必要なんだっけ?」
 永く冥府につなぎとめられている氷雪と紅蓮を転生させるため。そして、燃え上がるモノを完全に滅するため。燃え上がるモノを滅する事が出来るのは氷雪しかいない。ヨランダが必要なのは、その燃え上がるモノを滅するために生者の世界の力も使わねばならないからだ。
「氷雪じゃなきゃだめな理由は? 本格的に戦える《カリビト》だっているのに、彼じゃなくちゃだめな理由は一体何なの?」
 しばし、《意思》は何の音も投げてこなかった。
 知りたいのか、と《意思》は問うてきた。
「うん、知りたいわ」
 軽く答えたヨランダに、不思議な音が降ってきた。笑っているようにも聞こえるが、先ほどの質問から考えると侮蔑の音とも受け取れる。ヨランダは構わず、言った。
「教えて頂戴」
 では、教えてやろう。氷雪でなければ奴を滅することのできない理由を。
《意思》は、彼女の頭の中に一つの映像を流しこんだ。
「……」
 ヨランダは青ざめていた。
「そんな……そんなことって……」
 これが真実だ。《意思》はそう告げた。ヨランダはへたりこんだ。体が震え、青ざめた顔はさらに青くなってきた。
「信じられない……」
 落ち着くまでどのくらいかかっただろうか。ヨランダは若干顔を青くしながらも、深呼吸を繰り返して立ちあがった。
「既に氷雪にそれを伝えてあるって――こんな事、受け止められるとはとても思えないわ。紅蓮はどうなの」
 まだ伝えていない。時が来るまでは、このまま眠らせておくつもりらしい。
「一番受け止められないのは、彼だと思うんだけど……」
 その通り。だが、この問題に関しては、ヨランダの出る幕ではない。
「わかってるわよ。元々これは彼らの問題だものね。全く無関係のアタシが首を突っ込むべき事ではないわ。アタシはあくまでも巻き込まれた側にすぎないんだし! 紅蓮がもっとしっかりしてたら、巻き込まれなくて済んだのよね」
 その通り。だが《意思》はヨランダの力がどうしても必要だと判断したうえで、彼女を冥府に何度も呼んだのである。
「でもアタシは戦えないわよ」
 ヨランダには、直接戦ってもらうのではない。あくまで力を借りるだけ。元々戦力として考えてなどいない。
「でも貴方はアタシに力を貸してほしいから、何度も冥府に連れてきたんでしょう。だけど、アタシはどうやって力を貸せばいいのよ? それを説明してほしいわ。とぎれとぎれの情報だと困るのはこちらなのよ」
 が、彼女の質問は無視されてしまった。
 夢の世界が、揺らぎ始める。
 眠りから覚めよ。あの忌まわしき輩が封印を食い破る。《意思》はそう伝え、彼女のいる夢の世界を急速に消滅させていく。夢の世界が消えるにつれて、明るくて白い光が夢の闇を飲み込んでいく。ヨランダはその光の中に呑まれていく。
「えっ、ちょっと待ってよ……」
 彼女の抗議の言葉もむなしく、ヨランダは夢から覚めた。目を開けると、自分の体を包んでいた光はどこにもない。魂の樹木の内部はかなり強い光を放ち、目を開けるのも困難なほどだ。目を細め、光源を探す。だが探す必要はなかったろう。その光は、氷雪の眠っている青白い水晶から放たれていたのだから。かなり強い力が彼に送られているのはまず間違いない。冥府は彼の回復を急いでいるのだ。
「ちょっと眩しすぎ」
 ヨランダは外に出る。途端に、ぎょっとした。
 熱い。
「あつい。そんな馬鹿な! ここは冥府なのに――」
 冥府は、いつ来ても寒さしか感じなかった。だが今は違う。まるで真夏の熱さだ。たえられず、上着を脱いでしまった。
「一体どういう事なの? 冥府は寒いはずなのに、まるで夏みたいに熱いじゃない……」
 その時、遠くから獣の遠吠えが聞こえてきた。ケルベロスの声だろう。悲痛な鳴き声。一体何が起こっているのだろうか。かかわりたくないが、冥府にいる以上かかわらねばならない事は、わかりきっている……。気づけば、死神の姿も見当たらない。魂の樹木の番人という役目を持つ以上、この魂の樹木の近くに必ずいるはずなのだが、右を見ようが左を見ようが、どこにも姿はない。
「ああもう、一体何が起きてるのよ。これって、もしかすると、あの燃え上がるモノが封印を解いちゃったってことなの?!」
 音が降ってきた。これは《意思》のそれではない、冥府のものだ。
――いや、封印はまだ破られてはおらぬ。だが長くはもたぬ。そのために、奴らの回復を急いでいるところ。
「ねえ冥府。いま、ここで何が起こってるの? いろんな事が起こりすぎていて、アタシの頭じゃあもうついていけそうにないわ」
――全てを貴様に話す時間はない。
 本当は、冥府自体に時間の概念は存在しないが、あえて彼女に合わせてくれているのだろう。
「ねえ、死神はどこにいるの。誰か近くにいてくれないと、怖い……」
――死神は、既に氷雪と同化している。
「つまり、氷雪が目覚めるまでこの魂の樹木の番人は誰もいないってこと?」
――ここへは、ケルベロスを向かわせる。獣の数が激減している今ならば、入り口を開けていても問題はない。
「問題はおおありだと思うわよ、アタシとしては。だって入り口を開けっぱなしにするんだもの。魂の一部は逃げるでしょうし、生き延びている獣が喰ってしまうかもしれない。これじゃあ泥棒に入ってくれと言っているようなものじゃないの。でも、誰かいてくれるのは嬉しいわ」
 だが、さっきの悲痛な鳴き声は一体何だったのだろうか。とにかく冥府の番犬がこちらに向かっているのだから、ひとりぼっちにされることはないのだと、ヨランダは自分にあれこれ言い聞かせて、無理やりに安心させた。
 やがて、遠くから、冥府の番犬が大急ぎで駆けてくるのが見えた。
「ケルベロス!」
 冥府の番犬は嬉しそうに、三つの頭をいっぺんにヨランダにすりよせてきた。熱い毛皮だが、今はこの熱さがほしかった。冥府の熱さよりもずっと心地よさを感じられる。たぶん、冥府のものを心地よく感じられるほど、彼女が冥府に馴染んできているためではないだろうか。
「どうしたの?」  ヨランダは、巨大な三つ首の犬に問うた。その大きな体が、小刻みに震えている。尾が股の間にはさみこまれてしまっている。
――ケルベロスは、封印が解かれる事を嗅ぎつけている。
「封印が、もう解けてしまうの?!」
――獣どもを喰らい、我の傷口をむさぼり喰って力を得た奴は、我の封印では完全に抑え込めぬのだ。まもなく封印は破れる。だが我はこやつらの回復で手いっぱい。これ以上、封印に力を割くことはできない。
「そんな! じゃあ、彼らが回復する前に奴が目覚めてしまったら、ここを誰が守るのよ!? アタシは何もできないわよ! むしろアタシは餌にしか見えないわよ!」
 ケルベロスがぶるっと身震いした。
――ケルベロスにしばらく時間稼ぎをさせる。
「ええっ」
 ヨランダは思わず、身震いの止まらぬ番犬を見あげた。ケルベロスは怯えている。
「どうして貴方も《意思》も、あんなのを抑え込めないのよ! 本当にもう、肝心な時に役に立たないのね、神様ってものは!」
 思わずヨランダは怒鳴ってしまった。だが怒鳴ったところで何も変わりはしない。彼女自身、戦うすべを何も持っていないのだ。浄化の力も長剣も無ければ、ケルベロスのように鋭い爪や牙もない。自分が何もできない以上、氷雪と紅蓮が目覚めるまで、ケルベロスに守られているしかないのだ……。
「クゥン……」
 番犬の頭の一つが、弱気な鳴き声を上げた。冥府の番犬は、心底から怯えている。燃え上がるモノと戦ってもおそらく勝ち目など無い。それを知っているのだ。だが冥府の命令には従わねばならぬ。
「大丈夫だって、あんたは強いんだから、そんなに怯えないで……」
 ヨランダは熱い毛皮を撫でてやる。だが、巨大な番犬の震えは止まらなかった。
「もう、震えるのはやめてってば! 怖いのはアタシだって一緒なのよ!」
「クゥン……」
 ケルベロスは弱気な声を一つ上げて、ちぢこまった。だがすぐ、体を大きく震わせ、しゃんと立った。
 目覚めを告げる遠吠えが、冥府を揺るがせた。


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