第7章 part2



 青白く輝く魂の樹木。
 樹木の内部に埋め込まれている、青白い水晶の輝きが一段と増した。
――目覚めまで、まだしばらくかかる……。
 青白い水晶は眩しく輝いている。光が強ければ強いほど、冥府によって強い力が送り込まれているのだ。だが、氷雪は眠っているままだ。これほどまでに強い力を送られているにもかかわらず、彼の目は開かぬまま。深い眠りについている。燃え上がるモノとの戦いにより、彼が急激に消耗したことはあきらか。
――まだ目覚めぬか。
 彼は夢を見ていない。夢を見させるより、回復を急ぐために、冥府はひたすら力を注ぎ続けている。もちろん氷雪だけに力を注ぐわけにはいかない。紅蓮にも目覚めてもらわねばならないし、封印の解かれる時間を少しでも伸ばさねばならない。残った獣どもが冥府の入り口や傷口から逃げ出さぬように弱い結界を張らねばならない。とにかく冥府はあちこちに力を割かねばならない状態。猫の手も借りたい状態だ。
――これ以上は、力を送れぬ。
 青白い水晶は、本当に眩しい輝きを放つ。だがこれでも氷雪を完全に回復させることはできない。消耗があまりにも激しかったのだ、そう簡単に目覚めない。生者の世界で何十年分という時間を、回復のためにつぎこんできたのに、あの燃え上がるモノとの戦いが全てを無駄にしてしまった……。目覚めるにはまだしばらくかかる。死神との同化はすでに終わっていると言うのに……。
――封印が破れるのが先か……。
 氷雪の回復は、紅蓮よりも手間取りそうだ。このまま目覚めの兆しが見えぬようならば、少し、紅蓮に送る力を減らさねばならないだろう。
――だが、この魂には目覚めてもらわねばならぬ。我も《意思》も手を出せぬ以上……。
 青白い水晶は、もはや直視することすら不可能なほど眩しく輝いた。

 冥府の奥底。
《カリビト》は深い眠りについている。冥府は《カリビト》に力を送り、回復させている。
 だが、その一方で、冥府は《カリビト》から少しずつ力を抜き取っている。戦うための力を、抜き取っているのだ。
――時はきた。《意思》の命令により、貴様の中に、欠けている記憶を埋め戻す。
《カリビト》の、脈打つ不気味な黒い球体が、青白い光に包まれる。
――記憶を受け入れるか、それとも拒絶して暴走を起こすか。全ては貴様にかかっている。我は、貴様が記憶を受け入れて暴走を起こさぬ事を強く望んでいる。
 不気味な黒い球体は、青白い光を吸収した。
 しばらく、脈打つのが止まる。まるで、何かを考え込んでいるような……?
「!!!!」
 いきなり、黒い球体がボコボコと泡だった。煮えたぎっている湯の如く、激しく泡立っている。それどころか、今にも爆発しかねないほど。
 冥府の音が降ってきた。
――持ちこたえられなかったか。
 その言葉通り、《カリビト》は爆発した。球体は飛び散った後、小刻みに震えながら、また集まって一つの球体に戻る。だが球体自体も小刻みに震えている。まるで、なにかに怯えているような震え方だ。
――貴様は記憶を拒絶した。氷雪がゆっくりと受け入れた記憶を、貴様は拒絶した。だがこの記憶こそが、貴様の欲していたものではないか。欠けている記憶の完成を望んでいたではないか。
 冥府は淡々と言葉を投げる。《カリビト》は震えている。またしても黒い球体は粉々にはじけ飛び、また集まって一つの球体に戻る。それを繰り返している。粉々にはじけ飛ぶたびに、一つの球体に戻っていくのだが、戻った後の大きさが徐々に小さくなっていく。
――……完全に拒絶してしまった。奴が記憶を受け入れるには、うつわが小さすぎたということであろうか。
 冥府の案じていた事が、現実となったようだ。《カリビト》は、与えられた記憶のかけらを受け入れられなかった。この記憶は、冥府が氷雪に見せ、《意思》がヨランダに見せたものと同じ。《カリビト》はそれを拒絶した。これは本来、《カリビト》が持っていた記憶のはずなのに……。それを受け入れる事が出来なかった。
 信じられない。そんなはずはない。こんなことはありえない。
 それが、《カリビト》の叫びだった。
――それが、貴様の答えか。
 冥府の音。失望を隠しきれぬ音。
 ぱちん、と音を立てて、《カリビト》ははじけ飛んだ。だが今度は、球体に戻ろうとはしなかった。
 こんな記憶など望んでいない。これが本物であるはずがない!
 悲痛な《カリビト》の叫びだけがこだましている。
 この記憶が本当ならば、一体自分は何のために……。
――それを、貴様は自ら望んだのではないか。愚かな《カリビト》よ。
 冥府は淡々と返した。
――これは貴様の記憶そのものではないか。
 嫌だ、受け入れられるはずがない! これが自分のしたことだなんて! 信じられるはずがない!
 拒絶の言葉だけが、冥府のもとに届いていた。

 魂の樹木のはるか遠くから、不気味な咆哮が響いてきた。ケルベロスのものではないことは確かである。
――まもなく、封印が解ける。
 冥府の言葉を聞かずとも、ヨランダにはわかる。周りの熱さが一段と増した。上着を脱がねばならないほど熱いはずなのに、彼女は汗を全くかいていない。ここは魂の来る場所なのだ、肉体は汗をかくが、魂は汗をかかないのだ。
「涼しくしてくれない? 熱中症でも起こしそう」
 なぜか彼女はそう言っていた。冥府はそれに応じてくれたようで、彼女の周囲だけ快適な温度に下がってくれた。涼しい。
「ありがとう、冥府。ところで、これ以上、封印を強めることは出来ないの」
 否定の言葉。氷雪と紅蓮の回復だけでなく、冥府の入り口や傷口から獣の生き残りが逃げ出さぬように結界を張らねばならない。燃え上がるモノを封印しておくには今の分量だけしか力を注ぐ事が出来ないのだ。
「アタシに戦う力をくれる事は出来ないの? 守られていることしかできないのは、ちょっと困る気がしてきたの……」
 また冥府は否定した。氷雪が燃え上がるモノと対等に戦えたのは、死神と同化した事で能力が大幅に上昇したのと浄化の力の反動を受けにくくなったからで、もし死神と同化していなかったならば、とうの昔に氷雪は喰われているか、冥府の力を吸収しすぎて獣と化している。本来、死神や《カリビト》でなければ、浄化の力は使いこなせないのだ。獣を浄化するだけでなく己のうちに冥府の力も必要以上に取り込んでしまうことで獣化しかねない、諸刃の剣。それが浄化の力なのだ。くれ、と簡単に言う事は出来るが……。ヨランダを《忌まわしいモノ》や獣から守らせるために、冥府は氷雪を目覚めさせて浄化の力を与えたが、本来、ただの魂にすぎない存在がそれを使うのは、大変な危険を伴うことでもあるのだ。ましてや冥府の獣に食われかけて傷を負わされた氷雪は、力を使いすぎれば獣と化する危険性がおそろしく高い。
「そう。浄化の力だけではだめなのね……。やっぱり死神が力を貸してくれないと、駄目なのかあ」
 あの燃え上がるモノは、周りの獣を喰っていただけではない、冥府の傷口をも貪り喰っていた……。氷雪と紅蓮との戦いで大幅に消耗し冥府に封印されたとはいえども、まだまだ奴の体内には冥府の力が相当蓄えられているはず。獣よりも、《忌まわしいモノ》よりも遥かに強い力を持っているはず。封印を破るのも時間の問題。
「クゥン……」
 なぜか冥府の番犬はまたしても弱気な声をあげた。先ほどまでの威勢のよさは、一体どこへ行ってしまったのだろうか。
「もう、あんた番犬なんだから。侵入者を見つけて追い返すのがあんたの役目なんでしょう? だったらちゃんとその役目を果たさないと!」
 ヨランダはそう言ったものの、本当は不安だった。ケルベロスがこれほどまでに怯えるような相手が、もうすぐ封印を破って姿を現そうとしているのだから。目的はたったひとつ、氷雪を喰うため。それをうちたおすため、《意思》は彼女を冥府に呼び寄せた。本当は、彼女には直接関係の無いことなのだが……。
「ねえ、まだ目覚めないの?」
 まだ目覚めの気配はない。回復には時間がかかる。今まで傷を癒すために眠り続けていたのが、今回の戦いによって一気に消耗してしまったせいだ。
「時間がかかるって……この冥府には時間の概念がないと思っていたけど?」
 生者の世界の時間と、冥府の時間はそもそも違う。生者の世界では、生者が作り出した時間に基づいて生活しているが、冥府には冥府の作りだした時間があるのだ。ヨランダの言う時間とは生者が勝手に作ったものであるため、冥府の中で流れる時間とは流れが異なるのだ。
「もういいわ、冥府と生者の世界の違いについては、もう説明要らない」
 ヨランダはため息をついた。
「生者の世界と冥府は違う。これだけ知っておけばもういいでしょう」
 頭の中をこれ以上混乱させたくなかった。
「ところで、さっきからこの樹木の光がまぶしくなっているけど、それだけ回復のために力を注ぎこんでいるってことよね?」
 ヨランダは、魂の樹木をふりかえる。直視しづらいほどの光が、樹木の幹の隙間から漏れ出ている。その漏れ出ている光だけでも、辺りは青白く照らし出されている。それほどまでに強い光を放っていると言う事は、魂の樹木へ送られている力がとんでもなく強い事を表している。
――そうだ。だが奴は目覚めぬ。
「何度も言ったと思うけれど、回復のために、もっと力を注げないの? ちょっとぐらい紅蓮の目覚めを遅れさせてもいいんじゃないの? 本当に目覚めてもらいたいのは、奴を滅する力を持っている彼なんだもん。それに、あのことだってあるし――」
 無理。冥府の返答は簡潔だった。冥府がこの世界を維持するためには、これ以上力のバランスを崩すわけにはいかないのだ。
「やっぱり駄目なのね……」
 元から期待はそんなにしていないので、失望はそんなに深くはない。それでも、早く目覚めてほしかった。ケルベロスは負けるかもしれない。いや、彼らが目覚めるまでケルベロスは時間稼ぎをせねばならないのだ。冥府の番犬は怯えた。《忌まわしいモノ》や獣を相手にするのとは違う、ケタはずれの力を持つ敵との戦いなのだ。おそらく敗北するかもしれぬ。彼らが目覚める前にケルベロスが倒されてしまっては――
(お願い……早く目覚めて頂戴よ)
 ヨランダは祈らずにはいられなかった。
 せめて、ケルベロスが倒されてしまうよりも前に……。

 魂の樹木の内部。
 青白い水晶の中で、深く眠っている氷雪。青白い水晶は、目がつぶれるほど眩しい光を放ち続けている。冥府からこれほど強い力を送り込まれていながら、彼は一向に目覚めない。
 冥府は、氷雪に夢を見せた。
「回復はまだなのか……?」
 くたびれきった顔の氷雪は、夢の世界に来るなり、開口一番、この言葉を吐きだした。
――貴様の消耗が激しすぎるのだ。あれほど激しく戦ったのだ、死神と同化していなければ、貴様はとうの昔に獣となり果てているか、奴に食われたかのどちらかの道をたどっているのだぞ。消耗だけで終わったのだ、それを有難く思うが良い。
「……」
 氷雪はため息をついて首を横に振った。
 暫時の沈黙。
「……冥府。やっと気持ちの整理がついたように思うんだ」
 沈んだ声で、氷雪は言った。
「奴にはもう、この記憶を渡したのか?」
――むろん。
「私が思うに、奴は暴走した。違うか?」
――その通り。
「はは、やはりなあ……。私でさえ、こんなに時間がかかったんだ。奴なら拒絶したとしても不思議はないだろうなあ」
 氷雪はまたひとつ、大きなため息をついた。
「だが冥府、それしか方法がないのか? 私も奴も共に生者の世界へと転生させるには、それしかないのか?」
 返事はない。おそらく、肯定したのだろう。
「もっと別の方法があっても良かったと思うんだが……あの出来事がこの事態を起こして今までそれを引きずり続けてきたんだ、仕方がないかもしれん」
 氷雪は目を開けた。全く焦点の合っていない両眼が、どことも知らぬ場所を見ている。
「冥府、早く私を回復させてくれ」
――まだしばらくは眠らねばならぬ。
「奴が魂の樹木の傍まで来るころまでには、回復させてほしい。それくらいはできるだろう?」
 やってみるつもりのようだ。
「ありがとう」
 夢の世界は、急激に崩壊を始めた。
「やっと私も、冥府から去れる……」

 冥府の闇の中。
 燃え上がるモノは、闇の中に封印されていた。紅蓮と氷雪の二人が必死で戦ったため、燃え上がるモノは大幅に消耗していた。今までに喰っていた冥府の獣や《忌まわしいモノ》や冥府の力それ自体が一気に半分以上も失われてしまい、傷口を喰われて弱っている冥府に封印されてしまうほど弱体化してしまった。
「フウイン、ハカイ……」
 燃え上がるモノは己の体にまとわりついてくる闇を、食らっているところであった。闇は食いちぎられるたびに、痛そうにうごめいている。闇が燃え上がるモノに食われるたび、燃え上がるモノの体で燃えている不気味な炎が徐々に明るくなる。冥府の傷口を喰らって直接冥府の力をとりこんだように、封印を喰うことで自分の力に変換しているのだ。
「タマシ、イ……。ヒトツ、ヒトツ、ニ……」
 封印は徐々に弱まってくる。代わりに、闇を喰らっている燃え上がるモノは、その体を包む不気味な炎をより激しく燃え上がらせる。
 燃え上がるモノは、ひたすら喰っている。そのうち、闇は徐々に少なくなってくる。冥府がこれ以上封印を維持できなくなってきたようだ。あともう少し喰えば、封印の扉を破ることができるであろう。
「モエアガッタアカイホノオ、ニクタイガ、ソコデ、キエタ……。アソコデ、ワカレタ、ノコリノ、タマシイ……」
 勢いよく闇の塊を引きちぎる。
「クワレタ。ヤツニ、クワレタ。ダガ、マタ、ヒトツニ、ナル……」
 鋭い爪が闇を引っかき始める。まるでぼろきれのように、闇はたやすく裂けていった。
「マタ、ヒトツ、ニ……」
 引き裂かれていく封印の闇。冥府自身は何とかそれをとどめようと封印を強化するが、回復のために力を他の場所に注いでいる以上、封印に割ける力はわずかなものだ。燃え上がるモノの体が激しく燃え上がった後、炎を宿した爪の一撃で、封印の闇は破れてしまった。激しい悲鳴を想わせる音が聞こえた後、燃え上がるモノの周囲を覆っていた闇は、完全に消え去った。
 封印は解けてしまったのだ。
 燃え上がるモノは勝利の雄叫びをあげた。


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