第8章 part2



 憶えているのは、身を焦がす熱と、いきものの焼ける悪臭。そう、自分の肉体が焼けているのだ。熱の痛みに体をよじったつもりだったが、体は言う事を聞いてくれない。手足が焼けていたのだろう。周りを見ようにも、何も見えない。
 不意に、熱さも痛みも息苦しさも、何も感じとれなくなった。炎のはぜる音や爆発音に混じって、獣の唸り声がかすかに聞こえてきた。何かが体の傍におりてきた気配がある。同時に、何かが体の上に乗った。グルルル、と不気味な獣の唸りが聞こえてくる。嗅いだ事の無い悪臭。
 いきなり走った激痛。何も見えなかったが、何かによって体が真っ二つに裂かれたことが、何故か分かった。更にもう一撃が襲いかかった。何か鋭いものが食い込む痛み。またしても体の残りが裂かれる痛みが走った。
 犬の鳴き声が聞こえてきた。体を裂かれる痛みはそこで終わる。獣の悲鳴にも似た極めて耳障りな鳴き声が聞こえた後、体の傍にいる何かがいなくなったようだ。だが次は、何かに抱えあげられてどこかへ運ばれて行くような感覚。そのうち周りは寒くなってきた。炎の燃え盛る音がして、自分が何かに包まれたような不思議な感覚が全身を支配した。
 冥府の炎の洗礼だった。

 氷雪は夢を見ていた。何度も何度も見続けてきた、肉体の死の間際の夢。眠っていなくても、目を閉じているだけで夢の全てを思い出せるほど……。

 冥府に来てから、彼は告げられた。冥府に近しき魂である彼は、肉体の死の間際に、彼は冥府の獣に魂を喰われたが、全てを喰われる前にケルベロスが助けだした。しかし、獣に食われすぎた彼を転生させることは出来ない。魂が傷つけられすぎて、浄化の炎を浴びてもその魂に刻まれた獣の力を完全に浄化することは出来ないのだ。傷を癒やすために、冥府の力が最も集まりやすい魂の樹木の中で、眠りに就く事になった。
 ケルベロスの炎の洗礼で、生前の記憶はすべてなくなった。自分の名前すらも思い出す事が出来ない。だが、冥府の獣に食われた記憶だけははっきりと魂に刻みつけられているため、眠っている間に何度もその夢を見続けた。
 眠っている間に時は流れた。冥府の見せる夢を通じて、己の死の間際の記憶のほかに、冥府の内部で起きている事を知った。紅蓮という《カリビト》が冥府の獣を狩っている事や、《忌まわしいモノ》が頻繁に冥府の傷口から生者の世界へ逃げ出すようになった事、そして、冥府に近しき魂が狙われるようになった事。
 冥府は、その冥府に近しき魂を守るために、彼を目覚めさせた。紅蓮では手が足りぬためだ。名前を忘れた彼に「氷雪」の名を与え、視力と、獣を浄化する力も授けた。だが、傷つけられた魂である彼は、浄化の力を使えばその反動で傷がますます深くなる。生者の世界と冥府との魂の均衡を保つために目覚めさせられたにも関わらず、その冥府に近しき魂は紅蓮の失敗で冥府に送られることになってしまった。冥府がその魂をとどめている間、当然獣たちは喰おうと押し寄せてくる。自分も冥府の獣には恨みがある身だ、どれだけ己が傷つこうが構わなかった。限界まで浄化の力を使って獣を浄化し続けた。そう、八つ当たりだ。本来ならば転生しているはずの彼は、冥府の獣に食われたために転生が出来なくなり、傷を癒すために永い眠りにつかされている。冥府の獣どもは、うさばらしにはちょうどいい。数も多いのだから、どれだけ浄化されてもあとからあとからやってくる。どれだけ浄化しても彼の気は晴れない。死神が何度も彼の内から獣の力を浄化しているとはいえども、確実に浄化の力の反動は彼を蝕んでいく。使えば使うほど、浄化の力は、癒えかけている彼の傷を少しずつ深くしていってしまう。完全に獣の力に浸食されれば、彼は冥府の獣になり果ててしまう。それを防ぐために、冥府は何度も彼を眠らせ、傷の回復を図った……。

 夢は消えた。
 青白い水晶の中で眠っているままの彼は、冥府から力を送られている。水晶を包み込んで彼に力を送っている、直視すれば確実に失明するほどの眩しい光。冥府はとても強い力を送り続けているにもかかわらず、彼をまだ目覚めさせることは出来ない。
 消耗しすぎたのだ。眠り続けて癒してきた傷を、冥府の獣や燃え上がるモノとの戦いで、広げてしまった。これまでにおくりつづけてきた力の量ではとても目覚めさせることは出来ない。だからこそ冥府は注げる限りの力を氷雪一人に注いでいるのだ。
 燃え上がるモノが魂の樹木に手を出す前に、なんとしても氷雪を目覚めさせねばならないからだ。
 ……。
 眠っている氷雪は、己の過去の夢から覚める。だが夢から覚めても眠りから覚めてはいない。彼はいつもの、闇の中にいた。崩壊したはずの夢の世界は、また再構築されている。彼は眠っている期間が長かったので、夢の中で考え事をするようになっていた。
 彼は、肉体が死を迎えるまでの過程を知った。冥府が、彼に記憶を与えたのだ。
 冥府を逃げ出した獣の一匹が彼に目をつけた。どこの建物かは知らないが、機械のたくさん並ぶ建物の中に、彼はいた。だがささいな事故で機械は暴走、爆発の眩しい光で彼は両眼の視力を失ってしまった。室内は燃え上がり、あっというまに床と壁を舐めまわす。爆発の衝撃で倒れた機材の下敷きになった彼は身動きのとれぬままで、肉体の死を迎えようとしていた。冥府の獣は、肉体から飛び出そうな魂を無理に引きずり出し、食いちぎる。魂の半分が喰われる。ちょうど肉体の死を迎え、黒焦げになった肉体の上で魂はプルプルと震えた。冥府の獣に怯えたのだろうか。冥府の獣がさあ食いつくそうとしたところで、ケルベロスが追いつき、炎を浴びせて獣を燃やす。そして冥府の番犬はその冥府の獣と魂を冥府に連れ帰ったのだった。
(だが、まさか奴が――)
 氷雪は、ため息をついた。
「!」
 自分の体に流れ込んでくる力が、夢の世界を崩壊させていくのがわかる。冥府の力だ。
「かなり回復してきたようだな。死神との同化も終わっている、目覚めて戦わねばならないな」
 崩壊する夢の世界から、氷雪は去る。この戦いが終われば、彼は冥府から去る事が出来る。そして、同じく冥府に縛り付けられていた、紅蓮も――。
(やっと、冥府から去れる……)
《意思》が、崩壊しつつある夢の世界から、彼に音を降らせてきた。
 魂を再びあるべきところへ返らせよ、と。
「わかっている。だから私は、戦わなければならないんだ」
 氷雪はつぶやいた。
 ……。
 魂の樹木の内部がさらに強い光で満たされた後、その光は急速に消え、樹木に埋め込まれている青白い水晶の周りを、わずかに照らすだけとなった。

 冥府の番犬は、悲痛な鳴き声を上げ、燃え上がるモノの足元に倒れ伏した。三つの首は荒く呼吸し、舌をダラリと垂らしている。さんざんいたぶられたために、ケルベロスには、もう立ち上がる力さえ残っていない。
「ケルベロス!」
 結界で守られているヨランダは魂の樹木の傍から離れられない。冥府の張り巡らせた結界から離れてしまえば、彼女はたちまち、燃え上がるモノの餌食となるからだ。
 燃え上がるモノは、倒れ伏したケルベロスにはもう目もくれなかったが、そのかわり、ヨランダを見る。新しい標的とみなした。
「ショウジャ、ノ、チカラ!」
 口から不気味な闇色の炎がちらちらと見え隠れする。まるで喜んでいるかのようだ。
「ヨ、コセ! ショウジャノ、チカラヲ!」
「紅蓮……」
 ヨランダは助けを求めるようにその名を口に出す。助けを求めている相手は、今はもう魂を求めてさまよう異形の存在でしかないのに……。それでも、ケルベロスが戦闘不能になるまでいたぶられても、彼女はまだ信じたくなかった。
「お願い! こんなこと止めて!」
 だが彼女の言葉もむなしく、燃え上がるモノは炎を吐いた。炎は結界に当たり、結界をゆがめる。
「止めて!」
 それでも燃え上がるモノは再び炎を吐いた。今度は結界をさらに大きくゆがめる。あと一撃浴びせられたら、結界が破壊されてしまうかもしれない。
 燃え上がるモノはヨランダの言葉に全く耳を貸していない。あれはもう紅蓮ではない。己の貪欲さに突き動かされているだけの、化け物だ。
「チカラヲ、ヨコセ!」
 燃え上がるモノは、口の中で炎をちらつかせる。あと一撃で結界を破れるとわかっているので、力をためている。大きくのけぞって息を吸い、続いて魂の樹木に向かって吐きだした。先ほどとは比べ物にならぬ熱さ、激しさ。一瞬で魂の樹木は炎に包まれた。
 ヨランダは思わず自分が焼かれたと思い、目をぎゅっと本能的に閉じてしまった。だが、熱さこそ感じるものの、炎が自分の体を焼く感触がない。おそるおそる目を開けてみる。
「熱いな、やはり――」
 彼女の前に、誰かが立っている。その誰かの背中を見るだけで、彼女の顔には喜びがあふれた。
「やっと目が覚めたぞ」
 氷雪は、燃え上がるモノの炎を結界で防ぎながら、言った。
 燃え上がるモノは、炎の攻撃を中断した。
「キタ、キタ!」
 嬉しそうな声を上げる。醜い、だが紅蓮の面影を残す声で……。氷雪は結界を張ったまま、燃え上がるモノの傍に倒れ伏しているケルベロスにちらりと目をやる。
「ぎりぎり間に合ったというところだな」
「もうちょっと早く起きてほしかったわね……」
 しゃがんだままのヨランダは声が震えている。本当に、もう少し早く来てくれたらケルベロスがこれ以上傷つかずに済んだろうに。
「それだけ私の消耗が激しかったということさ」
 氷雪は、燃え上がるモノを正面から見据える。
 燃え上がるモノは、氷雪だけを見ている。もうヨランダなど眼中になさそうだ。燃え上がるモノは嬉しそうな声を上げる。
「タマシイ、ヒトツ、ニ、ナル……」
 燃え上がるモノが何を言っているのか、氷雪もヨランダも理解している。獣の貪欲さにつきうごかされながらも、燃え上がるモノは己の成すべき事を遂げるため、ここへきている。何度も繰り返すその言葉からもわかる。
「マタ、ヒトツニ、ナル……」
 だが、このままでは、獣の貪欲さに負けて氷雪を喰うだけに終わってしまうだろう。そうなると、今度こそ氷雪は冥府の獣に変わり果ててしまう。
 氷雪は言った。
「紅蓮は?」
「……あいつの、中に」
 ヨランダの言いたい事を、彼は理解した。紅蓮は、本来あるべき姿に戻されただけなのだ。
 肉体の死を迎えつつあった氷雪を喰った、冥府の獣の姿に戻されただけなのだ。
 嬉しそうに、燃え上がるモノは口の端を釣り上げて笑っている。燃え上がるモノは口の中に再び闇の炎をため始める。氷雪は小さく息を吐いて、肩をすくめた。
「冥府も酷な事をするなあ、まったく」
 そして、
「だが、そうしなければ我らを冥府から解き放つ事などできない。そう思ったんだろうな!」
 氷雪が両腕を前方に突き出すのと、燃え上がるモノが炎を吐きだすのは同時であった。氷雪の手から浄化の強力な力が飛び、炎にぶつかる。炎は浄化されるが、浄化の光は炎を飲み込んで消えてしまった。両者の力は互角だ。
「私はいい加減、眠るのにも飽きたからな。同化が解ける前に決着をつけてやる。私も、紅蓮も、あんたも、今度こそ冥府から出るんだ!」
 氷雪は力を集め始める。対抗するかのように、燃え上がるモノも炎を再び口の中に貯め込んだ。
 二つの力が再び、ぶつかりあった。


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