第9章 part1
冥府が記憶を注入したことで、何もかも、思い出した。
魂の樹木へと向かう途中で、冥府の獣たちのささやきに耳を貸し、壁に穴をあける手伝いをした。鋭い爪の一撃で壁に穴が開くや否や、獣たちは一斉に飛び出した。そして自分もそれに乗じて飛びだした。魂を喰いたくてたまらなくなってきたからだった。飛んで、飛んで、やがて見えてきたのが、燃え上がる建物。燃えている機材の下敷きになった黒焦げの肉体から、飛びだそうとする魂。美味そうな魂。躊躇わず、体から逃げようとするその魂を食いちぎる。全部飛び出していなかったので、食えたのは半分だけだった。だが、美味い。もっと喰いたい。魂の残りは全て引きずり出され、黒焦げの肉体の上でプルプル震えている。食ってくれと言わんばかりだ。遠慮なく食おうとした時、背後から獣の咆哮が聞こえ、続いてすさまじい熱が襲いかかった。
熱さを感じた次の瞬間、冥府の中に連れ戻されていた。魂の樹木の傍にいた。半分喰われた魂は、浄化されたにもかかわらず、その場でプルプル震えたまま動かない。その魂には大きな裂き傷がついており、その傷が魂を蝕んでいるのがわかる。間違いない、この裂き傷は、先ほどこの魂を食いちぎった時についたものだ。そして喰われた半分は自分の中で暴れている。外へ飛び出そうとしているのだ。喰われそこなった、己の片割れを求めているのだ。
冥府は、怒りの音を浴びせてきた。冥府に傷口がつけられたことで、中にいた獣たちがほとんど外へと飛び出してしまった。さらに、体内で暴れ回っている喰いかけの魂は獣に蝕まれており、このまま浄化させても傷は癒えず転生させる事が出来ない。そして、生者の世界と冥府における魂の均衡を崩さぬためにも、冥府に穴をあける手伝いをしてしまった罰として、外へ逃げ出した冥府の獣を狩ることを、冥府は命じた。
冥府は、その獣の力と、わずかに残されていた魂の理性とを分離させ、分離させたそれに力を注いで《カリビト》として産み出した。食われかけの魂を腹に収めている獣の力は、冥府のどこかに飛ばされた。冥府に近しき魂であるが故に、最初から冥府の力を若干持っているその魂は完全に獣にならずに済んでいる。あの魂を完全に分離させるには、あの獣の力をさらに強大なものにし、純粋な魂とかけ離れた存在に変えなければならない。いざ一つに戻る時がきたら、あの獣の力を完全に浄化し、残った喰われかけの魂を取り出し、融合させた後に改めて浄化する。その間、《カリビト》は獣を狩り、この場に残された喰われかけの魂は魂の樹木の中で傷を癒し、転生するための準備をさせるのだ。
冥府は《カリビト》に名前を与えた。生前の記憶は、冥府の番犬の炎によって消え失せてしまったから。《カリビト》は、冥府に、記憶を少し抜き取ってくれと頼んだ。この魂はいずれ己の傷の真相を知ることになるだろう。そうなったら恨まれるのは目に見えている。だがそれよりも、自分自身が耐えられない……。魂をこの冥府に長くつなぎとめることになるであろう原因を作ったのは、まぎれもなく自分なのだから。いわゆる良心の呵責。冥府は頼みを聞き入れ、記憶を抜いた。その時が来たら、記憶を戻すと言う約束で。
《カリビト》は、番犬ケルベロスと共に冥府の獣を狩り続けた。獣の声に耳を傾けてしまった自分が冥府に穴をあける手助けをしてしまったのだから、こんな罰を受けて当然だ。そう思いながらも、獣をひたすら狩り続けた。
生者の世界では何十年という長い時間。冥府にいればそんなに時間の経過は感じないとはいえ、それでも、移りゆく生者の世界の様子を見ていくと、いつのまにかそれだけ長い時間が経過しているのだとわかる。その間にも、ふさがっていない冥府の傷口を通って生者の世界に逃げ出す獣は後を絶たない。狩った獣は数知れず。それでも獣は全滅しない。魂が冥府に訪れる限り、そして生者の世界への執着が強い魂が獣のささやきに耳を傾けてしまうかぎり、獣は常に新しく現れるのだ。ケルベロスもサポートしてくれるとはいえ、戦いの中では重傷を負う事も珍しくない、危険でキリのない罰。だが、それを止めるのは決して許されない事だった。冥府がもういいと命ずるまで、《カリビト》は冥府の獣を狩り続けるのだった。
時はとうとうきてしまった。
力を蓄え続けてきた、あの忌まわしい獣が、ついに姿を現したのだ。貪欲な獣の本能に任せて、冥府の獣をむさぼり食い、冥府の力を蓄え続けた。だが、その体内に未だにとどまっている、喰われかけの魂の半分は、獣の力に浸食されずに残っている。元々冥府に近しき魂、すぐ冥府に馴染みはしたが、完全に獣の力に浸食されずに済んでいるのだ。
だが、その魂は、片割れの存在とひとつになるべく、今度はあの忌まわしい獣をあやつりはじめた。忌まわしい獣はその本能に従って冥府の獣を喰らい、さらには冥府の傷口を直接喰って力を蓄えつつ、魂の片割れの眠る、魂の樹木へと向かい始めた。そして魂の樹木を襲撃した。それは魂の意図した事ではなかった。魂を食らおうとする獣の本能が、魂に打ち克ったのだ。忌まわしい獣を止めたのは、力を一時的に手に入れている魂の片割れ。消耗の激しさゆえに、いったん獣は退かねばならなかったが、次に出遭ったのは、《カリビト》であった。獣は、反応した。《カリビト》は、反応した。獣は《カリビト》の持つ力に反応した。《カリビト》は、獣に抱いた恐怖に反応した。忌まわしい獣は力を欲して《カリビト》を襲い、恐怖に襲われて一時は動きが取れなくなってしまった《カリビト》は冥府からの命令通りに、戦った。激しい戦いの末に、浄化の力を叩きこまれて再び消耗した忌まわしい獣は、今度は、冥府によって封印されてしまった。だが、魂は諦めなかった。忌まわしい獣は、封印を喰い、その力をまた取り込み始めたのだ。そのうち、封印を完全に喰い荒してしまい、忌まわしい獣は再び冥府に姿を現すことになった。
同じく消耗した《カリビト》の、あるていどの回復を待ち、冥府はかつて《カリビト》と交わした約束をはたすために、《カリビト》に、今まで預かってきた記憶を戻した。長い間その記憶に触れていなかったせいだろうか、《カリビト》は記憶を拒絶してしまった。ある程度予想できていたことではあったが……。
そして、《カリビト》は、戦う力を抜きとられて魂に戻されてしまった。再び姿を現した忌まわしい獣は、ケルベロスによって重傷を負ったが、傍に突然現れた魂を取り込み、力を取り戻した。《カリビト》としての役目を終えた魂は、元の姿に戻っただけだった。
忌まわしい獣は、己がかつて喰った魂の片割れに操られ、獣の貪欲な本能にもつきうごかされて、今度こそ目の前にいる魂の片割れを食らおうと、攻撃を開始したのだった。
二つの力がぶつかったとたん、目もくらむような眩しい光が辺りを真っ白に染め上げた。思わず、目を閉じてしまう。無音の爆発による衝撃で、結界の外にいた、燃え上がるモノは、後ろへ大きく吹き飛ばされた。一方、弱ってきていた結界は爆発を防ぎきれず、衝撃を多少結界の奥へ通してしまった。氷雪とヨランダはそろって魂の樹木にぶつかった。軽くぶつかった程度なのでよかったが、もし結界がなくなっていたら、おそらくこの程度では済まなかったろう。
「結界がなかったら、たぶん即死なんでしょうね。でも、ここは冥府だから、本当の意味で死ぬことはないけど」
なぜかヨランダはそんな事を言う余裕らしきものが生まれていた。冥府での出来事に慣れっこになってきたからかもしれない。これが生者の世界だったら、死に怯えていたかもしれないが。
「奴の力が戻っている。少してこずりそうだな」
氷雪は舌打ちした。目覚めたばかりだが、彼の力は完全に戻っているわけではないのだ。回復したのは九割。戦いが長引けば死神との同化は解け、またただの魂に戻ってしまう。そうなるともう戦う事は出来ない。それどころか、あの化け物に喰われて今度こそ冥府の獣の一匹となり果ててしまうかもしれぬ。
燃え上がるモノは、爆発の衝撃を受け、だいぶ離れたところまで吹き飛ばされて頭から激突した。普通なら首が折れて死亡しているものであるが、ここは冥府。肉体の死など存在しない。冥府の闇の中に頭から派手につっこんだが、しばらくもがいた末にやっと立ち上がる。
「ヒトツ、ニ、ナル……!」
燃え上がるモノの体を取り巻く炎は一段と激しく燃え上がる。ぶつかった拍子に頭が少し潰れてしまったが、気にも留めていない。目の前にいる、魂の片割れと一つになりたい。目の前にいる魂を喰いたい。その二つが、燃え上がるモノを動かしている。
「クワセロ……!」
「うそ、まだ立てるの……?!」
「獣の本能が狩りたてているにすぎんのだろ」
氷雪は大きく息を吸い込んで、力をためる。
燃え上がるモノは再び、口の中に炎をため込み始める。
(こんな敵を目の前にしても、《意思》も冥府も、助けてはくれないのね)
敵を目の前にして、ヨランダはふと思ったのだった。
ケルベロスは、先ほどの爆発の衝撃を受け、倒れている場所からさらに遠くへ飛ばされていた。巨体の番犬すらも動かされてしまうほどの爆発だったのに、燃え上がるモノは痛みもものともせずに起き上がっている……。
本当に、こんな奴を、倒すことなどできるのか? 獣の力と冥府の力を両方吸収して、さらには冥府の封印を食い破って復活した敵に、勝てるのか?
わからない。
《意思》も冥府も、何も伝えてこない。せめて勝てる見込みがあるかどうかくらいは、教えてもらいたいものであるが……。
「ヒトツ、ニ、モドル!」
燃え上がるモノは不気味に笑い、炎を吐いた。ヒトツに戻りたがっている行動とはとても思えない。焼き殺そうとしているとしか思えない。
「熱い……」
氷雪は結界を張って炎を防ぐ。炎は結界をまるごと飲み込む。何度も夢の中で襲われたあの熱さが、結界越しに伝わってくる。そうだ、肉体の死を迎えた時も、こんな風に熱かったものだ。
炎が消える。燃え上がるモノは不気味に笑っているままだ。結界で炎を防がれたのに、慌てていない。悔しがってもいない。
なぜ笑っているのだろう。
「クワセロ……!」
今度は、勢いよく跳躍し、その長い腕を振りかざす。その鋭い大きな爪が勢いよく空間を引き裂いた。これも結界が爪をはじく。だが、引っ掻かれた途端、鋭い激痛が氷雪の体を襲った。獣に食われた箇所が、鋭い痛みに襲われ、集中が一瞬解ける。集中が解けて結界が揺らぐが、すぐに強度は回復する。燃え上がるモノは結界の上に乗り、鋭い爪をつきたてる。爪が結界をはじくたび、結界の強度がわずかに落ちる。爪が結界に当たる度に、氷雪の体を痛みが襲うのだ。だんだん強度は落ちていき、結界の幅も狭まってくる。
「サア、ケッカイヲ、トケ!」
燃え上がるモノは、紅蓮の声で不気味に笑った。
「ヒトツニ、モドル、ノダ!」
その時、燃え上がるモノの背後から巨大な影が飛びかかった。冥府の番犬の体当たりを、燃え上がるモノはすぐに跳んで回避する。ケルベロスは結界にぶつかった。その衝撃で、氷雪は思わず悲鳴を上げた。とんでもない衝撃が体を襲ったのだ。全身に何かが勢いよくぶつかった衝撃。ケルベロスはすぐに体勢を立て直して、燃え上がるモノに襲いかかった。ところが、ぶつかられた衝撃で結界が完全に解けてしまい、氷雪は仰向けに倒れて魂の樹木にぶつかってしまった。
「しっかりして!」
ヨランダは、相手の冷たい体を揺さぶった。氷雪は完全に目を回してしまっている。彼が今まで張り巡らせていた結界は、どうやら、彼にも多少なりともダメージを与えてしまう諸刃の剣だったようだ。ケルベロスのような巨体がぶつかっただけでこの有様なのだから……。
「起きて!」
何とか目覚めさせようと揺さぶっているうち、ヨランダはふと自分の手から相手の体に何かが流れ込んでいるのに気がついた。右手を離すと、その何かは消える。彼の体に当てた左手を見ると、自分の手から黄色い光が相手の体へ流れ込んでいるのが見える。
「何これ……」
彼女の中に、音が降ってきた。
それは《意思》の音だった。彼女の手から流れ込んでいる黄色い光は、彼女の持つ生者の力。あの燃え上がるモノを滅するのに不可欠な力。
「で、でも幾ら必要な力だって言われても、彼を起こせないんじゃあ――」
すると、氷雪の体が黄色い光に包まれる。彼女がそれをあっけにとられて見ていると、彼の意識が戻った。彼は目を開ける。
目を開けた氷雪はそれでもふらふらしている。派手に魂の樹木にぶつかったせいだろうか。それとも、結界が破られて自分に返ってきたダメージから回復しきっていないからだろうか。とりあえず目が覚めてくれて、ヨランダは安堵した。
同時に、耳をつんざくような悲鳴。ケルベロスが、燃え上がるモノに投げ飛ばされ、派手に魂の樹木の枝に叩きつけられた。枝は何本か折れてしまい、ぶらさがっていた魂のいくつかは枝から離れると、燃え上がるモノの中へと吸い込まれていき、残りは他の枝にぶらさがった。ケルベロスは派手に落下したが、今度は何とか体勢を立て直す。
闇色の炎が襲いかかったが、すんでのところで結界が防ぐ。
「熱い……!」
氷雪はつぶやいた。だがその熱のせいで意識がはっきり戻ってきた。ふらふらしていた脚はちゃんと踏ん張っている。
氷雪の中に、不思議な力が少しずつ広がっている。それは、ヨランダが彼に触れたことで流れ込んだ、生者の力だ。冥府の冷たい力ではない、生者の世界にだけしか存在しない、温かな力だ。彼がヨランダの手に触れて感じたあの温かさと全く同じ。
「イノチ、イノチダ!」
燃え上がるモノは喜びの声をあげた。
「イノチノ、チカラ! ソレサエアレバ、ショウジャノセカイヘイケル! タマシイヲ、クエル!」
燃え上がるモノの目的は、徐々に変わってきているようだ……。一つに戻りたいという願いが、魂をたらふく食いたいという獣の本能にとってかわりつつある。
「生者の世界へ行かせるものか。貴様はここで浄化されるんだ」
氷雪は、ヨランダをかばうように、前に歩み出る。
「そして、貴様の喰った《私》を返してもらう!」
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