第9章 part2



「イノチノ、チカラヲ、ヨコセ……!」
 燃え上がるモノは、貪欲なその不気味な目をヨランダに向けた。にらみつけられた途端、ヨランダの全身に寒気が走った。続いて襲いかかってきたのは、急激な疲労感。彼女は立てなくなってしまい、魂の樹木にもたれかかってしまった。彼女の体から、一筋の、黄色い光が飛び出した。燃え上がるモノの体に黄色い光が一筋向かい、その光が体に触れると、燃え上がるモノを覆った闇色の炎が少しずつ消えていくではないか。だが、燃え上がるモノは全く苦しがる様子も見せていない。それどころか嬉しそうだ。
 GOAAAAA!
 いきなり、耳をつんざくような咆哮が辺りに響いた。いや、これは咆哮にしては悲痛すぎる音だ。むしろ悲鳴と言った方が正しかろう。
「ナンダ、ナンダコノチカラハ……! チカラガ、スイトラレル!」
 さっきの歓喜の声とは全く逆の、驚愕に満ちた声であった。ヨランダと氷雪はそろってあっけにとられた。
「一体どうしたの……?」
「うーん。どうやら、冥府の獣と、片割れの《私》とが、奴の中でそれぞれ声をあげているようだな。生者の力を喜んでいるのは《私》で、力を吸い取られて驚愕しているのが、獣の方だ」
 黄色い光が、燃え上がるモノの周りを取り囲むと、その体を覆う闇色の炎は徐々に小さくなっていく。消えたところからは不気味な色の煙が立ち上る。そのたびに燃え上がるモノは歓喜の声をあげ、一方では苦しがっている。
「あの黄色い光は、あんたの力なのか?」
「そうみたい。さっきあなたを目覚めさせたのも、そうだった……」
 ヨランダはそれだけ言って、ズルズルと幹づたいにへたりこんでしまった。体力が急になくなり、立つ事も困難になるほどの疲労感。あの黄色い光が燃え上がるモノの中に流れていくほど、彼女の疲労感も激しくなる。
 力が吸い取られているのだ。
 GYAAAAAAAAAAA!
 耳をつんざくような悲鳴があがると同時に、力の吸収がピタリととまる。燃え上がるモノの体で燃え盛っていた炎のほとんどは消えてしまい、煙を上げているだけとなった。
「ヒトツ、ニ、ナル!」
 燃え上がるモノは歓喜の声をあげ、とびかかってきた。自発的に飛び出したとは思えない、きわめて不自然な動き。見えない糸で操られているかのような、何かに引っ張られているような動きだ。身構えていた氷雪は右手に浄化の力を込め、飛びかかってきた燃え上がるモノの左胸めがけてそれを叩きこんだ。だがその浄化の力は、今までのような青白い光ではない。黄色い光だった。
 浄化の力が叩きこまれた瞬間、燃え上がるモノはまるで弾かれたように吹き飛んだ。浄化の力が叩きこまれたところから、ブワッと魂があふれ出てくる。ケルベロスはそれらに浄化の炎を浴びせる。獣の力を浄化された青白い魂は、すぐに魂の樹木へ飛んできて、枝に吊り下がった。
「なんだ、今の……」
 あっけにとられた氷雪は自分の右手を見た。直接触れたはずなのに、手は黒ずんでいない。それどころか、その手は黄色い光に包まれ始めているではないか。温かな力が彼の手から全身に広がっていくのを感じ取れる。
「ただの浄化の力じゃない……。ケタ違いの威力だ……」
 皆の上に、音が降ってきた。
《意思》は告げた。ヨランダの持っている生者の力が、浄化の力を一層強化しているのだ。氷雪の魂の半分は、この冥府に来た時に浄化の炎を浴びておらず、生前の記憶を持っている。そして、生者の力を吸収したことで力を取り戻しつつある。逆に燃え上がるモノが消耗していくのは、生者の力を取り戻していく氷雪の魂の半分に己を喰われているからだ。皮肉なことに、喰ったはずの魂に、今度は自分が喰われているのだ。
《意思》は告げた。生者の力を用いて浄化を行えば、確実に、燃え上がるモノを完全に浄化する事が出来る。これは、氷雪もヨランダも冥府に近しき魂同士だから出来る事。冥府の力も生者の力も同時にその身に宿せる特別な魂だからこそ、生者の力と冥府の力を融合することもできる。
「これなら、奴を完全に滅せるのか……?」
 これなら、喰われた己の魂を救いだせるのか……?
 燃え上がるモノが、起きあがった。
 音が降ってきた。だがこれは、《意思》ではない、冥府の音だ。
――融合の力は、長くはもたぬ。一刻も早く奴を滅するのだ。
 言われなくとも、そのつもりだ。死神との同化がとけてただの魂に戻ってしまえば、戦うすべをなくしたのに等しいのだ。そうなる前に、何としてでも、燃え上がるモノを浄化させ、喰われた氷雪の魂の半分を取り戻さねばならない!
「タマシイ、ヒトツ、ニ、モドル……!」
 燃え上がるモノは全身からぶすぶすとくすぶった煙を上げながら、またしても不自然な飛びかかり方をする。内部にいる魂の片割れに操られているのは間違いない。だが、獣の本能がかろうじて勝っている。大きく口を開けて牙をむき、氷雪を喰い殺そうとしたのだ。
「クワセロ!」
 牙をむいたと同時に、口の奥から炎を吐きだす。氷雪はすんでのところで結界を張る。炎と牙の同時攻撃を防ぎきるが、己に返ってくるダメージも大きかった。燃え上がるモノを弾き飛ばすのに成功したが、体に返ってきたダメージで集中が解け、結界が消えてしまったのだ。激痛と衝撃に耐えきれず、ふらついた彼は尻もちをついた。
 魂の樹木の幹にもたれかかったまま座り込んでいるヨランダは、そこから一歩も動けない。動く気力も体力もないのだ。あの燃え上がるモノに力を吸い取られたのだから。氷雪が守ってくれるとは言え、彼が万が一やられてしまったら、動けない彼女は逃げる事が出来ない。
《意思》が彼女にだけ音を送る。あの燃え上がるモノに吸い取られた生者の力は、生者の世界へ戻れば回復する。だがこの冥府では、回復しない。したがって、彼女はここにいる限り、疲労困憊の状態でいるしかないのだ。
(そんなあ……)
 さらに悪い事に、先ほど彼女の生者の力が全部抜き取られてしまっていたら、彼女は今度こそ本当に死を迎えることになるのだという。当然それは肉体の死だ。生者の力が奪われれば冥府の力が彼女の魂に流れ込むことになり、必然的に彼女は死者となる。だが、さいわい、奪われたのは七割。残る三割は、冥府の力がかろうじて守っている。冥府が彼女に割ける力はそのくらいしかないが、何もしてくれないよりは……。
(やっぱりカミサマって、よっぽどのことがない限りは、動こうとしないのねえ……)
 残りは冥府が守ってくれる。それだけでも彼女は少し安心できた。できれば、もっと早く守ってほしかったけれど。
――ケルベロス。その、冥府に近しき魂の盾となっておれ。
 冥府の命令をうけたケルベロスは盾となるべく、彼女の前に立ちはだかった。
 燃え上がるモノの体から出ている煙。そこからわずかに闇色の炎が噴き上がる。またしても頭から地面にぶつかった燃え上がるモノは、首がおかしな向きにねじれているのも構わず、起き上がった。同時に、尻もちをついていた氷雪も立ちあがる。
「同化が解ける前に、なんとしても奴を滅さなくては……」
――氷雪。奴と刺し違えるような愚行は許さぬ。
 冥府の音が、彼にだけ降ってきた。
――貴様が喰われてしまえば、今度こそ本当に二つの世界の均衡は崩れる。奴が生者の力を手に入れてしまえばどうなるか、貴様には想像がつくであろう。
《忌まわしいモノ》よりも遥かに凶悪で貪欲なこの獣。生者の世界に逃げ出し、目につく魂を片っ端から喰うだろう。常に一定であった、二つの世界を行き来する魂の数が減り、均衡は崩れてしまう。本来、氷雪も紅蓮も長く冥府にとどまってはならない身だが、事情があってそれを先延ばしにされていたにすぎない。いずれは彼らも転生することで、均衡を保つことにつながる。だが、燃え上がるモノが生者の世界や冥府で片っ端から魂を喰えば、冥府に来る魂の数と生者の世界へ向かう魂の数が合わなくなり、二つの世界の均衡を保つことは出来なくなる。均衡を保てなくなった二つの世界がどうなるかは、氷雪には具体的に想像できないが(ブラックホールに呑まれたり爆発したりするとはとても思えないが)、冥府と《意思》にとっては望ましからぬ事が起こると言う事だけは、理解しているつもりだ。
「わかっているとも」
 氷雪はつぶやいた。
「ヒトツ、ニ、モドル!」
 燃え上がるモノが牙をぎらつかせ、腕を伸ばした。抱擁を求める腕と、獲物を求める牙。今度は魂の片割れが勝ち、飛びかかってきた時、腕を伸ばして抱きしめようとする。氷雪はすばやくその腕をかいくぐり、無防備な相手の胸めがけて再び浄化の力を何度も叩きこむ。融合も同化も長くはもたない、さっさとけりをつけてしまわねば。その焦りが彼を急きたてているのだ。
 黄色いまばゆい光が、燃え上がるモノの体を包んだ。続いて聞こえてくる、激しい蒸発音。
 GYAAAAAAAAAAA!
 燃え上がるモノが、聞くに堪えない悲鳴を上げ、弾き飛ばされる。氷雪は肩で息をした状態で何とか立っている。
「まだなのかっ……!」
 燃え上がるモノの、浄化の力を叩きこまれた箇所は、徐々に黄色い光に包まれて行く。浄化された箇所から嫌な色の煙が派手にふきあがり、喰われてきた魂が逃げ出す。嫌なにおいがあたりにただよってくるが、それは浄化された獣の力の残骸だ。だが、何度も攻撃を叩きこんだのに、獣の力それ自体が完全に浄化できない。それほどまでに、燃え上がるモノが喰い続けてきたものの力が大きくなっていたと言う事か。無数の冥府の獣、《忌まわしいモノ》、魂、冥府の傷口、封印の闇。色々なものを喰った分、その体内に蓄えられた力は、ちょっとやそっとのことでは浄化し切れないほどのモノに成長している……。
「奴を太らせすぎたようだな、冥府。私が長く眠っている間に、奴はこれほどまでの力を蓄えてしまっている。何度も浄化の力を叩き込んでいるのにこの有様だ。この肥満ぶりを考えれば、ちょっとやそっとのことでは倒れんぞ」
――だがこれほどまでに力を蓄えさせねば、貴様の片割れと分離させる事が出来ぬのだ。貴様が冥府に近しき魂でなければ、これほどまでに苦労はさせられなかった。
「小言は後で聞く……!」
 氷雪は、燃え上がるモノが立ちあがるより前に、もう一度その体に浄化の力を叩きこんだ。
 耳をつんざくような悲鳴。
 数多くの、喰われた魂が、浄化された箇所から勢いよく飛び出してきた。数えきれないほどの魂が、ケルベロスの洗礼の炎によって浄化されては、魂の樹木の枝につりさがっていく。一体どれだけ沢山の魂を喰らってきたのだろうか。
 燃え上がるモノは痙攣している。起き上がる間もなく、攻撃を連続で叩きこまれたのだ。一方で、氷雪も消耗している。《カリビト》ではない普通の魂なのだ、死神と同化しているとはいえ、浄化の力を使えば少し反動がくる。ありったけの力を込めて浄化を行えばなおさらだ。それでも、燃え上がるモノに大打撃を与えただけであった。致命傷を与えてはいない……。
――まだ足らぬ。
 聞かれもしないのに、冥府は音を降らせた。肩で息をしている氷雪は苦い顔をした。まだ、滅するには力が足りないのだ。
 このまま力を叩き込み続けていても、燃え上がるモノを完全に浄化するより先に、融合と同化が解けてしまうかもしれない。
「冥府」
 息を切らしながら、氷雪は冥府に呼びかけた。
「私の片割れは、奴の中のどこにある?」
――腹の中。
 シンプルな返答。
「確かにそうだな。喰われて未消化のままなら、胃袋にとどまっていても当たり前だな」
 氷雪はもう一度右手に浄化の力を込めた。そして、起き上がろうとする燃え上がるモノの腹めがけて、強く右腕を突き出した。
 激しい悲鳴と同時に、燃え上がるモノが身をよじる。腹に浄化の力を叩き込まれたのだ。
「ヤ、ヤメロオォォォ!」
 その口から、苦し紛れに闇色の炎が吐きだされる。だがそれは氷雪に向かって吐かれたのではなかった。
 ヨランダに向かって放たれた炎は、ケルベロスが炎を吐いて対抗する。二つの炎がぶつかり、しばらく押しあった結果、ケルベロスの吐いた炎に呑み込まれた。
 氷雪は情け容赦なく、浄化の力を燃え上がるモノの腹に当て続ける。彼の手が当てられたところからは絶えず魂が飛び出していく。異臭のする煙が激しく立ち昇り、燃え上がるモノは身をよじって悲鳴を上げた。
 疲労の限界に達した。氷雪は肩を大きく上下させた。飛び出していく魂は一気に少なくなった。黄色い輝きは徐々に弱まってくる。
(まずい、もう限界か……)
 ふらついた。燃え上がるモノは激しく痙攣していたが、浄化の力が弱まるにつれて、その痙攣もおさまってきた。
 目の前がぐらついた。踏ん張ろうとした氷雪だが、それより早く、燃え上がるモノが浄化の力から抜けだした。
「サア、ヒ、トツニ……!」
 とぎれとぎれの言葉を発しつつ、上半身だけを起こした燃え上がるモノは腕を伸ばして、倒れそうな氷雪を抱きかかえ、その大きな牙で、氷雪の左腕に噛みついた。


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