最終章 part1



「!!!」
 牙を立てられた左腕に焼けるような激痛が走った。氷雪の左腕から吸われた黄色い光が、牙を通じて相手の体へ流れていく。激痛のショックで氷雪は一瞬体が硬直した。その痛みの激しさから、思わず悲鳴を上げたと思われるが、口は開いているものの、叫んでいるはずの声は全く聞こえてこなかった。
「ギャアアアア!」
 なぜか、自ら噛みついたはずの燃え上がるモノが悲鳴を上げ、氷雪の左腕から牙を抜くが、腕だけはしっかりと彼をつかんだままであった。牙を立てられていた氷雪の左腕から、黄色い光がわずかに漏れ出ているのが見える。燃え上がるモノはこの力を取り込んだために、己の内部の魂にまた体を喰われ始めたのだ。
 氷雪は力を振り絞って、燃え上がるモノを何とかひきはがす。だが立つ事も出来ないほど消耗してしまい、尻もちをついた。
「早くこっちに来て!」
 ヨランダの呼びかけに、彼はゆっくりと後退することでこたえた。ケルベロスが彼の襟首を軽くくわえてひきずり、魂の樹木の傍へ引き寄せる。その間、燃え上がるモノは、激しく痙攣し、次にはのたうちまわり、襲ってくる様子がない。のたうちまわっている間も、魂がその不気味な肉体からいくつも飛び出して、ケルベロスの炎で浄化されていく。魂はあとからあとから飛び出していく。一体どれだけの魂を喰らってきたのだろうか。
「まずい……」
 氷雪の体が青白く光り、たまに、一瞬だけ死神の姿が浮き上がって見える。
 もうじき、同化が解けてしまう。
 彼の体は、もう一度青白い光に包まれる。だがこれは、冥府の力によるものだ。
――同化の時間を延長する。だが、そう長くはもたん。
「とどめをさせると思ったが、詰めが甘すぎた……。だがこれで何とかなるかもしれんな」
(なってくれないと、こっちも困るわよ)
 ヨランダは口には出さなかった。
(アタシは戦えないし、疲労がたまってるからろくに動けないし……)
 氷雪に負けてもらっては困る!
「でも、ひょっとしたら、ちょっとだけなら力をあげられるかも」
 彼女は、氷雪の、噛みつかれた左腕の傷に手を当ててみる。彼女の手から、黄色い光がわずかに流れ出て、氷雪の傷口に入り込む。すると、彼の傷口がすぐふさがった。彼女が手を離すと、黄色い光は漏れ出なくなった。
「不思議だな。生者の世界の力なのに、体中から力がわき上がってくるような……」
――貴様が同じく冥府に近しき魂なればこそ。生者の力も冥府の力も、貴様の中で共存できるのだ。
「なるほどな」
 氷雪は立とうとしたが、中腰になったところで、腰が抜けたようにストンと座り込んでしまった。まだ、立つには十分ではないのだ。立てないと言う事は、浄化の力を放つだけの余裕もないと言う事だ。
 一方、燃え上がるモノもひどく消耗している。まだのたうちまわって苦しんでいる。何度も浄化の力を叩き込まれた上に、喰ってきた魂がどんどん体から逃げ出していくのだ。消耗が進んでいくのも当然である。
「あと一撃叩き込めれば、奴は完全に浄化されるのか?」
 氷雪の問いに、冥府はしばし無言であった。
――奴と刺し違えることは許さぬ。
「……浄化は出来るかもしれない。だが、刺し違える恐れがあるのか。で、もしそうなった場合、私が確実に敗れるのか?」
――……さよう。
「他に方法はないの? 触れないと浄化はできないんでしょう……」
 ヨランダの声は、氷雪よりもさらに弱弱しい。氷雪に己の力を少し分け与えただけで、さらに疲労感が増したのだ。一方で、のたうちまわる燃え上がるモノは、魂の飛び出す数が徐々に減ったものの、痙攣が収まってきた。
「タ、マ、シイ、ヒトツ、ニ……」
 しぶとくも、痙攣したまま起き上がってきた!
「グルルル……」
 恐怖心などどこへやらのケルベロスが、氷雪とヨランダの前に立つ。氷雪が回復するまでの足止めを買って出たのだろう。 「ジャマ、ヲ、スルナ! メイフノ、バンケン!」
 燃え上がるモノが、よたよたと歩いてくる。ケルベロスが体重をかけてのしかかればつぶされてしまいそうなほど、その歩みは弱弱しい。ケルベロスはすぐ体当たりをしかける。当然、ふらふらしている燃え上がるモノはよけることができず、あっけなくふっとばされる。しかしすぐ起き上がった。腹の中の、氷雪の片割れが、燃え上がるモノを操っているのだろうか。糸で引っ張られるような不自然な起き上がり方をしたのだ。腹が体全てを引っ張って起き上がらせ、燃え上がるモノの足をしゃんと立たせた。
「ヒトツニ、ナル……クワセロ……」
 まだ冥府の獣の本能が残っている。たとえ、燃え上がるモノの近づいてくる目的が氷雪の片割れと一体になる事だとしても、これではだめだ。氷雪を喰われてしまう。
「グルルルル……!」
 敵意をあらわにしたケルベロスが浄化の炎を勢いよく吐き出す。燃え上がるモノも対抗して炎を吐き出すが、とても弱弱しいものだった。あっというまにケルベロスの炎が相手の炎を完全に打ち破り、燃え上がるモノはケルベロスの炎に包みこまれた。包まれると同時に、燃え上がるモノの体から飛び出していく魂たち。燃え上がるモノは悲鳴こそあげなかったが、体の痙攣が激しくなった。
「もうちょっと……」
 ヨランダは、もう少しだけ、と、氷雪に生者の力を注ぎこんだ。目の前がくらくらしてきた。氷雪は礼を言って立ち上がる。今度は、しっかりと立った。
「これで、最期だ……!」
 氷雪の体が青白い光で包まれる。冥府がわずかに力を貸しているのだ。
 燃え上がるモノを包む炎はいっこうに弱まらない。ケルベロスが火を吐き続ける限り。燃え上がるモノは痙攣し続けて、歩いてこない。
「ハ、ヤク、ヒトツ、ニ……!」
「言われなくとも!」
 氷雪は地を蹴った。残ったわずかな力を精いっぱい集めた。攻撃できるのは、これで最期。
「ハ、ヤク……イマナラ、ダイ、ジョウブ……」
 一瞬、ヨランダは耳を疑った。だが聞きなおす暇など無かった。
「ハヤクシロォォォッ……!」
 その声と同時に、氷雪は、燃え上がるモノの体めがけて、浄化の力をありったけたたきこんだ。
 大量の魂が飛び出したが、すぐに終わった。ケルベロスの炎によって包まれている、燃え上がるモノの体は、真っ白な光に包まれた。
 ヨランダは、目がくらんで、思わず目を閉じていた。ケルベロスは炎を吐き出すのを止めて、眩しい光をじっと見つめていた。
 目のくらみが治った。ヨランダはおそるおそる目を開けてみた。
 魂の木の傍に、三つの魂が浮かんでいる。燃え上がるモノと氷雪がいなくなっている。いや、いなくなったのではないのだ。この魂こそが、彼らなのだ。
「紅蓮……あんた、最後の最後で、助けてくれたのね」
 ヨランダは、魂の一つに向かって、言った。
「浄化されて獣の本能が消されて理性が戻ったんでしょう。だから、今度こそ確実に浄化してもらうために、ケルベロスの炎に包まれた時、動くのを止めた。そうじゃない?」
 その魂は、肯定するかのように、少し沈んだ。
 二つに分かれた魂は、近づき、重なりあった。柔らかな青白い光が二つの魂を囲み、それが消えると、魂は一つに戻った。
 ケルベロスはいつもの役目を果たす。浄化の炎を浴びせると、二つの魂は魂の樹木の中へと飛んでいく。
――オワッタノダ。
 死神の声が、どこからか聞こえた。いや、魂の樹木の中から響いてきているのだ。消耗しすぎたせいで立ちあがることすらできなくなったヨランダが何とか這いずって中に入ると、そこには、いつも通り、死神がいた。台座には、転生の炎が燃え上がっている。
――スベテハ、オワッタノダ。
 死神はそう言って、両手に持った魂をヨランダに見せる。
「氷雪と、紅蓮、よね……」
――ソウダ。
「これで、二人は生者の世界へ、行けるのよね?」
――ソウダ。
「アタシも、戻れるのよね?」
――ソウダ。
「よかった」
 死神は、二つの魂を炎の中へと投げ込んだ。二つの魂は浄化され、生者の世界へ向かう。それを見ていたヨランダは、急な眠気を覚え、倒れてしまった。
 閉じられつつある瞼。闇に包まれていく視界の中で、彼女は自分の体が黄色い光に包まれたのを知った。


「!!!!!!」
 上から降り注いできた光に、ヨランダは、はっとした。
 ヨランダは、会社のトイレの個室にいたのだ。
「こ、ここは……? 冥府じゃないの……?」
 現状を把握するにはだいぶ時間がかかったと思われる。腕時計を見ると、すでに午後の仕事の時間は始まっていた。
「やだっ!」
 ヨランダは慌てて個室を飛び出した。
 急いで、過去のデザイン画をしまってある書庫へ飛びこんだ。皆、デザイン画を探すのに夢中になっていて、彼女が遅れた事など誰一人として気が付いていない。ヨランダはほっとして、自分の担当のデザイン画を探し始めた。


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