最終章 part2



(何もかも、いつもどおりなのね)
 会社から帰る途中、横断歩道の信号待ちをしている時、ヨランダはふと思った。
 いつも通り。
 何も変わりの無い日常。
(だけど、冥府を知ると、ものの見方がガラリと変わっちゃうのね)
 死後の世界たる冥府の静けさと生者の世界のやかましさ。生者の世界は、常に生命に満ち溢れている。生命あふれる魂たちは、再び冥府に向かうその時まで、今を精いっぱい過ごしているのだ。何も変わりの無い日常だったのに、暗闇と不気味な獣と魂の樹木のある冥府を知ると、途端にこの生者の世界の日常が素晴らしいものに見えてくる。その時その時を「生きる」ことが、楽しくて仕方ないのだ。
(こんな風に世の中を見るようになったアタシって、変かしら?)
 信号が変わると、彼女は横断歩道を渡った。途中、買い物のために小さな商店に立ち寄る。食材をいろいろ買いこんで帰宅する。家に入ると、ドアを施錠し、リビングの床に荷物を下ろした。着替えるのも忘れ、彼女はそのまま料理を開始。一時間近くかけて、ホームパーティーを開くわけでもないのに、彼女一人では食べきれぬほどの量を調理していた。煮て、焼いて、炒めて、皿に載せる。最後には、買ったリンゴで焼きリンゴを作っていた。
「あら、何でこんなに作ったのかしら」
 いざ食べる時になって、初めて、彼女は自分がどれだけ沢山作ったのかを知ったのだった。結局全部食べきれず(当然である)、残りは冷蔵庫行き。満腹になったところで、シャワーを浴びに行く。冷たいシャワーからだんだん水温を上げていき、五〇度まで熱くする。それ以上は無理なので蛇口をひねって湯を止めた。バスタオルで体を拭くとき、いつもよりずっと丁寧に行った。洗面台の鏡に映る自分を見る。モデル並みとはいかないが、なかなか均整のとれたスタイル。出るべきところはちゃんと出ているが、出てほしくないところが最近出てきているようだ……。
(ダイエット、したほうがいいのかしら……)
 パジャマに着替えて寝室に入り、部屋の明かりをつけて、ベッドに横たわる。やわらかな布団が彼女を包む。ころころと転がってみる。いつもの柔らかさを感じ取れる。だが、なぜだろう。とても新鮮な感触だった。明かりを消すのも忘れて、彼女はいつの間にか眠りに落ちていた。何の夢も見なかったし、冥府に呼ばれることもなかった。《意思》が作った夢の架け橋は、なくなったのだ。
 翌朝、目覚まし時計が鳴る前に起きた。コーヒーを淹れ、冷蔵庫から昨日の残り物を取り出して食べる。着替えをすませ、髪をブローして、ちゃんとメイクする。それから荷物を持って家を出る。さわやかな朝の日差しを浴びながら、彼女は会社に到着した。
 いつものことのはずなのに、何もかも新鮮だ。
 いつもどおりなのに、何もかもが新しかった。

 冥府は、静かにうごめいている。
 あの件以来、魂の数は本来あるべき均衡を取り戻した。生者の世界から魂を受け入れ、ケルベロスが炎を吐いて浄化し、浄化された魂は魂の樹木の元へ飛んでいく。魂の樹木を守る死神がその魂たちを枝からもぎとって、転生の炎の中へ投げ込んで生者の世界に送り出す。
 冥府もまた、平安が戻りつつあった。燃え上がるモノに喰われた冥府の傷は、ゆっくりと時間をかけて治されていく。冥府の獣のほとんどが魂に戻った上に、わずかに残った者どもは、冥府の傷口を喰っていた燃え上がるモノをおそれているので、傷口に近づいてくる心配はない。
 静寂と闇と魂の光だけが、冥府の全て。生者の世界とはまったく対照的な、死の世界。だがこれで正しいのだ。魂が再び生者の世界へ戻るために訪れる、休憩地点のような役割を果たすのが、冥府なのだから。
《意思》は、冥府に伝えた。
 何もかもが、元通りになったと。
《意思》は、もうヨランダに接触することはない。彼女の果たすべき役割は、もう終わってしまったからだ。
――スベテガ、モドッタ。
 死神は、つぶやいて、転生の炎の中へと魂を投げ入れた。
――あの二つの魂は無事に転生を終えた。再びこの冥府へ戻るときまで、会いまみえることはないであろう。奴らには、苦労をさせられた。
 冥府の音が降ってくる。
 冥府の入り口では、ケルベロスが大あくびしている。三つ首の番犬は、くわあ、と大あくびしてから立ち上がり、背伸びをした。新しい魂がいくつも飛んでくると、ケルベロスは炎を吐いて浄化を行う。魂たちは浄化され、生前の記憶を失って、魂の樹木へと飛んでいった。それを見送り、冥府の番犬はまた大あくびをした。いつもの仕事。冥府の獣がおそろしく減った上に、連中が冥府の傷口から逃げ出す事もなくなったので、狩りをすることもなくなったので、ケルベロスは暇を持て余してしまった。
 だが、本来ならそれが冥府のあるべき姿なのだ。
 何も起こらない、静寂と闇と魂の光に満ち溢れた世界。「何もかもがある」生者の世界から見れば、とても不気味で退屈極まりない、「何もない」世界。これが、冥府なのだ。
――完全に元通りになるには、まだまだ時間が必要。だが、これ以上事態が悪化することはないであろう。


 冥府での戦いから一年経った。
 ヨランダは相変わらず忙しい毎日を送っている。業者との打ち合わせや、デザイン画のとりまとめ、チームでの話し合いなどなど。
「毎日忙しいわねー」
 全く変わり映えのしない日々が過ぎている。そう、いつも通りの生活をしているだけなのだ。
(でも、これで満足なのよね)
 ヨランダは全く不満を抱いていなかった。
 この生者の世界で生きていられる事。それだけで、彼女は幸せだった。
 冥府の中で起こった戦いのことは、彼女の記憶から消えることはない。彼女が冥府に近しき魂だから。彼女が肉体の死を迎えて冥府へと魂が戻っていくまで、その記憶は彼女の魂に刻みつけられているのだ。その忌まわしい記憶を持つ限り、彼女は生者の世界に存在できる事を本当にうれしく思っているのであった。
(いつかはアタシも冥府に戻る時が来るわ。でもそれまでは、目一杯この世界で楽しんでおきたいわねえ。悔いの無いように……)
 そんなある日の事。
 ふとヨランダは思い出す。
 氷雪と紅蓮。
「どうなったのかしら」
 戦いの後、二人の魂は無事に生者の世界へと送り出された。今は、一体どこにいるのだろうか。もしかすると赤子として生まれ変わり、ゆりかごやベビーカーで泣いているかもしれない。いやそもそもヒトとして生を受けたとは限らぬのだ。転生した先の肉体が何になるかは、冥府にも決める事は出来ないのだし……。
「ひょっとしたらミジンコとかそんなのだったりして……」
 その日は休日、ヨランダは商店街で買い物をする。少し疲れたのと小腹がすいたのとで、休憩もかねて近くの小さな喫茶店に入った。狭い店内に植え込みがいくつもあって邪魔くさく感じる配置だが、店側としては、客がそれぞれ人目を気にしにくいように精いっぱい配慮したつもりらしい。ヨランダは店内の調度品があまり気に入らないのだが、この店のケーキは美味しいので、よく食べにくるのだ。
「あら」
 注文した品が運ばれてきたので、さあ食べようとした彼女はふと外を見る。窓の外には、小鳥が二羽、餌入れの皿から穀物をついばんでいる。ただそれだけなのだが、彼女はその二羽の小鳥をじっと見つめた。そのうち、餌入れの皿から穀物をついばむのをやめ、小鳥はそろって、彼女をじっと見た。
「……」
 彼女は小窓を開けた。二羽の小鳥は、逃げない。むしろ窓から店の中へ入ってきて、彼女のいるテーブルにちょこんと乗ったではないか!
 小鳥は円らな目で彼女を見上げる。まるで、彼女の事を知っているかのように。
 そしてヨランダも小鳥を見返した。小鳥自体はどこにでもいる。だがこの二羽だけは特別であった。彼女はこの小鳥たちを知っている気がしたのだ。
 思い切って、問いかけてみた。
「ねえ、アタシのこと覚えてる?」
 二羽の小鳥は嬉しそうに、羽をばたばたさせたのだった。


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ご愛読ありがとうございました!
冥府と生者の世界を行き来するヨランダのお話です。
一度書いてみたかった話ですが、冥府のイメージをどうするかで迷いました。
自分が死んだことなんて一度もないから……。
生者の世界と逆の世界ということで落ち着きました。
冥府にのみ登場する《意思》は、誰かのそれというわけではありませんが、
では一体誰の《意思》であるかは……皆様の解釈にゆだねます。
いたらぬところ多々ありましたが、楽しんでいただければ幸いです。
連載期間:2011年1月〜2011年11月


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