第7章 part1



 クォオオオオォォォ……

 悲痛な咆哮が、ルギアの口から発せられた。
 稲妻に打たれたルギアは海の中に落ちた。海上のポケモンは、勝ち誇った咆哮を上げ、泳ぐ。ルギアは体に大ダメージを受け、海に叩きつけられ、水中で動けない。飛び回るのに体力を消耗しつくしたのだ。ポケモンはルギアの首に、その鋭い歯を強く突きたてた。
『ぐっ……!』
 ルギアの弱弱しい抵抗もむなしく、牙は容赦なく皮膚をえぐり、筋肉を裂いた。辺りの海水がたちまち赤く染まっていく。
『ジックリ、イタブッテヤル』
 ポケモンはそのままルギアを海底へ引きずり込んでいった。引きずり込まれるに任せながら、ルギアは、残ったわずかな力で、頭の中に数秒程度の映像を映し出す。洞窟を走っている。ペラップがいつのまにか三人と一緒にいる。洞窟の道を抜けていたらしい彼らは、消えていく映像の中、やっと外に出た。おそらくそこは、島の砂浜。彼らはやっと戻ってきてくれたのだ。
『羽……羽を……』
 赤い帯を引きながら、ルギアは深く深く引きずり込まれていった。

「ひどい……」
 ヨランダは呟いた。
 灰色の空、冷たい風、真っ赤な沖、荒れた砂浜。あたり一体に何が起こったのかは想像するのに難くない。むしろ彼らはそれを止めるために、羽を取りに行ったのだ。
「遅かったのか……?」
 呟きをもらしたのは、スペーサーだった。他の二人も、同じ言葉を喉元まで出しかけていた。風に乗って流れてくる嫌な臭いが、その言葉を喉元まで押し上げた。
 ルギアはやられてしまった……?
「いや、まだだ!」
 アーネストは首を振った。
「まだルギアが死んだと決まってるわけじゃない! 探すんだ!」
 ペラップも彼に賛同するかのように、ギャアギャア鳴いた。が、ルギアを探すという行動に移せないのか、彼らの頭上を、輪を描いて飛び回るばかり。ルギアがやられたというショックが大きすぎるのだろう。

 キピー。

 何かの鳴き声。皆、とっさに鳴き声の聞こえたほうへ、首を回した。ペラップが、ギャッと鳴いて、飛んでいく。ペラップが岩陰に消えると、またあの鳴き声が聞こえた。赤子の鳴き声? いや、ヒトの声ではない。ポケモンの声だ。
 ペラップが何かを鉤爪につかんで、戻ってきた。
「あっ」
 三人とも、ペラップの掴んできたものを見て、声を上げた。それは、海上に現れたあのポケモンと同じ姿をした、とても小さなポケモンだった。しきりにキピー、キピーと鳴き声を上げ、ペラップから逃れようと身をよじっている。甲羅を直接つかまれているため、首を必死でひねって何とかペラップの爪に噛み付こうとしている。
「なんだ、こいつ」
「もしかして、これが、あのポケモンの子供じゃないの? だって、そっくりよ」
 そう、ヨランダの言ったとおり。ペラップにつかまれたポケモンは、ルギアと戦ったあの海上のポケモンとそっくり。サイズもとても小さい。間違いなく、子供だろう。
「でも、なぜこんなところに……?」
 ペラップはギャアギャア鳴いた後、脚を噛まれて、思わずポケモンを放した。ポケモンは砂浜に落ち、砂まみれになった。身をよじって、何とか起き上がる。そして、周りにいる不思議な連中を順繰りに眺める。首をかしげ、大きな目を瞬かせる。その目には好奇心の光が宿っている。人間を見るのは初めてなのだろう。ペラップにはろくに目もくれず、三人を順繰りに眺めては、不思議そうに首をかしげる。
「キピ?」
 その小さなポケモンは、小さな鼻の穴をぴくぴく動かした。においを嗅いでいるのだろう。が、いきなりヨランダの足元に擦り寄ってきた。彼女が後ろに下がるより早く、ポケモンは、一体何処にそれだけの力があったのか、ヒレを使って飛び上がった。彼女の鞄に噛み付き、引っ張る。
「何するのっ……」
 彼女が大きく体を動かした拍子に、鞄が食いちぎられた。狭い穴から、ポフィンケースが転がり出て、砂浜の上に落ちる。ポケモンはそのポフィンケースを無理やり鼻で押し開け、親指ほどのサイズのポケモン菓子を口の中に頬張った。
「いきなり噛み付いたと思ったら――この子ポフィンが好きなの?」
 ヨランダは、噛み千切られた自分の鞄をひっくり返し、他の荷物がこぼれ落ちないようにする。幸い、ポフィンケースより小さな荷物は鞄の上部にまとめてしまわれていたので、こぼれ落ちるものはなさそうだ。
 ポケモンは、ポフィンケースの中のポフィンを全部食べてしまうと、「もっと無いの?」と言いたそうな顔で、ヨランダを見上げた。
「あーあ。せっかくコンテスト用に苦労して作ったのに、全部食べられちゃった――」
「ポフィンなどまた作れるさ」
 人事のようにスペーサーは冷たく言った。実際、人事なのだが。
「それより、一体このポケモンはなぜこんなところに?」
「どっかから迷い込んだんだろ」
 アーネストは、落ち着かない様子。このポケモンに対する興味ははやくも薄れている。さっきから海ばかり見つめているのだ。赤い色の、不気味な沖。今は色が薄れ始めている。
「それより早くルギアを……!」
「どうしろと!? カメックスであそこまで泳いでもらっても、ルギアがそこにいる保証は無いぞ! それに、あのポケモンに襲われたらとんでもないことに――」
「そのとんでもないことを何とかするために、俺たちゃ羽を取りに行ったんだろ! 諦める前に何か行動してから物を言えよ、お前は!」
 口論の傍で、ペラップは首をしきりに振り、弧を描いてくるくる飛んでいる。が、やがて、
「オマエラ、サッサトイケ! オヨゲ!」
 海に背を向けて、三人に命令した。
「サッサトイケ! タスケル! タスケル!」
「助ける、ったって――」
「マダシンデナイ、カミサマ、マダイキテル! サッサトシロ、オオバカモノ!」
 ペラップが激しく罵詈雑言を浴びせ始めたので、三人は折れた。ルギアはまだ生きている。ペラップが言うからには間違いない。それ以外の根拠はないが。
「!」
 三人とも同時に、こめかみを押さえた。ペラップはギャッと鳴き、首長のポケモンは、海を見た。
 テレパシーだ。それもかなり弱弱しい。

『……羽、羽を――』

 ルギアのテレパシーだ。ルギアはまだ生きている!
『羽を、海に――』
 やっと聞き取れたのはそれだけだ。だが、ペラップがすぐにヨランダの手の中から羽を奪い取り、海水の中へと浸した。
 羽の浸かった場所から、淡い、青白い光が広がり始めた!

 海中に、ルギアの首をくわえたまま引きずり込んでいったポケモンは、ふと、ルギアの体から青白い光が放たれたのに気づく。引きずられるままのルギアの体に力が戻り始め、戦いで受けた傷はたちまちのうちに癒され始める。それにともない、周りの海水が渦を巻き始めた。
『ナ、ナニガオキテイル……?』
 呆然としたポケモンは、ルギアの首をくわえる力を緩めてしまった。力の戻ったルギアはすぐに身を振りほどいて、自由になった。
『羽の力、間に合った!』
 ルギアの体から、さらに強い光が放たれる。渦は徐々に大きくなり、流れも激しくなる。ポケモンは、渦から抜け出そうとするが、ルギアは容赦なく渦を閉じてしまった。巨大な水の牢獄が作られ、ポケモンは逃げられなくなった。
『オ、オノレ!』
 ポケモンは、渦を破壊しようとあがいた。だが、突っ切ろうとしても水の牢獄の壁を破ることすら出来ない。反対に自分が渦に飲まれてしまうほど、渦の勢いはすさまじかった。赤い光を放ったが、水の壁は厚かった。赤い光は渦に吸い込まれてしまった。
 ポケモンは、渦の中に捕らえられた。

 空から黒い雷雲があっというまに消えうせていく。風で散らされた雲の隙間から、まぶしい太陽の光が差し込み、寒さが緩む。冷たい風の代わりに、潮気の強い暖かな風が吹いてくる。
「天気が回復してきたわ!」
 ヨランダは思わず声を出す。先ほどまで雷雲が辺りを覆いつくしていたので薄暗かったが、今は違う。明るくなっている。
「カミサマ、タスカッタ! ギャー」
 ペラップは嬉しそうに鳴いた。
「あの羽の力なのか?」
 スペーサーは、ペラップが海水に押し込んだ羽に手で触れてみる。暖かな光が手を包み込み、活力が流れ込んでくる。不思議な光だ。水晶の部屋で水を飲んだ時と同じように、体中の疲れが一気に消えてしまった。
(まさか、この羽があの水を湧かす源だったのか?)
 彼の考えは、すぐ傍から聞こえてきた大声で中断された。
「おい、あれ見ろよ!」
 アーネストの大声だった。指差した方向には、沖がある。沖には、目にも見えるほど勢いのある大きな渦潮がある。そしてその渦は青白く光り輝いている。さらに、その渦から何かが勢いよく飛び出し、こちらへ向かって飛んできた。勢いよく、波しぶきが上がる。ペラップの嬉しそうな喚きが、いっそうやかましくなる。
 砂浜へ向かって飛んでくるのは、ルギアだった。
「ルギア、無事だったんだわ!」
 ヨランダはルギアに向かって腕を大きく振った。ルギアはそれに応えるかのように、咆哮をあげた。
『ありがとう。お前たちのおかげで、私は助かった』
 傷ひとつない、回復したルギアは無残な砂浜に降り立ち、お辞儀のつもりか長い首を下げた。
『あの羽は、私や海流に何か起こったときに備えて私の生命力を注ぎ込んで作っておいたもの。時々外へ出て風や水の力をその身に受けて、外界の状態を伝えてくる。私の分身のようなものだ。お前が描いたのは、ちょうど羽が外へ出ていたときのもの』
 スペーサーは、荷物の中からスケッチブックを取り出して開いてみる。ストームタウンで描いた絵を見る。確かに、羽が空を舞う場面がちゃんと描いてある。羽の形も細かくちゃんと描いてある。理科の観察ノートなみにくわしく。
「ああ、なるほど。私の描いた絵が役に立つというのはこういう事だったのか」
『お前が羽を描いたおかげで、説明する手間以外を省く事が出来た。お前たちに送ったイメージだけでは、心もとなかった』
 褒められているのかもしれないが、ポケモンの言い回しはヒトとは違うのかもしれない。スペーサーは首を横に小さく振っただけで、スケッチブックを閉じてしまった。
 ルギアは伝えた。
『あのポケモンは、渦の中に閉じ込めてある。しばらくすれば大人しくなるだろう。体力を徐々に削っていくのだから』
 なるほど、あの光る渦潮の中に、ポケモンが閉じ込められているのか。
「あっ、ポケモンといえば――」
 ヨランダは、ポフィンケースになおも頭を突っ込んで食べかすを探す小さな首長のポケモンを抱き上げる。意外と重い。ブラッキーよりも体重がある。ずっしり。
「このポケモンなんだけど、あのポケモンの子供じゃないかと思うの」
 ルギアは、ヨランダに抱き上げられて、ヒレをじたばたさせている小さなポケモンを見た。
『確かにそのとおり。どこで見つけた』
「どこって、ペラップがつれてきたの」
 ペラップが、ギャアと鳴く。褒めて欲しいらしい。
「キピー」
 ポケモンは、ルギアを見つめた。その赤いビー玉のような眼に、おびえの光は無い。好奇心だけがある。ルギアをじろじろ見つめ、鼻の穴をぴくぴく動かす。ルギアもポケモンを見つめ返した。
 見つめる相手に、ルギアは言葉を返す。だが、その口から出てきたのはヒトにもわかる言葉ではなく、ポケモンにしかわからない言葉だった。
『……母親は何処にいるのかと言っている』
「キピ、キピ」
『私の体から、母親のニオイがすると言っている』
「あー、なるほど。この子はママを探してるのね」
 ヨランダは荷物を探って、ポフィンを作るのに使う彼女厳選の木の実を一つ取り出し、彼女の荷物のニオイを嗅ぎ始めたポケモンの鼻先に差し出す。ポケモンは木の実の匂いを嗅いで、すぐに口の中へぱくりと入れてしまった。しばらくもぐもぐと噛んで飲み込んだ後、「もっとちょうだい」と言わんばかりのキラキラした目でヨランダを見上げる。ヨランダは仕方なく、木の実を入れている小さな袋を取り出し、直接袋の中に頭を突っ込ませた。ポケモンは遠慮なく、木の実を頬張った。
 ポケモンがもぐもぐ木の実を噛んでいる間、ルギアは三人に伝える。
『この子供は、母親を探している。母親が海にいる事は理解できているようだが、声が聞こえないのでどのあたりにいるのか分からないそうだ』
「母親ったって、海の渦の中に閉じ込めてんだろ? 今会わせたら、すんげー激怒して攻撃してくるぜ、絶対」
 アーネストは肩越しに、青白い光を放つ沖を見た。あの渦の中であのポケモンは何とか出ようとしてあがいているに違いない。
 子供が無事だということを知らせて、なおかつ、自分たちは子供に傷ひとつつけていないことをわからせるにはどうしたらいいだろうか。

 沖の、青白く光る渦の中で、ポケモンは渦から逃れようと躍起になっていた。渦は激しく、潮の流れが徐々に体力を奪っていく。このままここにい続けていれば、いずれは身動きひとつ取れなくなるほど消耗してしまう。
『ハヤク、ソトヘデナケレバ……ワタシノ、ワタシノコドモガ!』
 焦りだけが先立つ。それに伴って、頭の中でひとつの光景が浮かび上がってくる。ルギアが我が子を捕らえて傷つけているのではないか。根拠もない妄想が頭の中をめぐる。勝手に思い込んでいるだけであるが、ポケモンに怒りの感情を起こさせるには十分すぎる。
『ルギア……ユルサンゾ!』
 ポケモンの口から、今まで以上に巨大な赤い光が放たれた。渦は光をはじいたが、ポケモンが繰り返し光を放つごとに、はじく事が出来なくなってきた。少しずつ、渦の流れが緩やかになってくる。後もう少しの力をぶつければ、渦は消え去ってしまう。
『コレデ、オワリダ!』
 ありったけの力をこめた赤い光が、あっけなく渦を消し去った。
 渦潮の周囲に、強い力が放たれた。岩やミズゴケがあっというまに抉り取られ、海中にプカリと浮かび上がる。
 渦から解き放たれたポケモンは、目をギラギラと輝かせ、海面に向かって上昇した。


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