第1章 part1



 自然および野生動物完全保護法案。
 通称、自然保護法。
 進んでいく環境汚染と動物の絶滅を徹底的に食い止めるべく作られた法律である。この法律が制定された頃、森林伐採による砂漠の拡大と工場の廃棄物による大気汚染と土壌汚染、さらには水質汚染の魔の手が、人間達の周囲を取り囲んで生命を脅かしていた。一部の動植物は完全に絶滅し、薬物や不法投棄による土地の汚染は、食用の作物を植えても枯らしてしまうほど深刻なものとなっていたのであった。
 自然保護法を制定後、まず区画整理のため、人間達は住居を一度全て破壊した。何とか水が出るゴツゴツした岩だらけの荒地に移り住み、バクテリアを利用した素材で家を建て直した。わざわざ家の素材にバクテリアを使うのは、家が地震で壊れてもバクテリアが家を分解して、いずれは土に還せるようにするためだ。木材やプラスチック、鋼鉄を建築用素材として使う事は法律で禁じられた。木材は森林破壊、プラスチックなどの人工素材はバクテリアが分解せずゴミとして残るから、という理由によって。伐採を禁じられた、緑の少ない土地には若木がたくさん植えられた。
 そして、あらゆる動物の飼育は禁じられた。ペットとしてこれまで飼われてきた動物、鳥、魚たちは、政府が全て回収した。同時に、肉牛や兎など、毛皮用、食用として飼われている動物たちも飼育が禁じられた。回収されたあらゆる生き物は、政府によって、自然の残る土地に全て放された。
 さて、人間達は住居を変え、あらゆる動物達を手放した。そうなると今度は食料の問題が発生する。法律はその点についても手を伸ばしており、これまで生産されてきた穀物、野菜や果物といった作物全ての栽培は、土壌を痩せさせる原因として禁止となった。代わりに、本来サプリメントとして用いられてきた錠剤や液体を改良してペーストやカプセルの形で摂取する事で、人間が生きていくのに必要な栄養素やカロリーを得る事になった。
 この法律は、時間をかけて、全世界に広がった。

 自然保護法が世界中で施行されて、五十年経った。
 少し汗ばむ陽気の、五月半ば過ぎ。
「よし、今日も異常なし」
 兎などの大人しい草食動物が放されているC区にて。
「うん。全頭いる。いつもどおり」
 手に持った、懐中時計型のレーダーを見て、彼は満足そうに頷いた。
 アレックスは今年で十八歳になる。今年三月に入隊したばかりの、野生動物保護官だ。パトロールを終えた彼は、カラスの濡れ羽色をした黒髪をわしわしと片手でかいて、基地へ戻るために、道を歩き始めた。
 野生動物保護警備隊が作られたのは、自然保護法が施行されたのとほぼ同時だった。言ってみれば警察のようなものであるが、警察と違うところは、彼らが守るのは市民の安全ではなく、あくまで自然や動物達なのである。そして彼らが取り締まる犯罪人は、密猟者、いわゆるハンターだ。自然保護法が施行される前は、ハンターたちが求めていたのは象牙や上等の毛皮といった素材であったが、自然保護法によって動物達が人間達から隔離された後は、動物それ自体を求めるようになった。動物そのものを捕える理由は色々ある。これまでに逮捕された、ハンターとその取引相手によると、食用や毛皮用に動物が必要だったという。自然保護法では、動物捕獲というのは、麻薬取引以上の重罪である。野生動物保護警備隊はハンター達の活動内容をAからCにランク分けし、それぞれのランクに応じた賞金をかけて、警察と連携するだけでなく、民間で組織される小さな保護団体にもハンター逮捕の協力を呼びかけている。
 さて、アレックスは十分ほど歩いて、野生動物保護警備隊の基地へ到着する。空気を汚さぬようにと、移動する乗り物は何も支給されていないので、自分のパトロールする区画へ行くにも基地へ帰るにも、徒歩しか移動手段が無い。アレックスはそれを少し不便に思っていた。
 野生動物保護警備隊の基地は、A区からG区の中央に位置する大きな建物だ。有機バクテリアを利用した素材で作られた五階建ての、長方形の建物。煙突のように長い塔のてっぺんには、野生動物保護警備隊の印である、ひし形のマークが取り付けてある。世界中に作られたその建物はどの場所に建っていても、どんな形をしていても、ひし形のマークだけは必ず取り付けられている。アレックスはそのマークが意味するところをよく知らない、あのひし形が野生動物保護警備隊を表すシンボルマークなのだという事だけしか。
 入り口の番人に隊のIDカードを見せて、入り口をくぐる。厚い特殊ガラスのドアを手で押して開け、建物の中に入る。窓が開いており、風が涼しい。
「あ、まず報告だっけ」
 アレックスがC区のパトロールを担当するようになったのは、先週からだ。新米ならば必ずC区を担当させられる。入隊者の数に応じて見回りの時間が決まり、一人が見回りを終えたらすぐに他の隊員が見回りに出る。隊員のいない隙を狙ってハンターがやってこないようにするためだ。アレックスの担当は午前十一時半と午後四時半の二回だ。大人しい草食動物がいる、とても安全な区なのだから、新米にはうってつけ。ベテランはA区など猛獣の多い区画を担当する。
 パトロールの内容は、調査だ。担当するエリアの動物達の数が変化していない事を調べ、変化しているときは出産、死亡、ハンターによる捕獲等調査をする。あるいはハンターが近くにいないかを探る。
 アレックスは警備隊の隊長に、C区に異常がない事を告げた後、腹が減っていたので食堂へ向かう。パトロールから戻るのが遅かったため、昼食の時間はとっくに過ぎていた。食事を終えた隊員たちは規定の場所へ既に散っており、食堂に残っているのは、用事があって食事が遅くなった隊員たちだけだった。
「さてと」
 アレックスは、棚の中に載せてあるトレーを一つとる。あらかじめ食事は隊の人数分作成されており、棚に入れてある。そして食事をするときには、トレーを棚から出すだけでいいのだ。
 空いている二人用の椅子に一人で座って食事を取る。トレーの上に載っている皿には、薬よりも苦くて、粥のようにドロドロで熱い、湯気の立った灰色の栄養剤が入っているだけだ。コップの中にはこれまた吐きそうなほど苦い、不気味な深緑色の栄養剤が入っている。幼い頃から、口にしてきたとはいえ、その苦さは年々増しているように思えてならなかった。
 アレックスは食堂の向こうから人声を聞いた。何やらガヤガヤと喋りあっている様子。
「Bランクの指名手配犯を捕まえたんだって?」
「そうなんだ。海の、F区にいたのを海上警備隊が一網打尽っていう話さ」
「あそこは、魚たちの産卵期が近いから、警備が厳重になってるんだよなあ」
「そんな厳重な警備の中へ飛び込んだってのかい?」
 アレックスは耳で聞きながら、苦い食事を取った。いずれ全ての指名手配犯を自分の手で捕まえる事が、アレックスの夢であった。ハンターにはまだお目にかかった事はない。それを自分の手で捕まえられたらさぞかし誇らしく感じるだろうなあ、とアレックスは思った。
 食後、トレーを返却してから、アレックスは廊下の突き当りへ歩いた。突き当りの壁には、ランクAからCまでの多数のハンターたちの顔写真と賞金の金額が載っていた。逮捕されたハンターの顔写真ははがされるが、次のハンターの写真がまた新しく貼られるので、突き当たりの壁に写真の無い日は一日たりともなかった。
「オレもいつか、ハンターにでくわすかな?」
 ランクAの写真を眺める。人数は十人足らずだが、警察と連携を組んでも野生動物保護官たちがいまだに逮捕できない連中ばかりだ。手口は巧妙で、いつのまにか目当ての動物を捕獲して何の証拠も残さずに逃走してしまうのである。野生動物保護官が気づいたときには、すでに十頭以上の牛が取引相手の手に渡っていた……ということがあった。結局取引相手は逮捕されたが、肝心のハンターの方は未だ見つけられず、逮捕できない状態だ。
(動物達を金儲けの道具にするなんて……許せない!)
 アレックスはぐっと拳を握った。

 それから一週間ほど経った。夕方の五時を過ぎる頃、アレックスは二度目のパトロールを終えて、基地へ戻る途中だった。夕日は山の向こうに消えており、辺りには暗闇が少しずつそのヴェールを空に被せていた。
 アレックスはレーダーのスイッチを切っていた。パトロールが終わって基地に戻るまで電源を入れたままにしておくと、充電に一時間もかかってしまうほど電力を消耗するからだ。動物の個体数を調査する間だけレーダーを動かしていれば、充電時間はほんの数十分ですむ。
 彼は、パトロールを終えた後、近道をするために、C区とB区の境界線にあたるあぜ道を通っていた。本当は通ってはいけないのだが、普通の道を通るよりもずっと早く基地へ戻れるので、アレックスは、二度目のパトロールを終えた後で、よくこのあぜ道を通っていた。
 あぜ道を進むと、小さな林がある。その林の中を抜けて数分ほど歩くと、基地につける。
 ふと、アレックスは聞いた。
 誰かの話し声を。
 彼は林の中に入ると、声の主を確かめるために、木々の間をそっと移動しながら、耳を済ませた。声は近くなってくる。闇が林の中を支配し始め、わずかな夕焼けもほとんど失われていたが、アレックスには十分な光だった。なぜなら、前方に、小さな懐中電灯の光が見えたからだ。同時に、周りの闇がアレックスの姿をある程度隠してくれていた。
(誰だろう?)
 木陰に隠れて見ていると、それは、二人の男だった。男だと分かったのは、声を聞いたからだ。
「そう、それだ! わしがほしかったのは!」
 興奮した声。続いて別の声。
「……そうか」
 アレックスは二人の男を、懐中電灯の光を頼りに観察した。懐中電灯を持っているのは、壮年の男のほうだ。きわめて派手な模様の、豪華な赤い服を身につけている。赤い服を身につけられるのは、議員ランクの者だけだ。
(ということは、あの男は議員ランクの身分のひとってことになるな。でも、どうして一人でこんな所にいるんだろう)
 懐中電灯の光を頼りに、もう一人の男を観察する。アレックスに背を向けている。顔が見えないので、何歳ごろか分からない。声から考えて、まだ三十にはなっていないだろう。ダークグレーの服を着ており、それがうまいこと闇に溶け込んで目立たない。
(それにしても――)
 アレックスは、自分に背を向けている男をもっとよく見た。男の背丈は百八十センチはあるのではなかろうか。かなりの長身だ。アレックスの身長は百五十センチ。現在の同年代の男子の中では決して低いほうではないのだが――
(しかも、何だあの体格は)
 かなりがっしりしている筋肉質の体。一体どんなトレーニングをすればあれほどがっしりした体格を手に入れられるのか、アレックスは知りたくなった。おそらく、あの片腕だけで、アレックスを楽々担ぎ上げられるだけの腕力を持っているだろう。殴り合いになれば、アレックスの負けは確実だ。
 長身の男が何かを地面において、離れる。壮年の男は急ぎ足で近づいて、地面に置かれたものを拾い上げる。懐中電灯の光を頼りにそれを見ると、それは、D区のシマリス三匹を入れた、小さなケージだった。アレックスは危うく声を上げそうになった。
(こ、こいつハンターだ!)
 壮年の男は、ケージを受け取ると、相手の男に礼を言った。そして、林の奥へ急ぎ足で去る。しばらくすると、乗り物のプロペラ音が聞こえてきた。アレックスは、闇の中に一筋のきらめきを見つけた。それは、ヘリコプターのライトだった。
 残ったほうの男は、しばらくヘリコプターを見送っていた。アレックスは、見えなくなったヘリコプターから、男へ視線を戻す。男は空を見るのを止め、今度は周りを見渡し始める。警戒しているようだ。アレックスは隠れようとして少し後退したが、木の根につまずき、わずかな物音を立ててしまった。
「!」
 男が振り返るのと、アレックスが茂みの側へ倒れこむのとはほぼ同時だった。すんでのところで手を草地につき、それ以上の物音を立てるのは免れた。しかし、相手を警戒させるにはそのわずかな物音だけで十分だった。
 男が近づいてくる足音がした。ゆっくりと。
(ど、どうしよう……!?)
 アレックスは焦った。茂みの側へ動いて隠れようにも、体が恐怖で動かない。見付かるという恐怖が、体を支配してしまったのだ。
 男の足音が止まる。アレックスの呼吸が止まった。
「……何だ?」
 男の声がする。しかし、それはアレックスに向けて発されたものではなかった。わずかに聞こえるノイズ音から考えて、男は誰かと話をしているようだ。
「じゃあ、さっさとしろ」
 風の揺れる音がして、相手の気配は消えた。
 アレックスはなおも息を止めてしまったままだったが、おそるおそる茂みの陰から這い出して、周囲を見た。闇が辺りを包んでいたが、誰もいないことは分かった。あの男は、どこかへ消えてしまったのだ。アレックスは安堵したが、同時に、あの男が一瞬にしてどうやって消えうせてしまったのかと、首をかしげた。

 どこかのエリアの上空。
 操縦室と思われる、あまり広くは無いが十分な設備の整った部屋。二人の男がいる。一人は、林の中でアレックスが取引現場を目撃した、ダークグレーの服を着た男。もう一人は、操縦席に座っている。
「なぜ見付かった」
 ダークグレーの服を着た男は、無愛想に問うた。
「レーダー網は広げてあったはずだろ。見つからないわけがないだろ」
「奴は機械のスイッチを切っていた。だから存在を探知できなかった」
 操縦席に座っている男は、操縦桿の左にある探知機用のモニターを見ている。何も反応が無い。
「レーダーに頼りすぎたツケだな。これからは目視も必要になりそうだ。それに、基地の規則を破ってあぜ道を通ってくるとは考えもしなかった」
 男は、片手で操縦桿を操作しつつ、後ろに立っている男に、こっちへ来いと手招きする。彼が近づくと、振り向いて言った。
「こいつだろう? 取引現場を見たのは」
 別のモニターに映し出されたのは、木陰から取引現場を覗いている、アレックスの写真だった。
「……俺は顔を見てない」
 ダークグレーの服を着た男は、首を振った。しかしその目に浮かんだのは、『驚き』であった。
 通信用のランプが光って、傍のモニターが点く。操縦席に座っている男は、モニターに映った人物に言った。
「何だ。次の依頼か?」
 モニターの向こうにいる相手は、優雅に笑った。
「そんなところ。この子が欲しい」
 二人の男は、思わず目を丸くした。


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