第3章 part2
アレックスはがばっと跳ね起きた。
全身が汗だくになっている。
「また、あの夢か……」
無数の四足の獣に追いかけられ、踏まれ、跳ね飛ばされる夢。
「あれは、誰なんだろう」
夢の終わりに見た、何者かのシルエットが、アレックスの頭の中に焼きついている。獣の群れから誰かに助け出される。その誰かの顔を、アレックスは見ていない。見るのは、その背中だけ。相手の顔を見ようとすると、とたんに目が覚めてしまった。
柱時計は、六時半を指していた。アレックスは起き出し、浴室に向かう。今日も傷口が疼いている。シャワーで熱い湯を浴びて体をほてらせた後、上等の布地で作られたバスタオルで体を丁寧に拭く。着替えを忘れたのでバスタオルを体に巻いたまま浴室のドアを開けると、ちょうど温かいミルクを持って部屋に入ってきたセイレンと、目線があってしまった(ようだった)。
「アレックス様、おはようございます」
メイドは全く動じず、挨拶する。アレックスは、浴室のドアに体を隠して一気に顔を赤くした。
「あ、あ、あのっ……いやオレは着替えを取りにきただけで! 別にそのっ」
「お召し物でしたら、すぐにご用意いたします」
セイレンは瞬く間に、タンスから必要な衣類を全て取り出し、アレックスは赤面したまま着替えた。昨日と同じ服装。もちろんシャツなどは、ちゃんと洗濯されアイロンもかけられている新しいものだ。
アレックスは温かなミルクを飲んで気を落ち着けた後、朝食を取った。昨日と違う色のスープ。昨日は薄い緑色だったが、今日は薄い黄色だ。匂いも違う。そして、スープの傍に置かれた皿には、スープとは違う変わったにおいの何か四角いものが置いてある。その四角いものは、さらに四つに切り分けてある。
「これなあに?」
「トーストでございます」
昨日読んだ料理の本の中に、そんな名前の料理があった気がする。パンというものを焼いただけだったような。ひとつ取って食べてみる。パリパリカリカリとした、初めての歯ごたえ。これも美味しい。
食べていると、外からかすかなエンジン音が聞こえた。カーテンが開けられた窓を見ると、北の空へ向かって、H・Sの飛行艇が飛んでいるのが見えた。飛行艇は、やがて消えた。
(こんな時間から出かけるのか)
十時ごろ、セイレンはアレックスを連れて行った。ドアの外は長い廊下。紅の美しいじゅうたんに沿って進む。途中、床から天井まで届く大きな窓から、アレックスは外を見た。見たことのない木があり、見たことのない花がたくさん植えられている。うっとりと見とれていると、ずいぶん先を歩いていたセイレンに呼ばれ、彼は慌てて後を追った。
セイレンは、豪華な彫り物のあるドアをノックした。
「お嬢様、お連れいたしました」
「あら、待ちくたびれたわよ」
部屋の主・ヨランダは、豪華なつくりの椅子にゆったりと腰掛けて窓の傍にいる。セイレンはアレックスを部屋に通すと、一礼して、出て行った。一人残されたアレックスは急に体がこわばってしまった。
「あーら、おはよう、アタシのかわいい子」
「お、おはよございま……」
アレックスの声は少しずつ部屋の中に消えていったが、相手は聞き取ったようだ。
「恥ずかしがらなくてもいいの。こっちへいらっしゃい」
手招きする彼女の方へ、アレックスはぎこちなく歩いた。すすめられるまま、彼女の向かいにある椅子に座ると、その柔らかさで、アレックスの体は椅子の中に沈んでしまった。慌てた彼を見て、ヨランダは微笑んだ。やっと彼が椅子に落ち着いて座ると、部屋のドアがノックされた。
「失礼いたします」
セイレンが入室し、綺麗な模様のカップとポットを持ってきた。テーブルの上に並べると、ポットの中にある液体をカップに注ぐ。ミルクでもスープでもないそれは、植物のようにいい香りがした。セイレンはさらに、パンとは違う香りのする食べ物の入ったバスケットをテーブルの上に置いて、一礼して部屋を出て行った。
「いい香りでしょう? 紅茶という飲み物よ」
「こうちゃ?」
アレックスは紅茶の香りを嗅いだ。確かに、鼻腔をくすぐるいい香り。花のような香り。飲んでみると、少し苦かった。
「紅茶は香りを楽しみながら飲むものよ。好みでお砂糖やミルクを入れてもいいわねえ。あら、知らないの?」
アレックスは首を横に振った。「砂糖」など知らない。
「かわいそうねえ。あなたたちの身分の者は一生、これを口にしないで、あの全然美味しくない栄養剤だけで過ごさなくてはならないのだから。でも、あなたは幸せ者よ。こうして、本物の食べ物を口にすることが出来るんだもの」
「本物?」
「ええ、H・Sに本を山ほど読まされたんでしょう? そして、あなたがここに来てから口にしてきたものが栄養剤ではないことくらい、わかってるでしょう?」
「ええ」
アレックスは、バスケットの中にあるものをひとつ手に取り、食べてみた。柔らかな、変わった匂いのするもの。が、味はよかった。
「あなたが口にしてきたのは、現在の法律では禁止されているものばかりよ」
ヨランダの言葉が終らぬうちに、カップを運ぶ手がアレックスの口の前で止まった。アレックスの目は大きく見開かれている。
「自然保護法で禁じられている、動植物を使って作られたもの。それが本物の食べ物よ」
ヨランダはアレックスの反応を楽しんでいるようだったが、アレックスは思考が完全に停止した状態だったため、彼女の顔にすら目を向けていなかった。
「動植物って!」
やっと動いたアレックスはカップを乱暴に受け皿に置いた。
「あら、気がついていたとばかり思っていたけれど」
ヨランダはわざとらしく言った。
「栄養剤とは全然違う味で、舌触りも違って、栄養は非常に豊富……。動植物を使って作られた食事を口にすることが出来るのは、ほんの一握りの身分のものだけよ。たとえば議員や、そうね、あなたの所属していた、基地の上層部」
アレックスは口をあけたまま。そこから言葉は何も出てこなかった。
またしても、基地の上層部……。
H区のはずれにある、小さな川。熊など、冬眠する動物が多く生息している場所だ。
『次のパトロールが来るまで後五分だ、標的を見つけたならさっさとけりをつけろ』
通信機から届く、H・Sの冷たい声。アーネストは、目の前に立ちはだかる、彼の背丈よりも頭二つぶんは大きなツキノワグマを目の前に、忌々しそうにつぶやいた。
「わかってらあ」
言うが早いか、鋭く太い爪を振りかざして襲い掛かったツキノワグマの首筋に、正確に前蹴りを叩き込んだ。ボキリと骨の折れる鈍い音。ゲッと、絞り出すような声を上げて、ツキノワグマはアーネストに爪を立てることなく、地面へどうと倒れた。
アーネストは、ツキノワグマが絶命したことを確かめると、通信機に言った。
「終わったぞ」
ツキノワグマとアーネストは、同時に船内へ転送された。
基地から次の野生動物保護官がパトロールに来たときには、飛行艇はすでに取引場所へ向かってはるか上空へ飛び立っていた。
取引場所にて、絶命したツキノワグマを引き渡す。巨大なツキノワグマの死体は、今では使用禁止になっている燃料たるガソリンを使ったトラックの荷台に乗せられ、運ばれていった。去る前、H・Sは相手に一枚の紙を渡す。鼻眼鏡をずらした年配の取引相手は、紙を受け取り、文面を読む。
「またこの紙かね?」
「私と取引する以上、そのくらいは守ってもらおうか?」
「うむ。守るのはたやすいことだが、いったい幾つ碑を作らせれば気が済むんじゃ、お前さんは」
「あんたが契約を続ける限りはな」
「ふおふお。さすがは契約主義者じゃなあ、《静かなる狩人》(Silent Hunter)どの」
ハンターの、射るような冷たい視線に、取引相手は冷や汗をかいた。
「で、ではまた今度も頼むぞ……!」
取引相手が去った後、H・Sは周囲を一度見回し、誰もいないことを確かめた後、船内にいるアーネストに、飛行艇へ転送させた。
「今日の依頼はこれで全部だ」
飛行艇が上昇する頃には、もうすでに日は暮れていた。海上のF区に差し掛かると、月明かりでイルカたちが飛び跳ねているのが見える。はるかかなたのS区では、クジラが泳いでいることだろう。
転送機から、紙が何枚か吐き出される。依頼だ。Aランクのハンターともなると、依頼がない方がむしろ珍しいものだ。
「ふむ。依頼は全てD区の小動物のみか。住処は全ておさえてあるから半日もかかるまい」
デジタル時計が十時を表示する頃、アーネストは操縦席を離れて、部屋に向かった。夜間は二人のうちどちらかが船の操縦をして一人は仮眠を取り、何時間か経ったら交代することになっている。今日は彼が先に休む日なのだ。きちんと眠れる日は、依頼のない日だけだ。
部屋のドアを開けて中に入り、明かりもつけずに、無造作にベッドに寝転がる。窓から差し込む月の光が、部屋の中をぼんやりと照らす。いつもなら寝転がってすぐに眠りに落ちるのだが、今日は違った。眠れない。頭の中で、あの場面が何度も繰り返している。目の前に見える金属の天井に、その頭の中の光景が映し出されていた。
無数のバッファローが暴走する、あの光景が。
「アレックス様、どうかなさいましたか?」
セイレンは、アレックスが食事に手をつけないのを見て、首を少しかしげた。アレックスは青ざめた顔のままで、目の前のスープ皿を見つめている。黄色い、いい香りのスープだ。
「スープが冷めてしまいますよ」
「いや、食べられない……」
アレックスは首を横に振った。
「これまで口にしてきたのが――」
法律で禁じられている、動植物を使って作ったもの。知らずに口にしていた。昨日読んだ料理本の中にも、確かに動植物を使っていることを示す材料があった。だが興奮していたので気にも留めなかった。
料理は動植物の命を奪う行為として、そして畜産と農業は土地を痩せさせる行為として、自然保護法は、全ての料理と農業と畜産を禁じた。その代わり、人間は食事を栄養剤で済ませるようになった。
「食べてきたのが、動物たちや植物たちの命だったんだよ。人間の胃袋に入るために殺されたんだよ。そんなの可哀想だよ! 食べられるために命を落とさなくちゃならないなんて!」
「さようでございます」
セイレンは、静かに言った。
「アレックス様、うさぎは何を食べているでしょうか。……草でございましょう? ライオンは何を食べているでしょうか。……他の動物の肉でございましょう? 草も動物の肉も、胃袋の中に入るために命を落としてしまいますが、どなたもそれをお咎めにならない理由は何ですか?」
「生きるために必要だから」
「さようでございます。かつて人間も、生きるために動植物を食べていました」
「でも、動植物を食べなくても、生きてるじゃないか」
「もちろんです。ですが、本当に正しい食べ物は、自然の栄養を含んだもの。ヒトの手で作り出された薬ではないのです。あれは自然の栄養を真似たものです」
セイレンは話を変えた。
「あなた様の背丈はどのくらいですか?」
「百五十センチ。普通でしょ?」
「いえ、私よりも低うございます」
アレックスは思わずセイレンを振り返った。
「セイレンよりも低いの?!」
「さようでございます。本来ならば、私よりも御背が高いはず。栄養剤だけでは、身体の発育に十分な栄養を取れないのでございます。お体も弱うございましょう?」
「そんなに弱いとは思ってないけど……」
アレックスは口の中でぶつぶつ言った。セイレンはかまわず締めくくった。
「十分な栄養を取れば、あなた様の御背はもう少し伸びます、あの方のように。ですから、召し上がってください」
きわめて強引に押し切られてしまった。
一週間後、ヨランダに呼び戻されたH・Sは、再びアレックスの家庭教師を嫌々務めていた。資料室で、今度は何の話をしようかと考えているH・Sに、まずアレックスは問うた。
「ねえ、なんであんたはそんなに長身なんだ?」
「私は本来なら中肉中背だ」
「オレから見れば、あんたはでっかいよ。でも、どうしてそんなに背が伸びてるんだよ」
「食べているものが違うからだ」
アレックスはきょとんとした。
「食べてるものが違ってる? 食べてるものって……」
そこでヨランダの言葉を思い出す。
「自然保護法で禁じられた食べ物――」
「そう。それを食べているからだ」
H・Sはひじ杖をついた。アレックスは、うえ、と口の中で小さくつぶやいた。こいつもかよ。
「セイレンから聞いたんだけど、その、自然保護法が禁じてる食べ物が、本当に正しい食べ物だって。それは本当?」
「ああ」
「栄養剤じゃ十分な栄養が取れないってほんと?」
「ああ」
「何で十分に取れないの」
「もともと栄養剤は、自然保護法が成立する前はサプリメントとして利用されてきたもの。逆に言うと、サプリメントは、普通の食生活では不足しがちな栄養を補うために作られたもので、それを改良してさらに栄養を豊富に取れるようにしたのが、今の栄養剤。しかし所詮はサプリメントの改良版。摂取できる栄養素は必要最低限でしかない。生きるために最低限必要な量しか摂取できないから、成長期が訪れても十分に栄養が回らず、身体の発育は大幅に遅れているわけだ」
「そうなのか。じゃあ、自然保護法が禁じた食べ物が、本当に正しいのは、どうして?」
「ヒトは自然の一部に属する霊長類。昔は狩猟採取と栽培によって食料を得ていた。科学が発達して栄養剤を作れるようになってもなお、ヒトは自然界の栄養を摂取し続けた。自然の一部から生まれたのだから、自然のめぐみを口にするのはどの動物も同じことだ。草食動物が草を食み、肉食動物がほかの動物の肉を喰らうのと同じ。しかし栄養剤は、自然界の持つ栄養素を真似たものにすぎん。まがいものを食べても育つことはできるが、ヒトが本来摂取すべきは自然界の栄養素であり、人工の、まがいものの薬ではない」
はぐらかされた気がする。アレックスはしばらく黙った。H・Sはアレックスの顔を、何も言わずに眺めている。
「でもさ」
アレックスはやっと口を開いた。
「残酷だよな、食われるために生きてるわけじゃないのに」
セイレンにも言ったことを、繰り返した。
「生きるためにほかの生命を奪うなんて、残酷だよな」
「それが弱肉強食のおきて。弱いものは常に強いものに食われて生命の糧になる。もうだいぶ忘れ去っているかもしれんが、ヒトも弱肉強食のピラミッドを構成する一員だ。もっともヒトは弱肉強食の頂点に立つには数が多すぎるがね。もう少し数が減ってもいい頃だが」
何を言いたいのか、アレックスにはわからない。
「……あんた、《滅亡主義者》なの? ヒトの数が減ってもいいだなんて」
自然保護法が成立する頃、ごく一部の過激な自然保護運動家から生まれた思想で、「人間がいる限り自然破壊は止まらないのだから、人間の数を減らすことで破壊活動を少しでも食い止める」ことを信条としている活動家を《滅亡主義者》と呼ぶ。現在の政府は彼らをテロリストとして認定している。それもそのはず、法が成立する前からも、各地で《滅亡主義者》による町や村の惨殺事件が起きているのだ。野生動物保護官や警察が協力して、活動を八割方抑え込むことはできたが、それでもまだ、活動家はどこかで常に殺戮を続けているのだ。当然、活動家たちは、ハンターに匹敵する賞金を首にかけられている。
アレックスの問いに、H・Sは声を立てて笑った。ひとしきり笑った後、なおも腹を抱えながら彼は言った。
「私をあんな阿呆どもと一緒にされるとは、私も落ちたものだな」
怒らない。
「あの《滅亡主義者》は、すべての人類を滅ぼすことを目的にして活動している。私とは全く違う。こちらとしては、《滅亡主義者》の存在は迷惑極まりない。取引相手を三人ほど家族ごと殺られたんだからな。皆殺しにされたのでは、商売あがったりだ」
「あ、そうか……」
ハンターは、取引相手がいなければ商売が成り立たない。Aランクのハンターなのだから客には困らないかもしれないが……。
「で、話を戻すけど」
アレックスは軽く咳払いした。
「食べられる側の動植物は、どう思ってるんだろう?」
「?」
「自分たちが食べられるってことは、知ってるのかな」
「食べられることを前提に実をつける植物もある。鳥や動物を利用して子孫を遠くに運んでもらうためだ。逆に身を守るために毒をもつ植物もある。動物も同じこと。木や葉に体を似せたり、足が速かったり、長い角を持っていたりと何らかの形で身を守る術を持っている。本能と長い間の進化によって、強者の爪と牙にかからないように体を作り変えたのだ」
「知ってるんだね。でも生きていたいのに、むざむざ殺されるなんて――」
「そんなことを言っていると、全ての動植物が一匹残らず死に絶えるぞ」
「そりゃ餓死するってことは分かってるよ。でも、やっぱり可哀想だよ。自然保護法が成立する前は、人間は動物を食べるために育成してたんだろ? 食べられるためにしか存在できないなんて――」
「そうだ」
アレックスはいきなりの言葉に、自分の口を開いたまま止まった。それを無視し、相手は続ける。
「動植物はヒトの腹に入る為に殺される。だからこそ、これはヒトの特権だと、私は思うがね」
「何が特権なの?」
「殺される者たちを想い、冥福を祈り、感謝することだ」
ハンターの言葉に、アレックスは目が点になった。
「動植物に信仰あるいはそれに該当する宗教的行為が存在するかは私も知らん。が、ヒトは少なくとも死者を何らかの形で想い、弔える。食卓にのぼるために殺される動植物たちに対し、その生命をいただいて生き長らえる事ができるのを感謝する。奪われた命は無駄じゃない。生きるために使わせていただくといっているわけだ。ま、赦しをこうているといえなくもないがな」
「……」
その昼と夜、アレックスは、出されたものをすぐには食べず、しばらく見つめたのであった。
夜九時半。アレックスが羽根布団にもぐりこんで眠りについた頃、
「どーお、あの子は。お勉強はいい感じ?」
きれいなシャンデリアで照らされた自室で、リキュールの入ったきれいなグラスを手にしたヨランダは問うた。小さなテーブルの向かいの席にいるH・Sは、何か思い巡らすように、ジンの入ったグラスを手の中で軽く左右に振りながら、視線を宙にさまよわす。もう片方の手には、何枚もの写真がトランプのごとく広げられている。その全てに写っているのは、アレックスだった。食事、睡眠、入浴などあらゆる場面がおさめられている。
「そうだな。環境の変化への適応は非常に早い。思考はまあ柔軟な方だろう。ハンターたる私の『講義』をおとなしく聞いて、ステレオタイプな頭の固い連中がやるような反発はあまりしてこない。若干ひとの話を鵜呑みにしがちだが、呑み込みは早い。教える側としては、扱いやすいやつだといえる」
「そーお。よかった。アタシのかわいいお人形だもの、それくらいはこなしてくれて当たり前ね」
ヨランダはくすくす笑う。H・Sはしばらく相手の笑い顔を見つめたが、やがて口を開いた。
「なぜあなたはあいつに教えたがる? 飼いならすには、無知でいるほうが都合がいいと思うが」
「あの子に教えてほしいのは、最低限のことだけ。後はいいわ。それ以上踏み込ませても、彼には何の得もないのだから」
「そうは思わんが? あなたはあいつの好奇心の強さをご存知ない。知りたいことを全て知り尽くした後は、いつか外へ逃げ出す」
「大丈夫。そのための、《離れ》よ。資料室のためにあの《離れ》を作らせたといってもいいわ」
ヨランダは相変わらずくすくす笑う。
「ところで、あなたの部下もなかなか優秀よね〜。あれだけ動物を傷めずに連れてこられるハンターはそういないわ」
「あれは、部下じゃない。私の契約相手だ」
「あら、そうだったの?」
ヨランダは、驚きに満ちた顔をした。H・Sは相手の驚きに満ちた顔を面白そうなまなざしで見つめながら、酒を飲んだ。
「私は、見返りの期待できない奴とは契約を結ばぬ主義だ」
アレックスは、サクサクと歯ごたえのあるサラダを食べていた。このサラダという料理、有機野菜を使って作られたらしい。苦味のあるものだったが、栄養剤のように飲み込んでも口の中に残るニガさとは違った。本来なら、自然保護法に違反する食べ物だったが、今のアレックスは法を破ることの罪悪感よりも、見知らぬ食材を胃袋に入れることへの好奇心が強かった。そのため、ほとんど抵抗も見せずに遠慮なく食べている。
「不思議な味だなあ」
パリパリと音を立てる新鮮なレタスをフォークの先でつつきまわす。
「アレックス様、お行儀悪うございます」
セイレンに注意され、アレックスは赤面した。
「ご、ごめんなさい……」
朝食後、セイレンは食器を全てさげて出て行った。
湯船の心地よさに魅了されてしまい食後すらも風呂につかる習慣ができ始めたアレックスは、大理石のきれいな浴槽でしばらく温かな湯に浸かった。体が温まったので、湯船から上がる。上等の布地で作られたバスタオルで体を拭いていると、きれいに磨かれた鏡に自分の姿が映った。
体に走る傷跡はまったく消える気配がない。しかしアレックスの目は、傷跡ではなく自分の体に釘付けになっていた。体が少しだけふっくらしている。
「太ったのかな? でもどうして?」
着替える前に歯磨きをしつつ、アレックスは自分の体をじっと見つめていた。服を着て、バスタオルをかごに入れた後、彼は部屋を出た。これまで、毎日ヨランダが部屋に来ていたので、自分から外へ出ることはなかったのだ。
「この屋敷の出口はどこにあるんだろう」
きれいな赤いじゅうたんに沿って進む。ひたすらまっすぐ。大きな窓から明るい日光が差し込み、廊下を照らす。ずっとまっすぐに進んでいくと、廊下の突き当たりにたどり着く。しかしアレックスは、こんなところに突き当りなどあったかと首をかしげた。資料室へ行くとき、ヨランダの部屋に行くとき、ここはまだ通路の途中だった。こんなところに行き止まりなどなかった。
自分の記憶違いだろうか。彼はしばらく頭をひねった。行き止まりの壁をたたいたり、耳をつけたりして何かないだろうかと《何か》を求めた。しかしあれこれ奮闘しても何も見つからなかった。
落胆したアレックスが部屋に戻ってドアを閉めると、行き止まりの通路は音もなく滑って壁の中へ隠れていく。その向こうにはさらなる通路がのびていた。
部屋の窓を開けると、少し湿気を含んだ重い風が入ってきた。空は曇り始めている。
「雨のにおいだ」
梅雨が近いのだろう。
窓の外は、きれいな花畑が広がっている。ちょうちょが飛んでいるのも見える。窓の外へ出ると、花畑に沿ってまっすぐ歩いてみた。この屋敷の全貌が見えるかもしれないのだ。
「いでっ」
十メートルも行かないうちに、何かにぶつかった。しかし、体を離しても何も見えない。手を出してみると、コツンとあたる。
「見えない壁みたい。ガラスかな」
手をどけると、指紋がついた。見えない何かの壁が、前方を阻んでいる。さらに先には、草地が広がっているだけだったが、アレックスはその草地の果てまで歩いてみたかった。
壁に手をつけた状態でぐるりと回ったが、この見えない壁の出口らしき場所はない。あきらめて、後ろを振り返る。そして、自分の暮らしている部屋のある建物がどんな形なのかを目にした。
とてもシンプルな建物。二つの建物を通路で結び付けただけのシンプルなつくり。通路には、天井から床まで届く窓が作られている。通路でつながれた建物の片方は巨大だが、片方は小さかった。建物はレンガ造り(アレックスはもちろんレンガを知らない)であり、窓が二つある。ひとつはおそらく自室のもの。もうひとつは……近づいて覗こうとしたが、彼の届く範囲よりもずいぶん高いところにあるため、中を知ることはできなかった。
アレックスはそのまま肩を落として部屋に戻った。
《屋敷》からは、出られそうにない……。
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