第4章 part1



 アレックスの指名手配が全国に展開してから二週間が過ぎた。ちょうどアレックスが食物についてH・Sの講義を受けているとき、基地では隊員たちの間でさまざまなうわさが飛び交っていた。アレックスがハンターの一員だとして指名手配されたことについて。
「まさか、あんないい奴が――」
「地味な奴だったが、それがスパイとして良かったのかもしれん。誰にでも取り入れるからな」
「でも信じられないわね。今までそんなそぶりなんか見せていなかったわ」
「見せていないから、スパイなんだよ」
 アレックスがハンターのスパイであった派とそうでない派に分かれている。アレックスの同期の隊員の何人かは幼い頃の彼を知っているだけに――
 そのうち、隊員たちの何名かが「一身上の都合により」除隊した。ほかの隊員たちは特に疑問を抱くこともなかった。月に一度は、ほかの隊員への挨拶もなしに何人か辞めていくものだから。
 アレックスのスパイ疑惑でざわつきの収まらない隊員たちを尻目に、警備隊隊長以上の指揮官たちと上層部はそろって、なんとしてもアレックスを捕らえようと、各地をしらみつぶしに探させているところだった。だが、ハンターたちからもパトロールしている隊員からも一般市民からも、何の連絡も来ない。彼の暮らしていた孤児院にもあたったが、あいにく彼は立ち寄りもしていなかった。アレックスは煙のように消えうせてしまったのだ。どこかに隠れていることは間違いないのだが、自然保護区の中ではないはずである。なぜなら、自然保護法が世界中に広まってから、ヒトが食用とすることのできる植物は一般人の目にも隊員たちの目にも触れなくなってしまった。食料もないのに長いこと隠れ続けることはできない。誰かがかくまっていれば話は別なのだが。
 基地の上層部ははらわたが煮えくり返る思いで、アレックスを追い求めていた。今度こそ、彼の存在を消してしまうために。そして、己の地位と、あの秘密を守るために。
「なんとしても、奴を捜し出すのだ!」

 固い布団の敷かれたベッドの上に飛び起き、アーネストは額の汗をぬぐった。呼吸は荒く、上着を脱いで寝ていたはずなのに、全身は汗だくだった。
「またあの夢かっ……!」
 無数の獣に追われる夢。また見たのだ。三夜続けて。
 深呼吸して体を落ち着かせる。汗を流すためにざっと冷水を浴びる。湯になるまで温めるのは面倒であったし、冷水のほうが、目覚めやすかった。
 日々のハンター活動で鍛え上げられたそのがっしりした身体には、何かで裂かれたような傷がいくつも走っていた。
 ユニットバスから出て時計を見ると、深夜三時前。そろそろ交代の時間だ。窓の外は雨がしとしと降っている。
 ピー。時計からのアラームが部屋に響く。交代の時間だ。アーネストは上着を引っつかんで、ため息をつきながら部屋を出て操縦室へ向かう。交代のために操縦室に現れた彼に、H・Sは振り向いて、まるで相手の顔に何かついているかのように数秒見つめた。
「また傷がうずくのか?」
 ぎくりとした。
「少し前に面白い話を聞いたことがある」
 ハンターはまた正面を向いて、レーダーで方位の確認をした。
「普通、ヒトは記憶を少しずつ消して忘れ去っていく。何もかも憶えていたら、心身ともにもたないからな。だが傷はその記憶を失ってほしくないから時々痛みを肉体に与え、忘れるなと意識させるんだそうだ」
 笑っているような口調。背を向けているので、アーネストからは相手の顔が見えない。
「……何が言いたい」
「さあ?」
 とぼけたような口調で、ハンターは操縦をオートに切り替えて席を立つ。
「東北東の議員区画上空に着いたら、そのまま機体をホバリングさせておけ。夜明けごろには取引相手といったん連絡を取らねばならんからな」
 わざとらしくあくびして、彼は操縦室を出て行った。アーネストは舌打ちして自分の席に座り、燃料消費を抑えるためにエンジン出力を若干下げた。そのまま操縦をカスタムに切り替えて、モニターの地図とレーダーの方位を見ながら、操縦桿を握って方角の修正をした。
 正しい方向に向かって飛行艇が移動すると、彼は操縦をオートに切り替えなおした。後は、勝手に飛行艇が目的地へ連れて行ってくれる。こちらのやる事は目的地につくまでによほどのこと――例えば深夜のパトロールをする野生動物保護官に出くわすなど――が無ければ、何もないのだ。
 アーネストは椅子の背もたれに体を預けた。
 あの夢が、繰り返し繰り返し、頭の中で流れる。無数の獣が追いかけてきて、逃げても逃げても追ってくる。ついに追いつかれて跳ね飛ばされる。
 夢の光景が頭の中で駆け巡る。そのたびに、体の傷が痛み出した。我慢できない痛みではないが、ほっておいてもおさまるような痛みでもない。服の襟ごしに傷を見ると、少しだけ出血しているのが見えた。
「忘れるな、か。頭が忘れても、体が覚えてるってわけだな」
 二時間後、飛行艇は目的地に到着した。アーネストは機体を上空にとどめると、レーダーに目をやる。自然保護警備隊の使う、遠距離移動用の乗り物はどこにもないようだ。
 交代のアラームを鳴らしてもいないのに、H・Sが操縦室に姿を現す。
「さあて」
 彼は自分の操縦席に座る。東の空が白んでいるのが見えた。彼は通信回線を開いた。待ってましたとばかりに、通信相手の顔がモニターに映る。齢七十を超えたと思われる、きわめて派手なネグリジェに身を包んだ老婆だった。老眼鏡をかけ、それでもなおモニターを見るのが苦痛だといわんばかりの顔。老眼の度がかなり進んでいる。
『あらあら、まあまあ。やっと来てくれたのかい。あたしゃちっとも眠れなくてねえ、あんたからの通信を心待ちにしていたところなの。それでねえ、さっそくなんだけど、この間のお茶の会であんたのことを話したらそれはそれは喜ばれて退屈しのぎ――』
「わかったわかったから。ゲートを開けてくれ」
 長くなりそうな老人の話をさえぎるH・S。取引相手は驚きの顔を一瞬だけ作ったが、すぐにうなずいた。
『あーあー、ごめんなさいね。年をとるとどうも話が長くなってねえ。今、ゲートを開けさせるわ』
 数秒後、機体の下に見える巨大な金属の門が、ゴゴゴと大きな音を立てて開かれた。飛行艇はそのまま、徐々に降りてきた。といっても、着陸はしなかった。
 アーネストは言った。その目はレーダーを見ている。
「半径七キロ以内の距離に警備隊がいる。……ギャンブルトラップだ」
「そうか。ならば、少し痛い目にあわせてやるか」
 ハンターはそのまま外へ出る。その手には、D区のヤマネが入ったかごを持っている。
 取引相手の老女は、うれしそうに、早くかごをくれと言う。しかし、H・Sはかごを手に持ったまま、言った。
「契約違反だ。このまま撤収させてもらう」
 彼は、目の前の取引相手が驚愕の表情を浮かべるのにもかまわず、船内へ転送させた。飛行艇がホバリングしている現在の高さから、上昇を始めると、取引相手の老女はやっとわれに帰った。
「な、なぜバレたのかしらね。あああ、とにかく、警備隊に後を追わせなさい! さもないと、アタシの賭け金がパーになっちゃうんだからね!」
 飛行艇と、老女の屋敷直属の警備隊のヘリコプターが、上空を横切って西へ向かった。
「ギャンブルトラップは久しぶりだな。もうちっと用心してかかってもよかったが」
 H・Sは操縦席に座る。
「機体の数と型は?」
「数は十五、最新型のジェット2式だ」
「ジェットか。ギャンブルトラップにしては豪華な機体だ。よほど賭け金が高いんだろうな。しばらく時間稼ぎをしろ。操縦は任せる」
 ギャンブルトラップとは、ハンターの取引相手が仕掛けるトラップである。ハンターの取引相手同士で行われるギャンブルで、ハンターが捕まるか逃げ切るかを賭けて行う。Bランク以上のハンターでも下手をすると捕らえられることがあるため、ハンターの間では嫌われているギャンブルだ。
 アーネストはレーダーを見つつ、操縦桿を握った。エンジン出力を上げ、迫ってくる十五機の警備隊のヘリコプターを一気に引き離す。ヘリコプターは速度を上げて追う。一方、H・Sは脇のパネルに手を走らせ、専用のモニターに入力結果を出力させた。
「磁気トラップが作動する。急降下して脱出だ」
 アーネストは指示通りに機体を急降下させる。機体はF区の海面ギリギリまで降下した後、波を勢いよく跳ね上げて全速前進した。後を追って降下したヘリコプターたちはことごとく、仕掛けられた磁気トラップで互いの機体がひきよせられてぶつかり合う。激突の衝撃でエンジンの故障した機体が出火する。もつれたヘリコプターたちは、操縦もままならぬまま海へと沈んでいった。
 昼ごろ、彼の取引相手である老女は、ハンターの取引相手として逮捕された。
「はん、ざまをみろ」
 転送機から吐き出された新聞に目を通し、H・Sは冷たく笑った。そして、言った。
「D区へ向かえ。ターゲットを放す」

 飛行艇のエンジンを休めるために、K区の荒地へ向かう。砂漠に似せた環境が作られた場所で、サソリなどの砂漠にのみ生息する動物たちがこの土地に放されている。もちろん、危険なのでベテランの野生動物保護官しか立ち入れない。ちゃんとしたメンテナンスをしたいときはヨランダの住まう屋敷へ向かう。しかし到着には最低でも三日はかかるので、単に機体を休めたいときは、このK区にある、ハンターだけにしか知られていないアジトへ向かうのだ。どの地区から行くにしても数時間もあればつける場所。
 砂漠地帯のK区は、夕焼けが終わるとあっという間に暗くなる。樹木も草も無いので、どの区よりも早く暗くなり、気温も下がりやすくなるのだ。そして月明かりに照らされているのは、点々とある人工のオアシス。
 区の東の果てに、流砂によって出来たと思われる砂の渦が見える。H・Sは飛行艇をその砂の渦の中へと降下させる。すると、急に渦がパックリと二つに割れて、大きな人工の入り口が姿を現した。ここが、ハンターたちの隠れ家だ。降下した機体はゆっくりと格納庫の中へと着陸する。飛行艇が下りると、自動的にエレベーターによって運ばれていき、所定の位置へ収められる。ここには、燃料や食糧補給などの店、情報収集のための酒場や宿場もある。高い金さえ払えばちゃんとした武器弾薬も入手できる。この隠れ家の常連はBランク以上のハンターが多数。Cランクの者たちは大概専用の飛行艇を持たないのと、すぐ捕まってしまうのとで、隠れ家の存在を知らずにいるものが多い。
 酒場はにぎわっている。手配書でなじみのAランクのハンターが何人か、カウンター席で雑談している。他のBランクのハンターたちはテーブルでトランプやら手柄話やら、かなり喧しくしている。
「好きに飲んで来い。ただし、騒ぎは大きくするなよ」
 アーネストを追いやった後、H・Sはカウンター席へ向かう。座っているAランクのハンターたちが彼を見つけて声をかける。
「よお、久しぶりだな。相変わらず景気はよさそうだな〜」
「ああ、だが今朝ギャンブルトラップにはまりそうになった」
「でもお前のことだ、何とか逃げおおせたようだな。でなきゃ、ここにはおらん」
 既に自然保護法によって、ジュースや酒などの、有機食物を使った飲み物は生産できなくなっているが、この場所では好きなだけ手に入る。
 一時間ほど、H・Sは雑談に加わる。話の中で、新しく指名手配された者の事がふと話題に上った。
「基地にもぐりこんでスパイしてた奴ならいたよなあ、何年も前に。とっくに捕まって処刑されちまったが」
「しかし今回はやけに若い奴じゃないかい。こんな歳でスパイが勤まるわけがないじゃないか。ものの道理も十分にわきまえてないような、十八のガキだよ? おや、どうしたい、H・S」
 H・Sは、ベルモットのグラスを片手に、笑っていたのだ。
「そのガキなら知っている。大胆にも、私の船に忍び込んだのさ」
 Aランクのハンターたちは驚きの声を上げた。
「何だって? 警戒厳重なお前さんの船に?!」
「そうとも。もちろん放り出してやったが、その後の事は知らん。指名手配書でハンターと同じだけの額が提示されるところを見ると、何らかの形で基地の秘密に触れたのが知られたんだろう。基地は奴をつぶすために指名手配をしたとしか思えんな。基地の連中のやり口は、知っているだろ?」
「基地の秘密ねえ。まさか――」
 片目に眼帯をつけたハンターが、にやついた。
「記憶に新しい『あの事件』のことじゃあるまいな? 客の死傷者が出ただけでなく隊員たちの大半が行方知れずになったっていう、あの」
「かもしれんな」
 H・Sは流した。そしてグラスの中の酒をまるで水でも飲むように一気にのどに流し込んだ。
「では、そろそろ行かなくては」
「もっとゆっくり出来んのか?」
「買い物にも時間は必要なんでね、失礼。……アーネスト、行くぞ」
 離れたところで、憂鬱な表情を浮かべて飲んでいたアーネストは、酔っ払ったハンターに絡まれるところだったが、さっとかわして、空のジョッキをテーブルに置いた。
 酒場を出ると、商店街へ入る。燃料、部品、水、食料、浄水器、薬品。さまざまなものが売られている。もちろん自然保護法で禁じられた商品が大半、機械系の商品に至っては基地専属の工場からの横流しが行われている。この場所は、ハンター活動をするために必要なもの全てがそろっているのだ。
 買い物には確かに時間がかかった。品定めをし、値切り、交渉するのだ。船内の水用タンクの水を完全に入れ替え、格納庫で燃料を入れてもらい、オイルタンクを満タンにしてもらった。
「ご苦労さん」
 H・Sは報酬の金貨十枚をやり、腰の曲がった店員を下がらせた。そして船内の備品や装置をざっとチェックして異常が無いことを確かめる。
「朝七時に出発する。それまで休憩だ」
 時計は夜の十時を指していた。眠れるときには寝ておくのが、日夜忙しいハンターの睡眠のとり方であった。アーネストは遠慮なく自室へ入り、ドアを閉めた。H・Sも自室へ入ったが、すぐには寝なかった。操縦室から持ってきた新聞の束と指名手配リストに目を通すのに忙しかったのだから。

 朝七時半。
 まぶしい朝日が、部屋の中に差し込んできた。レースのカーテンの隙間から差し込んだ光に照らされ、ヨランダは目を開けた。
「あら、もう朝?」
 背伸びしてベッドに座る。布団はかけたままだ。やがてノックの音が聞こえ、セイレンが入ってきた。
「失礼いたします、お嬢様」
 朝食を持って入ってきたセイレン。まずカーテンをきちんと開けなおし、それからヨランダに淹れたての紅茶を差し出す。ベッドに座ったまま、ヨランダは紅茶を飲み、朝食をとる。トースト、サラダ、新鮮な果物を使ったデザート。アレックスと似たメニューだが、豪華さは彼女の方がずっと上。
「ところで」
 ヨランダはセイレンに問うた。
「あの子はちゃんと残さず食べてくれているかしら?」
「はい」
「それはよかったわ」
 ヨランダは微笑んだ。
「あんなに痩せた体だと、抱きしめたときに骨が折れてしまいそうだものね。アタシのかわいいお人形なんだから、これ以上傷モノにしたくないわ」
 食事が終わると着替えをする。
「本日のお嬢様のご予定は、午前十時に議事堂の上院議員様がお見えになり、ご昼食後はバイオリンのレッスンがございます。それから本日は月に一度の会議となっております。旦那様も本日はご出席なさいます」
「あら、お父様もいらっしゃるの? それはちょうどよかったわ」
 ヨランダは笑みを浮かべている。
「あの子をお父様にも紹介したいの。夜にならないとお父様は帰ってらっしゃらないんでしょ?」
「さようでございます」
 セイレンは何の感情もこもっていない口調で返答した。


 夜十時半。彼専用に仕立てられた夜会服を着たアレックスはひどく緊張して、椅子に座っていた。
「旦那様が、アレックス様にお会いしたいと仰っています」
 着替えさせられて、セイレンにつれてこられた場所は、おそらく客間。アレックスの部屋に置かれているものとは比べ物にならないほどとても豪華な家具が並び、壁には風景を描いた絵がかかっている。椅子に使われているクッションはとてもやわらかい。二メートル以上もの長さがあるテーブルには汚れひとつ無いテーブルクロスがかけられている。そのテーブルクロスの上には、ふたをした料理の皿と、きれいに磨かれたグラスが置かれている。
 テーブルの向かいには、一人の男が座っている。年のころは五十を過ぎたところで、白いものが混じった髪は丁寧に撫で付けてある。体格はかなりがっしりしている。椅子の背もたれから頭がはみ出るほど背も高く、アーネストに匹敵するのではないかと思われるほど。夜会服を着ていたが、その素材はアレックスのそれよりもはるかに上等のものであった。
「君が、娘の言っていたアレックスだね?」
 響きの良い声。
「は、はい」
 緊張したアレックスだが、何とか返事をした。娘というのは、たぶんヨランダのことだろう。という事は、テーブルの向かいに座っている男は、ヨランダの父にして、《屋敷》の主人という事になる。セイレンが「旦那様」と言っていたのだから、間違いないだろう。
「わたしの名はファゼット。この《屋敷》の主だよ。そうかしこまる事はない。楽にしたまえ」
 男は、きれいにひげの剃られた顎をなで、アレックスの顔を見た。
「なるほど、娘が君を気に入るわけだ。はっはっは」
 なぜ相手が笑うのか、アレックスには分からない。
「まあ、それは置いておくとして。おそいが、晩餐にするとしよう」
 ファゼットが手を叩く。すると、どこからか痩せぎすの執事が姿を現す。アレックスの後ろからは、セイレンが姿を現す。皿のふたを取ると、美味そうな匂いが立ち上り、料理が姿を見せる。
(一体何だろう?)
 皿の真ん中に載った茶色のモノ。長方形に近い形をしており、しわがよっている。食欲をそそられる匂いがするその茶色いモノの傍に、茹でたニンジンと揚げたジャガイモが添えてある。
 グラスに赤い液体が注がれる。血ではなさそうだ。飲み物である事は間違いないだろうが、この色は一体……。
「本当は前菜からはじめるものだが、今夜は特別だ。さあ、遠慮なく食べなさい」
「は、はい……ありがとうございます……」
 しかしどうやって食べたらいいのか分からない。この茶色いモノは、丸ごと口に入れるには大きすぎる。戸惑っていると、飲み物が入った緑色の壜を持っているセイレンが、彼にそっと耳打ちした。
「フォークで食べ物を押さえながら、ナイフで切り分けてください」
 セイレンに指導されつつ、茶色いモノを切り分ける。何度か皿を強くナイフで引っかいてしまい、耳障りな音を立ててしまったが、悪戦苦闘の末、何とかその食べ物を一口大に切り分ける事が出来た。
 切り分けたものを口に入れてみる。噛むと美味い汁が出てきて、歯ごたえも良い。サラダやトーストとは全く違う美味さだ。時折ピリッと辛さが舌を刺激するが、それがより旨味を引き立てているようだ。
「ここでの暮らしには慣れたかね?」
 ファゼットが問うた。アレックスは口の中のものを無理に飲み込み、慣れたと答えた。
「そうかそうか。ここの暮らしは最高だろう? 毎日美味いものを口に出来る、すばらしい景色を見る事も出来る、天国ではないかね?」
「え、ええまあ。そう思います(外に出られないけど)」
「娘は君を大変気に入っているし、わたしも君のことを気に入ったよ。どうだね、わたしの養子になる気はないか?」
 グラスを口につけたアレックスは、突然の言葉に、口に入れたばかりの、舌を刺す奇妙な味のする飲み物を噴き出してしまった。ひどくむせた後、
「あっ、ご、ごめんなさい、テーブルクロス汚して――」
「いやいや、かまわんとも。突然そんなことを言ったわたしも悪いのだよ、はっはっは!」
 ファゼットはおおらかに笑った。執事がどこからともなく現れて、テーブルクロスをつかみ、サッと引っ張る。上に載った食器類はひっくり返ることなく、テーブルクロスだけが取り払われた。アレックスはその技に目を奪われた。
 ファゼットは食事中も話を続け、その内容はヨランダについてのものであった。アレックスは食べながら相槌を打ち続けていた。食べ終わった皿は次々に取り替えられて新しい料理の載った皿になっていく。食事が終わる頃には、アレックスの緊張の糸はだいぶゆるくなっていた。食後、濃い茶色の熱い飲み物を出されたが、紅茶よりも遥かに苦くて飲めたものではなかった。ミルクと「砂糖」を入れるか否かのセイレンの言葉に、両方入れてくれとアレックスは頼んでみた。たくさん「砂糖」とミルクを入れたために甘くなった薄茶色の飲み物は、すんなり喉を通った。
「ところでアレックス」
 ファゼットは、カップから口を離し、アレックスに話しかけた。
「君は不思議に思っているのではないかね? わたしの娘が、ハンターと契約していることについて」
「……はい」
「これは、娘の退屈しのぎなのだよ。わたしの力があれば、何でもこの屋敷に持ってくる事が出来るのだが、娘はそれで満足しないのだ。娘はスリルを求めている。だからハンターと契約したのだ」
「……あなたは、どう思ってらっしゃるんですか? そのハンターについて」
「あのハンターは、定期的に開く会議の中でも特に重要な位置を占めておる。彼抜きでは会議は成り立たないと言っても良かろう」
「会議?」
「そう。月に一度開いているものだ。会議について聞かせてくれるかもしれんが、彼は何しろ貝のように口が固い男だ、聞き出すのは容易なことではないだろう。まあ、その点においては、あの男は信用できる」
 H・Sはただのハンターではないようだ。これほどまでにあの男が重要視される理由とは一体何だろうか? 会議というのも気になる。ハンターを出席させているとは、一体何の会議を開いているのだろう。
「H・Sは……一体何者なんですか? 何でも知っているみたいだし――」
「そう、確かにあの男は何でも知っている。だが、その正体はわたしらも知らんのだよ、残念ながら」
 無理だろうな。アレックスはそう思いながら、カップの中の飲み物を飲み干した。食事中に飲んだ、舌を刺す奇妙な味の飲み物は一体何だろう、とも考えながら。
 翌日、赤ワインを飲んだアレックスは、二日酔いに苦しんだ。


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