第4章 part2



 アレックスが《屋敷》での暮らしを始めてから二ヶ月経った。外の世界では、彼の指名手配は一向に解除されないままであった。梅雨の時期を過ぎて、七月になると、各地の木々にセミが姿を見せるようになった。
 一般人の住む居住区とは異なった所に、高い塀で囲まれた議員専用の居住区が存在する。政治や基地に関係のある者だけが住んでいる。一般人の居住区は、地面や岩がむき出しでまばらな草が生える程度の荒れた土地であるのに対して、議員の居住区は、自然保護区のように豊かな草木に恵まれている。この土地に残された、わずかな肥沃な土地の一つなのだ。自然保護法によって、一般人が住む地区と議員クラスの者が住む地区は分けられ、互いに行き来しないように高い塀が作られている。
 議員専用の居住区の最奥に、国会議事堂がある。ドーム状の建物で、外は全て真っ白に塗られている。塀に隠れているため、一般人の居住区からは見えない。その巨大なドームの中では、九月に行われる選挙活動についてのスピーチが開かれていた。立候補する議員が会議室の中央に進み出て、それぞれ公約を発表する。秘書たちはそれを書き留めて、一般人たちの目に触れるポスターを作る。もちろんポスターの素材は、一般人たちの間で使われている質の悪い紙。自然保護法施行後で作られた法律によると、議員として立候補できるのは、議員の居住区に住むものだけであり、一般人たちは決して立候補できないことになっている。この法律に異を唱えた者は、いるにはいるのだが――。
 立候補者がそれぞれスピーチを終える。議長は、柔らかな素材のクッションをつめた椅子から立ち上がって、立候補者に着席を命ずる。
「では、本日はこれで閉会といたします。公約の公表およびポスターの貼り出しは、七月末までに行ってください。そして――」
 いったん言葉を切る。
「くれぐれも、三年前の《事故》を起こすようなことのないように」
 議員たちの間から、ため息が漏れた。
 基地。
「もう選挙の時期が来たか」
 上層部の者たちは、円卓を囲んで話をしている。
「議長から連絡が来た。今回の選挙活動では、地区開放イベントはやらぬ予定だそうだ」
「そうか。そのほうがありがたいなあ」
 齢八十を越えたであろう老人たちは、ため息をついた。
「指名手配したあの青二才はまだ見つかっておらん。そして、三年前のあの《事故》に関わった者もな。さっさと見つけ出してしまわんと、いつなんどき現れて、我々の立場を危うくするか分からぬ」
 老人の一人が、手元の通信機をいじる。やや間があって、耳をふさぎたくなるようなノイズが部屋に響いた。ノイズが収まると、部屋の中央にスクリーンが姿を見せる。そこにパッと映し出されるのは、
『何か用か』
 H・Sはぶっきらぼうに言った。
『次の標的か? それとも――』
「何度も言ったはずだが――」
『二ヶ月ほど前に指名手配したあの青二才を知らないか、だろう? 何度も言うが、奴の居場所は知らん。D区の森にでも逃げ込んだんだろう。パトロールの目の届かない場所なら、知っているはずだから』
「それともうひとつなんだが――」
『あの《事件》に関わった者を探しているんだろう?』
「あれは《事件》ではない、《事故》じゃ!」
『はん。私にはどちらも同じだ。……すまんが、その手配者についても、私は知らん。三年も前だ、仮に大怪我をしていたら、どこかで野垂れ死にしたはずだろう。なぜそいつも指名手配しない?』
「……生きているかどうか、わしらにも分からんからじゃ。確か奴の身内は、全て死亡――」
『くくく……あんたたちが手を回したのではないのか?』
 からかいの言葉を投げるH・Sに、老人は言った。
「な、何を言うかっ!」
『私にからかわれるのが嫌なら、黙っているほうが賢明だと思うがねえ? 老人のおしゃべりはこれだから困る』
「うぐ……」
 金属の歯だらけの入れ歯をがちゃつかせ、円卓を囲む老人たちはうめいた。
「と、とにかくじゃ、奴らを見つけ次第、わしらに知らせるんじゃぞ、わかったな!」
 通信を断つと、スクリーンは暗闇に覆われた。
「隊員たちはどうだ? 何か知っている様子は?」
「今のところ、ないようじゃな。ふん、知っている隊員がどこかにおるとは思えないがのお」
「だが、万が一だ。警戒を怠ってはならぬ」
 話し合いは、お開きになった。

 通信がいきなり断たれて、モニターから醜悪な老人の顔が消える。
「じいさん達、相当のご立腹らしいな。が、契約している以上、教えるわけにはいかんのだよ」
 H・Sは冷たく笑っている。隣で操縦桿を握るアーネストは、苦虫を噛み潰したような顔をしている。が、その目の奥には、異様なまでにギラギラ光る炎が見えた。
「操縦桿を握りつぶすなよ、アーネスト。座標三〇五、標的を拾いに行け」
 アーネストは口の中でなにやら呟いたが、おとなしく指示に従う。十五分ほど後、動物を入れるための小部屋に、一匹のラブラドールレトリバーが転送されてきた。
「最後まで責任もって飼えと言ったのに、全く」
 H・Sは、小部屋に入り、犬の首につけられたタグをはずす。体の大きさからして一歳ごろだろうと思われる犬は、尻尾を振って彼に甘えている。痩せて、毛皮は少し汚れている。
「帰巣本能があるとはいえ、G区のイヌたちがこいつを迎え入れてくれるとは思えんな」
 壁の一箇所を叩くと、ガタンと音を立てて、その壁の一部がスライドした。その奥から現れたのは、水の入ったタンク。備え付けてある金属の鉢に水を満たして犬に与えると、犬は水をガブガブ飲んだ。ものほしそうにH・Sを見つめたが、彼はそれ以上水をやらなかった。たくさん一度に与えるのはかえって体に悪いのだから。
「そこで、おとなしくしていろ」
 犬を小部屋に入れたまま、彼は部屋を出た。犬はしばらく鳴いていたが、諦めて藁の上に横になった。

 早朝五時半、アレックスはベッドの上に起き上がった。ビロードのカーテンの隙間から、まぶしい日光が入ってきた。
「またあの夢か……」
 四足の獣たちに追いかけられ、跳ね飛ばされる。地面に叩きつけられて、意識をなくす直前に目に入る、誰かの姿。その誰かのシルエットが、徐々にはっきりし始めていたが、それでも、その顔は見えないまま。背中しか、分からなかった。
「あれは一体誰なんだろう」
 起き上がり、浴室でシャワーを浴びて汗を流す。ここ最近体つきが変わってきたのを、鏡を見ながら実感する。あばらの輪郭は見えなくなり、肩幅は若干広がっている。少し見えていた頬骨はすっかり頬の肉に埋もれた。それでも、体についた大きな裂き傷だけは、癒えることはなかった。
(ここに来て、二ヶ月くらい経っているんだよなあ?)
 アレックスは体を拭きながら思った。《屋敷》に来たのが五月であったことは覚えている。この場所には時計はあってもカレンダーがないので、気温の変化や天候で季節を判断するしかない。セミの鳴き声が聞こえ始めたので七月ごろだろうと考える。
(この暮らしに、すっかり慣れてしまったなあ)
 ヨランダが彼を「欲しくなった」から、彼は《屋敷》へ連れてこられた。来たくて《屋敷》に来たわけではない。しかし、今は基地へは戻れない。だからここにいる。野生動物保護官の制服より遥かに上等の生地を使った服や、美味いが本来は自然保護法違反の食べ物にも、抵抗感を示さなくなっている。
 朝起きたら風呂に浸かるかシャワーを浴び、朝食をとる。午前中にセイレンから作法を教わる。昼食後は昼寝する時もあるが、セイレンに資料室へ連れて行ってもらって本を読み漁る時もある。定刻にヨランダと一緒に紅茶を飲んで雑談する。夕食後は風呂に入って、九時にはベッドに潜り込んで消灯時間まで、資料室から持ち出してきた本を読みふける。そんな生活が続いていた。
 ヨランダは確かに彼を可愛がってくれたが、その可愛がり方は、あまり好きにはなれなかった。ぎゅっと抱きしめたり頭をなでたりするその可愛がり方は、母親が幼子を可愛がると例えるほうが良いか、あるいはヒトが動物を可愛がると例えるべきなのか……。不満だったが、口には出さなかった。
 疑問に思い続けている事があった。
《ここ》は、一体どこなのだろう。
 H・Sの飛行艇で連れてこられた時は、移動に何日もかかっていた。部屋の高所にある窓から空は見えたものの、東西南北のどこへ向かっていたのかは全く分からなかった。そして、基地へ一度戻って、冷凍室で凍死する寸前にH・Sの飛行艇に再び戻された時は、凍傷で動けなかった上に無理に飲まされた薬で深く眠っていたので、目覚めた時には既に《屋敷》の部屋の中だった。どの方向へ飛んで行ったかなど、見てすらいない。さらに《屋敷》の周囲には見えない壁が張り巡らされ、庭へ出ることはできてもその先へ行くことはできない。広がる草原しか、彼は知らない。《ここ》は海を越えたところにある場所。そのくらいしか分からなかった。
 浴室を出てから、タンスを開けて服を着る。同じ服ばかりがタンスに収められているが、どれも清潔でアイロンがちゃんとかけられている。暑いので、薄い生地の服ばかりだ。着替え終わるとノックの音が聞こえ、朝の挨拶と共にセイレンが朝食を持って入ってきた。
「ねえ、セイレン」
 朝食をとっていたアレックスは口を開いた。紅茶入りのポットを持っているセイレンは少し前に歩み出る。
「ずっと思っていたけど、《ここ》は、世界の、どの辺りにあるんだい?」
「《ここ》ですか?」
 セイレンはしばし沈黙する。前髪で隠れたメイドの目は宙をさまよっているようだ。
「わたくしにはわかりかねます。生まれたときから、このお屋敷にお仕えしていますので」
「地図とか見たことある? この土地の外に出た事はある?」
「いいえ。わたくしが存じているのは、このお屋敷の中だけでございます」
 知らない、らしい。
「あ、そうなの……ごめん、変なこと聞いて」
「いいえ。お役に立てず申し訳ございません」
 セイレンは、何の感情もこもっていない答えを返した。
 一つも雲のない、晴れ渡った青い空を、茶色の飛行艇が横切っていった。


「あら、お久しぶりねえ。部屋はちゃんと用意させてあるし、会議は夜からだから、あわてなくても大丈夫なのに」
 ヨランダは、格納庫に入ったばかりの飛行艇から降りてきた二人を出迎え、アーネストの後ろにいるラブラドールレトリバーに目を留める。
「あら、そのワンちゃんは?」
「拾いものだ」
 犬は二人に懐いているらしい。船内にいる間世話をされていたのだろう。汚れていた毛皮はちゃんと洗われて綺麗になり、肉付きも良くなっている。
「船では世話できないんでね。《動物園》にでも入れてもらいたいんだが?」
「お安い御用よ。そうだわ、あの子にも見せてあげなくちゃ」
 ヨランダは先に格納庫から出て行った。H・Sは、アーネストに、「ついていけ」と身振りで示す。アーネストは犬にまとわりつかれながら、格納庫から出て行った。

 ドウブツエン。
 アレックスは首をかしげた。
「自然保護区みたいなものよ。色々な動物がいるの」
 ヨランダは、アレックスの頬を両手でやさしく挟んで、撫でる。花の優しい香りが、鼻腔をくすぐる。
「基地にいたころより、ずっと色々な種類の動物が見られるはずよ。さ、行きましょう」
 彼の手をとってヨランダは先に歩いた。部屋を出て廊下を歩く。その先は行き止まりのはずだが、ずっと長い通路が延びていた。五分ほど歩いた後、階段を下りると、出口が見える。外へ出ると、綺麗な花に囲まれた道が二人の前に伸びていた。綺麗な白い石が敷き詰められた道に出ると、涼しい風が吹いてくる。直射日光を避けるためか、植物と鉄筋のアーチが道を囲んでいる。鉄筋で骨組みを作った後で、巻きつく性質を持つ植物を絡みつかせたようだ。
「この先にあるのよ。あなたにもぜひ見てもらいたいわ。広いから、今日は少しだけどね」
 アーチを抜けると、広々とした場所に出る。所々に木が見え、木々には網と思われるものが張り巡らされている。そしてこの広々とした場所は、金属の柵で囲まれているのが分かる。金属の柵の少し手前に、小さな小屋がある。
「お嬢様、お待ちしておりました」
 初老の男が、小屋の中から姿を現す。動物の毛のついた白衣を着ている。茶色いズボンの腰元には小さな救急箱がつけられている。
「どう、あのワンちゃんの具合は」
「はい、至って健康そのものです。少々体力不足ではありますが、数日もあれば回復します」
「そう、よかった。で、どのエリアに入れておく?」
「ふれあいホールがよろしいでしょう。しつけされていますから、人を噛む心配はありません」
「そう。じゃあお願いね」
「かしこまりました」
 男が小屋の中へ消えた後、ヨランダは再びアレックスの手をとった。
「さ、行きましょ。ここは広いからホントは乗り物に乗っていくんだけど、今日は歩いて周るつもりなの」
 小屋の脇を通り過ぎる。すぐにまた植物と金属のアーチをくぐる。風に乗って、動物たちのニオイが流れてくる。懐かしさで、アレックスはその空気を吸い込んだ。生きた動物たちにまた会えるのが嬉しかった。
 しかしその期待は半分裏切られた。
 ドウブツエンは、高所に作られた道を歩きながら、低所にいる動物たちを眺めるように作られている。低所には高い金属の柵が設けられており、首を上げねばならないほどの高所には網が張り巡らされている。
「動物たちが、閉じ込められてる……」
 懐かしい動物たちに会えたのは嬉しい。だが、再会できた動物は、柵の中にいる。自然保護区とは全く違う……。
「それはそうよ。動物たちが互いに傷つけあったり、逃げたりしないようにしているのだから」
 きれいに塗られた柵からキリンを見ながら、ヨランダは微笑んだ。
「閉じ込めているという点では、自然保護区も一緒よ。何のために区分けされ、何のために動物たちが放されているか、考えた事はあって?」
 アレックスは首を横に振った。
「自然保護区では、動物ごとに隔離しておくのが一番望ましいのよね。他の動物のナワバリへ入って、争いを起こすかもしれないじゃない。動物によってはナワバリ意識が非常に強いものもいるってこと、知らない?」
 首を横に振った。
「駄目ねえ、あなた達は動物に関して一体どういう教育を受けているの?」
「どういうって――」
「ヒトが自然を破壊しすぎたために、動植物たちは絶滅の危機に瀕した、というものでしょう?」
「ええ、そうです……」
「それだけでは、不十分ね。野生動物保護官なら、動物についてもっと知っておくべきじゃないかしら? 本来の生息地や生態、その生息地で構成される弱肉強食のピラミッド等をね。植物、昆虫などのさまざまな生態系も、知っておくと面白いわよ」
 ヨランダはアレックスの腕を引っ張り、先へ進む。
「さ、ふれあいホールへ行きましょ。動物と直接触れあえる場所よ」
 ふれあいホールは、ドウブツエンの中央にあたる場所にあった。円形の白い小さなドームで、入り口にイヌ科の動物の足跡が見える。近づくと、犬や猫の鳴き声が聞こえてきた。あまりたくさんはいないらしい。
「名前の通り、ここでは犬や猫と触れ合う場所。うさぎはナワバリ意識が強いしストレスに弱いから、見るだけでガマンしているの」
 ドーム内に入ると、確かに犬と猫が見える。ただ、このドームは壁とドアによる仕切りがつけられ、犬と猫が分けられている。犬側のドームは、もうひとつ出口があり、犬が自由に散歩できるようになっているようだ。
「あっ」
 アレックスは、ドームの奥にあるその出口から外へ向かう人物を見て、声を上げた。犬たちをドームの外に出しているのは、アーネストだった。
「彼は動物と波長が合うみたいなのよね。波長が合うという言葉はおかしいかもしれないけど、彼は本当に優秀なハンターよ」
 ヨランダは言った。
「たいていの動物を、全く傷をつけずに捕まえる事が出来るの。まるで餌付けでもしたみたいに、動物のほうから寄ってくるみたいよ? そして、攻撃的になったクマですら一撃で倒せるほどの体術を身につけている。すごいわよねえ。アタシだったら傷つけてしまうかもしれないわ、どんなに気をつけてもね」
 それから彼女はアレックスの手を離し、頭を撫でた。
「じゃ、あなたも楽しんでらっしゃい。アタシは猫たちと触れ合ってくるから」
 アレックスをおいて、彼女はさっさと仕切り代わりのドアを開け、猫のドームへ移っていった。アレックスはぽつんと取り残されてしまった。この場所には犬たちがいない。先ほど外へ皆出て行ったのだから。外から犬の声が響いてくる。仕切りの向こうからはかすかに猫の鳴き声がする。どうしようか迷った末、アレックスはこのドームの奥の出口を開けて、外へ出た。
 優しい風が吹きつけ、広々とした草原が目の前に広がった。犬たちの声が遠くに聞こえ、走り回っているのが分かる。
 周りを見回していると、見覚えのある姿が目に入る。風に吹かれながら、犬たちを見ているアーネストの姿だった。アレックスに背を向けているため、顔は見えない。アレックスは不思議に思っていた。なぜ、あの男を知っているような気がするのだろうか。一度もあった事がないはずなのに。基地にいたとき、アーネストについての情報が何かないか調べた。だが、ハンターのリストにも隊員情報にも彼の名はなかった。それなのにアレックスはアーネストを知っているような気がする。
 アレックスが近づくと、アーネストは振り返った。
「……ああ、お前か」
 相変わらずかなりの長身だ。アレックスの頭が相手の胸元辺りの高さにある。
「……元気そうだな」
「うん。ありがとう」
 アレックスは相手の顔を見つめた。無表情の相手は、ルビーのように赤い目に困惑の色を浮かべる。
(駄目だ)
 アレックスは目をそらした。駄目だ。顔に見覚えはない。昔の友人知人までさかのぼっても、誰一人として彼に当てはまる人物はいなかった。それでも――
「……オレ、あんたを知ってるような気がするんだ」
 アレックスは言った。
「もっと昔に会った事があるはずなんだ。どっかでちょっとすれ違っただけかもしれないし、何かのイベントで一緒だった事があるかもしれないんだ。……あんたの顔に覚えはないけど、それでも、オレはあんたを『知ってる』んだ。これっておかしなことだと思う?」
 相手は首を横に振った。
「いや、別に。昔のことだから、他の誰かと俺をごっちゃにしたんだろ」
「あんたは、オレに見覚えないの?」
 相手は再び首を横に振った。それを見てアレックスは肩を落とした。
「そっか……ごめん」
「……」
 しばらく沈黙が流れる。アレックスは少し気まずく感じた。相手は何も言わず、遠くを走る犬たちに向かって指笛を吹いた。すると、犬たちが走るのを止めて、一斉にこちらへ向かってきた。同時に、後ろからアレックスを呼ぶ声がするので振り向くと、いつのまにかヨランダが後ろに立っていた。
「あら、お散歩はもうおしまい? じゃ、そろそろ帰りましょ。お茶の時間ですもん。ラズベリーパイ、あなた大好きでしょう?」
 アレックスはまごついたが、アーネストが後ろから背中を押した。「行け」と身振りで言っている。アレックスは大人しくそれに従うことにした。ヨランダに引っ張られながら少し振り返ると、じゃれつく犬たちに囲まれながらアーネストが見送っているのが見えた。

 そよ風が吹いてきて、日が少しだけ西へ傾く頃に、ティータイムが始まる。
「どうしちゃったの?」
 ヨランダは、アレックスの顔を見る。アレックスはティーカップを口から離し、ヨランダを見た。
「どうしちゃったって、どういう意味ですか?」
「元気がないの。あなたらしくないわね。いつもなら、嬉しそうにしているのに」
 ヨランダの言うとおり、ティータイムの菓子が最近の彼の楽しみになっているのだが、今日は違った。目の前にあるパイやスコーンに手をつけず、どこか沈んだ顔で紅茶を飲んでいるだけ。
「ちょっと考え事をしてただけです」
「あら、お菓子を食べられないくらい、とても深刻なもの?」
「いや、そんなたいしたものじゃないですよ。取るに足りないことだと思うんです」
「取るに足りないとは、アタシは思わなくてよ。話してごらんなさいな」
 アレックスは拒否したかったが、ヨランダがしつこく食い下がる事は目に見えているので、紅茶を一口飲んでから、口を開いた。
「昔出会った人に再会すると、会ったおぼえはあるけど肝心の顔や名前を忘れてしまっていて、最初は誰だかわからない事ありますよね。名乗ってもらったりして思い出すっていう……」
「ええ、あるわ」
「オレが悩んでるのはそれなんです。ひょっとしたらオレの記憶違いかもしれない、本人は違うって否定するし。でも、覚えがあるんです!」
 乱暴にティーカップを受け皿に置いたが、さいわいヒビは入らなかった。
「オレはあいつを『知って』るんです。いつ会ったかわからないけど、確かに会った事があるんです」
「あいつって、誰のこと?」
 彼がその人物の名を小さく告げると、ヨランダは目を丸くした。
「どこで会ったか、いつ会ったかわからない。でも、オレはあいつを『知って』るんです! さっき否定されてしまったけど――」
「本人が忘れているのかもしれないわ」
 ヨランダは静かに言った。
「あるいは、あなたと本当に会った事があるけれど、あえて知らないふりをしているか、ね」
「知らないふり?」
「何か後ろめたい事があって、あなたに会ったという事実を隠したいのよ」
 ドウブツエンから去る時に見た、アーネストの表情を思い出す。暗い顔。アレックスの知っている無表情とは違っていた。そしてあの、哀しみに満ちた赤い瞳。あの表情は一体……。
「もう一度聞いてみればいいじゃないの。明日いっぱいまで彼らはここに滞在するのだから」
「明日もいる……ホントですか?」
「ええ。明日はあなたに授業を受けてもらうつもりだから」
 その言葉で、アレックスの顔は晴れた。
「あら、急に嬉しそうになったわね。その顔を見るとこっちも嬉しくなるわあ」
 ヨランダは微笑んで、紅茶を飲んだ。
 ようやく菓子に手をつける気になれたので、テーブルの上の焼き菓子に手を伸ばす。スコーンに甘いジャムをつけてほおばり、続いて甘酸っぱい(という味の表現方法を最近覚えた)ラズベリーパイを一切れ食べながら、アレックスは思った。なぜ、アーネストはあんな表情で見送ったのだろうか。あんな、暗くて哀しい顔をして――


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