第5章 part1
空が赤く染まる頃、さまざまな方角から、船や飛行艇が姿を見せた。本日行われる会議に出席するためだ。上陸した者は続々と屋敷に案内され、会議が始まるまで雑談し、食事を取る。そして、時計が夜七時を指すと、会議は始まる。
豪華なシャンデリアの釣り下がる広々とした部屋。長い会議机にはそれぞれ、着席すべき人物の名札がつけられている。出席者は全部で二百人。上院議員代表、下院議員代表、各地の基地の上層部、Aランクハンターで構成される。当然、Aランクハンターたちは、一度も警察や野生動物保護官に捕まった事の無いベテラン揃いだ。グループで活動する者はリーダーが出席する。もちろんこの席にはH・Sもいるが、アーネストはいない。
「では、本年度第七回目の会議を開始する」
会議の主催者は、ヨランダの父・ファゼットであった。同時に、その会議の議長も進行役も、彼であった。今回の議員たちからの議題は、選挙活動時における議員の選挙活動法の一部改正。ハンターたちから出された議題および要望は、滅亡主義者取締り法案改正。各地の基地の上層部から出された議題は野生動物保護官パトロール時間の変更。
「……では、本年度第七回目の会議を終了する」
十時半。会議は、お開きとなった。
会議の参加者たちは椅子から立ち上がり、めいめいの部屋に戻るべく、会議室を出た。が、ファゼットは、去ろうとするH・Sを呼び止めた。
「実は、君に頼みたい事があるのだがね」
四足の獣が追いかけてきた。獣の群れはあっというまに追いつき、跳ね飛ばした。地面に叩きつけられたとき、誰かの背中が目に入る。だいぶ鮮明に見えてきた。赤茶色の背中。そんな服を着ている誰かが、獣の群れの前に立ちはだかった。まるで、守ろうとするかのように。
夢が終わった。
アレックスは、布団の中で目を開けた。寝間着の下で、体の傷がうずいた。起き上がり、壁の時計を見ると、朝五時だった。
「またあの夢か……」
この夢は、ここのところ、毎晩見ている。獣たちに跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられるところまでは一緒だ。だがその先――夢の彼が意識を失う前に見る、誰かの背中。夢を見るたびその姿は徐々にはっきりし始める。赤茶色の服を着た誰か。徐々に姿は鮮明になってくるのに、顔は分からない。背中しか見えていなかったから。
浴室に入り、ぬるめのシャワーを浴びる。体の傷の痛みは少しずつ引いていく。泡のたくさん出るいい香りのするシャンプーで頭をわしわしと洗いながら、アレックスは思った。
(あれは――誰なんだろう。オレを助けてくれた誰か?)
石鹸の泡に包まれている、一生癒えることのないであろう自分の体の大きな傷。アレックスは、忘れていたことを思い出す。病院で意識を取り戻した後、聞かされたのだ。医師は言った。「傷に応急処置がほどこしてあった。それが無ければ君はとうの昔に死んでいた」と。体の傷を手当したのも、夢の中でアレックスを助けた人物だったのだろうか。現実では、叩きつけられたショックですぐ気絶したように思う。だから助けた人物のことなど見ていないはず。ではなぜ夢の中に出てくるのだろうか。もしかすると、現実でも気絶する前にチラリと見たのかもしれない。
(モヤモヤしてたまんないよ。すっきりしたい)
体を拭いて、バスタオルを洗濯籠につっこんだ。
「さて、前回の話の続きでもするか」
朝八時。H・Sは、話を始めた。だが、ここは資料室ではない。《屋敷》から離れたところにある、『畑』と呼ばれている場所。図鑑で見た様々な野菜が並んで植えられている。
「自然保護法が施行される前は、ヒトはさまざまな動物や植物を食料として育てて、食卓にてその命をいただいていたわけだが」
いったん言葉を切る。
「今日は、きわめてショッキングなものを見せてやろうと思っている。たぶん数日は何も喉を通らないくらいの、お前にとってはショッキングなものだ」
わざわざ繰り返している。相手の言葉に、アレックスは身を固くした。
「なに、ショッキングって……」
「見れば分かるとも。が、これは、動植物の命をいただくという事を行う限り、知っておかなければならない大事なことでもある」
畑を通り過ぎる。アレックスは、育っている野菜に目を留めた。キュウリやトマトといった野菜。確かこの野菜は夏に実るんだっけ。野菜の群れを通り過ぎると、昔絵本で見た、『牧場』という広場に出る。ここで牛や豚を飼ってるんだっけ。柵で囲まれた場所に、黒ぶちの牛が放されているのが見える。ミルクを提供してくれる牛だ。三年前のあの事件以来、彼は牛に近い体型の動物に近寄れなくなっていたが、遠くから見ることだけは出来た。そういえば、絞りたての生乳は加熱しないと飲んではいけないそうだが、なぜなのだろう。聞いてみた。
「加熱処理して、生乳の中の細菌を殺しているんだ」
あきれたようにハンターは答えた。
「飼われていても、動物の中には寄生虫や細菌がいるものもある。豚はそのいい例だ。豚の肉は加熱処理しなければ食べられない。肉に火を通すことで寄生虫や細菌を殺し、やっと口に入れられるようになる。ヒトと全く違う種類の動物から移った菌はヒトにとんでもない影響を及ぼすから、それを防ぐために動物に触らなかったり加熱処理をしたりして、人体への感染を防いでいるんだ。まさか、動物は病気にかからないとでも思っていたのか? だとしたらとんだ阿呆だぞ、お前は」
動物も病気にかかる事は知っているが、まさかヒトに伝染するものもあるとは。さすがに阿呆呼ばわりされるのは腹が立ったが、アレックスは何も言わなかった。
牧場の中には入らず、離れたところに建つ金属の小屋の中に入る。小屋のドアを開けると、ぷうんと嫌な臭いが漂ってきて、アレックスの鼻をついた。嗅いだことのある、できれば嗅ぎたくない臭い。さらに奥へ進むと、臭いはさらにきつくなる。前方に何かあるみたいだが、通路が狭いのと、アレックスがH・Sのすぐ後ろにいたのとで、見る事はできない。
「ああ、もうやってしまったのか」
H・Sは残念そうにひとりごちた。が、振り返ったときに見た彼の顔には、冷たい笑いが浮かんでいた。
「では、見せてやろう。本当はもっとグロテスクなものを見せてやりたかったんだがねえ」
アレックスの前髪を乱暴に引っつかみ、前に引っ張り出した。
「!!!!!」
アレックスの目の前には、惨劇が広がっていた。さびを防ぐための処理を施された金属で作られたこの殺風景な部屋。壁のいくつかに茶色っぽいしみが見える。天井付近に何本もの鉄棒が渡され、滑車と鉤爪状の吊り具がついている。そしてその吊り具の先につけられているのは、背中を割られて絶命した豚だった。
強い臭い。さっきから嗅いでいたもの。これは、血の臭いだったのだ。強い臭いが胸をむかつかせる。近くに置かれた台の上。そこには、血の入ったバケツが置いてある。臭いの元はこのバケツだったようだ。
「うえっ……」
こみあげる吐き気にアレックスは顔を背けようとするが、前髪を引っつかまれているため、目をそらすことしかできない。相手の力のほうがずっと強いのだ。
「や、止めろよ……こんなの見れない……ひどい……」
「そうとも。ひどいとも」
ハンターは感情の無い声で言った。
「殺されたこの豚は、ここまで育つまでにたくさんの植物を食べた。その植物たちの命をこの豚が奪ったことについては、ひどいとは思っていないのか? 埋められた豚の死体から微生物が養分を喰らうことについては、ひどいとは思っていないのか? そして、大地に蓄えられた栄養を植物たちが吸い上げていくことについては、ひどいとは思っていないのか?」
「……全部、ひどいよ」
「そうとも。この地球上に生きる全ての生命体は、互いの命を喰らって生き永らえている。最期には皆土に還り、次の世代を育てる糧の一部になる。これは、地球上に生命体が現れたときから繰り返され続けてきた行為。地球の歴史から見れば新参者のヒトがこの行為に『気の毒だ』と異を唱えたところで、ほかの動物たちにそれを強制する事は出来ない。……全ての生命体は互いに依存しあって生きているんだ。ヒトはそれについて目をつぶるかたわら、『気の毒だ』という感情論で片付けようとするんだ。自分たちが間接的に生き物の生命を口にしているとも知らずに」
アレックスをそのまま乱暴に引っ張る。アレックスは半分力が抜けていて、抗えない。前髪を引っ張られながら、見たくも無い豚の死体の前に立たされる。
「なにすんだよお……」
いっそう強い血の臭い。豚の背中の割れ目から、内臓が丸見えだ。見るのも気持ち悪い。死体を見てしまったという嫌悪感がアレックスの体を駆け回った。目をそらせと何かが言う。しかし不思議なことに、彼は豚の死体から目をそらせない。
「手を豚の中に入れてみろ」
一体何を言われたのかと彼が頭の中で考える間も与えられず、H・Sはアレックスの片腕を掴んで、震えているその手を、豚の背中の割れ目の中に触れさせた。さっきまで血の流れていたドロリとした感触が手に伝わり、アレックスは思わず手を引っ込めようとした。
ふと、アレックスは感じた。
あたたかい。
さっきまで、この豚は自分と同じようにその体には温かな血が流れていた。心臓も動いていた。
「……元気だったんだね」
自分の口から言葉が漏れた。息を引き取った豚の体は、自分の体よりも温かかった。先ほどの嫌悪感と吐き気はなくなっていた。その代わり、彼の体を満たしていたのは、さっきまで生きていた豚の命のかけらだった。
《屋敷》に戻ると、ちょうど昼食の時間だった。調理された肉や魚が、きれいに並べられている。
(命を頂くって、こんなに大切なことなんだ……)
アレックスは目の前に並べられた料理に向かって、手を合わせた。この食卓に上るために命を奪われた動植物たちへ、彼は小さく言った。
「いただきます」
昼の講義は、ドウブツエンで行われることになった。ドウブツエンの入り口からすぐ東に広がる、広範囲移動型の草食動物たちを飼っている場所だった。一体ドウブツエンに何をしにいくのかと、セイレンに案内されながら、アレックスは歩いていった。まぶしい太陽が辺りを照りつけ、朝より気温は上がっている。そよ風がその暑さをやわらげてくれる。
到着した場所は、休憩所。キノコの形をした日よけつきテーブルと小さな椅子がいくつか並ぶだけの簡単なつくりになっている。
「こちらでお待ちくださいませ」
メイドは去った。アレックスは椅子に座って足をぶらぶらさせながら、周りを見た。近くに柵があり、広範囲を囲んでいる。その向こうに何かの動物が群れを成して走っているのが見えた。立ち上がり、柵に寄り、目を凝らすと、それはバッファローのようだった。
背筋がぞっとして、体の傷がチクチク痛み出した。あのバッファローたちがこちらへ走ってくるのではないかという考えが頭をよぎった。バッファローの群れが向きを変えて、こちらへ向かってきた。向かってきたバッファローの群れは柵をぶち破り、そのままこちらを跳ね飛ばして踏みつけ、そして――
「……い、おい!」
乱暴に揺さぶられたアレックスは、ハッと我に返った。目の前に、アーネストがいる。彼はアレックスの両肩を掴んで、揺さぶっていたのだ。
「なに一人で震えてんだよ。何もいないだろう……」
呆れた声を上げるアーネストに、アレックスは思わずしがみついた。が、再び我に返って、すぐ離れた。
「あ、ご、ごめん……」
「いや」
アレックスはなぜ相手にしがみついたのか、自分の行動を不思議に思った。あの幻を見て怖くなり、誰かにしがみついて助けを求めたかったのだろうか。自分の手と相手の顔を見比べる。また昨日のような視線がアレックスを見返したので、慌ててアレックスは話をした。
「なんであんたがここにいるのさ」
「昼の講義は俺がやれってよ」
アーネストは不満そうな顔を隠しもせず、言った。アレックスはその言葉で目を丸くした。
「何であんたがやるの?」
「知るか。あいつは用があるから後から来るんだと」
「そうなの……」
しばらく、辺りは静かになった。聞こえてくるのは、鳥の鳴き声と、そよ風が草を撫でる音だけ。アーネストは何も言わない。講義を押し付けられたものの、何をしたらいいのか分からないのだろう。互いに何も言わないまま、時間が流れた。アーネストは気まずそうだったが、アレックスは自分の手を見つめていたので、気まずさなど感じていなかった。考えていたのだ。
さっきアーネストに反射的にしがみついた。すぐ離してしまったが、相手の体に抱きついたときの感触は手の中に残っている。触れたことのある、懐かしさ。そして、うずきのとまらない体の傷。遠くで牛の鳴き声が聞こえたが、気にも留めなかった。
「……オレさ」
アレックスは口を開いた。アーネストは彼に目を向けた。
「三年前、自然保護区のイベントに家族で行った事があるんだ。普段は野生動物保護官だけしか触れられない動物たちに触れ合うイベントでさ、乗馬体験とかあって、とても楽しかった。でも――」
言葉を切る。体の傷が急に痛みを増したのだ。
「夕方ぐらいになって、F区のバッファローの群れが突然暴走したんだ。逃げてるうちに両親とはぐれて、他に来ていた人たちと一緒に、バッファローに跳ね飛ばされて地面に叩きつけられた。そこまでは憶えてるんだ。気がついたら病院にいて、親は死んだって告げられた……」
胸が締め付けられるように痛み出した。同時に傷の痛みもひどくなり始めた。歯を噛み締めなければ耐えられないほどの痛みだ。これほど痛み出したことなど、入院時しかなかったはずなのに……。だがアレックスは痛みをこらえつつも、なぜハンター相手にこんな昔話をしているのか、不思議に思っていた。
「オレは重傷だったけど、命は取り留めた。病院の医者は言ってたんだ、『応急処置されていなかったら、とうの昔に死んでいた』って。バッファローに跳ね飛ばされた後、誰かがオレを手当てしてくれたんだ。でなきゃ、オレは病院に担ぎ込まれる前に死んでた……」
膝の上で両のこぶしを握り締め、歯をきつく噛み締めて、アレックスは痛みをこらえた。汗が額に浮かんできた。どこかに痛み止めの薬は無いだろうか。早く痛みが治まらないだろうか。
「あんた、知ってる? オレを手当てしてくれた人を……」
アーネストはしばらくアレックスの顔を見つめていた。汗の浮かんだ、痛みを懸命にこらえつつもそれを努めて顔に出すまいとしている苦しげな表情。
「お前を助けようとした《奴》の事は知ってるが、《そいつ》は、もう死んだ……」
「えっ」
しばらく無言でいた後、アーネストは口を開いた。
「……瀕死のお前を助けようとする奴が、何か取引を持ちかけてきたら、どうする?」
「と、取引?」
「助ける代わりに、何かしろという取引を持ちかけられたら、どうする?」
「……たぶん、内容にもよると思うけど、応じると思う」
「助ける代わりに、ハンターになれと、言われたら?」
アレックスの体がこわばった。
「そんなの、応じられない!」
「そうか……」
アーネストは、小さく呟いた。その顔には哀しげな笑いが浮かんでいる。なぜあんな顔をするのか、アレックスは分からなかった。
草を踏む音が聞こえる。見ると、H・Sが歩いてきていた。遠くから、牛の鳴き声が響いてきた。
「何だ、お邪魔か?」
アーネストは睨みつけたが、相手は全く意にも介していない様子。
「依頼主と少々話をしなければならなかったのでな、それで――」
言葉が止まり、アーネストを見た目が大きく見開かれた。アーネストはすぐ後ろを振り返り、アレックスもそれに倣う。
地が揺れる。
およそ十頭のバッファローたちが、怒り狂って、こちらへ走ってきていた。
「逃げろ!」
言われるまでもない。だがアレックスはバッファローを見つめたまま、動けなかった。
フラッシュバック。
怒り狂ったバッファローの群れが、次々と人を跳ね飛ばす。耳を劈く人の悲鳴とバッファローの鳴き声。
そして現実のバッファローたちが、金属の柵をぶち破った!
現実に引き戻されたアレックスは、バッファローに跳ねられる直前、誰かに突き飛ばされた。
草地に倒れこむ彼が見たのは、アーネストの姿だった。
「!!!!!!!!」
最初のバッファローの蹄に踏まれそうになったアーネストは、アレックスを突き飛ばした後、すんでのところでバッファローの進路から外れた。H・Sは、どこからか取り出した、不思議なにおいのする薬物を風に乗せてまく。すると、たちまちバッファローたちが大人しくなって、その場に倒れこんだ。
「即席麻酔が効いたな。助かった……」
一方、アーネストは、倒れたアレックスを抱き上げ、命に別状が無いことを確かめてから、H・Sを見る。その時アレックスに背を向ける姿勢となった。
「おい――」
ハンターの言葉は途切れた。腕の中で顔面蒼白で震えていたアレックスが、意識を失ったのだ。
何もかも思い出した。
三年前、バッファローに跳ねられたアレックスを助けたのは、アーネストだった。アレックスは地面に叩きつけられて意識を失った後、もう一度わずかに意識を取り戻した。その時、アーネストがアレックスに背を向けて様子を見つつ、バッファローの蹄が届かない場所へズルズル引きずりながら避難させようとしていた。
赤茶色の、野生動物保護官の制服を着て。
アレックスが目を覚ましたのは、どのくらい経ったころなのか。目を開けると、自分の体は木陰に横たえられ、彼の顔を二つの顔が覗きこんでいるのが分かった。はるか向こうにいる動物たちの鳴き声が聞こえてくる。おびえた声ばかりだ。
「大丈夫か?」
アーネストが問うた。アレックスは震えながら、うなずいた。そして、震えた声で言った。
「思い出した……」
じっと相手の赤い瞳を見た。
「思い出した、全部。あんたが、あんたがオレを助けてくれた! 三年前のあの事件のときに!」
アレックスは興奮のあまり腹筋だけで起き上がり、アーネストの胸倉を引っつかんでいた。
「どうして、どうして言ってくれなかったんだよ! どうして隠してたんだよお……」
「よせ!」
H・Sがアレックスを無理に引き離す。だがアレックスが相手の服を掴んだままだったので、引っ張られて前がはだけた。素肌が見えて、アレックスは目を見張った。筋骨隆々とたくましいアーネストの体には、大きな裂き傷がついていたのだ。まるで、バッファローに跳ねられて出来たアレックスの体の傷のようだった。
「その傷……」
アーネストは、目を丸くしているアレックスの手を振りほどいた。手を払われてアレックスは一瞬体を固くした。アーネストは何も言わずに立ち上がって、そのまま駆け足で去っていった。
「何で……」
「それ以上踏み込もうとするな」
H・Sは冷たく言った。アレックスはしかしながら、何も頭の中で整理できないまま、アーネストの背中を見送っているだけだった。
三十分後、アレックスは医務室にいた。
「大丈夫だったの、アレックス?! バッファローに襲われたんですって?!」
ヨランダが慌てた様子で駆け込んできた。今まで何か用事があったのか、いつもと着ている服が違う。アレックスは、半ば青ざめた顔のまま、大丈夫と答えた。彼のかかりつけの医者はヨランダに、怪我はなく、ショックを受けただけだからしばらく安静にしていれば大丈夫と説明した。
「ほっ、怪我が無くてよかったわあ」
医者は席をはずした。ヨランダは、寝台に座ったアレックスに抱きついた。
「本当に無事でよかったわあ、アタシの可愛い子」
いつもなら顔を赤らめて身を引こうとするアレックスだが、今の彼は青ざめたまま、反応はあまり見せない。色々な事が頭の中で回り続けていたからだ。三年前のバッファロー暴走事件で瀕死のアレックスを助けたのはアーネストだった。その時の彼は野生動物保護官の制服を着ていた。だが今はハンターとしてアレックスの前にいる。一体どうして、隊員であったはずの彼がハンターとなったのだろう。彼はH・Sのスパイだったのか? それとも基地を抜けて自らハンターとなったのか?
(一体……どうして?)
「アレックス様、お食事の時間でございます」
メイドが部屋に入ってきた。アレックスはベッドに座ったまま、今はほしくないと答えた。
「廊下においといて。後で食べるよ……」
「さようですか」
セイレンは素直に従い、食事の乗ったワゴンを廊下において、去った。テーブルの上に、ポットとカップだけを置いて。
暮れていく夕日が、地平線の向こうへ消える。しばらくして訪れる宵闇。アレックスはベッドに座ったままで、窓の外を見つめていた。午後に起こった出来事が、繰り返し頭の中を駆け巡る。突然襲ってきたバッファロー、助けてくれたアーネスト、そしてあの体の傷。自分の体の傷から、少し痛みが出てきた。頭の中を駆け巡る出来事は、何一つまとまってくれないままであった。
夜九時を過ぎた頃、やっとアレックスは廊下の夕食を室内に持ってきた。ふたを閉めてあったとはいえ、調理されてから何時間も経っているのだから料理は冷めていた。美味さは半減していたが、ポットに入っていたミルクで無理やり胃袋に流し込んだ。食後に食器を廊下のワゴンに乗せ、彼はまたベッドに座り込み、パタンと柔らかな羽根布団の上に寝転がった。空っぽの胃袋に食べ物を詰め込んだことで、少し落ち着けた。
昼間の会話を思い出す。ドウブツエンで、バッファローに襲われる前に交わした会話。アーネストは何と言っていただろうか。瀕死のときの取引についてしゃべっていたことを思い出す。
『……瀕死のお前を助けようとする奴が、何か取引を持ちかけてきたら、どうする?』
『助ける代わりに、何かしろという取引を持ちかけられたら、どうする?』
『助ける代わりに、ハンターになれと、言われたら?』
ふと、アレックスはがばっと起き上がった。
アーネストの体の傷。ドウブツエンの会話。アレックスの記憶の中に浮かんだ、野生動物保護官の制服を着たアーネスト。急に何もかもがピッタリと、パズルピースのごとく、あるべき場所に収まったのだ。
アーネストは元隊員だった。バッファロー暴走事件のとき、アレックスを助けた。そしてアーネスト自身も傷を負い、助ける代わりにハンターになれと取引を持ちかけられて――
「確かめなくちゃ!」
アレックスは、ベッド脇のナイトテーブルに置かれた銀のベルを取った。振ると、チリンチリンと心地よい音色を立てて、ベルは鳴り響いた。
「なぜバッファローは暴走したのかしら」
ヨランダは不思議そうな顔をして、向かいの椅子に座っているハンターを見つめる。
「さあ。私にもわからん」
H・Sは首を振って、まるで水でも飲むかのようにジンをぐいと飲み干した。
「バッファローを怒らせる何かが、近くにあったとしか思えない。それに、金属の柵がたやすくぶち破られた。調査の結果、その柵はだいぶ錆びていたそうで、腐食も少し起こっていたらしい。あまり人の来ないスペースだから手入れに気を抜いた奴がいたんだろう」
「あら、そんなにひどかったの。バッファローの方へは行った事があまり無いわねえ、そういえば。手を抜いてもおかしくはないかも」
ヨランダは片手で優雅に髪をかきあげ、もう片方の手にリキュールの入ったグラスを持つ。
「とにかく、あの子に怪我が無くてよかった。明日は《動物園》の柵と檻を全て取り替えさせなくてはね。ところで、あなたの相方の様子は? 真っ青だったそうだけど」
「ほっておけばいい。明日には立ち直る」
「あら、冷たいのね」
それから三十分ほど雑談をしてから、H・Sは彼女の部屋から出る。薄暗い廊下を独りで歩いていくH・Sの青い瞳に、妙に冷たい笑いが一瞬だけ浮かんだ。
格納庫に着くと、後ろから人の気配。振り向くと、アレックス付きのメイドが、少し離れたところに立っている。
「アレックス様が、あなた様にお会いしたいとの事です」
ハンターは、いぶかしげに目を細めて、メイドの後についていった。
part2へ行く■書斎へもどる