第6章 part1
選挙活動が行われ始めた。町の掲示板には質の悪い紙で作られたポスターが貼られ、町行く人々の間に立って、候補者が演説を始める。環境税ダウン、栄養剤の味の改善、滅亡主義者取り締まり法案の改正などなど。いつの時代も耳慣れた言葉が市民の耳に入る。演説に出てくる単語のいくつかを変えただけで、自然保護法が施行される前から耳にするであろう言葉だらけになる。治安、安全回復、税金ダウン、などなど。着ている赤い服が町中いたるところで目に入る。そして演説もいたるところで耳にする。これが、九月一日の、総選挙の日まで毎日続くのである。
議会に、候補者とその親類から、プレゼントや招待券が届く。現金は一切届かない代わりに贈り物の中身は金細工や豪華な縫い取りをした服など、招待券は鮮魚食べ放題や(もちろん、一般市民は決して招待券を手にする事ができない)、自然保護法で禁じられた鷹狩りへの招待といったもの。本来、自然保護法は選挙法については何も定めていないが、施行後に過去の選挙法が改正されて自然保護法の一部に組み込まれてしまっている。現在の選挙法によれば、現金を送る事は禁止されているが、贈り物を禁止してはいないのだ。そのため、こぞって候補者は議会へのプレゼントに精を出す。送ったものが気に入ってもらえれば、市民が投票した結果がどうであれ、その候補者は下院議員あるいは上院議員へのぼる事が出来る。もちろん、議員の地位に一度納まれば、よほどの失態が無い限り、半永久的にその地位につく事が出来るのだ。こんなおいしい地位を手放したい者など一人もいない、なんとしても手に入れたがる。年に一度の選挙、一般人が見えない場所で、候補者たちは激しい争いを繰り広げるのである。
「また呼び出しか。依頼がたてこんでいるときに」
H・Sは、ヨランダから届いた通信文を見て、ぼやいた。右頬に、ほとんど治ってきた青いあざがある。
「C区の標的を一気に捕獲する。今日中に出発しないと間に合わん」
依頼を受けてから依頼主の元へ標的を届けるまで、わずか二時間。H・Sの仕事の速さも、彼がAランクに認定される理由のひとつ。依頼が全部終わると、すぐに北へ向けて進路をとった。
後日、アレックスはH・Sの右頬にまだ残るあざを見て、目を丸くした。
「歯を二本折られただけだ」
アレックスが問う前に機嫌の悪い声で制してから、H・Sは咳払いした。
「では、今回の話題に入る前に、お前がどれだけお勉強したのかを確認させてもらおう」
しばらく第一次産業に関する質疑応答が行われた。この二ヶ月間、アレックスは資料室の本を読み漁っていたので、H・Sの問いにスラスラ答える事が出来た。
「ふむ。第一次産業の歴史は、頭に入っているようだな。それなら話は早い。いちから説明するのは面倒だからな」
もちろん第一次産業とは、農業、畜産業、漁業といった古来から続けられてきた産業。当然、自然保護法によって全て禁じられている。
「自然保護法が施行された後、全ての第一次産業は禁じられた。が、法律撤回を求めるデモが農家や漁師たちから起きた事は一度も無かった。なぜだと思う?」
「うーん。弾圧された?」
「いや」
「うーん。じゃあ、他の仕事をさせるために雇われた?」
「半分正解。彼らは職を変えることなく、雇われている。お前も以前見ただろうが、この屋敷にも畑がある。デモが起きなかったのはそのせいだ。新しい雇い主が現れ、彼らを雇った。それだけの事」
「……この《屋敷》の畑は知ってる。でも、法律施行前の産業データを見たけど、あれだけたくさんの農家なんて、この《屋敷》で養えないじゃん」
「彼らを雇っているのは、この屋敷の者だけではない。基地の上層部、上院議員、下院議員、つまり、議員の居住区に住む者全てが、それぞれ雇っているのだ」
「でも、どうして議員たちが?」
「決まっているだろう。議員専用の居住区に存在する、残された自然の恵みを、独り占めするためだ」
アレックスは思わず椅子から立ち上がった。ガタンとデスクが揺れて、積まれた本がわずかに動いた。
「ひ、独り占め?!」
「自然保護法の草案の段階から、居住区の分割は既に法律の中に盛り込まれていた。農家のデモをおさえ、尚且つ自分たちが良い暮らしが出来るようにな」
「何で誰も異議を唱えなかったんだよ! そんな不公平なことが許されるわけが――」
「環境保護、と言えば誰でも黙るさ。印籠だからな、その言葉は。それに、当時の全世界の人口をあれっぽちの農作物で養うことは到底不可能だった。もし全ての人間の腹を満たすのであれば当時の全世界の人口を八〇パーセントも減らさなければならない。環境破壊はそれほど進んでいた。それを形の上で若干食い止めたのが、自然保護法だ。自然保護法を作った者たちは、下は基地の隊長クラス、上は議会の議員のポストについている。そして彼らは自分たちがさも質素な生活を送っているように見せかけ、実際は自然の恵みを欲しいだけ口にしているというわけだ。連中の体つきが一般人と違うことに気づいた事はないのか?」
気がつかなかった。警備隊隊長や長官はいつも厚手の制服を着ていたものだから。服で体つきをごまかしていたのだろうか。
「どれだけ鈍いんだお前は。とにかく、自然保護法の草案を作った環境保護団体の者たちは、農家や漁師を自らの元で雇うことによってデモを回避し、尚且つ残された自然の恵みを自分たちで独り占めしているわけだ。もちろん一般市民には決して知らされてはいない。階級が違うから居住区も違うように見せかけているだけ。実際には最初から独り占めするために法律を作り、多額の金と圧力で当時の政府に自然保護法を強引に制定させ、環境保護という名目で全世界にその法律をおしつけていった。環境破壊がそれほど深刻になっていた事とそれでもこれまでどおりの暮らしを望む者がいた事、そして失業した農家のデモを抑える事で、第一次産業は廃れずにすんだ」
「環境保護団体が、自然破壊産業の象徴といわれた農家を雇うなんて……」
「それが実態。下々の者は自分たちが環境保護のために立派な活動をしていると思い込んでいるが、実際は上の者が甘い汁を吸うために、動かされているに過ぎない。これは自然保護法が作られる前からもあったことだが、今回は環境保護団体が異常に力を持ってしまったせいで、団体が政治を支配するようになった」
アレックスが何か言おうと口を開きかけるが、相手は制した。
「何の根拠も無いのに話しているのではない。この世界にいると、いろいろ見えてくるものだ。私なりの方法でデータ収集もして裏づけを取っているし、これはAランクのハンターならば全て知っていること。知らないのは、全く情報を与えられない一般人くらいなものだ。その点、お前は幸運だな。こんなによく知っている家庭教師がついて手取り足取り教えているんだからな」
アレックスはしばらく黙っていた。言おうと思ったことを先取りされるのだから。
「もちろん滅びつつあった自然を保護する事は重要だ。かつて川や海に工場からの廃棄物を垂れ流した結果、その川や海に住む魚を食べた人たちは廃棄物を摂取してしまい、体に異常をきたした。公害というやつだな。薬品の不法投棄で汚染された土壌で作られた有機作物を口にしても、同じ事が起きた。排除したつもりでも、結局はめぐりめぐってヒトに返ってくる。それを防ぐために、環境保護が本格的に叫ばれるようになった」
「いいことじゃないか。利己的と言えなくもないけど」
「そういうものだ。自分たちが後に汚染で苦しみたくないからな。だが、善意で始まる運動でも、活動のためには資金が必要になる。植える苗木も間伐する機械も土壌成分調査用の機械も、タダでは手に入らないからな。そうなると――」
H・Sは立ち上がり、奥の棚から何冊か本を引っ張り出してきた。
「活動団体はスポンサーを必要とするわけだな。自分たちの活動に同意してくれるような、そしてスポンサーにとっても自分たちの利益になるような……」
「無条件で金を出してくれるわけじゃないのか」
「当たり前だ。当時の団体のスポンサーは企業が主だ。企業がスポンサーとなる場合、企業としては社の利益、まあ簡単に言えば儲けだな、そいつにつながるかどうかで、団体に協力するかどうかを、決める。金を湯水のごとく支払っても会社の利益にならず、結果赤字になって倒産してしまうかもしれないからな」
H・Sがよこした本を開くと、企業のリストがずらりと掲載されている。いくつかは、衣類、栄養剤製造、など等、一般人でも知っているものがある。他は知らないものばかりだが、これだけたくさんの企業が協力したのだろうか。
「もちろん最初はポツポツとだろうな。だが、当時の汚染度データとあわせると、スポンサーがあっというまに増えていったのがわかる。理由は単純、環境保護関連のグッズを作って売る事で企業側も儲けられるし、団体は資金を継続して貰う事が出来るから」
次によこした本には、自然保護法が施行される一年前までの約百年分のデータが載っている。アレックスが学校時代に教科書で見たものと一緒の折れ線グラフだ。汚染度の折れ線グラフは小さく上昇と下降を繰り返したが、年代が今に近づくにつれ上昇は続いたが下降はほとんど見えなくなった。汚染度がどんどん増していったのだ。
「それだけ環境汚染は深刻だったわけだ。今では、地質調査の結果、廃棄物の不法投棄や工場排水垂れ流しなどによる汚染度は三十パーセント減り、農作物や肉や魚を摂取しても人体への影響は無い状態になった。といっても、全世界の人口を満腹させるにはまだまだ足りないが……。人間の数も自然保護法草案前より四〇パーセント減っているんだがね」
「なぜそんなに減ったんだ? 戦争でもあったのか?」
「原因のひとつは、栄養剤の摂取による第二次性長期の大幅な遅れ。栄養が足らず子供を作れる体になるまでの成長が遅れ、なおかつ生殖能力が大幅に減退したせいで受精の確率が極端に低くなった。次は、現政府が徹底的に情報統制を続けている政策のため。その政策は自然保護法が草案の段階であった頃に大々的に行われたもので、自然保護法が世界中で施行された直後にも秘密裏に行われたもの――」
ハンターは一呼吸おいて、答えた。
「年齢六十五歳以上の老人全ての処刑。いわゆる口減らしというやつだ」
「ま! またひどい事教えちゃって。お父様ったら一体何を考えて……」
ヨランダは、カラスの濡れ羽色のようなアレックスの黒髪を撫でながら、呟いた。アレックスは青ざめている。H・Sは、アレックスが何もしゃべらなくなると、いったん講義を中止にしてしまったのだった。これ以上は何を言っても頭に入らないと考えたのだろう。
「あれって嘘ですよね! 政府が、あんな酷い事をしたなんて嘘ですよね!」
アレックスはヨランダに詰め寄る。危うく相手の服を掴みそうになるが、わずかに残った理性が体を押さえた。ヨランダはそっとアレックスの体に触れて相手を押し戻し、言った。
「残念だけど、それは本当なの。今でも政府はその事を外に漏らさないようにしているわ。表向きは、老人たちは当時の政府が作った老人ホームに入所したことになっている。もちろんそれは嘘。当時の人口を研究中の栄養剤で養うには、若年層よりも遥かに数が多くなっていた老人を死なせるしかなかったのよ。そして、あの政策は栄養剤の人体実験もかねていたのよ。老人達に栄養剤を食べさせてデータを取り、改良していくの。味はどうにもならなかったようだけどね」
ヨランダは、アレックスをぬいぐるみのように抱きしめた。不思議な香りの香水が、アレックスの高ぶった気持ちをしずめてくれる。
「かわいそうな子……。こんなに傷ついてしまって。本当にかわいそう……」
ヨランダはアレックスの頭を撫でた。
昼食後、セイレンに頼んで、ドウブツエンに連れて行ってもらった。講義は明日に延ばされることになったからだ。
「いってらっしゃいませ。後ほどお迎えに参ります」
セイレンは、ドウブツエンの入り口からアレックスを見送って、《屋敷》へ戻っていった。アレックスは乗り物には乗らず、歩いていった。気分転換をしたかったから。午前の講義は、彼の頭の中が爆弾でドカンと吹き飛ばされたような感じだった。
動物たちが、暑い日差しの中、寝ていたり動き回っていたり。近くに寄りたかったが、柵があるのと距離が離れているので、遠くから眺めるしかない。柵と檻がいつのまにか新しいものに取り替えられている。動物特有のニオイが風に乗って漂ってくる。アレックスにとっては懐かしいものだ。《屋敷》にこもってほこりっぽい本ばかり読んでいるのだから、動物のニオイは心地よいものだった。そのまましばらく歩いていくと、ふれあい広場にたどり着く。中に入ると、猫たちのほとんどは寝ていて、起きているのは毛づくろいやじゃれあいの真っ最中。こっちのことは構ってくれそうにない。仕切りをあけて犬のほうへ行くと、空っぽ。散歩に出ているらしい。奥の出口を開けて外へ出ると、犬の鳴き声が聞こえてきた。散歩させているのだ。見回すと、離れたところに見慣れた後ろ姿。
「アーネスト!」
アレックスが駆け寄ると、振り向いたアーネストは少し後ろへ下がった。近づいて欲しくないかのように。が、アレックスは大またで更に距離を詰めた。無口なハンターは、また後ろに下がった。アレックスは詰め寄って、相手のごつい手を掴んだ。
「逃げること無いのに。オレが嫌いなの?」
「いや……」
「そうなの、よかった」
アレックスはほっと息を吐いた。
「オレ、あんたにお礼言いたかったんだ。三年前、助けてくれて本当に、その――」
礼は言ったつもりだが、だんだん自分の声が小さくなるのに気づいていない。言い終えたときには、自分の言葉は誰にも聞こえていない。が、アーネストは何も言わなかった。
「あのさ、アーネスト」
しばらく黙っていたが、アレックスはやっと口を開いた。顔が赤くなっている。
「別にオレ、あんたのこと恨んだりとかしてないから。本当に感謝してるんだ。だって――」
「言ったろ、お前を助けたのは《俺》じゃない」
「でも……」
アレックスは言いかけたが、すぐ口を閉じた。触れて欲しくないことだと、わかったから。
「うん。わかったよ」
しばらく沈黙が流れる。風に乗って、犬たちの鳴き声が聞こえてくる。少し気まずくなったアレックスは、この少し重い空気を紛らすために、思い切って問うた。
「あんた、H・Sのこと、どれだけ知ってる?」
ずっと知りたかったことだった。ヨランダの父ファゼットは知らないと言った。ならば一緒にいるアーネストなら何か知っているかもしれない。
「何でもいい。教えて欲しいんだ。何で知りたいか、なんて聞かないでよ。ただ知りたいだけなんだから」
アーネストは明らかに渋っている。が、アレックスは引き下がらない。好奇心が彼を突き動かしている。これまで散々ショックを受けてきたのだ、いまさらひとつふたつショックのタネが増えても構わない。やがて、見つめるアレックスにとうとう折れたらしく、アーネストはやっと口を開いた。
「悪いが、奴について知っている事は、ほとんどない」
「でも『全然知らない』のと『ほとんど知らない』のは違うことじゃん。何でもいい、話して欲しい」
「俺が知ってるのは、奴が全く人を信用しないこと、交わした契約には必ず従うこと、契約違反の相手には手痛い仕返しをするってことぐらいだ」
「人を信じないの?」
「あいつが信じるのは、契約だけだ。契約は嘘をつかないしな」
「じゃあ、あんたのことも信用してないの」
「ああ。あいつが信用しているのは、俺と結んだ契約だけ。俺が奴との契約を守る限り、あいつも俺を基地の追っ手から守る。逆に俺が契約を破ったら、あいつは俺を基地へ突き出す。……他の契約相手だってそうだ。契約違反の取引相手はみんな、奴が基地へ流した取引の情報によって、逮捕されちまった」
「……どうして、人を信じないの」
「知るか、そんなこと。ただ、他のAランクハンターだけは例外だけどな。Bランク以下の連中は互いに隙あらばライバルを蹴落とそうとしてるってのに」
「そうなの」
「……見てりゃ、わかってくるもんだ。伊達にハンターの世界で生きてるわけじゃない」
自嘲をこめて、アーネストは笑った。そして、話を変える。
「……お前、手配書に載ってるAランクの連中の顔は知ってるだろ」
「うん」
「奴が漏らしたことなんだが、Aランクの連中は全員、この《屋敷》で教育されたんだとさ」
屋敷の一室。
ファゼットは、上等のスーツに身を包んで、テーブルのめいめいの席に座っている者を見渡す。全て手配書の常連、Aランクハンターたちだった。
「こうして、会議以外で、皆だけで集まるのも一年ぶり。一度も捕まらずにすんでいて、わたしゃ嬉しいぞ」
ファゼットは笑った。
「ところで、H・Sよ。あの少年の教育は順調に進んでいるかな?」
「もちろん」
H・Sは答えた。解せぬと言いたそうな表情ではあったが。
「さすがに今回の話はショックが大きすぎたようですが……」
「ま、信じてきたものに裏切られたのだから、ショックは大きくて当たり前だな」
それからファゼットは、ハンターたちに言った。
「知っての通り、自然保護警備隊の隊員たちのパトロール時間は短縮された。続いて、滅亡主義者の取り締まり強化として各地警察と基地との連携強化が行われた。連中も一般市民の中に紛れ込んで着々と数を増やしているとのことだ」
「ゲリラですな。紛れ込んでしまうと、おれらでも区別がつかん」
「さよう。それゆえ、月に一度、全市民の住居を抜き打ち検査し、滅亡主義者の隠れ家を徹底的にあぶりだすことに決まったのだ」
「市民が、反・滅亡主義者というファシズムに染まり過ぎないようにしていただけないかしらねえ。暴動が起こると、アタイらが何らかの形で影響を受けざるを得ないんですからね」
「そうだな。その辺りは加減するとしようか。では、次に、今年一年の成績報告書を」
手渡された上質の紙による資料を、ファゼットは読んだ。
「ふむ。皆そろってすばらしい。去年の成績を五パーセントも上回っておるな。さすが、わたしの自慢の《子供》たちだ。来年もこの調子でがんばってくれたまえ」
ハンターたちは、一礼した。
その後、Aランクハンターたちは部屋を出てそれぞれ、用意された部屋へ戻ったが、H・Sだけは残っていた。ファゼットは、H・Sから渡されたたくさんの写真を見る。いずれも、アレックスが写っている物ばかりだ。そして、H・Sが密かにまとめた報告書を見る。それは講義中のアレックスについて書かれた物だ。H・Sがアレックスとじかに話をするのは講義の時だけなのだから。さらにもう一枚。それは、アレックスの経歴をまとめた、野生動物保護官としてのデータが載った紙。
「教育は確かに順調です。あれは飲み込みが早いし、好奇心も旺盛で自ら知識を求めたがるので、こちらがあまり話さずとも向こうで勝手に本を読み漁って知識を吸収している。逆に好奇心が強すぎて、知らなくてもいい事まで首を突っ込み、事実を知ってよく落ち込んでいるようです」
「それは良いこと。だが何故、そんな顔をするのかね」
「……解せないのですよ。なぜあなたは、政治の裏側に至るまで教えたがるのです? あれに必要以上の知識をつけたところで、あなたが得することなどありはしない。あれは所詮部外者です」
「そう。部外者だから、わたしは彼を気に入ったのだよ。養子に迎えても惜しくはない。娘は、ただの退屈しのぎの遊び相手としてしか彼を見ていないようだが」
ファゼットは、写真の一枚を取り上げる。《動物園》で、アレックスがアーネストと話をしている場面が写っていた。
「十年くらい前に出会っていればよかったのだがね。きちんと教育して訓練すれば、あの少年は今頃立派なスパイになっていた。君らがハンターとして活動しているのと同様にな」
「あれが、スパイ?!」
「そうとも。彼は知識を貪欲なまでに吸収したがるだけではない。さらに、部外者だからこそ、一般市民の日常生活に無理なく溶け込む事が出来るのだよ。少なくとも一般市民の中へ放り込むためのスパイとしてはうってつけではないかね?」
「……」
「しかしあの少年は成長しすぎた。スパイとして教育するには遅すぎる。だが、使い道はまだあるとも。わたしが君に、物事の細部まで教えて欲しいと頼んだのは、彼のその使い道のためだ」
ファゼットは別の写真を取り上げた。二ヶ月前の写真。アレックスが基地の冷凍室から救出され、《屋敷》の部屋へ戻されたときのものだ。手当てされ、ベッドの中で睡眠薬によって眠っているアレックスが写真に写っている。
「使い道、ですか?」
「そうとも。とても重要な使い道があるのだ。わかるかね?」
笑うファゼットに、H・Sは首を横に振り、呟くように言った。
「あなたの考える事は、未だに全く分かりませんね。義父さん」
《動物園》で雑談をしていたところへ、アレックス付きのメイドが迎えに来た。アレックスは名残惜しそうに「また今度話を聞かせて」と言って別れを告げ、メイドと共に《屋敷》へ戻っていった。
指笛を吹いて犬たちを呼び戻し、アーネストは犬たちをふれあい広場へ入れた。そして自分も、飛行艇の修理と整備をすべく、《屋敷》へ戻る。戻る道中、アーネストは思った。
(あいつ、自分が飼われていることに気づいてるんだな。いい暮らしはさせてもらっていても、この《屋敷》から外へ出られないから、外の世界の情報を集めたがる。ま、俺のしてやれる話なんぞ、たかがしれてるけどな。それにしても、あいつの立ち直りは、早かったのか遅かったのか。いずれにせよ、ショックはでかかったろうなあ)
あの事実を知った後、アレックスがしばらくショック状態から立ち直れなかったのは想像に難くない。自分も同じなのだ、バッファロー暴走事件の濡れ衣を着せられたということを知ったあの瞬間、そして自然保護法に支配された世界の裏側を知ったあの瞬間。一生忘れないだろう、信じてきた世界がことごとく破壊されてしまうあの瞬間を。
(まあ、あいつの口から全部聞かされたなら、仕方ない。あいつは何でもかんでもズケズケ言うからなあ。ぶちのめしてやって正解だったな。俺もストレス解消できたしな)
アーネストは、歯が折れるまでH・Sを殴った右のこぶしをぐっと固めた。その顔に、達成感にも似た笑いが浮かんだのは、気のせいではあるまい。
アレックスが、自室で資料室の本を読みながらティータイムをひとりで過ごしている時。
「どうだね、ヨランダ。お前も弟が欲しくはないか?」
アレックスのそれとは比べ物にならないほど豪華絢爛の家具が置かれた自室にて、ファゼットは娘のヨランダに言った。ヨランダは、豪華な模様のティーカップを持ったまま、首を傾げた。
「どうなさったの、お父様。いきなりそんな……。あら、弟って、あの子のこと?」
「そう。お前の可愛がっているあの少年のことだ。わたしはあの子を養子に迎えても良いと思っているんだよ。気に入った」
「あらダメよ。あの子は、アタシの可愛いお人形なんだから。それに、弟が欲しいと思った事はないわ」
「そうか。残念だな」
ファゼットは残念そうに首を振った。ヨランダも首を振った。
「お父様、育ててきた《子供》はたくさんいるでしょ? それに、あの子はどんな使い道があるのか、教えてくださらない? あの子に《子供》たちと同じレベルの物事を教えているのだから、お父様はアレックスを何かに使うおつもりなんでしょう?」
「さすがはわが娘だ。実に鋭いなあ」
ファゼットは笑った。そして、淹れたての紅茶を一口飲んだ。
「あの少年、アレックスには、確かに使い道があるのだ。あの少年は、三年前にある議員が起こしたバッファロー暴走事件の生き残りであり、なおかつ彼は野生動物保護官であったときに基地のデータを探っている。基地はそれを知って、彼を消そうとしたのだ」
「ええ」
「アレックスは、報告によると、三年前の事件の詳細を覚えているがなぜ事件が起こったかについては知らなかった。だから、わたしはH・Sに事件の真相を教えさせた。真相を知ったことで随分彼は落ち込み、悩んでいたようだ。だが真実を彼が知ることこそ、わたしにとってはとても重要なのだ」
「どうして?」
「あの少年は、基地に指名手配されて追われている。さらに彼はバッファロー暴走についての真相を知っている。今や、アレックスは重要人物なのだ。基地が彼を手に入れれば、事件の隠蔽は完全なものとなる。彼を消せば秘密が守られるのだからな」
「そうなっては困るわね」
「だがそれがかえって好都合なのだよ。なぜかというと」
ファゼットは言葉を切り、紅茶で喉を潤した。
「アレックスを手中に収めている限りは、基地の者たちに、さらに圧力をかける事が出来るからな。なおかつアレックスが事件の真相を知っていることから、彼が真相を外にばら撒かぬように、彼らは何としても彼を手中に収めようとするだろう。彼は、とても有用な人質なのだよ」
「あら、そのためだけにあの子を養子に迎えようと?」
「いやいや、わたし個人としてもあの少年を気に入ったのだよ。だから、お前と彼が首を縦に振ってくれるなら喜んで養子に迎えたいと思っているのだ。が、お前は反対のようだな。それだけは残念だ」
「たまにはアタシのわがままも聞いていただかないとね。お父様ったら、いつもお仕事でいらっしゃらないんだもの」
ヨランダはくすくす笑った。
「とにかく、彼のいた孤児院に手紙を出すつもりだ。そして、院長ほか職員たちも――」
ファゼットは、手元の金のベルをリンリンと鳴らした。
梨のジャムをつけたスコーンをほおばって紅茶で喉に流し込み、カップに新しく紅茶を注いだアレックスは、本のページの一箇所に目を留めた。
「これは……」
このページは、当時の環境保護団体に資金を提供していた企業の役員と社長、そして当時の環境保護団体の幹部クラスの者たちの写真がある。ページ同様少し紙が茶色くなっているが、写真の色はあまり変化していない。アレックスが目を見張ったのは、その写真に目を通したときだった。
環境保護団体の幹部の写真。
見覚えのある人物。
「隊長! 長官!」
警備隊隊長、警備隊長官。年齢は二十代であったが、写真の人物が現在の基地の上官たちだとすぐわかった。今は年老いていても、その顔に残る面影は隠せない。その目、その顔立ち。そして、その名前。
「なんで、隊長と長官の名前が?」
他の写真は見覚えの無いものばかりだが、名前だけ見ると、聞いた憶えのある者ばかりだ。基地に入隊してから聞いた。何人かは忘れたが、何人かは覚えている。
基地の上層部の名前だ。
「何で、こんなところに名前が載ってるんだ?」
他の写真は見覚えの無いものばかりだが、このページに載せられた写真は当時の環境保護団体の幹部クラスの者たちだと、ページの終わりに説明がついている。
アレックスは爪を噛んだ。頭の中で、野生動物保護官の試験を受けるための受験勉強内容を思い出す。参考書には何と書かれていただろうか。現在の基地の上層部は、自然保護法が施行されてからそれぞれの地位についている。そう書いてあったことは思い出せる。写真つきで、誰がどの地位にいるのかも説明がついていた。アレックスはふと思った。そういえば、なぜ一つの地位にとどまっているのだろう。なぜ、野生動物保護官が上の位に就くことができないのだろう。野生動物保護官は、どれだけ手柄を立てようとも、上の地位へのぼる事は出来ないのだ。逆に、上官たちも同じ地位についているままで、降格も昇格もない。何か理由があるのだろうか。
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