第6章 part2



 各地で選挙活動が開始されてから、半月ほど経過した。赤い服を着た候補者の演説は町中に響き渡っている。候補者たちを取材する新聞社とテレビ局の姿もあちこちに見える。七月の暑い中、各家に作られている生活用水の池の水はボーフラが浮いている。蚊も大量に飛んでくる。市民は蚊にさされるが、あいにく店には蚊を退治するための薬は売っていない。あるのはかゆみ止めだけ。記者はかゆいのを我慢して取材している。取材の中で、滅亡主義者取締りのために月に一度住民たちの家を抜き打ち検査するという内容が話されると、記者たちからの質問がいきなり激しくなった。候補者は質問に答え、あるいは無視して話を続けている。人々は時折立ち止まって話を聞き、あるいは完全に無視している。町のところどころにある掲示板には、各ランクのハンターの写真に混じって、他の犯罪者たちの写真もあるが、それは隅に追いやられており、ほとんど忘れられた存在になっている。もちろんその中にはアレックスの写真もあった。アレックスを知る住人は彼の写真を見て憤り、あるいは悲しげな顔でため息をついていた。
 アレックスの指名手配については、彼の暮らしていた孤児院にも当然情報が入っていたが、院長は子供たちにその情報が伝わらぬようにしていた。子供たちの多くはアレックスを知っている。満十八歳になると、孤児院から出て社会人の一人として暮らすことを法律で定められているので、十八歳となったアレックスは既に孤児院の子供ではない。だがアレックスが指名手配犯という情報が孤児院の子供たちに漏れてしまうと、子供たちに大きなショックを与えてしまう。成長期に入った子供たちは、総じて敏感だ。アレックスを実の兄のように慕っていた子供たちも多く、彼が孤児院を出て行くとき、彼らは大泣きしたものだ。子供たちにショックを与えてしまうと、後々どうなるか分からない。子供たちは何事もなく元気に過ごしている。このまま何もなくすごしてくれればと、初老の院長は白いものの混じった顎ヒゲをなでながら思った。
(まさかあの真面目な子が、ハンターの内通者になってしまうとは……)
 孤児院の裏にある小さなグラウンドで、子供たちは元気に遊びまわっていた。
 ふと、郵便受けに一通の手紙が届いているのを見た。院長室で封を開け、中の便箋を取り出す。見たことの無い良質の紙であった。その便箋につづられた文章を読み進めるうちに、院長の顔色は変わった。封筒には、写真も何枚か入っていたのだが、それを見た院長の顔色は更に変わった。子供たちに気づかれないように、孤児院に勤めるほかの者たちも院長室へ呼び、便箋を読ませた。十人の職員たちの間にざわめきが走る。
「何なの、これ……?」
「これは、一体どういうこと?」
 わからない。院長は目を閉じて渋面を作り、首を横に振った。
 便箋には長い手紙文が書かれていたが、挨拶やら何やら長ったらしい修飾語を省いて要約すると次の文章になる。
『まことに勝手ながら、身寄りなき憐れなアレックスを、拙宅にて保護しております』
 そして、封筒に入っている写真に写っているのは、見たことの無い上等の服に身を包んだ、アレックスだった。
 すぐに基地へこの手紙が送り届けられた。

 翌朝六時半。アレックスはセイレンに起こされた。いつもはスッキリした目覚めなのに、今日は頭がぼんやりする。寝すぎたのだろうか、時々こんな感じで目が覚める。セイレンは部屋のカーテンを開ける。今日は曇り。灰色の空が視界に入ってきた。アレックスは欠伸して、ベッドの上に起き上がった。まだ眠い。もう少し寝かせてくれないものかと思いつつ、ベッドの中で朝食をとる。目玉焼きとサラダを熱いスープと冷たいミルクで流し込んでから、アレックスはセイレンに問うた。
「ねえ、今、何月?」
「七月なかばでございます」
「七月……ありがとう」
 この《屋敷》に来てから、確かに二ヶ月ほど経っている。長いようで短いようで。その二ヶ月の間に色々な事がアレックスの元へ飛び込んできたものだ。驚きと衝撃が、本の中からも講義の中からも飛び出してきたのだ。アレックスは知識を貪欲に吸収していったが、講義を通して伝えられる事柄にはショックを受ける事が多かった。自分の知らない世界に足を踏み入れた結果、自分の築いてきた価値観が一気に足元から崩されていく。その繰り返し。
 食後、メイドが部屋を出てから服を着替えた。が、アレックスは半そでのシャツを着た時、シャツが少しきつく感じた。シャツの肩幅が合っていない。今までこのシャツはきつくなかったのに。不思議に思いながらも、アレックスは無理やり着替えた。腕を振り回すと、やはり肩の辺りが……。後でセイレンに聞いてみよう。

「少しは回復が早くなったようだな。さて、顔色も戻ったところで――」
 いつものように、資料室でH・Sが講義を開始する。アレックスは服がきついのを我慢して、椅子に座っている。資料室は窓を開けないので、少し蒸し暑い。
「昨日の続きだ。当時の人口は少子化と高齢化が進んでいたことにより、五十歳以下の人間たちがかなり少なく、逆に老人の人口は圧倒的に多かった。当時の人口を年齢層ごとにグラフで表すと、比例型になる。赤子が一番少なく、老人が一番多いわけだな。環境汚染は進んでいたが、平均寿命は約八十歳と、ほとんど変化なし。むしろ現在の平均寿命のほうが六十歳と低くなっている」
「で……何のために口減らしをしなくちゃならなかったの」
「当時の人口を養うには、これから死んでいくだけの、数の多い老人を一気に減らすのが手っ取り早いからだ。当時サプリメントであった栄養剤を改良して、食料に代わる本格的な栄養源となるように研究を開始する動きが活発になった。実験に使われる動物は保護の対象となり始めたために使うのが難しくなったし、ヒトの栄養剤を受け付けないものもいた。だから、この栄養剤の改良には老人が使われることになった」
 彼が本を押しやると、そのページには、現在の、栄養剤製造工場が写った写真があった。小学生の頃、教師に引率されて社会見学に行ったのを思い出す。様々な機械が動いて次々と紫色と茶色のペーストを作っていく様を、クラスメイトたちと一緒に、目を輝かせて見ていたものだ。動く機械がかっこよかったのだ。
「研究所に収容された老人のほとんどは栄養剤によって命を落とし、残りは薬で命を落とした」
「……人体実験じゃないか!」
「医療の発達も必ず人体実験が絡む。そして老人たちの犠牲のおかげで、お前はその年になるまで生きてこられたんだぞ。人道上の問題として栄養剤の研究を非難する資格が、お前にあるとでも思うのか? お前が生まれてから口にし続けた栄養剤は、老人たちの犠牲の上に成り立っているんだからな」
 アレックスは思わず奥歯を噛み締めた。前々から分かっていることだ。この男に喧嘩を売っても勝てない。
「わかったよ! オレには資格なんか無いんだろ!」
「そうそう。立場をわきまえたほうがいい」
 目の前のハンターは、首を軽く振ってうなずく。腹の立つしぐさだが、アレックスは怒鳴りたいのをこらえた。
「現政府は、当時その政策が行われたことを隠すために、徹底的に情報統制を行っている。老人たちは老人ホームへ入居して安らかに往生したと見せかけられている。が、面会すら許されなかった理由を嗅ぎだそうとして、政府に消された連中は数多い。それだけ、知られてはまずい政策だったわけだな」
 アレックスは言い返さなかった。もう少々のことでは言い返す気力もわかない。言い返そうものなら数倍の言葉で反撃され、グウの音も出なくなるまで叩きのめされるのだから。
「が、そのおかげで、今の住人たちの生活がある。一方で農耕と牧畜が完全に禁止されたため、畑や牧場を手入れするものはいなくなり、かつての場所は全て別の植物が植えられるか完全に荒れ果てて雑草が伸び放題になった。これを自然の回復と呼ぶ者もいるが、とんでもない大馬鹿者だな。とにかく」
 一度言葉を切る。
「契約主の気まぐれのおかげで《昔ながら》の食事が取れるお前は、幸せだと思ったほうがいい」

 この《昔ながら》の食事が取れる自分は、幸せなんだろうか。アレックスは思った。栄養剤より味がよく、舌触りもいいし、腹持ちもいい。ほかに違うところといえば、工場で生産されたか否か、他の生命体の命をもらっているか否かという点だけだろう。
 セイレンは言った。服がきつくなったのは、アレックスの体が成長し始めたからだ、と。確かめるべく実際に背比べをしてみたが、まだセイレンのほうが高く、アレックスはちょっとだけ傷ついた。桃色の前髪の下に隠されたメイドの頬がちょっとだけ桃色に染まったのは、気のせいだろう。背が伸びてきたのは、食事の内容が変わったのが原因なのだ。供給される栄養が肉体の成長へ回されているため、今頃背が伸びてきたのだ。嬉しいような嬉しくないような。これも、《昔ながら》の食事を取っているおかげなのだが。
「オレって幸せなのかなあ」
 アレックスが食事中にもらした呟きに、メイドは首を傾げるだけであった。
「アレックス様の仰る《幸せ》は、アレックス様ご自身にしか、見つけ出すことは出来ませんわ」
 冷たいスープ(最初から冷たく調理されているらしい)とサラダ、ハト肉の冷たいパイを胃袋に収めた後、歯磨きをして、彼は寝間着に着替えてベッドに潜り込んだ。食事を済ませると、目を開けるのも困難に感じられるほど急激に眠くなってきたからだ。午後は講義が無いので、何事もなく眠れる。薄い布団を体にかけてまもなく、彼は眠りに落ちた。
 目が覚めると、部屋の時計は三時を指していた。頭の中がぼんやりする。今朝と同じ目覚めだ。夢は何も見なかった。あと三十分経てば、セイレンがティータイムの準備をしにやってくる。彼はベッドから降りて、寝ぼけ眼をこすりながらタンスを開けて、同じ服の中から適当に一着をつかみ出し、着替えた。
「あれ?」
 アレックスは、袖を通してすぐに気がついた。肩幅がきつくない。大きさもぴったりだ。昼寝している間に、タンスの服が取り替えられたのだろうが、一体全体いつのまに身体測定されていたのだろうか。寝ている間か?
(……なんか監視されているみたいだな。実際その身分なんだから、仕方ないけど)
 おもちゃの家に住む人形のような気分になってきた。人間は人形の家を覗き放題。だが人形は閉ざされた家の中に住んでいるだけ。人間に覗くなといいたくとも言えない身。この《屋敷》は彼に与えられた《人形屋敷》だ。
 もしかすると、この眠りは、薬を盛られているせいではないだろうか。食後、たまらなく眠くなり、昼寝をするときがある。十分な睡眠を前夜にとっているにもかかわらず、だ。その時の目覚めも、こんな風に、頭のどこかがぼんやりしている。眠っている間に、何をされているのか分からないが……服を取り替えてあるところからすると、今回は身体測定されたのだろう。それ以外は何をされているのか……。考えると寒気がする。
(でも、今はここにいるしかない。今、外の世界へ出たとしても――)
 無実なのに指名手配されている今、外で待ち受けるのは……死だけ。今は、この《屋敷》にいるしかない。だが、一体いつまで? ヨランダが彼に飽きればさっさと放り出されるに決まっているし、捕まらなかったとしても、何処でどうやって生きていけば良いのかその術を知らない。食料調達の方法も、衣類の作り方も、何も知らない。
(一体どうしたらいい?)
 人形としてこの《屋敷》で監視される生活か、外で警察や自然保護警備隊から身を潜めての生活か……。
 アレックスはため息をついて、首を横に振った。どうしたらいいのか、わからない……。
 セイレンがティータイムの紅茶と茶菓子を持って入室したとき、彼はマホガニー製のテーブルに伏せっていた。
「お加減がよろしくないのですか?」
 アレックスは伏せったままで首を横に振った。考えていたからだ。この《屋敷》にいる間に自分の無罪を外部に知らせ、《屋敷》を出ても普通に生活できるその方法を。
 いきなり、がばっとアレックスは頭を上げた。
「後で、紙とペン持ってきて!」
 ティータイムに、頭の中で計画を練りながら、アレックスは体に任せて紅茶を飲み、茶菓子を口につめた。菓子の甘さなど何も分からないほど、彼は深く考えていた。計画が実を結ぶには長い時間が必要だが、今の彼に出来る方法は、考え付ける限り、それしかないのだ。
 ティータイムの後、セイレンは木の棒と白い塊、それに質の良い紙束をたくさん持ってきた。木の棒について聞くと、エンピツという筆記用具なのだという。木を使って作るのだとか。書いてみると、確かに文字が書ける。これまで使っていたペンは乱暴に紙面をガリガリ走らせねば到底書けもしなかった。だが、このエンピツは便利だ。削らなければ芯が丸くなってしまうのと、書いた箇所に指を走らせると指が黒くなるのが欠点だが、やはり便利だ。間違えたら、ケシゴムなる白い塊で紙面をこすれば誤記は消える。紙の質も良く、サラサラした感触が指先に伝わってくる。あのザラザラした砂でも混じっているような感触は無い。すらすら字が書ける。
 しばらく紙の上に落書きをした後、彼は書くべきことをまとめるために、紙面に円をいくつか描いた。
(これなら、いけるかもしれない! いや、やるしかないんだ!)

 ファゼットは、目の前に並ぶ面々を満足そうな目で見やる。会議机に座っているのは、アレックスの所属していた基地の上層部たちであった。
「……あなたは一体何を考えているのだ!」
 しわだらけの顔に更に深いしわをつくり、齢八十を越えたであろう老人の一人が、入れ歯と思われる銀の歯をむき出しにした。
「今すぐあの第八隊員を渡してもらいたい! あれは生かしてはならぬ危険な存在! しかも、あの《事件》の真相を知っている?! あれが生きていれば、我々の地位は危うくなる!」
「それは分かっている。だから、あなた方にお越しいただいたのだよ、このように辺鄙で何日も船で揺られねば来られない土地へ」
 ファゼットは優雅に笑った。
「外へもらさないようにするには、バッファロー暴走事件の真相を知っているアレックスを我が手元において外へ出さなければいいのだよ。殺す必要など無いではないか。そして彼は《ここ》から逃げる事が出来ない。それはお分かりであろう?」
 老人たちの間から、うなり声が漏れた。ファゼットは続ける。
「そう。彼は事実を知っているから、それを最大限に活用するだろう。彼は何らかの形で外の世界へ情報を出そうとするだろう。そして、いつの日か、あのバッファロー暴走事件を起こした真犯人が世間に知られることになる。そうなると、立場が危うくなるのはあなた方と議会の議員たち……」
「だから、あの第八隊員を消さねばならんのだ! 我々の地位だけではない、下手すると一般市民が暴動を起こしかねんぞ!」
 ドンと乱暴に会議机が叩かれ、上に載ったコーヒーカップがグラリと揺れた。ファゼットは意に介する様子も無く、笑いながら言った。
「……アレックスは既に処刑されたと、表世界に伝えていただこう。それから指名手配解除の手続きをし、処刑者専用の墓地に彼の墓標を立て、戸籍には死亡確認の印鑑を押す。そうすれば、彼は世間から完全に抹消される。彼の両親は死亡しているし、親類縁者もいなかったから、心配は要らぬ。ただし、彼の住んでいた孤児院には、わたしの言葉をそのまま伝え、アレックスがまだ生きていることを口止めさせるように。代わりにわたしは孤児院への資金援助をしよう。基地の援助だけでは、孤児院の経営は苦しくなり始めているそうだからな。問題は無いだろう?」
 しばらく、ざわめきが走った。
「だが、あなたの元からあれが逃げ出さないとも限らないし……」
「だから、逃がさないように、監視もつけてある。ひょっとすると彼はもう自分が監視されていると気づいているかもしれん」
「なぜ生かしておく? 処刑するのが一番てっとりばやい口封じなのに――」
「彼は自分が指名手配されていることを知っている。この《屋敷》を出ても住む場所はなく処刑台が待っていることも知っている。指名手配されていることを知っている限り、つまり、指名手配されておらず、自分が法律上死んだということを知らない限り、彼は逃げる事はない。それに、わたしは個人的に、あの少年を気に入っているので、傍においておきたいのだ。さらに――」
 ファゼットは締めくくった。
「アレックス自身、己の立場をわきまえ始めたのだ。その点は安心していただこう」


 各地の掲示板から、アレックスの写真が消えた。代わりに、公開されている、処刑済みの犯罪者リストの中に彼の名前が加えられた。ハンターと内通した者は問答無用で死罪になる。そのため、処刑済みリストに載ったアレックスの処刑内容は、絞首刑であった。それから、指名手配解除の手続きが行われた。彼の戸籍書類には死亡を表す印鑑がいくつも押されて『死亡』の書類棚へ放り込まれ、基地から少し離れたところに作られた処刑者用の墓場には、彼の名前を刻んだ簡単な石の墓標が立てられた。
 八月二日。アレックスは、死亡した。

「標的を全て転送しろ」
 D区の原の隅で、H・Sは飛行艇内のアーネストに通信機で指示を出す。彼の周りには、薬で眠った六体の牡鹿が草の上に横たわっている。通信して数秒ほどで鹿たちは船内へ転送され、少し遅れてH・Sも船内へ転送される。眠っている鹿たちを残して小部屋を出た彼は、真っ直ぐ操縦席へ向かう。操縦室の自動ドアが開き、彼のために道を開ける。機体は既に取引相手の待つ場所へ方向転換して発進している。後は勝手に機体が目的地へ連れて行ってくれるのを待つばかり。
 転送機の傍に、新聞が放り出されている。たたまれていないところを見ると、彼が外にいる間にアーネストが読んだらしい。H・Sはそれを取り上げて一面のタイトルを見ただけで、座席の右にある小さなゴミ箱へ放り込んでしまった。
「何を考えているのやら」
 新聞の一面には、次の記事しか載っていなかった。
『ハンターの内通者・第八隊員ついに処刑!』
 もちろん、アレックスがあの《屋敷》にいるのは、二人とも知っている。
「一体何のために……? 屋敷に置いて外へ出すつもりなど無いくせに」
「……」
 ラジオの電波を拾ってみるが、どの局にあわせてみても、聞こえてくるのはいずれもアレックスが処刑されたというニュースだけ。これまでは指名手配犯が処刑されてもたいしたニュースにはならなかったのだが、今回は違った。新聞の二面に追いやられていた処刑の記事がでかでかと一面を飾り、あらゆるラジオのニュース番組はアレックスの処刑を一斉に報道している。
 派手すぎる宣伝。二人には、この報道が、アレックスの死亡を外の世界に印象付けようとしているかのように見えた。
「あの方は一体何を考えて……」
 H・Sは解せぬといった顔つきのまま、ラジオのスイッチを切った。

「アレックス様、失礼いたします」
 セイレンの五回目の呼びかけに、アレックスはやっと応えた。自分の後ろにいつの間にか立っていたセイレンの姿を見て、
「あ、ごめん。聞こえなくって……なあに?」
「お茶の時間です」
「あ、もうそんな時間?」
 資料室にて、アレックスは一息ついた。目の前に積まれた紙束の半分には文章がびっしりつづられている。エンピツの削りカスはゴミ箱に山盛りとなり、使ったエンピツは十本を軽く越えた。ケシゴムも、手で持てなくなるほど小さくなるまで使った。見れば、ペーパーウェイト代わりの左腕が、黒く汚れてしまっている。執筆に取り掛かってから半月以上経過した。夏の暑さは資料室にまで入り込んでいる。出入り口以外は全て閉め切ってあるので、出口から来る風を冷房代わりにしているものの、それでも暑いものは暑い。汗だくだ。それでも彼は額の汗をぬぐいつつも、調べものと執筆に精を出し続けている。デスクの上には山積みになった本があり、それでも文献が足りないといわんばかりに床の上にまで本が置いてある。時々デスクの上や床の上の本をあさり、目当ての内容が見つからなければ、奥の本棚へ探しに行く。そして本を棚に戻さないので、床やデスクの上に積み上げられた本がさらに増えるのだ。
「うん。わかった」
 アレックスは背伸びして椅子から立ち上がり、メイドの後についていく。資料室の出入り口を抜け、じゅうたんの敷かれた廊下を数分歩き、そのつきあたりにあるドアを開けると、そこはアレックスの部屋だ。メイドの後について行っている時でなければこの廊下は途中で行き止まりになっていることを知っているが、どこかに通路の行き止まりを解除する仕掛けが無いものかと、アレックスはそれを何度も探している。今のところ、何も見つけられていないが。
 汗を冷たいシャワーで流し、左腕についた黒ずみを丁寧に洗い落として、既に浴室に用意されていた新しい服に着替える。会う度に別のドレスを着ているヨランダと違って、毎日同じ服。隊の新しいデザインの制服を着ていると思えばいいと、アレックスは自分に言い聞かせている。セイレンだって同じメイド服しか着ていないではないか。
 髪を乾かして浴室から出たところで、ヨランダが既に部屋にいるのが目に入った。セイレンがティータイムの準備を済ませて退室したところだった。
「やっと出てきてくれたのね、アタシの可愛い子」
「あ、お待たせしてすみません……」
 アレックスは目のやり場に困った。ヨランダが着ているドレスは、薄い生地で作られたラベンダー色の、肩から胸元にかけてV字型に大きく開いているもの。暑さ除けなのだろうが、アレックスとしてはどうしても彼女の豊かな双子の丘にどうしても目が行ってしまう。それを気取られまいと、テーブルの上に並ぶティーセットに何とか視線をそらし、椅子に座った。
「ど〜お、小説の執筆は進んでる?」
 甘い香りの紅茶で喉を潤し、ヨランダは甘い声で問うた。アレックスは彼女の胸元へ視線を向けまいと必死の努力をしつつ、進んでいると答えた。
「それはすばらしいわあ。完成したら、アタシに読ませてくれるって約束、憶えてる?」
「え、ええ」
 サーモンサンドを一切れつまみ、何とか彼女の胸元から視線をそらしたアレックスは答えた。半ば強引にそう約束させられた。今執筆しているものを《屋敷》の者たちに見られても良いように、小説として書き綴っている。いずれ外へ出す情報とはいえ、ストレートに「オレは基地に濡れ衣を着せられている。オレは無罪の人間だ」とは書けない。
「ちゃんと推敲しなくちゃならないけど、それが終わったら、お見せしますよ」
「そーお、ありがとう。アタシ幸せよ、あなたの作品の、最初の読者になれて」
 ヨランダは椅子から立ち上がり、テーブルの傍を通り、アレックスの左へ回り込んで、かがみこむ。そして、何とか彼女の豊かな胸から目をそらそうとするアレックスの黒髪を、愛おしそうに撫でた。
「いい子ねえ。アタシの可愛い子。愛してるわ」
 愛している。その言葉は、嬉しくもあったが、むなしくもあった。彼女はアレックスを一人の人間として見ているのではなく、あくまで彼女の玩具としてしか見ていないのだ。気に入ってもらっている間は大切に扱われるけれど、飽きれば簡単に放り出される、ただの玩具。それが分かっているから、アレックスは素直に喜べない。捨てないでと訴えるべきなのだろうか。だがそう訴えると、ヨランダを怒らせかねない。だから彼は何も言えない。黙って今の立場に甘んじるしかない。
 不思議な香りの香水が、彼の鼻腔を刺激する。不安になってきた気持ちを落ち着けてくれる。そして、わずかに眠気も誘う。ヨランダは、彼の鼻先に顔を近づけ、ささやいた。
「あなたを捨てはしないわ。アタシの大事なお人形なのだから。お父様もあなたのこと気に入ってらっしゃるの。安心してちょうだいな」
 彼の頬を両手で挟んで撫でながらささやく彼女。香水の香りをいっぱいに吸い込んで半ば頭のぼんやりしたアレックスは何も答えなかった。
「あなたを捨てはしない。だから、アタシの傍にずっといてちょうだい……」
 甘くとろける声が彼の耳の中にいつまでもこだましていた。
「アタシの可愛いアレックス。どこへも、行っちゃ駄目よ……」


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