第7章 part1



 K区の砂漠地帯には、雨が降り注がないようにビニル製のドームが作られる。昔のビニルハウスのようなものだ。砂漠に雨が降らないわけではないが、本来はせいぜいワジが出来る程度の雨量であり、今の雨量はワジをはるかに越える豪雨のためビニルドームで雨量制限をしているのだ。
 K区のハンターたちのアジトは、ドームで覆われていても入る事が出来る。なぜなら、飛行艇を持っているハンターたちはいずれもドームを一部だけ外せる箇所を知っているからだ。飛行艇を持たないハンターは自力で何とかドームの隅をつついて開けるしかない。
 さて、K区のアジトは今日もにぎわっている。雨のためか、よりいっそう人が多い。アジトを宿代わりにする者もいるせいだろう。雨が降っていると、標的の動物のほとんどは住まいから出てこないので、雨の日は休業というハンターもいるくらいだ。
 酒場の個室。テーブルには良質のクロスがかけられ、綺麗なキャンドルがその上に載っている。ろうそくの光に照らされるその部屋は、外の喧騒を完全にシャットアウトする防音性の壁によって作られているので、聞こえてくるのは、室内にいる人間の話し声のみ。そしてこの部屋にいるのは、Aランクハンターだけだ。この部屋は彼らのために作られているのだ。
「まさかあんたが、そんなことに携わっていたとはねえ」
 くすんだ金髪の中、前髪だけを黒く染めたハンターは、ニヤニヤしながら言った。彼女の着ている人工皮革の黒い服は雨に少し濡れている。
「まあ、お前は昔っから秘密主義者みたいなやつだったしな。おれらに隠し事のひとつやふたつ、あってもおかしくはないわな」
 次に口を開いたのは、短く切りそろえた黒髪をそれなりに綺麗に撫で付けた、眼帯をつけたハンターである。
「だがまさか、あの方から直接言われていたこととは……」
「やりたくて、やっているわけではない」
 H・Sは不機嫌な顔で、テーブルの上に空のグラスを少し乱暴に置いた。他の十人ほどのハンターたちは彼を見つめ、ニヤニヤしているか驚きに満ちた顔をしている。
「あの、お前の船に侵入したっていうガキが、あの方の屋敷で飼われているとは思わなかったなあ。しかもお前がつれて行ったって事を、お前自身が隠していたんだからなあ」
「契約主が、秘密にしてくれと頼んできたものだからな」
「そういえば、お前は契約至上主義者だもんなあ。契約だけは絶対に守る、ある意味石頭」
「でも、お嬢さんと契約できたのは、あんただけよねえ。ラッキーだねえ。工場出荷の最新の部品を一番にまわして貰えるんだから」
「でも、お嬢さんのわがままぶりは相変わらずなんだよなー。久しぶりにお会いしたけど、やっぱり変わらないや」
 しばらく部屋は笑いに包まれた。それが収まると、
「しかし、そのガキにあの《事件》の真相を教えて何になるって言うんだ。おまけに、表世界にはそいつが処刑されたと報道させているそうだし。義父さんの考える事は、さっぱりわからないなあ。お前以上に考えの読めない方だよ、ファゼット義父さんは」
 しんとした部屋の中で、不思議な空気に代わった。一斉にグラスに酒が注がれた。
「それでも、親を亡くした我々を引き取ってくださり、ちゃんとした教育も受けさせてくださった」
 茶色い髪を後頭部できっちり束ねた老け顔のハンターは言った。
「そして、我々はその恩に報いる形でこうしているわけだ。この世界の政治屋どものエンターテイナーとして、そして政治情報を集めるスパイとして、あの方のために在り続ける……。その生き方に悔いは無い。全ては、あの方のために!」
 賛同するかのように、グラスが傾けられ、乾された。

 Aランクハンターたちが個室で話をしているとき、たくさんのハンターでにぎわう酒場で、ひとり、アーネストは物思いにふけっていた。今のところ、彼に絡んでくるハンターはいない。以前、群れで絡んできたBランクハンターをことごとく病院送りにして以来、酔っ払いどもは、よほど酔いつぶれていなければ彼に絡んでくることは無くなった。ここに来るたびに一人で飲んでいるが、誰も絡んでこないので煩わしさがなく、かえってほっとしている。
 カウンターの隅の席で、アーネストは酒の入ったジョッキを目の前に置いたまま、肘杖をついて考えていた。ジョッキの傍には、酒場に据え付けられた転送機から吐き出されたばかりの新聞が一部置いてある。日付は八月五日。一面を飾るのは、議員候補者たちの演説の内容。環境税の減額、滅亡主義者の徹底的な取り締まり、などなど。しかし彼は新聞を読んではいない。新聞は、ただ客へのサービスで置かれるものだから。
 彼は考えていた。なぜアレックスが表の世界で死亡したのか。今までは二面に載るだけだった処刑の記事が一面を飾ったのは何故なのか。これほど大々的に彼の死を報道するのはなぜか。処刑と同時に指名手配も解除され、処刑者用の墓地には彼の墓標も作られている。そこまでしたら、いつもどおり二面に処刑済みの記事を載せればいいだけではないか。ビッグニュースがないから一面に載せた、ようには思えない。二日間、どのラジオも彼の処刑のニュースばかりを報道し、コマーシャル以外の番組は一切報道されないままだった。
 裏で誰が手を回したかは想像がついている。H・Sの契約相手であるヨランダの父・ファゼット。あの男がどれだけの力を持っているのかは、アーネストにも全部分かっているわけではない。H・Sはファゼットについて何も話さない。だが少なくとも、基地の上層部に圧力をかけられるほどの力を持っていることは確かだ。彼がアレックスの『死亡』を報道するよう命じたのだろう。だが、一体何のためにアレックスを葬ったのか。あの屋敷の中で飼っている事は明白なのに。
 アレックスは知っているのだろうか。自分が表の世界で葬られてしまったことを。いや、外界から隔離されている以上、何も知らないだろう。外界との接点はH・Sとアーネストだけで、アレックスは彼らを情報源にして外の世界やほかの事を知りたがる。自分が表の世界で「死んだ」事にされたと知ったら、どれほどのショックを受けるのだろう。これ以上アレックスにショックを与えたら自殺に走るかもしれない。いやいやいきなり自殺というのはありえないだろうが……。やはり知らないほうが良いかもしれない。何も知らないまま、あの屋敷でヨランダの愛玩動物として飼われているほうが――
(駄目だ。知っても知らなくても、あいつにとっては不幸だ。あいつは知りすぎるか、何も知らなすぎるかのどっちかだ……)
 アーネストは頭を振って、ジョッキの中身を飲み干した。

 選挙活動は、雨の日でも続いている。レインコートを着た一般市民が町を歩く中も、マイクやスピーカーを使った演説が続く。雨の音と人々の足音にかき消され、その演説に効果があるのかは不明だが。
 商店街で演説が続けられているとき、栄養剤を販売する薬局が、突然轟音を上げて爆発した。
 一瞬のうちに、商店街は悲鳴と炎に包まれた。演説は中断され、人々は混乱し、逃げ惑う。
「滅亡主義者だ!」
 環境破壊を完全に止めるために人間を減らす事を目的とした集団で、政府からテロリスト認定されている。各地で起こる破壊活動によってハンター並みの賞金首になっている彼らは、一般市民に紛れ込んで、人間を完全に滅ぼすための活動を続けている。爆破物や毒ガスなど、殺傷方法は数え上げればきりが無い。
 燃え上がる商店街を消し止めるために、消防車が呼ばれ、救急車と警察が呼ばれる。油を使って燃え上がらせたと思われる炎は、雨と消防車の消火栓の力をもってしても、簡単には消し止められなかった。逃げ惑う人々は警察が鎮め、救急車が、火災や騒動に巻き込まれた人々を次々とタンカに乗せて、中に収容する。全てが終わったのは二時間後。それまで、人々の悲鳴は絶えず、炎は燃え続けて辺りを燃やし続けていた。
 滅亡主義者の起こしたこの事件は、夕刊のトップを飾った。同時に、世論が滅亡主義者撲滅へと傾き始めていった。

 朝から豪雨。室内にいると湿っぽい。だが窓を開けるわけにはいかない。余計に部屋の湿度が増してしまう。午後もずっと雨は降り続き、止む気配が無い。
「羽を伸ばしたいのよね、そろそろ。予定は空きそう?」
 ヨランダは、ピアノの指導を終えた家庭教師が退室してから、小間使いに問うた。歳はヨランダより少し上といったところの小間使いは、予定表をエプロンから取り出した。この小間使いは、彼女専属のメイドだ。
「今週は、お休みの時間はございませんが、本日のスケジュールはこれにて終了でございます」
「あら、今週は無いのね。残念。久しぶりに羽を伸ばせたら、あの島に行こうと思ってたのに」
 ヨランダはため息をついた。
「この世界で一番素敵なあの場所。早くまた行きたいものだわ。この時期が一番いいんだから」
 小間使いは、ヨランダに告げた。
「お嬢様、次のご予定がございます。上院議員の方がお見えになっています」
「やだわあ、またしても結婚話なんて。アタシはまだそんなつもりないのに。蹴っても蹴っても次が来るんだから、嫌になっちゃう。お父様の地位がそんなに欲しいのね」
 ヨランダは不満をこぼしつつも、さっさと手櫛で髪を整え、部屋を出て行った。

「冷たいけど甘いなあ、これ」
 アレックスは、目の前に置かれたものを食べている。ティーセットの代わりに出されたこの冷たい菓子は、パフェというものらしい。厚めのグラスの中に果物が盛られていて、果物の下には見たことの無い、冷たくて白いものがつめてある。アイスクリームというらしい。食べてみると冷たく、甘い。アイスクリームには色々な味があるそうで、全部試食したくなったが、食べ過ぎるとおなかを壊すからとセイレンに止められてしまった。
「お夕食後にお持ちいたします」
「うん。お願い」
 おやつの後、アレックスは執筆を再開した。必要な資料は別の紙にまとめてあるので、資料室に行く必要は無い。エンピツを紙面に走らせて一時間ほど経ち、彼はふと手を止めた。
「……」
 視線を感じる。背中から。しかし背中の方向にあるのは、窓だ。思い切って振り返ってみたが、窓の外は雨が降っているだけで、人の姿は無かった。
(オレを監視してる誰かなんだろうな)
 アレックスはもう一度紙面に目を落とした。視線はもう感じない。アレックスに振り返られて、居場所が知られたと思ったのだろう。アレックスはそれ以上気にせず、紙面にエンピツを走らせた。だが、夕食後に十種類ものアイスクリームを食べすぎたアレックスがトイレにしばらく篭っているときに、また視線が彼を見張り始めた事に、今度は気がつかなかった。雨にまぎれて聞こえる非常にかすかな鋭い音は、カメラのシャッター音のようだった。

 夜十時。いつもどこかを飛び回っているファゼットは、久しぶりに屋敷に戻っていた。執事や使用人が出迎え、固いスーツからリラックスした部屋着へと着替えさせる。体のマッサージをし、磨かれたグラスに酒を注いで銀の盆に載せてナイトテーブルに置く。そして風呂にも入ったファゼットは豪華な椅子に体を預けて、ナイトテーブルの上に載ったグラスのほか、別のものも取る。それは封筒の中に入っており、開けると、写真の束と何枚かの書類が姿を見せる。使用人たちを全て下がらせた後、ファゼットはその写真を見る。その写真に写っているのは、全てアレックスだった。そして書類に書かれているのは、本日のアレックスの行動。朝六時に起床、一日中ずっと小説の執筆、食事は残さず食べ、夕食後にデザートの食べすぎでトイレに五分篭り、夜八時に入浴、夜九時の消灯で就寝。
「なるほど。何かの小説を執筆しているのか」
 紙面に向かってエンピツを走らせるアレックスが、写真に収められている。
「娘に構ってもらえない暇つぶしに、何か書こうと考えたのか。それとも他に何か考えがあって書いているのか……」
 ファゼットは次に、書類に目を通す。アレックスの行動のほか、睡眠中に測定された彼の身長と体重が折れ線グラフとして記されている。そして別の書類には、他の事柄も書いてある。
「身長と体重は順調に伸びているようだな。肥満にならないギリギリのカロリーであっても、成長はまだ続くのか。これはすばらしいなあ。成長しきったときが楽しみだ。わたしを追い越すか、それとも下で止まってしまうか……」
 ファゼットは面白そうに笑っている。
「娘があの少年に飽きたとしても、わたしは彼を手放すつもりは無い。人質以外にも、まだ価値は十分にあるのだから……」
 最後に彼が見た写真には、謎の視線を感じて窓を振り返ったアレックスが写されていた。

 H・Sはアレックスに宿題を出した。
「さて、これまでの講義でお前が身につけた事柄に関してレポートを書いてもらう。テーマはこの通り。まとめ方はお前に任せる。あまり長くなくていいが、絶対に手を抜くなよ」
 ハンターから渡された紙には、アレックスがこれまでに受けてきた講義の内容について書かれている。数ヶ月間受けてきた講義を、内容ごとにまとめる。それが宿題だ。
「参考文献なら、この資料室に山ほどある。レポートは、明日の朝に必ず提出すること!」
 アレックスに質問する暇も与えず、H・Sは資料室を出て行ってしまった。取り残されたアレックスは、渡された紙と、開きっ放しのドアを交互に見つめた。
「レポートったって……」
 学校時代に書いたきりだ。どうやって書いたらいいか思い出さなくては。講義の内容といっても、毎回必ずショックを受けていたことばかり印象に残っている。それほどショッキングな内容だったということでもある。
「書くしかないのか」
 アレックスは、小説の執筆に使う紙を何枚か取り出し、エンピツを削った。今日は小説を書けそうに無い。
「それにしても期限が明日だなんて。まとめて書けっていうんだ、勉強はもう大詰めってことなんだろうけど……」
 文句を呟きながらも、レポートに使えそうな参考文献を探しに、資料室の奥へ向かった。数分後、本の山がデスクの上に作られ、彼はその本の山にうずもれながらレポートを書き始めていた。

 月に一度の会議が終了した。ギスギスした空気の中、無事に終了の合図が出され、緊張した空気は七割ほぐれた。今回、議会側の意見とハンター側の意見が対立し、折り合いをつけるのに長くかかったのだ。
 会議の後、ファゼットは、疲れた顔のH・Sに言う。目の前にいるハンターは、議会の連中と意見を戦わすのに疲れているのだ。会議における彼はハンターの代表者として、老人と意見を戦わす立場にある。そのため、Aランクハンターの中でも特に一目置かれる存在なのだ。
「君は不思議に思っていることだろう。あの少年を、法律上死亡させていることについて」
「……」
「それはあの少年の使い道のためだ。基地の連中へ圧力をかけることと、もうひとつ――」
 ささやかれた話を聞いて、H・Sの目が大きく、皿のごとく丸くなった。
「だから彼の講師である君に、レポートを書かせるよう頼んだのだよ。彼の今後を判定するために。わかってもらえたかね」
「……私があなたの立場なら」
 やっとハンターは口を開いた。
「あれには、何の知識も与えずに飼いならしておきます。余計なことを詮索されると困るのはこちらです。あれはあなたの保護下にあるとはいえそのことを知らず、いつかは外へ抜け出そうと考えている。あれは必要な知識を全て吸収しつくした後、外へ出て、知りうる限りの事柄を発信する! そうなれば現在の議会や基地はおろか、我々にまで一般市民の手が伸ばされかねない。あなたの地位はどうなります。自然保護法成立前から環境保護団体に大金を支援し続けた、そして我々Aランクハンターを育て上げた、あなたの地位は――」
「わかっているとも。連中への支援はわたしの父が行ったことだが、すでにわたしは現在の議会と基地への支援を切っている。我が力に頼らずとも、連中は自力で金を集める事が出来るようになったからな」
「いえ、そういう事ではなく――」
「君の契約者、元隊員だったあの男とアレックスは仲がいいようだな。境遇を同じくするもの同士、惹かれあっているのだろう。あの男はアレックスに色々話すかもしれないが、それはそれで構わない。あの男が事実を話せば話すほど、アレックスを縛り付ける枷の力も強くなるのだから。それと、アレックスが逃げられない理由を教えておこう。これは、彼につけたメイドのセイレンにも話していないことだ。これなら満足かね」
 数秒後、H・Sは驚愕したまま、何も喋らなくなった。

「ふあああ」
 アレックスは椅子に座ったまま背伸びして、大あくびした。レポートを書けと言われたのが午前九時。今は、夜の十一時半。資料室から必要な本を全部持ち出して、今は自室で書いている。眠いが、寝るわけに行かなかった。まとめは八割終わった。残りを片付けて、全部読み直しをするまで、眠る事は出来ない。
「ここまで晩く起きてたのは、受験勉強以来だなあ」
 入隊試験を受けるために、孤児院の院長の許可をもらって、深夜二時過ぎまで図書室を借りて勉強していたものだ。あの時も眠かったが、どうやって眠気を払って勉強していたのだろう。思い出せる限りでは、ノートによだれの小さな池を作っていたことのほうが多かったが……。
 セイレンは、十時を過ぎる頃、夜食を持ってきてくれた。山盛りのサンドイッチと、大きなポットに入った紅茶。冷えないように特殊な金属で作ったポットらしい。アレックスは彼女の気遣いをありがたく思いながら、レポート書きを進めていた。
 部屋の時計が真夜中を指した。アレックスは時間の経過も気にせず、ハムとレタスのサンドイッチをつまみ、紅茶を飲み、エンピツを握る手を動かす。レポートが詰まればトイレに行って気を紛らわす。何度も欠伸と闘いながら、彼はレポートを進めていった。夜中の三時前になって、やっとレポートの見直しが終わったとき、彼は思わず歓声を上げた。
「やった、終わった!」
 空の皿とポットを片付けるのも忘れ、彼はベッドに倒れこんで眠りについた。朝六時半にセイレンが起こしに来ても、なかなか目覚めなかった。それほど疲れていたのだった。無理やり起こされたアレックスは眠い頭でスープとトーストだけの軽い食事を済ませ、着替えた。
 九時頃、資料室に入ったアレックスは、まだ講師が来ていないのを知った。
「あ、いないの。ちょっとだけ、寝ても良いかな?」
 レポートを持ったまま、デスクにうつぶせになったところで、
「レポートは書けたのか?」
 背後から声が聞こえる。眠い目をこすったアレックスは後ろにH・Sが立っているのを見た。
「うん、レポート、これ……」
 あくびまじりにレポートを渡す。およそ百枚の紙束を受け取ったH・Sは、テーマごとにレポートがまとめてあるかを簡単に確認し、うなずいた。
「よろしい。あとはこっちで確認するから、もう帰って寝ても良いぞ。そんなぼけっとした顔では、何を話してもお前の頭には入らないだろうからな」
「ふあーい」
 言われなくとも、とアレックスは立ち上がり、半ばふらついた足取りで資料室を出て行った。いつのまにか通路に待機していたセイレンが、彼を連れて行った。
 アレックスが自室でぐうぐう眠っている間に、H・Sは課題のレポートを読んだ。読み進めていくうち、何の感情も無い青い瞳の中に、驚きの光が表れた。
「予想以上だな……」
 終わりに近づくにつれて、眠い中で書いたらしく、字がところどころぐにゃぐにゃになって読み辛い。それでも、H・Sは読み進めていく。最後のレポートを読み終えたところで、H・Sはため息をつき、頭を横に振った。

 ぐうぐう眠っていたアレックスは昼前に目が覚めた。今日も雨。気温が高いのと湿気ているのとで、気持ちが悪い。それでも寝汗だけはかいているので、シャワーを浴びて丁寧に体を拭いた。体を拭きながら鏡を見ると、目に見えて、自分の体に肉がついたのが分かる。ぜい肉? 筋肉? いや、運動していないのだから筋肉がつくはずが無い。それとも、成長しているから肉がつくのか? あれだけ細かった自分の体が、こんなにも肉付きが良くなっている。あばらが見えない。肩幅が広くなり、ほんの少しだけ背が伸びているように思う。体を鍛えたら、アーネストみたいにたくましくなれるかな。そう思いながら、浴室を出た。
 いつのまにか部屋にセイレンがいた。
「アレックス様、旦那様がお会いしたいとの事です」
 メイドは手短に告げた。

「いやあ、久しぶりだね」
 聞き覚えのある声。アレックスは体が固くなったが、前回ほどではなく、緊張はすぐほぐれた。
「君の書いたレポートを読ませてもらったよ、アレックス」
 ファゼットはにこにこと満面に笑みを浮かべている。アレックスはまたしても窮屈な服に着替えさせられ、広々とした客間にいた。相変わらず二メートルくらいはありそうな長さのテーブルには、昼食が二人前並んでいる。前回同様、話をしながら食事を取るのだろう。あるいは食事をしながら話をするのか。
 食事を始めたファゼットがアレックスのレポートを読んだという切り出しに、早速彼は食いついた。
「オレの……あ、いや、自分のレポートを読まれたんですか?」
「もちろん。とてもすばらしい出来だったよ。晩くまで頑張ったようだね」
 ファゼットはにこにこと微笑んでいる。なぜ深夜まで起きていたことを知っているのかと、レタスを噛みながらもアレックスは不思議に思ったが、すぐ別の考えが頭に上ってきたので、口には出さなかった。レポートの中に、ところどころぐにゃぐにゃになった字があった。眠い頭で書いた文字。見直しの際に書き直したつもりだったが、直し忘れた箇所があったに違いない。
「寝ながら書いたようではあるが、第一次産業の発展および現在の自然保護法による完全禁止についての流れをまとめた箇所は特に素晴らしかった。よく出来ていたよ」
「あ、ありがとうございます」
「前々から思っていたのだが、君を、娘の遊び相手にさせておくのはもったいない。娘にとっての君は玩具でしかないが、わたしは違うぞ」
 ファゼットの瞳にいたずらめいた光が走る。
「それはそうと、話は変わるが、君は小説を書いているそうだね。娘から聞いたよ」
 唐突な話題の変更。アレックスは口に入れたばかりのミニトマトを喉に詰まらせるところだった。
「どんな小説を書いているんだね。良かったら聞かせてくれないか?」
 トマトを無理に飲み込んで、アレックスはうなった。自分が無実の罪で指名手配されていることを伝える内容を正直に話していいものだろうか。いや、いいはずがない。
「えっと、ファンタジーです。異世界に飛ばされた主人公が、元の世界へ戻ろうとする話です」
 書いている内容はその通り。
「そうか。昔からある小説のテーマのひとつだが面白そうだね。だが何故、小説を書こうと思ったのだね」
「暇つぶし、です……」
「暇つぶしかね。さすがに毎日本を読むだけではさすがに飽きてくるか。ハッハッハ」
 豪快に笑ったファゼットは、ムニエルを切り分けて口に運んだ。
「君の小説、ぜひ拝見したいのだが」
「そ、そうですね。でもまだ完成していませんし、お嬢様を最初の読者にすると約束していますから――」
「おお、一向に構わんよ。娘が先に読みたいというのなら読ませてやりなさい。わたしは後で構わんよ」
 相変わらず豪快に笑う。後ろに控える執事がまるで幽霊のよう。対照的過ぎる。
 それから食事は何事もなく続いた。ファゼットはまたヨランダについて喋り続け、アレックスは相槌を打ち続けた。ヨランダは幼い頃に母を亡くしており、寂しがりやだから、相手をしてやって欲しいとのこと。
「わたしは普段から仕事であちこちを飛び回り、娘を構ってやる暇などほとんどなかった。だから娘は寂しさを紛らすために君を遊び相手に選んだのだろうな。わがままも言うだろうが、大人しく相手をしてあげてもらいたい」
「はい……」
 ヨランダがわがままなのは今に始まったことではない。だがアレックスは彼女のわがままに逆らえる立場ではない。眠いときに起こされようが、変な色の服を着せられようが……耐えるのみ。
「最近は娘への求婚者が非常に多い。娘は全部蹴っているが、わたしとしては、娘にふさわしい男を見つけてやりたい。しかし求婚者たちは、わたしの地位につくことばかり考えていて、ほかのことなどどうでもよいという連中ばかりになっている。全く、これ以上の富を求めても無意味だというのに。分かっておらん連中ばかりだ」
 ひとりごとなのか愚痴なのか、よくわからない。その上早口であったため、アレックスは口を挟めなかった。それからもファゼットの話は延々と続いていった。アレックスは適当に相槌を打ちながらファゼットの料理と自分の料理を比べてみた。量は、ファゼットのほうがずっと多い。具の大きさも違う。アレックスの料理は彼の料理の半分の大きさと量。だがアレックスは不思議にすら思わなかった。《屋敷》の主人だからおかずが大きいのだろう、と片付けた。
 アレックスが七割食べたところで、ファゼットが初めてアレックスに向かって言った。
「食べた後、わたしの書斎に案内しよう。話しておきたい事があるのだ」

 食後。アレックスはファゼットにつれられて、これまで一度も歩いたことの無い通路を歩いていた。いつもの赤いじゅうたんではなく、落ち着きのあるワインレッド(という色を最近知った)で、壁には窓がある。その窓から見えるのは、長く長く続く花畑と木。その向こうにあるのは、草原。
 曲がりくねった通路を通る。途中、たくさんのドアに出会ったが、ファゼットはどこも開けなかった。最後に、通路の突き当たりに来ると、ファゼットはやっと足を止めた。
「ここが、わたしの書斎だ」
 綺麗な金属の鍵。何で作られているのだろう。鍵を開けてノブを回す。ドアが奥に開かれると、古い本の放つあの香りが、アレックスの鼻に飛び込む。資料室ほど強いものではないが、本の匂いだ。ファゼットはアレックスに椅子を勧め、自分は書斎奥にある椅子に座る。アレックスは椅子に座ると、その椅子のクッションの柔らかさに驚く。驚きながらも、書斎を見回す。広さは自分の部屋と同じくらい。両の壁は床から天井まで本がぎっしりつめられている。青空の見える広い窓を背にして、上等の木で作られたデスクがある。そのデスクの上には何冊かの本が並び、ペン立てと封筒入れが傍に置いてある。
 アレックスは、辺りの空気に、ヨランダのつける香水と同じ匂いを嗅ぎ取った。頭のどこかをしびれさせる、それでも嗅ぎたくなってくる、あの不思議な香り。
 ファゼットは単刀直入に告げた。
「どうだね、アレックス。わたしと共に、この世界の裏側を治めてみないか?」

 世界の裏側を治める?

 ファゼットはアレックスの硬直にも構わず、続けた。
「レポートの内容から見ても、君は強い好奇心と探究心を持ち合わせた人物であると判断できる。あのレポートの中には、H・Sが君に教えていた以上の事がつづられていた。君を娘の遊び相手で終わらせたくないのは、そのためだ。娘の遊び相手となるのも良いが、わたしとしては、将来の右腕として活躍してもらいたいのだよ」
 どこかに置かれた時計の、時を刻む音が響く。
「もちろん、すぐに返事を出せとは言わんよ。君には考える時間をあげよう。気持ちの整理も必要だからね。一週間、時間をあげよう。わたしも忙しい身なのでね、毎日屋敷にいるわけにはいかないのだ」
「はい……」
 返事しか出来なかった。

「全く、お父様ったら、そんなに跡継ぎが欲しいのね。アタシじゃ力不足って事ね。ひどい」
 今日は、ヨランダの部屋でのティータイム。アレックスの話を聞いたヨランダは、ぷくっと頬を膨らませた。アレックスはキュウリのサンドイッチを甘い紅茶で喉に流し込んでから、ヨランダに問うた。
「あの、ヨランダさんのお父様は、どんな方なんです? 以前一度お会いしたきりだから、よく知らなくて」
 堅苦しいからお嬢様と呼ばないで、とヨランダに言われているので、アレックスは彼女を名前で呼んでいる。自然保護警備隊の入隊後に徹底的に叩き込まれたはずの敬語が少し砕けているのもそのため。
 ヨランダは息を吐き、アレックスの傍に寄る。長椅子に二人一緒に座っているので、立ち上がる必要は無い。彼女が近づくと、不思議な香りの香水が彼の鼻を刺激する。この不思議な香りを嗅いでいると、頭の芯がしびれるような不思議な感覚に襲われる。それでもなぜか香りを嗅がずにはいられない。奇妙な香水だ。
「お父様は、昔からお仕事で忙しくしてらっしゃるの。アタシでも、会えるのは月に一度か二度だったわ。今でもそうだけど。でも、お帰りになったときは、アタシのところへ真っ先に来てくださるのよ」
 しなやかな指が、彼の黒髪を撫でる。
「あなたの事も大事にしてらっしゃるの。良かったわね、お父様に気に入られて。お父様が気に入る人間は《子供》たち以外にもいたのねえ」
「……《子供》たち? あなた以外にもいるんですか? それともどこかに孤児院があるんですか?」
「後者ね。お父様が引き取って、別の場所で彼らを養育したの。お父様がじきじきにカリキュラムを組んで、お父様ご自身が彼らを教育したのよ。彼らはもう成人になって、お父様の元を離れたわ。でも会いに来るの」
「へえ、そうなんですか。オレも会えますか? その、《子供》たちに」
 そこでヨランダは優雅に声を立てて笑った。
「あら、何度も会っているじゃないの。お父様が《子供》たちの中でも特に目をかけて育てた一人に」
「???」
「まだわからない? H・Sよ」


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