第7章 part2
月に一度の会議が終わった翌日、アレックスにレポートを書かせる宿題を与えた。アレックスがレポート書きで奮闘している間、H・Sは飛行艇の整備をしていた。燃料補給、部品のチェック、機内の掃除などなど。アーネストは、《動物園》の動物たちの散歩に行っていたので、手伝えない。雨の日の場合、散歩は別の場所で行われるのだ。
そして、今朝にレポートを回収し、資料室で読んだ。出来は、目を見張るほど素晴らしいものだった。彼が教えてきた事柄を完全に理解し、同時にアレックスなりの解釈が文章の中につづられている。読んでいて驚くと共に空恐ろしさすら感じた。アレックスの吸収力と応用力は、彼が思っていた以上のものであった。野生動物保護官ではなく普通の大学生になっていたら、アレックスは二十歳に満たないうちから博士号を取得できるかもしれない。就くべき職業を間違えたな。H・Sは思った。
ファゼットにレポートを渡した後、その判定を聞いてから、格納庫へ戻る。操縦室の転送機から、依頼の紙が何枚か吐き出されて、紙受けの上に重なっている。紙を取り上げて依頼内容に目を通すと、また紙受けに戻した。
「依頼は明日から! 今日は休みだ、休み」
不機嫌に呟いて、自分の席に座る。座席の背もたれを深く後ろへ倒し、体を預ける。そして、ため息をついた。
(一体全体義父さんは何を考えている? 基地の連中の圧力を強化するだけなら分かる。だが、なぜあいつを跡継ぎに選ぶ?)
前方の防弾ガラスには、格納庫の壁が映っている。が、アレックスの顔もぼんやりと映った。
(法律上の死亡。表世界で存在を抹消させて、表世界の者とのかかわりを断たせた。基地の連中のしつこい通信からは逃れられるから、その点は感謝しなくては。だが、あれだけは納得いかない)
ファゼットは、もしアレックスが首を縦に振ってくれるなら、アレックスを将来の自分の右腕として――つまりは後継者として――教育することをH・Sに伝えた。H・Sは納得できない。自分がその立場なら、アレックスには何の教育も施さず、ほったらかしにするだろう。レポートを見て分かったことだが、アレックスの好奇心は人並みはずれており、自分で資料を読み漁って情報や知識を得ている。わずか数ヶ月でH・Sをうならせるレポートが書けるほど、山ほどある資料の中から己の求める正しい情報を拾い上げられる収集力もある。そんな奴をこれほど重要な地位につけようとするとは――
(敵に砦の見取り図をくれてやるようなものだ)
ラジオや新聞などメディアによる情報は遮断されているが、アレックスはアーネストを代わりに情報入手に利用している。アーネストは口数は少ないが、アレックスの雑談につきあうくらいの言葉は喋る。もし表世界のことを必要以上に喋っているようなら、今この時間にも、アレックスに何か話しているかもしれない。
ファゼットに言われたことを思い出す。
『君の契約者、元隊員だったあの男とアレックスは仲がいいようだな。境遇を同じくするもの同士、惹かれあっているのだろう。あの男はアレックスに色々話すかもしれないが、それはそれで構わない。あの男が事実を話せば話すほど、アレックスを縛り付ける枷の力も強くなるのだから』
本当に大丈夫なのか?
(義父さん。今まで誤ることのなかったあなただが、あの言葉だけは、賛成できない。他の奴らも同じ意見のはずだ)
H・Sは首を横に振ってため息をついた。
ヨランダはアレックスの黒髪を愛おしそうに撫でながら、話を始めた。
「アタシたちの生まれる前の話だけど、およそ五十年前に自然保護法が施行された。その当時、アタシのおじい様が、当時の環境保護団体に裏側から莫大な援助をしていたの。環境保護団体が政治に口を出せるほど力を持つ事が出来たのは、おじい様の後ろ盾があったからこそ。そして、環境保護団体の幹部たちが基地や議員の地位についているのも、おじい様のおかげ。でも、彼らはおじい様から援助されたことを隠そうとしたわ。自然保護法が施行された後、世界で最も四季の変化に富み、様々な農作物の取れるこの島を、口止め料としておじい様に譲ったの。本当は議会のトップが住む予定だったらしいけどね」
「島……?」
「ええそうよ。ここは、現在の地図には決して載らない島。議会の者たちがこの島の存在を隠しているの。載ったら困るでしょう? こぞって人々が押し寄せるでしょうからね」
不思議な香りの香水が、アレックスの頭のどこかをしびれさせてきた。眠気も少しずつ出てくる。寝ては駄目だと、アレックスは舌を噛んだ。
「十五年前におじい様が亡くなった後、お父様が後を継いだの。その頃には援助が無くても、議会や基地は自分たちでお金を集める事が出来るようになっていたわ。お父様は彼らへの援助を断ち、代わりに極秘で別の活動を始めた。各地の孤児院から、子供たちを何人か集めて、ご自分で教育なさったの。あなたたちが受けている今の教育ではなくて、お父様ご自身がテキストを作って、ご自身で教鞭をとったのよ。最新機器や航空機操縦、薬物や生物学……まあ、色々ね。同時に彼らは別のことも仕込まれてきたわ。それは、政治や議員社会の情報収集。集めてきた情報をお父様にお渡しして、会議のときに役立てるわけ。まあ、スパイってところかしら。そして成長した彼らは、世界に出て行くの。野生動物保護官が躍起になって追いかける、ハンターとなってね」
「なぜ、ハンターを育てたんです?!」
「それは誤解を招く言い方ね、アレックス。お父様はハンターを育てたのではなくて、ハンターとなるよう教育しただけの事。お父様の教育の本当の狙いは、ハンター活動を通じて、政治界の裏側にある情報を集める事なの。お父様に育てられた《子供》たちは、皆優秀なAランクハンターとなり、同時にスパイにもなった。その中で特に優れていたのが、H・Sよ。身体能力は平均的だけど、頭の回転でカバーできる。その上口も達者だから、会議では代表者にされちゃっているのよ」
しなやかな指を彼の黒髪の中に滑らせながら、可笑しそうにヨランダは言う。口達者。確かにその通りだと、アレックスは思った。
「そういえば、会議って何です? 何の会議です?」
「詳しくは知らないわ。でも、この会議の出席者は次の者たちと決められている。上院議員代表、下院議員代表、基地の上層部、Aランクハンター」
アレックスの目が大きく見開かれた。
「それ以上詳しい事は、本当に知らないの。アタシは一度も出席を許された事がないのだもの。ごめんなさいね、アタシの可愛い子」
指先が頬を撫でる。くすぐったい。
「い、いや、いいんですよ。そんな……」
アレックスは赤面しながら顔を背けた。彼の頭の中をしびれさせる不思議な香水の香りが弱まり、目がさえた。ヨランダはしつこくせず、あっさりと身を引いた。次の瞬間、ぎゅっと、アレックスを両腕で抱きしめた。あの香水の香りが強くなり、アレックスの頭は一気にしびれた。
「何処へも行かないでちょうだい、アレックス」
「……行きません、何処にも。貴女の傍にいます」
「いい子ねえ。聞き分けの良い子は好きよ」
ヨランダは、目のとろんとしたアレックスの頭を撫でた。
部屋に戻ったアレックスは、小説の続きを書こうとした。が、紙に向かっても、エンピツを削っても、書く気が起こらない。十分以上うなった挙句、エンピツを放り出し、革靴を脱いでベッドに寝転んだ。どこかで誰かが彼を見張っていようが、もう気にしない。見たけりゃ見ろ。そのまま彼は目を閉じた。雨のしとしと降る音が耳に心地よい。
『わたしと共に、この世界の裏側を治めてみないか? ……もちろん、すぐに返事を出せとは言わんよ。君には考える時間をあげよう。気持ちの整理も必要だからね。一週間、時間をあげよう』
ファゼットの言葉が、頭の中にこだました。会話を思い出しながら考える。裏世界とは一体何だろうか。映画で見るような、ギャングやマフィアの支配する世界だろうか。それとも、表向きは大企業を装って裏では法律で裁けない悪事を働く連中の住む世界だろうか。情報をほとんど与えられていない以上、想像がつかない。これでは、時間をもらったところで、返答の仕様が無い。ヨランダはあまり知らないようだし、H・Sも喋ってくれるとは思えない。アーネストはH・Sと一緒にいるとはいえ、裏世界にはあまり足を突っ込んでいないだろう。ファゼットはどこかへ出発してしまい、聞こうにも聞けない。
(指名手配されている以上、外には出られない。……どうやって外へ出るかは、まあ後で考えよう。それより、今のオレには行くところはない。指名手配が解かれるのがいつのことかすらもわからない。もしかしたら一生解かれないとかってのもありえる。それなら、ここにいたほうがいいのかもしれない。いや、オレはここに、いなくちゃだめだ)
窓の外では、しとしと雨が降り続いていた。雨を見て、アレックスはまた考えを変えた。
(裏の世界を、もっと知る必要があるなあ。やはり、嘘でもいいから聞いておくべきだ。今いるといいけど)
テーブルの上に置かれた銀のベルを力いっぱいリンリン鳴らすと、三十秒ほどでセイレンが部屋に入ってきた。アレックスが用件を告げると、メイドはお辞儀をして退室した。さらに十五分後、目当ての人物が部屋に入ってきた。
寝起きを起こされたといわんばかりの不機嫌な顔で、H・Sは、閉じたドアにもたれかかった。
「で、何の用なんだ?」
アレックスは手短に話す。ファゼットの言葉と、それに対する返事を一週間後にしなければならないという事を。
「教えて欲しいんだ。あんたの知ってる限りでいいから。あの人の言う、『裏世界』って一体何?」
ハンターの目つきが、険しくなった。同時に、聞かれたくないことを聞かれたといわんばかりの苦々しい表情も顔に表れる。
「あの方がなぜお前なんかを跡継ぎに指名したのか、さっぱりわからんな」
おおげさにため息をついた。
「お前ごときにそんな大役が務まるほど――」
「話題そらしはいいから、話してよ」
話をさえぎられるのは好きではないが、アレックスを相手にしているとこんな事は頻繁にある。H・Sは咳払いすると、しぶしぶ口を開いた。
「私の知る限りであっても、語りつくすことは不可能。それでも分かりやすく言えば、様々な情報があふれる世界」
単純だ、といおうとしたアレックスを、H・Sは制した。
「かつては麻薬や密造酒の売買ルートを握っていた連中が住んでいた。だが今は、大量の情報を収集でき尚且つ己の利益や目的にかなうものをえり分ける能力を持つ者が住んでいる。情報と一口に言っても、貯金箱の暗証番号から、ミサイル発射防止解除のパスワードまで色々あるわけだ。そして、栄養剤をどのメーカーが作ったのかを調べるのも情報収集のひとつだ。現在は、新聞やうわさ、掲示板などを通じて様々な情報が飛び交っている。情報の洪水におぼれて流されることなく、己の最も必要とする情報のみを拾い上げられる能力がある者だけが、裏世界の支配権を握る事が出来る。何故だと思う?」
「うう、情報を独り占めして、自分に必要なもの以外を流せなく出来るから?」
「それもある。が、もっと重要なことも出来る。自分に必要な情報を選りだすだけでなく、他者にはその情報の形を変えて流す。ニセの情報を掴ませるわけだな。その情報を大衆の中に流した場合はどうなる?」
「……信じる人が出る。確認する手段は無いけど」
「そう。確認する手段は無い。ただの子供の噂話が銀行を倒産に追い込んでしまったという事例もある。根も葉もない噂話ですら、信じる者が出るんだ。ニセの情報を意図的に広めた場合でも、信じる者が少なからず現れる。そこで、先ほどの話だ……情報を流すことで大衆を操る事は出来るか?」
「……出来る!」
「そう。ニセの情報ですら、大衆は信じる。たとえ十人のうち一人が信じていなくても、信じるという空気に圧倒され、信じざるを得なくなる。その空気に飲まれてしまうわけだな」
「うん。……学校時代に同じことした経験あるし。呪いなんてないのに、皆信じこんだ」
「情報収集および情報操作によって、自在に大衆を操る事が出来る……それが、あの方の地位だ。お前なんぞに手が届くとはとても思えん」
「誹謗中傷は後で聞くよ。それより、情報を操るだけが仕事なわけ? それって簡単そうに聞こえるんだけど」
「簡単なものか!」
H・Sは強く言った。
「例えば、基地の連中が、『滅亡主義者がどこぞの町に現れた』という情報を大衆に流したいとする。そうするにはまずメディアを押さえねばならん。大衆が目にするものは、新聞、掲示板、ラジオ。それらに記事を載せる必要がある。新聞の一面に派手に書きたて、ラジオで放送し、掲示板に手配書を貼り出す。それだけでも信じるものは多い。メディアの力はそれだけ強いものなんだ。さらに情報を人々に信じ込ませやすくするために、至る所で噂を流す。なおかつ情報の真偽を探り出しにくくするために、幾重にも防御網を作って真相をぼかす。他にも色々あるが、これを学校の教室でやるのと、町の住人全てでやるのと、どちらが大変だ?」
「そりゃ、町の住人たち」
「そう。あの方はこれを、世界規模で行っているわけだ。あの方は各所から情報を引き出し、議会や基地の連中にも突きつけて恐喝できる立場にある。その手伝いをするのが、我々Aランクハンターというわけだ。ハンター活動を通して、法律の網目をくぐる連中のやり口がよ〜くわかるぞ。そして、情報を用いて大衆心理を自在に操れるならば、表の世界でも裏の世界でも頂点に立てる。豊富な財力と人材、メディアがあれば、世界の情報や思想を自分自身でコントロールすることができるからな」
アレックスは思わず唾を飲み込んだ。世界規模の、情報操作……。世界中の情報を一手に集め、己の望むままに操る。考えただけで目が回りそうだ。
「じゃあ、裏世界を治めるって言うのは――」
「乱暴な言い方をすれば、世界を支配することだ」
本当にアレックスは目を回してしまった。
夜十時。Aランクハンターたちは、会議室の椅子にそれぞれ座っている。だがこの会議室は、ファゼットの屋敷のものではない。別の場所だ。
「よく来てくれた、《子供》たち。仕事が長引いてしまってね、申し訳ない」
ファゼットは上座の上等な革張りの椅子にどっかりと腰を下ろした。Aランクハンターたちの顔に、さっと緊張と不安が走った。
「皆に集まってもらったのは他でもない。皆に伝えたいのだ。昼に通信を入れたとおり、我が屋敷にいるあの少年・アレックスをわたしの右腕として教育し、わたしの後を継がせたいと考えているのだ」
ざわめきすら聞こえない。
「だが、わたしは彼に選択肢を与えた。わたしの後を継ぐか否か。継がないのならば、従来どおり、娘の遊び相手として過ごせばよいだけのこと。継ぐのであれば、わたしが彼をじきじきに教育するつもりでいる」
「……義父さん」
最初に発言したのは、栗色の髪をした老け顔の男。
「なぜ我々の中の一人ではなく、あの拾い者を後継者として選ばれたのですか? あれは部外者でしょう!」
《子供》たちの中では、H・Sが跡継ぎの最有力候補として考えられていた。だがファゼットは自らが育てた《子供》たちではなく、全くの部外者を跡継ぎにしたいと言い出したのだ。他のハンターたちも、発言した栗色の髪のハンターと同意見と見え、苦い表情でうなずいている。H・Sは暗い顔をしていたが、やがて口を開いた。
「そもそも一体どういう理由があって、あの部外者を跡継ぎにしようとお考えになったのですか? 詳しくご説明願いたいのです。あのレポートの成果だけでお決めになったとは、私には思えない」
ファゼットは、うなずいた。
「そう。彼を跡継ぎにしたいと考えたのは、なにもレポートが君たちの誰よりも素晴らしかったからというだけではない。まずひとつめに、彼の存在自体に価値がある。元野生動物保護官であった彼は三年前のあの《事件》の生き残りであり、なおかつ《事件》の起こった真相を知っている。基地は、彼の身柄を何としても手中に収めようと、躍起になっていた。だが、わたしは、彼を表世界で死亡させ世間にそれを公表するように、基地の連中を『説得』した。彼は表世界で死亡し、それによっていずれ彼の存在は忘れられていく。掲示板や新聞に載るべき犯罪者は星の数ほどいるからな。基地の連中は、彼が我が屋敷にいることを知っている。わたしが彼を屋敷においておく限り、基地へ、より強い圧力をかける事が可能となる。わたしが彼の後ろ盾になって、基地の行ったことを公表しても良いのだからな。基地は公表されるのを何としても防がねばならんのだよ。議会の失態を基地がもみ消していた事が知られれば、基地も議会の連中も、立場が危うくなってしまうからな。その点から見て、彼はいい人質なのだよ。例え、娘が彼に飽きて捨てたとしても、わたしは彼を捨てるつもりは無い」
「次の理由は?」
「二つ目の理由は、君たちの誰よりも高い理解力および情報選抜能力を持っているからだ。H・Sには彼の教育係をつとめてもらったが、最初彼は話を鵜呑みにしていた。だが自分で知識を得た後は、同じ資料室で勉強させた当時の君たちに書かせたレポートをはるかに上回る出来のそれを作成してみせた。わずか数ヶ月で、だ」
ハンターたちの間でうめき声があがる。アレックスのレポートは既に配布されていたのだ。そしてそれを読んだハンターたちは、その出来にうならされた。H・Sですらも。十年以上教育を受けていた彼らでさえ、アレックスには勝てなかったのだ。
「最初に彼を教育しようと考えたのは娘だ。一般市民の生活と比べて、今の生活がどれだけ素晴らしいものであるかを教えようとしたらしい。だが、彼の吸収力は並外れていた。これは彼の好奇心も手伝ってのことだ。最初は鵜呑みにするだけだった彼だが、日を追うごとに確実に知識を己のものにし、蓄積を続けたのだ。わたしはこのことを知り、ひとつ彼を試してみたくなった。H・Sに、さらに細部にわたって物事を教えさせてみたのだ。どこまで吸収し、どこまで理解できるかを。最初はショックを受けてばかりだったがやがては立ち直った。若さゆえの力だな。そして、さらに自分でも情報を集めた。本、人、色々。そのようにして彼は確実に知識を身につけ理解した。それも、わたしの考えていたよりはるかに早く、だ」
一旦言葉を切る。
「彼は確かに外部の者だ。だが、彼は己を枷で縛っており、屋敷から出る事は出来ないのだ。彼が表世界で死亡していることを知ったとしても、既に指名手配から解かれたと知ったとしても、彼は逃げ出すことは無い。それは保証する」
「だが、あなたに忠誠を誓っているわけでもないのです」
H・Sは静かに言った。
「あれをあなたの跡継ぎにするのは危険すぎる。吸収した知識で何をしでかすか分からない」
「彼がわたしの後を継ぐことを拒否したならば、娘の遊び相手として過ごせばよいだけ。それに、娘が彼に飽きて捨てたとしても、わたしの元から逃げ出す可能性は低い。なぜなら――」
また言葉を切る。
「彼は、中毒症状にかかっているからだ」
ハンターたちは仰天した。
「H・Sにはもう話してあることだが、娘の使う香水に、ある薬が仕込んであるのだ。彼はそれを鼻腔から吸引し続けている。鼻腔から吸引すると、脳を一時的に催眠状態にする。そして、脳がその状態のときに何か命令を下すと、脳はそれを覚える。そして同じ命令を繰り返すことで、命令を口にしていなくても、命令どおりの行動をとるようになる。催眠術にかけられたものが、術者の命令に従うのと同じだな。娘はその薬の耐性を持っている特殊な体質の持ち主だから、香水にして体に降りかけても問題は無いのだ」
ハンターたちは全てあっけにとられていた。
「中毒症状と言っても、麻薬のように強いものではない。薬を鼻腔に吸ったときだけ、また吸いたくなる。だが、吸えなくなれば、吸いたいと言う欲求もすぐさまなくなるのだ。きわめて気づかれにくい中毒症状だ」
ファゼットは笑っている。
「彼はわたしの跡継ぎになることを拒むかもしれん。だが、わたしの屋敷から、彼が出て行く事はないのだよ」
それでも、ハンターたちの表情は暗いままだった。
同時刻、夜十時。消灯時間を過ぎ、部屋の中は真っ暗だった。カーテンごしに、雨のしとしと降る音が聞こえてくる。アレックスは布団の中に潜り込んではいたが、まだ眠ってはいなかった。眠れなかった。昼に聞いたファゼットとH・Sの話が、繰り返し頭の中に浮かび上がってきた。情報にあふれた裏世界。共に支配する。裏世界を支配する事は世界の頂点に立つのと同じ事。
(でも、オレはそんな地位欲しくない。スケールが大きすぎるよ。学級委員をつとめるのとはわけが違う。そもそもなんでオレなんかにそんな重要な地位を与えようとするんだ。オレなんかよりふさわしい人材なら、他にもいると思うんだけどな)
アレックスは羽根布団の中でもぞもぞ動いて寝返りを打った。
(たかがレポート。そのくらいで、オレがそんな重要な地位につけるわけないじゃん。きっとからかわれたんだ。うん、そうだ、そうに違いないよ)
H・Sですら納得できない顔をしていたのだ。からかわれたんだ。アレックスは強引に片付けた。一方で、情報を使って大衆を支配するという地位に魅力を感じる自分がいることに、気がついていた。もしこの地位につく事が出来れば、自分が無罪であるという情報を流す事が出来る。同時に、バッファロー暴走事件の真相も公表でき、今も基地に追われる身であるアーネストを救う事が出来る。さらに、自然保護法が一部の特権階級のために作られたものであるという事も――
急に、別の考えが頭をよぎった。真相を公表したら、世間はどうなるだろう? 自然保護法が土壌や水質汚染を下げた功績は、認められてもいいだろう。だが、一部の特権階級の生活を保護するために施行されたと公表されたら、ひょっとすると世間では滅亡主義者なみの暴動が起きやしないだろうか。豊かな生活を手に入れるために……。数ヶ月前には栄養剤を食べて暮らしていた自分も、今は本物の食材を使った料理や菓子に舌鼓を打つ毎日。以前の暮らしに戻りたいと思う気持ちは薄れてしまっている。そして現在、一部の人間だけを食わせられる程度しか土地の力が無いのならば、自然保護法の真実を公表するのはよくないだろう。食料をめぐって、人々が争いを起こすだろうから。一度荒れた土地を開墾したとしても、人々が満腹できる量の農作物はすぐには取れないだろう。苗や苗木に対して改良に改良を重ね、土地を休ませたり肥料を与えるなどしなければ……。魚介類は海上や川の区で保護されている分、増えているから、乱獲しなければ何とかなるかもしれないが……。
(やっぱり、駄目だ)
ため息をついて、強引に悩みを片付けた後、アレックスは目を閉じた。
(それにオレは、ここから出てはいけない……)
それからの一週間は、あっというまに過ぎた。ファゼットは再び屋敷に戻ってきた。アレックスはその夜、再びファゼットの書斎で彼と向かい合った。
「では、先週の質問の答えを聞かせてもらおう」
「その前に、教えていただきたいんです。なぜ自分をそれほど重要な地位につけようとなさるのです? 自分以外にも優秀な人材はいくらでもいるのではないですか?」
「おお、そうだったね。説明が抜けていたが、君を将来の右腕として活躍させたいと思ったのは、なにもレポートの成果だけではない」
ファゼットは、デスクの引き出しをひとつ開け、書類の束が入った封筒を取り出した。それをアレックスに手渡す。
「申し訳ないがね、君の行動をつぶさに観察させてもらっていたよ」
封筒を開けて中身を取り出してみる。たくさんの写真と、書類。写真全てにアレックスが写されており、書類にはアレックスの一日の行動が記されている。思っていた通り、アレックスは監視されていたのだ。
「いえ、何となく分かっていましたから……」
「おお、わかっていたのかね。それはすまなかった」
何に対してすまないといっているのか、アレックスには分からない。
「君の行動をつぶさに観察し、まとめた結果、わたしは君を将来の右腕として教育しても良いと考えたのだよ」
最後の書類を見ると、これまでのアレックスの行動から導き出された評価が書かれている。ひとつのことに集中して取り組む。最初は鵜呑みにするが、知識の吸収は貪欲かつすさまじいものがある。などなど。「すさまじい」呼ばわりされるほど自分は勉強していた覚えなど無いが……。
「読んでもらえると分かるように、これらの行動と評価から、わたしはそう結論付けた。わたしの将来を担うのにふさわしい、と」
「その地位を利用してあなたの不利になるような事に使うと、お考えになった事はないんですか? 自分も人間ですから邪心はあります。自分の扱う情報が議会や基地を崩壊させ、大衆をあおって暴動を起こさせることになるかもしれないんですよ。自分はここへ来てわずか数ヶ月、そんな大役を引き受けられる器ではありません」
「おお、素晴らしい言葉だ! それこそ、教育の成果だよ!」
ファゼットは手を叩いて満面の笑みを浮かべている。
「君はそれで、わたしの後を継ぐのは出来ないといっているわけだね?」
「はい……申し訳ございませんが……」
「いやいや、かしこまらなくてもいいのだよ。そのための選択なのだからね。もちろん、君があとを継がなくても何ら問題は無いよ」
「そうですか……」
アレックスは内心ホッとした。一方、地位を手放したことをほんの少しだけ残念に思っていた。
「そのかわり、お嬢様のお傍にいます。自分は決して、何処へも参りません」
「そうか、ありがとう」
アレックスの答えは、その夜のうちに全Aランクハンターに通知された。皆、安堵のため息を漏らした。
H・Sを除いて。
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