第8章 part1



 八月の終わり。滅亡主義者の各地での爆破工作が激しくなった。商店街、学校など人の大勢集まる場所以外にも、各地の基地までもが狙われた。深夜、ある基地の倉庫が爆破され、栄養剤や動物用の飼料が吹き飛んでしまった。倉庫近くにある隊員たちの部屋にも爆風が襲いかかり、窓は全て割れ、就寝中の隊員たちが、割れたガラスによって傷を負った。爆破の犯人を見つけるために隊が組織されたが、消火騒ぎと混乱にまぎれて、犯人はすでに消え去っていた。
 滅亡主義者の活動が活発になるにつれて、町の掲示板には様々な写真が貼り直された。いずれも、滅亡主義者の下っ端、幹部たち。町の住人たちは、写真を眺めては、一方で故人の冥福を祈り、一方で滅亡主義者への怒りをあらわにしていった。
 選挙は九月、それはもう間近。どの立候補者に投票するのかが、もう皆の中で決められつつあった。滅亡主義者による治安悪化を防ぐために。

「滅亡主義者が急激に活発になったな。これだけの規模だ、特権階級の後ろ盾がついたな」
 操縦席にて、転送機が吐き出した新聞を読みながら、H・Sは一人ごちた。隣席では、アーネストが相変わらずの仏頂面で操縦桿を握っている。
「座標三〇九で固定。そのまま自動操縦に任せろ」
 方向転換し、操縦を自動に切り替える。後は、飛行艇が目的地まで連れて行ってくれるのを待つばかりだ。
 窓の向こうは既に夕日が落ちている。夕闇が迫り始め、西空はかろうじてオレンジの弱い光を残すのみ。十分も経てば、空は闇に包まれる。夜になれば、自然保護警備隊の警備もゆるくなる。野生動物保護官は夜間のパトロールには懐中電灯以外の明かりを持たされないからだ。ましてや空を照らせるほど明かりの届く範囲は広くない。せいぜい、自分の周囲が限界。
 時計が八時を指すと、H・Sはアーネストを先に休ませる。そして、通信回線を開いた。しばらくノイズが聞こえ、数秒ほどで声が聞こえてきた。そして、通信用モニターに通信相手の顔が映し出される。それはAランクハンターの一人だった。
『ああ、H・Sか。どうしたんだい? カメレオン・バリアでも故障したのかい? 修理は受け付けてないぜ』
 Aランクハンターの乗り込む飛行艇には全て、カメレオン・バリアが取り付けられている。自然保護警備隊や警察がAランクハンターたちを簡単に見つけ出せない原因のひとつだ。
「冗談はよせ、J・F。ちっとばかし調べてもらいたい事があるんだが、いいか?」
『なぜだい? お前のほうが情報集め上手いだろ?』
「依頼が立て込んで、収集の暇がない」
『ま、お前は人気者だからな。わかった。だが一つだけだぜ』
「ああ」
 H・Sが用件を伝えると、通信回線の向こうにいる相手は、OKの返事をよこして通信を切った。
 通信機を元に戻した後、H・Sは座席の背もたれを深く倒し、体を預けた。
 二時間後、彼の依頼した調査内容が、転送機から吐き出されてきた。

 操縦室にてH・Sが調査内容の報告書を読んでいるとき、アーネストは自室で深い眠りについていた。ベッドに横になればすぐ眠るが、交代時間を知らせるコール音が聞こえたらすぐ目が覚め、頭の働きもわずかな時間で活発になる。一般人としては普通ではないが、ハンターとしては普通だ。
 夢を見ていた。無数の獣に追われ、立ち向かうことも出来ずに跳ね飛ばされる夢。何度も何度も見ている。これは夢だと、夢の中で彼は知っている。だが同じ夢を何度も見ているのに、恐怖心だけは消えてくれなかった。獣たちのひづめに踏み殺されるかもしれない恐怖。それだけは夢から覚めても憶えている。そして今夜の夢にうなされて目を覚ましても、その恐怖心は今も彼に付きまとっていた。
「……またか」
 ため息をついて額の汗をぬぐい、時計を見ると、交代の時間十五分前だった。目が覚めるのはいつもこのくらいの時間帯。小窓を見ると、外はどうやら悪天候のようだ。激しい雨の音がする。汗を流すためにユニットバスで冷たい水を浴び、体を拭いて着替える。ユニットバスから出たところでアラームが鳴ったので、まだ濡れている髪を乾かすこともせずに部屋を出た。
 通路を歩きながら考える。以前ほど頻繁ではないが、今も見ているあの悪夢。三年前のバッファロー暴走事件が夢の中で繰り返される。瀕死のアレックスを助けたとき自分もはねられて重傷を負った、あの忌まわしい《事件》。思い出すのも嫌だ。だが、悪夢を見た後は必ず体の傷がうずく。あの忌まわしい事件の記憶ですら、頭の片隅におきっぱなしにするなというのだろうか。苛々する。これから操縦しなければならないのに。
 操縦室の自動ドアが開く。明るいライトに照らし出された部屋の中で、唯一前方のフロントガラスだけが、暗い。雨が降っているのがわかる。時々ワイパーがフロントガラスをぬぐうが、あまり効果がない様子。バケツをひっくりかえしたような大雨。
 H・Sはアーネストの入室にも気づかぬ様子で、書類を読みふけっている。アーネストは肩越しに見たが、それは滅亡主義者に関わるものとしか読み取れなかった。滅亡主義者という単語が何箇所か目に入っただけだから。口から漏れる呟きも、何度か滅亡主義者という単語があった。
「ん?」
 やっとアーネストの存在に気づいたと見え、彼は顔を上げて後ろに首を向ける。少し機嫌の悪い表情。
「盗み見か? 悪趣味な」
「見られたくねえなら、人前で読むな。これほど背後に無防備なお前がAランクでいられる理由がわかんねえよ」
「……」
 H・Sの、アーネストを睨みつける目がより険しくなった。彼はそのまま何も言わずに立ち上がり、書類を持ったまま操縦室を出て行った。いつにも増して機嫌が悪い。ねちねち嫌味を言われなかっただけでも幸いだ。が、アーネストは傷のうずきもあって苛立っており、相手に八つ当たりしたかった。
 自分の席に座り、モニターをいくつか見て座標と方角を確かめる。H・Sが書類を読むのに夢中で方向の修正を忘れていたようで、目的地の方角から西へ三キロぶんずれていた。修正後、操縦桿を握る。雨のときは人間がある程度操縦しなければならない。この装置の欠陥。悪天候の夜間ではレーダーの性能が若干鈍るのだ。そのため、晴れている夜以外は人間が自分でモニターを見ながら操縦して、飛行艇を動かさねばならない。見張りに見つかる確率は下がるが、それでも悪天候のときの操縦は面倒だ。
「酷い嵐だ……」
 強風が時々機体をあおる。機体は風の抵抗を極力減らす設計なのだが、それでも風の力を逃がしきる事は出来ていなかったようだ。若干機体が上下に揺れるのだ。一時間ほど経って、嵐は収まった。風と雨は一気に弱くなり、さらに三十分ほど経つと、雲が晴れて綺麗な三日月が見えてきた。アーネストはほっと息を吐いて、自動操縦に切り替えた。
 飛行艇が目的地へ向かって飛ぶ中、彼は座席の背もたれにもたれかかった。前方には大きな三日月が光っている。三日月の光の中に、アレックスの顔が浮かんだように見えた。その顔を思い出すたび、アーネストは胸が痛くなる。アレックスはあちらこちらに流されそうになっている。対立する勢力が彼を求め、バッファロー暴走事件の被害者であり真相を知っている彼の立場を利用しようとしている。今はファゼットがアレックスを手中に収めて、議会や基地へ圧力をかけるための外交カードにしている。しかし議会と基地の手に渡れば、アレックスは事件の真相を外部に知らせぬために殺されるだろう。そう考えると屋敷の中にいたほうがいいかもしれない。外の世界の事は、必要以上に知らせないほうがいいかもしれない。アレックスの恐ろしく強い好奇心がそうはさせないかもしれないが……。
 アーネストはため息をついた。

 三日月が窓から船内を照らす頃、H・Sは自室の小さなデスクに書類を置いて、それをじっと睨みつけていた。仮眠は既に取ったので、頭はさえている。
「やはり新聞やラジオだけでは足りんな。それに、あれの家庭教師をやらされていれば情報収集もその分遅れてしまう……」
 彼は地図を広げた。そして、ボールペンらしき筆記用具を使って、地図にバツ印とその傍に日付を描き込んでいく。一分も経つと、地図の特定の箇所だけ十個以上のバツ印がついた。特権階級の地区にもいくつかあるが、他は別の場所にバツ印がある。
「集中しているのは人口密集地帯。始まったのは、選挙活動が活発化して新聞に書きたてられる頃。となると……票獲得のために資金を個人的に奴らに回したな。派手に活動されると、困るのはこちらだ。だが、奴らを公的に締め上げれば、滅亡主義者に肩を貸すことがどれほどの愚行か身にしみて分かるだろうな」
 デスクの上に筆記用具を放り出し、地図をたたんだ。
「次の会議は九月の頭。そこでシメてやる。クズどもが」
 交代時間を告げるアラームがやかましく鳴り、彼は書類をデスクの引き出しにしまって施錠し、部屋を出た。

 昨夜の嵐が嘘のようだ。アレックスは、晴れ渡る空を見た。そして、綺麗な白い砂浜と広々とした海を見て、目を輝かせた。海を見るのは、初めてだった。水平線、潮風の香り、引いては寄せる波、不思議な形の木々、遠くでミャアミャアと鳴く鳥、はるかかなたに見える入道雲。幼い頃に絵本で読んだのと同じ光景。
 朝、目が覚めると、アレックスは既に海の傍にある小さな丸太小屋にいたのだった。木製の家は初めてだったが、それ以上に、海を見るのは初めてだった。
「すごいなあ。海なんて初めてだ!」
 感動しているアレックスに、ヨランダは言った。
「ここは、プライベートビーチ。つまり私有地ね。夏に羽を伸ばすにはぴったりの場所でしょう?」
 ヨランダの言葉を聴いていないアレックスは、本で読んだ記憶を頼りに、砂を手で掘り始めている。
「確かこういうところにも海の生き物がいるんだっけ」
 しばらく掘って、ギャッと声を上げた。指先をカニに挟まれたのだ。手をブンブン振ってカニを振り落とすと、カニは砂の中にいそいそともぐってしまった。それを見たヨランダは、優雅に笑った。
「あらあら、カニさんを怒らせちゃったのねえ。いけない子」
 砂浜を横切ってきて、彼の頭を撫でる。アレックスは、ヨランダから何とか目をそらして海へ視線を向けた。ドレスではなく白の水着だけを着ている彼女はとてもスタイルがよく、無駄な肉など全くない。それでいて出るところは出ている。モデル雑誌に出れば間違いなく人気ナンバーワン。これに見ほれない男はいないだろう。彼女に恋心を全く抱いていないアレックスさえ、長いこと見つめていると、彼女を抱きたいというみだらな考えに体を支配されてしまうだろう。
 原色を使った大きな傘(ビーチパラソルというらしい)の下に置かれたチェアに座った彼女は、手招きする。アレックスは、カニに挟まれた指の痛みを気にしながらも、彼女の傍に行く。あの嗅ぎなれた香りが、いつのまにか鼻腔を刺激している。いつのまにあの香水をつけたのだろう。潮風が吹いてきた。潮の香りが強く、香水の香りをあまり吸い込まなかったが、また吸いたくなって目と鼻の先の距離にまで彼女に近づいた。
「今日一日、たっぷり遊びましょうねえ」
 ヨランダは微笑んで、アレックスの黒髪にしなやかな細い指を滑り込ませた。彼女が体を近づけたので、香水の香りがアレックスの頭の中をたちまち麻痺させた。
「遠くへ行っては駄目よ。傍にいてちょうだいね」
 彼女の言葉に対して、アレックスは小声で返事をした。
 それからアレックスは一日海を堪能した。砂を掘って生き物を探したり、海水をなめてみたり、泳げなかったので浅い場所で肩まで浸かるくらいしか出来なかったとはいえ、十分に楽しんでいた。一方、ヨランダは泳ぎには来ないで、日光浴をしながら、アレックスを見ていた。そうして初めての海ではしゃいだアレックスが疲れきって丸太小屋の寝台で眠っている間、屋敷へと戻された。
 翌朝五時半過ぎ、全身の筋肉痛でアレックスは目を覚ました。昨日、海ではしゃいだことは憶えている。疲れきって、夕方に丸太小屋に入ってから真水のシャワーを浴びて着替えたことも憶えている。ちょっとだけ横になろうと考えて寝台に横になったこともちゃんと憶えている。が、目を覚ますといつもの部屋の中だった。海に行ったのは夢だったのだろうかとも思ったが、指先に残る、カニに挟まれた痕がそれを否定した。
(初めての海、楽しかったなあ)
 が、日焼けと筋肉痛のために体が痛み、さらに後日、鼻の頭の皮がむけてしまったことに対しては、楽しくはなかった。

 九月一日。
「お父様の仰ったとおりねえ。あの香水を使い始めてから、あの子、アタシからあまり離れなくなってきたわ」
 月に一度の会議の日。ファゼットは朝も早くから屋敷に戻ってきており、今、ヨランダの部屋にいた。ヨランダは父と話をしながらティータイムをすごしている。
「おお、そうかね。それは良かったな」
 ファゼットは、薫り高い紅茶を一口すすって喉を潤す。
「お前は昔から飽きっぽいところがあるが、まだあの少年を手放す気になれないのか。よほど気に入ったのだね」
「ええ、そうよ。あの子はアタシの大事なお人形。手放すなんて出来ないわ。動かないお人形はつまらないし、機械仕掛けのお人形は同じことしかしないからすぐ飽きてしまうわ」
「そうかね。まあ、屋敷にずっと置いておくほうが、彼にとっても幸せのはずだよ。美味しい料理に素晴らしい景色、上等の服、部屋と専属の召使。これ以上望むものがあろうか」
「あの子は可哀想な子。それにお父様があの子を跡継ぎにしてもいいなんてお考えになるから、あの子が余計な悩みを抱えてしまうのよ。あの子にそんな重荷を背負わせる必要は無いわ。あの子は、アタシの傍にいてくれるだけで十分よ」
 ヨランダは新しく紅茶をポットから注いだ。
「お父様、あの香水もういいでしょう? あの香り、アタシは嫌いなの。あの子はあの香りでうっとりとなって、何でも言うことを聞いてくれるんだけど」
「おお、そうかね。だが、香水の効果もかなり出始めている。もう使わなくてもいいだろう」
「アラ嬉しいわ!」
 ヨランダは微笑んだ。

 久しぶりに会った嬉しさか、アレックスは一方的に喋りまくっていた。暑い日差しの下、《動物園》で三十分以上もの立ち話となったにもかかわらず、アーネストは相槌を打つ暇すら与えられなかった。アレックスは息継ぐ暇もなく喋り続け、一体何処から言葉が洪水のごとくあふれ出てくるのかと、アーネストは不思議に思った。一週間悩みぬいた末にファゼットの提案を断ったこと、先日の海水浴が楽しかったこと。話の内容はその二つしかなかったが、それらを話すのに三十分もかかっているのだ。
 ようやっと話が終わった。が、アレックスは疲れた様子も無い。
「こういうわけなんだ」
「……そりゃ、よかったな」
 アレックスの喋りに圧倒され、アーネストに出せた言葉はそれだけしかなかった。
 話の間に、アレックスをしげしげと観察していた。少し背が高くなり、体つきも更にしっかりしてきた。まる一日の海水浴のせいか日焼けしており、鼻の頭だけ皮がむけている。もっと運動すれば更に体つきはたくましくなれるだろう。ヨランダがそれを許すかは疑問だが。
「ねえ、外ではどんな事が起きてるの」
 そら来た。恒例の質問だ。アーネストは、新聞やラジオやK区の酒場で聞くようなことしか話せない。が、外部から何も情報が入ってこないアレックスにとっては、聞くこと全てが新鮮なこと。滅亡主義者の活動の活発化、間近に迫った選挙、町と基地の警戒が厳重になる一方で手薄になり始める自然保護区。彼が話し終えるまで、アレックスは目を輝かせて聞いていた。やはりアレックスは情報に飢えている。何でもいいから話を聞きたがっている。
 話を聞き終えると、アレックスは礼を言った。
「いつもありがとう。オレ外に出られないし、ラジオとかも持ってきてもらえないから、外の世界がどうなってるかわかんなくて」
「いや……」
 アーネストは迷った。アレックスに伝えるべきかどうか。表の世界ではアレックスは処刑されたことになっており、同時に指名手配も解かれているということを。だが、知らせてどうする。ファゼットの支配下にあるアレックスはこの屋敷からは逃げられない。仮に手を貸して屋敷の外へ逃がしたとしても、今度は基地の手から逃れるために隠れねばならない。アレックスに知らせたところで、その後の彼にとって良いことなど何もない。結局、言わないことにした。

 小説の執筆はまだ続いている。アレックスは一度エンピツを置いて、書き上げたばかりの章を読み返した。異世界に飛ばされた主人公は無実の罪で投獄された。脱獄の方法を考えながら、牢番の呟きや愚痴を聞いて外の世界の情報を集めている。
(本当に……帰りたいんだろうか?)
 急にその考えが頭をよぎる。
(この小説を公表できたとしても、オレのことだと気づく人が何人いる? ただの小説としてしか見てもらえないかもしれない。それに、どうやってこれを出版すればいい? この《屋敷》にいながらこの小説を外に出すには誰かの手を借りるしかない。でも、借りる事が出来たとしても、外に出してもらえるとは限らないし、それに何のために出版するのかなんて聞かれたらどう答えよう?)
 急に増え始めた悩み事。執筆に夢中になっていて考えもしなかった事が、次々に頭の中にわいてきた。小説は半分まで書けたが、これをどうやって出版すればいいのか。この《屋敷》への出入りが自由とはいえど、自然保護警備隊に追われる身であるアーネストに頼むわけにはいかない。もし出したとしても、小説の主人公がアレックスを表すことに気づく人がどれだけいるだろうか。ただの娯楽小説で終わってしまうかもしれない。さらに最悪なことに、アレックスは監視される立場にある。この小説を既に監視者に読まれているかもしれないという最大の心配事が、頭の中に浮かび上がった。仮に読まれたとしても、監視者がこの小説をただの娯楽ものととらえるか、あるいは他に意図して書いたものととらえるかは不明だが。
 悩み事にあっという間に頭の中を支配され、読み直すどころではなくなった。アレックスは原稿を放り出し、ベッドに伏せった。
「駄目だ……《ここ》からは、出て行けない。約束したから……」
 そう、アレックスはヨランダと『約束』したのだ。「どこへも行かない」と……。
「遠くへ行っては駄目よ。傍にいてちょうだいね」
 海水浴の日、アレックスは次の言葉をヨランダに返したのだった。
「どこへも行きません。オレはあなたのものです……」


 会議がようやく終わった。H・Sは、用意されている部屋に向かいながら、今日の議員たちの顔に浮かんだ表情を思い出し、冷たく一人笑いしていた。滅亡主義者に金を回し騒動を起こさせて票を獲得しようとする候補者の存在をちらつかせただけで、顔が真っ青になっていたのだ。さらに、その候補者が誰であるか名前を挙げただけで、何人かの議員たちは泡を吹いた。そんな馬鹿な事があるはずがないと反論すると思いきや、誰一人として反論しなかった。これは意外だった。彼だけでなく他のAランクハンターも証拠を持ってきていたからだろう。滅亡主義者たちに渡された金額、爆破を起こす日時、被害にあった特権階級の者と候補者とのつながり。普通は、警察に渡せば即座に逮捕状が請求可能な、れっきとした証拠。が、議会の連中こそが、警察のトップ。
「き、貴様らは我々を脅迫するつもりか! 我々は法の下に一般市民の生活を守るべく行動する、一般市民にとって正義の味方同然の存在なのだぞ! その気になれば、貴様らを一網打尽にすることもできるのだ!」
 そのセリフが議員たちから一斉に飛び出した。その時、基地の上層部たちは渋面を作り、ハンターたちは一斉に笑ったものだ。
「正義? 法的な悪人であるハンターと法律違反の取引を行うやからが正義の味方? 笑わせるぞ!」
「あんたらにとっての正義は、自分の生活が脅かされないように都合よく法律を変える力を言うんだろ?」
「警察の力で犯罪を取り締まるよりも、特権階級の生活ぶりを民衆に知られないために暗殺部隊を雇っているようなもんじゃないか、貴様らは」
「貴様らが正義を口に出来る立場か。ちゃんちゃらおかしいわ!」
 事実を言われて顔が真っ赤になった議員たち。図星を刺されて反論もできなくなった彼らの顔を思い出すたび、H・Sは冷たく笑っていた。犯罪者を取り締まる側が、犯罪者と取引をしていたなど、一般市民が知ったらどうなるか。さらには自然保護法を一番に守らねばならぬ立場である基地の上層部までもがハンターと取引していたと、一般市民に知られたらどうなるか。議会に口出しできないように法律が整えられていたとしても、滅亡主義者並みの暴動が起きる可能性がある。さらに、これまで自然保護法によって、一般市民たちは栄養剤の暮らしを強いられてきた。もちろん、当時の耕地可能な土地や海中で世界中の農作物や魚介類をありったけ生産し養殖したとしても、全ての人々の腹を満たすことは出来なかったので、それは仕方がない。汚染度が低くなり、大規模な口減らしが行われたとはいえ、現在でも、全ての人々の腹を満たせるほどの収穫量は望めない。農業が廃止されて荒れてしまった土地を開墾し、農作物を大量にとれるようにするには何年もかかってしまうからだ。人工芝の植えられた場所も数多くあり、草食動物が食べるのに適してはいても、ヒトが食べるのには適さない。そんな中で、議員たちのような特権階級の者だけが贅沢な暮らしを続けていた事が知られれば、一般市民たちがどう反応するか……。
 議員たちはそれを知っているから、ハンターたちの嘲笑に反論できなかったのだ。
 部屋に到着し、ドアを開ける。疲れているので、風呂に入ってさっさと眠りたい。部屋の明かりをつけると、整ったベッドが二つ照らし出される。片方のベッドには、誰もいない。
「ふん。まだ修理に時間がかかってるのか」
「とっくに終わった」
 背後からの聞きなれた声に、H・Sは驚きもせず、振り返りもせず、言った。
「終わったなら、道草を食わずにさっさと戻ってくるんだな。どこで油を売っていた?」
「お前に言うべきことじゃない」
「はん。誰かに恋文でも渡しに行ったのか?」
 直後の突きを、H・Sは危ういところでかわした。あと一瞬、身を左へ倒すのが遅れていたら、確実に打撃のショックで脳震盪を起こしただろう。
「攻撃するという事は、やはり――」
 振り向きざまに胸倉を引っつかまれる。が、H・Sは全く慌てる様子も無く、相手を睨みつけた。しばし互いに殺意をぶつけ合った。やがて、アーネストが相手の胸倉から手を放す。が、直後に鈍い音を立てて、H・Sのみぞおちにこぶしが深くめり込んだ。
 体を折って咳き込むH・Sに、アーネストは言い放った。
「次は歯だけじゃすまさねえぞ。おぼえていろ!」

 ヨランダは、珍しく、アレックスを自室に招いていた。ティータイム以外で、彼女の部屋に招かれた事はない。
「いつ触れても、いい手触りねえ。クセもないし」
 アレックスの黒髪を、しなやかな指先で撫でる。アレックスは、いつもの香水の匂いがしないのに気づく。寝る前なのだからつけていないだけなのだろう。彼女の細くてしなやかな指先が髪から頬にすべる。くすぐったい。そのまま彼女はアレックスの頬を撫でた。基本、アレックスはされるがままになっている。最初は嫌がったが、相手がやめないので、諦めたのだ。それでも、あまり頻繁に触られるのは好きではない。早く解放してくれないものだろうか。
「ねえ、アレックス。明日、外へ出てみようかと思うの。《動物園》じゃないわ、お屋敷の外へ出るのよ。お忍びで」
 パッとアレックスの頭に、何かが点灯した。
「ちょっとだけの、アタシの夏休みなの。あなたも来たいでしょう?」
《屋敷》の外へ出る。それだけで、アレックスの心臓は跳ね上がった。外へ出られる!
 次の瞬間、嬉しさはしぼんだ。
「……駄目です。オレは外へ出られない」
「あら、どうして?」
「……あなたと、約束したから」
 ヨランダは、首を振って、アレックスを抱きしめた。
「ああ、あなたは本当に律儀なのねえ。アタシとの約束守ってくれるなんて。いいわ、それならアタシも外へは行かないわ。あなたの姿が何日も見えないのはさびしいもの」
 ヨランダと約束した。それは確かだ。だが、アレックスは彼女の約束以上の拘束力を持つものを内に抱えていた。幾度も彼女の香水を嗅ぎ、頭がぼんやりしているうちに繰り返された命令。それが、頭の中にこだましている。屋敷から出てはならない。頭の中にこだまする声は、彼に命令し続けているのだ。帰りたい気持ちはある。だがそれ以上に、頭の中に残る命令の力が強すぎたのだ。
 帰りたい。でも、《屋敷》の外に出てはいけない。それがアレックスの意思だった。彼は自ら、《屋敷》から出ないことを選択しているのだった。
「フフ。いい子ねえ、アレックス。アタシの可愛いお人形」
 抱きつつも、ヨランダは、アレックスの頭を撫でた。彼女のきれいな髪が、天井から優しく降り注ぐシャンデリアの光を浴び、より一層美しく輝いている。
「……なんでオレは、《お人形》なんです?」
 アレックスは何気なくその問いを口にした。
「あなたとアタシは血がつながっていないし、養子縁組もしていない。それに」
 ヨランダは言葉を切った。
「あなたに傍にいて欲しいから。お父様はあなたを養子に迎えるおつもりのようだったけれど、アタシは弟なんか今更ほしくないわ。それに、あなたといると楽しいもの。動かないお人形はつまらないし、機械仕掛けのお人形は同じ言動ばかりで飽きてしまう……。でもあなたは違うわ。ちゃんと血の通った人間。ただの作り物とは違う。遊び相手にはもってこいよ。おしゃべり以外にも、着飾らせるのも楽しいしねえ」
「オレ以外の遊び相手はいなかったんですか」
「ええ、残念ながら。お人形やぬいぐるみはたくさんあったけどね。使用人たちは決まりきったことしかしてくれないし、お父様は世界中を飛び回ってらっしゃるし、お母様はアタシが物心つくころに亡くなってしまったし……やっと見つけたのが、あなたよ」
 愛おしそうに、彼の頬を撫でる。どうやら《子供》たちは彼女の遊び相手ではなかったようだ。幼いころから人形やぬいぐるみ以外の遊び相手がいなかったことで、アレックスも人形やぬいぐるみと同じように扱ってしまうのだろう。彼女にとって、両親以外の人間は全て下位の存在。友達という対等な人間関係を作れなかったのだから、仕方ないかもしれない。
「だから、あなたを手放したくはないの。あなたはアタシの大事なお人形。わかってくれた?」
「はい」
 彼の返答に、ヨランダは彼をより強く抱きしめた。彼は真っ赤になった。薄いドレスの素材越しに彼女の胸のふくらみが彼の体に押し付けられていたのだから。
「いい子ねえ。いい子は大好きよ」
 ヨランダは抱きしめながらも、片手でアレックスの黒髪を撫でていた。

 黒い生き物が追ってくる。無数の四足の生き物が、追ってくる。必死で逃げても追いつかれる。やがて生き物たちは、ひづめで踏みつけ、大きな角で突き刺し、頑丈な体で跳ね飛ばした。不思議と痛みは感じない。空中に跳ね上げられ、群れてどこかへ突き進む生き物たちの中へ落ちていく間も、自分の血の温かさも、傷の痛みも感じ取れなかった。生き物たちの群れの中へ落下したとき、無数のひづめに踏みつけられる。骨が折れ、四肢はちぎれた。それでも痛みはなかった。目の前の景色が暗くなり、自分の命のともし火が消え行くのがわかる。閉じられていくまぶた。その裏に、今は亡き両親の顔が浮かび上がった。
「……」
 柔らかな羽根布団の中で、アレックスは目覚めた。いつもの悪夢が、また戻ってきた。そして今度は両親の顔も浮かんできた。今までになかったことだった。両親が登場するなど……。
 部屋の時計は朝六時を指している。アレックスは涙を拭いて浴室に入り、シャワーを浴びて体を洗う。夢に出てきた両親の顔。だがその表情はどんなものだったろうか。怒っていた? 笑っていた? 苦しんでいた? 泣いていた? それとも――
 両親はあの《事件》でバッファローにはねられて死亡した。それはもうわかっている。だが、三年経った今も、両親の顔を思い出すと胸が痛くなる。自分だけが生き延びてしまったという罪悪感が胸を締め付ける。今も消えない体の大きな裂き傷が痛み始める。
 シャワーの温かな湯の中に、熱い涙は洗い流されていく……。

「アレックス様? お加減がよろしくないのですか?」
 スープのおかわりを皿に注ぎながら、セイレンはアレックスに問うた。それというのも、アレックスの両目がウサギのように赤かった上に表情が沈んでいたからだ。
「うん、ちょっと夢見が悪かったんだ。それだけだから」
「さようですか」
 セイレンはそれ以上何も聞かなかったが、彼にとってはそれがありがたかった。詮索されたくない。そのまま、ベーコンエッグとサラダをスープ三杯と紅茶で胃袋へ流し込んだ。あの夢を胃袋へ押し込んで消化させたかったかのような、食べっぷりだった。
 食後、小説の執筆の続きにとりかかる。何枚か書き進めるうち、彼はふと思った。
(孤児院の皆は、元気にしてるんだろうか……)


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