第9章 part1
「今日から、わたしが君の『おとうさん』だよ」
薄暗い部屋の中に差し込んできた明るい廊下の光。それをさえぎるように一人の大きな男が立っていて、やさしい笑いを浮かべながら、大きな手を伸ばしている。だが、怖くて手を握れない。相手の男はこの華奢で小さな体をやさしく抱き上げてきた。
「ああ、かわいそうに、こんなに傷だらけで……。さあ、新しいおうちへ行こう」
「またあの夢か……」
布団の固いベッドの上に起き上がり、H・Sは息を吐いた。時計は朝五時を指している。
幼いころの夢。ファゼットに引き取られたころの夢だったが、夢を見なくとも、彼は幼いころから現在に至るまでの事は、まるで昨日のことのようにハッキリと覚えていたのだった。
物心ついたときから既に孤児院にいた。職員の話では、彼が生まれて一年ほどで、薬局に買い物に出かけた両親は滅亡主義者の毒ガス攻撃に巻き込まれて死亡したと言う。幸い彼はちょうどベビールームに預けられていて難を逃れたのだった。そして孤児院に預けられて育てられた。川が近くにあるせいなのか孤児院はいつも湿っぽかった。職員や院長は、愛情と呼べるものは与えてくれなかった。ものがなくなるなど何か起きると、決まって彼が罰を受けることになった。理不尽な罰は日常茶飯事であり、彼は肌で自分が職員たちから好かれていないことを嫌でも実感した。正直に言おうが言い訳しようが罰は容赦なく与えられるのだ。生傷だらけで五歳を迎えるころにはすっかり大人に対して恐怖感と不信感を抱いていた。何を言っても信じてもらえず、きつい罰を与えられるから……。当時その孤児院に住んでいる子供は彼一人だけであったが、そのうち引き取り手が現れた。
それがファゼットであった。
絵本でしか見たことのない空飛ぶ乗り物に乗って、孤児院とは比べ物にならない大きな建物の中に入る。孤児院とは本当に比べ物にならないほど綺麗な室内と設備、食べたことのないもの、柔らかなベッド、大きな体育館と教室。引き取られた子供たちは彼のほかにもまだ何十人もいて、一緒に生活することになった。境遇が似ていることもあってか、子供たちはすぐに皆仲良くなった。皆を引き取ったファゼットは、皆に教科書を配って自ら指示棒を握って教壇に立ち、子供たちに教えた。勉強は厳しかった。運動も厳しかった。何日かおきに試験があり、八割以上正解しなければならなかった。歴史、法律、生物学……かぞえあげればきりがないほどの科目。幸い、机にかじりついての勉強は苦ではなかったので、試験のたびに満点を取っていた。逆に運動はあまり得意ではなかった。
厳しいばかりではなく、ファゼットは子供たちに対して、ちゃんと愛情を与えてくれた。悪いことをすれば叱り、良いことをすれば褒めてくれた。子供たちは皆ファゼットを好いていた。一緒のベッドで寝ようとしたり、褒めてもらえるよう良い成績をとろうとしたり……。とにかく独り占めしたくて、たまらなかった。親を亡くして愛情に飢えた子供たちの中でも、特に彼はそうだった。どの子供たちよりも晩くまで勉強した。苦手な運動を何とか克服するために、本に載っていたトレーニング法をひとり体育館で試したものだ。努力の甲斐あってか、運動は何とか人並みにできるようになった。それを褒めてもらえたときは本当に嬉しかった。
愛情というものを、初めて知った。
「よく頑張ったね」
その言葉をもらい、頭を撫でてもらうのが嬉しかった。
子供たちが平均十四歳になると、ファゼットは科目を増やした。運動の種類も大幅に増え、勉強科目は動物医学や薬学など更に難しいものが追加された。しかし特に難しいのが、小型の航空機の操縦であった。航空機に乗せてもらって空を飛ぶのと、自分で操縦桿を握って空を飛ぶのとでは、全く違うことだと気づくのに時間はかからなかった。操縦を一歩間違えば墜落しかねない恐怖と焦り。機体のほとんどがコンピューターで制御されているとわかってはいても、最終的に航空機を動かすのは操縦者なのだ。何人もの子供たちが墜落したが、幸い重傷のみで済んだ。当然、彼自身も墜落した事がある。機体の燃料が漏れて炎上する直前、何とか脱出したものの、結局は爆発から逃げ切れず、上半身に火傷を負った。顔の一部がひどく損傷したため皮膚移植だけではどうにもならず、損傷した箇所を治すためにどうしても整形しなければならなかった。顔が変わってしまったのでしばらく凹んだが、ファゼットに慰めてもらった。このころには勉強の成績が特に優秀であったためにファゼットから更に個人指導を受けることもあった身だが、その合間の義父からの慰めと励ましの言葉は、反抗期を迎えつつあったこの時期には素直に受け入れる事が難しかった。
そうして子供たち全てが自在に航空機を操縦できるようになると、ファゼットは次に、体育館の背後に広がる草原と小さな林と湖から動物を捕まえてこさせる訓練を開始した。これは授業ではなく訓練である、とファゼットは言った。リスなどの小形動物からキリンなどの大型動物にいたるまで様々な動物を何人かで、あるいはたった一人で、捕まえさせるのだ。
「必ず捕まえてくるのだ。失敗は許されんぞ」
ウサギなどは粘れば何とか捕まえられるが、鹿のような足の速い獣や、ライオンなどの獰猛な獣を捕まえるのは並大抵ではなかった。捕らえた痕跡をその場に残さぬよう、わなを仕掛ける事は許されない。頼れるのは己の機転と手に持たされた少しの道具のみ。時には襲われ、時には逃げられ、毎日動物や鳥や魚と格闘した。怪我のひとつ二つは珍しくなく、手や足を失うだけでなく、死亡者も多数出た。猛獣を相手にするときは、皆、捕まえるよりも生き延びることで精一杯だった。あらゆる動物を無傷で捕らえられるようになるには、四年かかった。なぜそれだけかかったかと言うと、その年月の大半は怪我の治療に費やされていたからだ。何十人もいた子供たちは、ほんの十数人にまで減ってしまった。建物の裏に墓が作られ、亡くなった子供たちは皆葬られた。皆その死を悼み、悲しんだ。それでも、訓練は続けられていった。
ファゼットは、準備の整った子供たちを社会に送り出した。依頼の内容にしたがって動物を捕らえ、野生動物保護官に捕らえられること無く姿をくらまし、依頼主と取引を終える……ハンターとして。そして子供たちはファゼットの元から離れるとき、これまでに呼ばれてきた名前を抹消され、ハンターとしての名前を与えられたのだった。
時計が六時になると、H・Sはベッドから降りた。寝汗を流すためにユニットバスでシャワーを浴びる。その体には縦横無尽に傷が走り、縫い傷や火傷もかなりたくさんあった。アレックスやアーネストの比ではない。これらは全て訓練によってできた傷だが、これはまだ少ないほうだ。体を拭いていつもの紺色の服を着ると、傷はすっかり隠されてしまった。食事代わりの黄色いカプセルを服用すると、空腹感は完全に消え去った。操縦室に向かい、自分の席に座る。目の前に映るのは格納庫の壁のみ。出発にはまだ時間がある。H・Sは一度目を閉じ、再び回想した。
外の世界。それは、自然保護法に支配された世界。一般市民は特権階級の者とは隔離されており、荒れた土地に住んで、サプリメントの延長でしかない栄養剤で腹を満たしていた。一方で特権階級は本来の自然がわずかに残された土地に住み、自然保護法施行前にはどんな人間も口に出来た動植物で、腹を満たしていた。
最初はCランクのハンターであっても、ファゼットから厳しい訓練を受けてきたために、その腕前はあっという間に認められた。ファゼットの元から旅立った子供たちは全て、一年も経たないうちにAランクとして、手配書のトップを飾ることになった。
厳しい動物捕獲の訓練の合間にも、子供たちは情報収集についても訓練されていた。新聞やラジオ、ニュースだけでなく、取引相手のプライベートな情報などをハッキングや何気ない会話から取り出すのである。彼は子供たちの中でもこの能力に秀でていた。そのため、ファゼットの将来を担える者として、特別に目をかけられて個人指導を受けていたのだ。
主な取引相手は議会や基地の上層部たち。彼らから入手する情報は、外の世界に出てきて間もない青二才には面白くて衝撃的なことばかり。一般人ならば驚きのあまり泡を吹いて倒れるかもしれないが、ファゼットの教育を受けてきた者は法律や歴史の裏側を知り尽くしているので、議会や基地の中で本当に行われていることを知っても倒れるような事はない。むしろギャップが面白いのだ、例えば、選挙法を作っておきながら、全く民意を反映しないで贈り物の素晴らしさだけで議員を決める……などという行為が。一体何のための法律なのやら。
ハンター活動は順調だった。依頼された動物を捕らえ、一方で情報収集をし、それを義父へ送り、月に一度の会議に出席する。それの繰り返しだった。そんな中でも、同じ建物の中で育った《子供》たちと義父以外の人間にはどうしても心を開けなかった。
(今でも怖いんだろ?)
自問する。
(……裏切られるのが、怖いんだろう? 裏切られ、一人にされ、挙句の果てに誰かに罰せられるのが、怖いんだろう? だから契約で己と相手をがんじがらめにして、相手がそむけばそれ相応の罰を与えてきたんだろう?)
操縦室のドアの開く音が聞こえた。振り返るまでもない。目を開けると、前方の窓にアーネストの姿が映っている。H・Sは身を起こし、座りなおした。
「出発だ」
「君に来てもらったのは他でもない。君に頼んだ役割を果たしてもらう前に、話しておきたいことがあるからだ」
ファゼットは、書斎の椅子に深く背中を預けて座る。アレックスは向かいの柔らかな椅子に腰を下ろしたが、ファゼットほど深くは座らなかった。置かれたクッションの柔らかさで、体が埋もれてしまうから。
ファゼットは、いつもの笑い顔などどこへやら。アレックスの見たことの無い極めて真面目な顔であった。
「では、教えよう。我が屋敷の歴史をな」
現在の裏世界が、自然保護法施行後に、情報収集の強者によって支配される前は、麻薬や覚醒剤の密売組織がトップに立っていた。組織の金ほしさに秘密裏に手を結ぶ権力者も多く、警察のトップにも多額の袖の下を渡すことで簡単に警官たちを動かせないようにしていた。しかし土地が荒れてきて麻薬の栽培自体が非常に難しくなってくると、薬の値段はおそろしく跳ね上がった。あまりの高値に手を出せぬ者が増え、栽培に多額の金がかかる割りに買い手がつかぬため儲けが出ないという結果に陥ってきた。
当時、ヨランダの祖父でありファゼットの父である男は、裏世界ではかなり名の知れた存在であった。彼も麻薬の栽培と精製、売買を行う巨大な組織を持っていたからだ。政治家とも太いパイプで結ばれていた。土地が痩せて麻薬の栽培が難しくなると、彼は次の投資先を考えた。麻薬の採れる量が少なくなるほど高値がつくが、買ってくれる者がいなければ栽培に費やした時間と労力が無駄になってしまう。このころには環境保護団体があちこちに現れ、市民や企業から募金と人手を集めて、少しずつ大きくなっていた。彼はその団体に投資することにした。団体は更なる資金を必要としているだけではない、その団体を構成する幹部の中に、彼の『知人』がいたからだ。何度も麻薬を彼の組織から購入しているが決して自分では使わず、市民に密かに売りつけていた男である。同時にこの男は彼が多額の報酬を用意してやればどこへでもスパイしに行ってくれる、とても有能な諜報員だった。その男を使って、彼はあることを考えた。だがそれを実行するにはまだ時期が早かった。おそくとも息子の代になるかもしれんと考えていた。
自然保護法の草案が作られるまでに五年以上の歳月を要したが、彼にとってはそれだけの期間があれば十分だった。資金提供によって環境保護団体の力を増幅させ、団体が現在の政治に圧力をかける事が出来るようになったからだ。同時に彼は幹部クラスの連中を己の屋敷に招待して、彼らの体験したことない贅沢な暮らしをさせることで環境保護と土壌汚染の回復による生活の向上を信念としていた者たちの信念をくじいた。自然保護法の草案が作られるころには、幹部たちは贅沢な暮らしにすっかりなじんでしまい、汚染された水や食べ物を口にしなければならないかつての暮らしに戻ることを拒んだ。団体の幹部連中は、わずかに残された自然の土地を独占するために、草案の中に、特権階級と一般市民とのすみわけをするという一文を書き込んだ。残された自然の土地を作物の栽培にあてるためである。その代わり、団体が政治を支配し自然保護法が施行された暁には、資金提供をした彼に専用の島をプレゼントするという契約も結んでいた。その島は、団体の幹部が以前から目をつけていたもので、ある政治家の別荘地として使われていた。美しい景色、大きな屋敷、作物用の畑と牧場、小さな漁場、船着場と航空機用の格納庫など、あらゆるものが揃っていた。誰もが住まうことを望んだ小さな島。それを渡すというのだから、彼がどれだけ団体の幹部たちに贅沢をさせてどれだけ多額の資金を提供してきたか想像に難くない。かつての麻薬組織からおよそ五年にわたって目の玉が飛び出るほどの資金を提供されていたという事実を公表されぬための口止め料とするにはまだ不足と言ったところだが、彼はその島を手に入れる事でよしとした。
こうして自然保護法が世界中にいきわたるころ、かつての環境保護団体の幹部たちは全て議会の一員あるいは、基地の上層部となっていた。汚染されていた土地と水が少しずつ回復し始め、保護区の動物たちの数も増えてきた。本来生えているはずの植物は全て枯れ、代わりに人工芝を大量に植えた結果だ。野生動物保護警備隊(よく自然保護警備隊と呼ばれている)が作られたが、その本当の目的は、活動を活発化させた滅亡主義者を少しでも抑えるためであった。もともと滅亡主義者たちはかつての環境保護団体の過激派であり、現在は、彼から提供された多額の金を資金源として活動している。動物を密猟から守るため、というのは表向きの理由でしかない。本当に取り締まりたいのはハンターではなく、滅亡主義者なのだ。
自然保護法が成立して、数十年の時が流れた。プレゼントされた島の屋敷に引っ越した後、元の屋敷は別の者が住むことになった。あることを実行に移すには歳を取りすぎていた男はファゼットに後を継がせ、引退した。といっても、実権はまだ父が握っているため、本格的にファゼットが組織を動かし始めるのが、現在アレックスのいる時から遡っておよそ十五年前となるのだが、それでも父が引退するまでに、ファゼットは組織の後継者としてふさわしい実力を身につけつつあった。
後を継いだファゼットは、幼いころから父に聞かされ続け教育され続けてきたことを実行に移す準備に入った。それは、政治家や基地の上層部を主なターゲットとして情報を収集するスパイを育成することだった。だが普通のスパイではなく、もっと彼らに取り入りやすい、ハンターを育成するのが最適だった。なぜなら、特権階級となった者たちは退屈しのぎに自然保護区から動物を捕まえてこさせるゲームに興じるようになったからだ。普通のスパイならば市民として潜り込ませればそれでいいが、特権階級の者たちを相手にするには召使として潜り込ませることは無理だ。自然保護法が出来る前から彼らは己の召使全てを自分の指のごとく知り尽くしているからだ。彼らは一般市民から召使を募集することも結婚相手を探すこともしなかった。一般市民との交わりを完全に断っているのだ。そんなわけで、スパイとして彼らの元から情報を集めるには、彼らと直接取引をするハンターとして潜り込ませるのが都合が良かった。
裏世界では麻薬はまだ作られていたが、麻薬組織としてはもう儲からない事が分かっていた上に今度は情報収集のプロを育成する準備に入ったので、麻薬栽培はばっさりと捨てた。そして、かつての環境保護団体は組織の資金提供を受ける必要など無いほど金を持っている上に、市民から何かしらの運動や事業を展開する名目で金を集めることも出来るので、資金援助を完全に断った。それでも屋敷には湯水のごとく金を使ってもあと百年は贅沢三昧できるほどの財産があった。ファゼットはその財産をある程度使いながら、準備を整えていった。専用の施設、中型の航空機、育成用の教科書、ほかに数え切れないほどの細かな事。ハンターとしてもスパイとしても使える者を育てるために。この準備には年単位の時間を要することになった。
父が老衰によって墓地で永眠してまもなく、ファゼットは行動を開始した。各地を飛び回り、孤児院から子供たちを集めた。ものの分からぬ幼いうちから教育するほうが、大人に一から叩き込むよりもずっと容易いことだから。各地をまわって集めた《子供》たちを娘のヨランダ同様に可愛がった。子供は嫌いではなかったからだ。そして、愛情を注げば注ぐだけ、いい成績を取って愛情をより多く注いでもらえるように《子供》たちが勉学に励もうとするからだ。ある程度《子供》たちが大きくなると、航空機の操縦を身につけさせ、さらに月日が経つと実際に動物たちを自らの手で捕獲することと情報収集の技を徹底的に叩き込んだ。情報収集に関しては、幸い《子供》たち全てにその才能はあった。だが捕獲については、なかなか上手くいかなかった。あらゆる動物を正面から捕まえるものではないと理解するのに、《子供》たちは年単位の時間を費やした。そしてその間に、引き取ってきた《子供》たちのほとんどは怪我で死亡し、最後まで残ったのは十数名程度。引き取ってきた《子供》たちが死ぬのは胸の痛むことではあったが、訓練は続けた。その中でも特に優秀な《子供》は一人だけで、ファゼットはその《子供》を将来の自分の跡継ぎにしても良いかもしれないと考えていた。報告こそ遅いがその《子供》の送ってくる情報は月に一度の会議で大変役立つものであるし、ハンターとしての成績も申し分ない。月に一度の、ファゼットが主催する法律改正の会議では、ハンター側の代表者をつとめている。能力としては申し分ないのだが、その《子供》の欠点は、極端なまでの契約至上主義者だということ。契約を交わしてそれを守る限り、契約相手の言う事はなんでもこなすのだが、契約相手が契約に背けば必ずその《子供》は相手に社会的あるいは精神的な大打撃を与える。その融通の利かなさがその《子供》の唯一の欠点であった。信用しているのは契約と他の《子供》たち、ファゼットのみであった。孤児院にいたときに受けていた虐待がその《子供》の内面に深い傷を与えているせいなのだろう。とにかくその欠点さえなければ、跡継ぎとしての資格は完璧に備えているのだ。
何年か経ち、ファゼットは仕事で今まで以上に各地を飛び回った。《子供》たちの送ってくる情報や各地の小さな情報源から情報を集める仕事は、単身ではなかなか疲れるものだ。このころには、ファゼットは一人だけでも各地の基地や政府を脅迫できるほどの情報を手に握る事が出来ており、事実その情報を使って法律改正をたびたび迫ることもあった。麻薬や覚醒剤による裏世界の支配は幕を閉じ、代わりに情報の売買による裏世界の支配が始まりつつあった。
屋敷に帰ってきた五月のある日、娘のヨランダが、遊び相手を手に入れたと話をした。写真を見てみると、この年の三月に入隊したばかりの新米野生動物保護官だった。身長体重は一般市民のこの年齢の者としては高くもなく低くもない、ごく普通の十八歳。何日か経って一旦基地へ帰してしまったそうだが、娘の気まぐれで連れ戻された。屋敷から離れたところにある、資料室の傍に作られた休憩用の《離れ》をひとつの部屋に改築し、その部屋に娘の遊び相手を住まわせることになった。娘は《子供》を家庭教師としてその遊び相手を教育させた。この屋敷で送る生活が、その遊び相手にとってどれだけ素晴らしいことかをわからせるために。一方、ファゼットは別の興味を抱いた。その遊び相手がどんな人間であるかを調べるために監視をつけさせた。そして栄養剤だけで育ってきた人間に、自然保護法施行前の食べ物を与えたらどれだけ身長体重が増えるか、実験してみたくなった。成長に必要なカロリーを計算させると、普段ファゼットとヨランダが食べている量の半分以下となったが、それでも十分だった。時どき食事に薬を盛って眠らせ、身体測定をさせると、数値は月を経るにつれてわずかずつ上がっていった。第二次成長が終わっても栄養を与えさえすればちゃんと体は成長を続けるようであった。
ヨランダが《子供》にやらせている教育についても、ファゼットは関心を持った。嫌々ながら家庭教師をさせられている《子供》に、その遊び相手に対して教えていることと、遊び相手がその講義中にどんな反応を示したかを、まとめさせた。報告書を見る限り、最初は鵜呑みにしてばかりのようだった。だが、《子供》が屋敷の外にいる間、その遊び相手は本を読み漁り、知識を身につけていった。強い好奇心と貪欲な知識欲によるものだった。時々精神的にへこんだが、そのうち立ち直った。
《子供》に、さらに詳しい事柄を教えるよう、依頼した。そして最後に娘の遊び相手のレポートを書かせてみると、その出来は素晴らしかった。どの《子供》たちよりも理解し吸収しただけでなく、レポートに独自の解釈を付け加えている。その遊び相手は、ファゼットの望んでいたレポートを書き上げたのだ。単にその遊び相手が勉強熱心だったからこんなレポートが書けた、というレベルのものではない。大量の文献から自分の必要なものを拾い上げて正しく理解できているだけではない、自分の解釈を付け加える柔軟性すら持ち合わせていた。《子供》たちは、型にはまったレポートしか書けなかったのに。娘の遊び相手の学校時代の成績はあまり良いほうではなかったが、大量のデータから必要なものを拾い上げる情報収集については、飛びぬけた能力を持っていたのである。
もっと教育すれば、ファゼットの跡継ぎとなるにふさわしい人材となる。そしてゆくゆくは跡取りとして養子に迎えるつもりであった。娘は弟ができるのを拒み、その遊び相手も後を継ぐことを拒んだ。しかしファゼットは、その遊び相手に別の役割を与えることにした。そのために、薬を仕込んだ香水を娘に使わせてその遊び相手を中毒者にして屋敷内に拘束し、偽の処刑によって指名手配を解除させ表世界からその存在を抹消させたのだから。
彼は利用できる。基地や議会への脅しに使えるだけではない。己の手中に収めている限り、あらゆることに利用できるのだ。
ファゼットの話は終わった。
「分かってくれたかね、アレックス」
暫時の沈黙。
アレックスの身体はわなないていた。膝の上のこぶしは固く握られ、ブルブルと小刻みに揺れている。ファゼットを見つめる両目は大きく見開かれ、顔からは汗が流れ落ちていく。
聞いた話のスケールが大きすぎた。頭の中が一瞬からっぽになり、目の前が真っ白になり、続いて一瞬だけ気が遠くなる。
やっとアレックスは言葉を搾り出した。立ち上がった体はやはりブルブル震えている。
「オレが薬物中毒って……死んでるって――」
顔面蒼白のアレックスは、自分が何を言っているのかすら理解できていない様子。ファゼットの話で初めて、指名手配された自分が処刑されて墓地に眠らされていることを知った。さらにヨランダのつけていた不思議な香りのする香水に薬が仕込まれており、その薬の不思議な香りを吸い込み続けて「外へ出てはならない」という命令を与えられ続けた結果、自らの意思で屋敷の外へ出られなくなったことも知った。アレックス自身の立場が、ファゼットと基地および議会の間で揺れ動いていることも知った。
衝撃が去り始めると、体内からむらむらと怒りがわきあがってきた。二歩でデスクまで詰め寄ったアレックスは、美しい木材のデスクを両手でバンと乱暴に叩いた。
「何で、何で……!」
言いたい筈なのに言葉が何も出てこない。歯がギリギリ噛み締められており、言葉を出す事が出来ない。怒りだけがファゼットに向けられている。デスクの上で握り締められたこぶしがわなないており、アレックスは怒りに任せてファゼットを殴りかねない状態。ファゼットは動じることなく冷静に、肩を怒らすアレックスを見る。
「何であんたは……こんな、こんなことを――」
その怒りが落ち着くまで、ファゼットは何も言わなかった。アレックスの怒りがある程度収まってきたところで、やっと口を開いた。
「それが今の君の立場なのだ。バッファロー暴走事件の真相を知っている君は、議会や基地の手に渡ればすぐに口封じのために殺される。だがこの屋敷にいれば、少なくとも君の身の安全は保障される」
「……」
「同時にわたしは君の立場を最大限に利用させてもらっている。君がいるかぎり、わたしは政府や基地に圧力をかける事が出来るのだ。それに、君に与えた役割を、君が最大限活用することもできるのだよ」
「……」
「君に与えた役割は、わかっているはず。君はそれをわたしの力を後ろ盾にして活用できる。その気になれば基地の上層部に陣取る老獪を失脚させられるほどの力すら、君には与えられているのだよ」
「そ、そんなもの……!」
言いかけて、アレックスはやめた。しばらく黙り、深呼吸を何度も繰り返して怒りを何とか静めて気を落ち着ける。
「君は、わたしの与えた役割を使いこなすだけの能力をちゃんと持っている。そしてその能力を我々のために役立ててくれんかね? もちろん、返事はイエスしかあるまい?」
アレックスはその言葉に、奥歯をギリギリ噛み締めた。そう、返事はイエスしかない。今のアレックスは、ファゼットの掌からは決して外には出られない。処刑という形で存在を抹消された今、この《屋敷》を出られたとしても、彼の生存を知っている基地の者が彼を捕らえるかもしれない。彼はしばらく両手をきつく握り締めていたが、やがて力を抜いた。
「……わかりました」
「わかってくれたかね」
「ですが!」
アレックスは再びデスクを乱暴に叩いた。
「……あなたを許したわけじゃない」
「そうかね。君の気が済むまで、いくらでも憎んでくれたまえ。それに、この裏の世界では、利用する価値の在る者と利用する価値の無い者に分けられる。君は前者、いわば勝者の側なのだ。わたしは君を利用しているが、同時に君がH・Sやその相方を利用しているのと同様に、わたしを利用する事が出来るのだからな。それを忘れぬように」
「……」
アレックスは再度奥歯を噛み締めた。が、すぐに怒りの表情は消えた。
「そうですね。では、自分に与えられた役目を精一杯『活用』させてもらいます。あなたの力も使わせてもらって、ね」
「ほう、その意気だ」
アレックスとファゼットは、互いの目の中に宿る光をとらえた。双方とも宿るものはおなじ。目的を遂げるために、互いの地位と力を利用する。
「では、よろしく頼むよ。アレックス」
にこやかな笑顔で手を差し出すファゼット。アレックスはその大きな手を強く握り返した。
「こちらこそ。お世話になります」
ファゼットに与えられたアレックスの役割は、《子供》たちから送られる報告書の処理およびマスコミへ発信する情報の管理。実質上の、ファゼットの右腕だった。
part2へ行く■書斎へもどる