第9章 part2



 世界各地の、野生動物保護警備隊(通称自然保護警備隊)の基地。
 自然保護法が施行されてから五十年目を迎える今年。この日は、自然保護法が法律として成立した日。世界的な記念日であり、どんな企業も学校も、この日だけは祝日となっている。基地では、隊員たちが整列して特別記念式典を行う。それは世界中共通した行事だ。
 あいにくこの日は大雨だった。式典は、町のドームを借りて行われた。基地には大部屋や体育館といったものはないので、わざわざ町まで出かけねばならないのだ。
 何時間にもわたる、あくびや居眠りの出る退屈な式典。自然保護法が成立するまでの過程を語った長ったらしい話。解散の号令が出て、隊員たちはホッと息を吐いた。椅子から立ち上がり、指定された食事場所へ移動する。ドームのトイレはすぐ混雑した。食事はいつもどおり、薬特有の苦さを持つ栄養剤だ。食事は、隊員は広い部屋で取るのだが、隊長以上の階級の者は別の場所で取る。それがどこなのかは、わからないが、誰も気にするものはいない。
 午後になると、雨は止んだ。隊員たちは列を作って、それぞれの隊長の後について基地へと戻っていく。その後から、ゆっくりとした足取りで、基地の上層部たちが基地へ戻っていった。
 基地に戻ると、隊員たちは自然保護区の見回りを開始する。隊員たちの日曜日は、存在しないといっても良いだろう。ローテーション制なのだから。見回り時間が来るまでの隊員たちは部屋で過ごすか雑談をしている事が多い。動物たちへの餌やりは、専用の係りの者が行うので、隊員たちには関係の無いことだ。
 隊員たちがおしゃべりや昼寝をして時間を過ごしているとき、警備隊隊長から上の階級の者は専用の会議室に集まっている。醜いしわだらけの老人たちは、ひとつの大きなテーブルを囲んで座っている。自然保護法で禁止された素材を使った柔らかな椅子に楽チンな姿勢で座っているというのに、その顔つきは不機嫌そのものであり、ただでさえしわだらけの顔に、さらに深いしわを何本も刻み込んでいた。
「あの男は、アレを渡すつもりは無いそうな」
 頭髪の全く無いしわだらけの男が握っているのは、赤いワインの注がれたワイングラス。ファゼットのそれと比べると、飾りも品質も劣っている。
「あの《事故》で起こったことを憶えていた者を隊員にした我らに落ち度があったな。そのまま不合格通知を送っていれば、こんなことにはならなんだものを」
「今更悔やんでも始まらんわい。それよりも、これから今まで以上にあの男の思うがままにされてしまうかもしれんほうが怖い。ある程度は話し合いできるとはいえ、理不尽な要求を次々に突きつけられてしまう」
「あの男は、何でも知っているからのう。あの男の父親も、同じように、何でも知っているやつだった……」
 ガチャンと派手な音がして、皆、飛び上がった。見ると、一人の老人の目の前に、割れたグラスと赤く広がるワインが。ブルブル震える手でワイングラスを握っていたようだ。
「おお、すまんのお、手に震えがきて、落としてしもうたわ」
 後ろに控えていた秘書が急いでテーブルをふき取り、ワイングラスを片付ける。しばらくして、新しいワイングラスが運ばれてきた。
「ところで」
 ワイングラスを落としてしまった老人は、白髪をポリポリかいた。
「あの男の屋敷に誰かもぐらせるわけにはいかんのかね。直接アレをさらってこさせるなりなんなりとして――」
「そいつは無理じゃて」
 もぐもぐと口を動かしながら、別の老人が喋る。
「あの男がこないだ言っておったが、あの屋敷の者たちはなあ、皆互いに互いの顔を知っておるそうな。だからスパイが忍び込めばすぐ分かってしまうんじゃと」
「ならば使用人の誰かに化けさせるとか」
「それも駄目じゃそうな。皆そろって、互いの体に識別チップを埋め込んでいるんじゃと。互いを識別できるようになっておって、互いに互い、使用人本人あるいは主人とわかるんじゃと。おそらくアレにも既に埋め込んであるのかもしれんなあ」
 老人たちはため息をついた。
「議会は、どう言っているかね?」
「何も……手が打てないか、ほっておけということか。いずれにせよ、何も言ってはこない。諦めてしまっているのじゃろうて」
「わしらは、どうすべきかのお。アレは《事故》の真相を知っている。あの男がアレに力を貸せばアレは外の世界に情報を発信する事が出来るだろう。そうなると、我らの築き上げてきたものが全て奪われてしまうわい。あの男は、何もさせやしないから安心しろと言うておったが、信じていいものやら、わからんわい」
 老人たちは、さらに深いため息をついた。
 こそこそと、ワイングラスを集めた秘書は部屋を出て行った。が、すぐに書類を抱えて戻ってきた。
「お支度をお願いします。会議への出発のお時間でございます」
 老人たちは大儀そうに立ち上がると、のろのろとした足取りで杖をつきながら部屋を出て行った。これからおよそ六日間、船で揺られねばならない。航空機械を持っていればこの半分以下の日数でつけるのだが、あいにく持っていない。Aランクハンターたちとファゼットの屋敷の者だけだ。
「全く船旅はこたえるわい」
「あの男の言うことを聞くためにわざわざ足を運ばねばならんとは。ハンターどもも、我らと取引をしているだけのくせにずうずうしく会議に出席しおって。他の基地の者もきっと同じじゃろうなあ、考える事は」
 齢は既に八十を越えたものも数多かった。五十年以上も前に一大勢力を誇る環境保護団体のトップや幹部であった若人も、今では、老いさらばえた醜悪な老人に過ぎなくなっていた。
「我ら亡き後、誰に後を継がせばよいかのう」
 環境保護団体および自然保護法の成立についての秘密を漏らすことを恐れて、誰も結婚していなかった。そのため、基地の上層部の者たちには子供や孫が誰もいなかったのだった。
「議会の者たちを後釜にすえるしか、無いかのう」
 やがて、円卓のある部屋は空っぽになった。

 月に一度の会議の日。老人たちは、船旅で疲れた体を杖でなんとか支えつつ屋敷の中に入った。屋敷の召使たちは上着を脱がせたり帽子を帽子掛けにかけたりと、色々尽くしてくれた。夕食はとびきり上等の料理だが船旅後の老人に負担がかからぬよう、量はあまり多くなく、消化吸収が良いものが出される。特権階級の土地の中でひそかに栽培されている作物よりも、この島で栽培される作物のほうが何倍も美味い。食事を口に運ぶたび、老人たちは、この島が我らのものであったならとこぼすのであった。
 会議のとき、出席しているAランクハンターたちや他地域の議員たちとも話をする。滅亡主義者の活動の活発化を抑制する、という点では、皆の意見は必ずといっていいほど一致する。今回の話題はさいわいそれであった。滅亡主義者に関しては、今回はハンターたちの協力もとりつけることができた。彼らとしても、滅亡主義者のテロ行為によって取引相手を失いたくないのだ。
 なかば平和的に会議は終わる。解散後、老人たちは早々と部屋に引き取る。清潔な大浴場で湯に浸かって疲れを癒し、上等の寝間着に着替え、寝床に潜り込む。この歳になってしまうと、夜更かしがつらくなってくる。深夜過ぎまで起きている事が出来なくなっている。若いころに比べ、体力はあまりにも衰えている。この地位にい続けるには、もう歳をとりすぎた。もうそろそろ若い者に地位を譲らねばならないかもしれない。だが、一体誰に譲ればいいだろうか。

 会議の日、H・Sはアーネストに船体のチェックを任せて、会議の準備をするためにさっさと屋敷の中へと入っていった。アーネストはぶつくさ呟きながら、船内の部品の幾つかを新しいものと取替え、燃料タンクに燃料を満タンまでいれ、貯水タンクの水を全て替える。操縦席で各機能の最終チェックを完了してから、彼も部屋に向かう。
 部屋に入ると、H・Sの姿は無かった。部屋の時計はまだ五時半。食事の時間にはまだ早い。六時を過ぎるまで、外を歩いていることにした。任されている、《動物園》での犬たちの散歩は明日やればいい。今日はもう晩い。
 部屋を出て、綺麗なじゅうたんの敷かれた廊下を歩く。格納庫から外へ出ると、まずは滑走路が目に留まる。ハンターたちが格納庫にそれぞれの航空機を入れる前に一旦滑走路へ降りねばならないのだ。滑走路から外れて東へ向かうと、ファゼットの巨大な屋敷が見える。さらに東へ向かうと、《動物園》が見える。今度はそれを北へ向かうと、資料室用に作られた《離れ》がありその《離れ》にはアレックスがいる。《離れ》からは、ファゼットの屋敷は見えない。それというのも、《離れ》の周囲に張り巡らされたガラスの壁の一部に風景の細工がしてあり、《離れ》から見るとただ単に草地が広がっているようにしか見えないのだ。この仕掛けはアレックスが《離れ》で暮らすようになってから作られたものである。
 既に季節は秋。日の入りが早く、風も冷たくなってきている。服の上から、そよいでくる風の冷たさが感じ取れる。西の空に、オレンジの太陽が沈み行くのが見える。東の空からは夜の帳が下ろされてきている。十分も経たないうちにあたりは夜になる。散歩は早めに引き上げるほうがいいだろう。
 少し早足で、《動物園》の傍を通り過ぎる。さらに早足で歩いていると、《離れ》を見つける。ある程度の距離まで近づくと、ちょっと手を前に突き出す。指先がコツンと何かに当たる。実際には何も見えないが、これが、《離れ》の周りに張り巡らされている透明なガラスの壁と分かった。背伸びをしてどのくらいの高さまであるか測ってみたが、あいにく正確な高さは分からなかった。なぜなら、その壁はアーネストがジャンプしてもてっぺんに触る事が出来なかったから。壁の高さは、少なくとも三メートル以上はあるのだ。アレックスを逃がさないために。
(ヤレヤレ。これじゃ本当に虜だな)
 豪華な料理、専属の召使、綺麗な外の風景。その代わり、アレックスは外には出られない。《動物園》へ出るのにもメイドがいなければならないのだから、《離れ》の部屋から外へつながる廊下は普段から塞がれているのかもしれない。
 かなり暗くなってきた。真っ暗になると辺りには明かりがともるので、それを目印にして帰ればいい。風の冷たさも増しているので、さっさと帰ることにした。
(あいつは明日俺を質問攻めにするだろうからなあ。早いとこ寝ておくか)
 別にアレックスと話すのが嫌なのではない。息抜きにはちょうどいい。何より、
(似ているからだろうな……)
 互いに気を許せる相手であり、話し相手としてもちょうど良いことから(一方的にアレックスが喋っているとは言え)、相性がよいというのもあるのだろう。が、二人がこれほど強く相手に惹かれているのは、やはり境遇が似ているからだろう。どちらも、表の世界には姿を現せない身の上。アレックスは表世界で存在を抹消されているが、アーネストは今も表世界から追われ続けている。それだけが唯一の相違点であった。
 部屋に帰り着くと、時計の針は六時半を指していた。テーブルの上には夕食が二人前ぶん並べてあるが、そのうち一人前は既に平らげられた後であり、向かいの席には空っぽの汚れた食器がおいてあった。既にH・Sは食事を終えて会議へ向かったのだろう。いつもは廊下のワゴンに食器を出しているのだが、今日は慌てていたようである。
 食事を取りながら思い出す。三年前、あの忌まわしい暴走事件によって重傷を負い、H・Sと契約を交わしたころのことである。K区のアジトの病院にて、彼が最初に腹を満たすために口にしたものが、粥だった。栄養剤以外の食事など知らない彼にとって、それはあまりにも衝撃的だった。自然の作物を使って作られたものがこんなに美味いものだとは知らなかった。作物の栽培は、自然保護法で完全に禁止されているから。H・Sは依頼の合間に病院を訪れては話を色々した。このハンターは博識であったが人を見下した口調で話をするので、それが癪に障った。彼は確かに色々と衝撃的過ぎることを話した。一番アーネストが驚いたのは、自然保護法を一般人が忠実に守って栄養剤を口にする裏側で、特権階級の連中は今も自然の作物を口にしていることだった。そして彼も、特権階級の連中と同じように幼少のころから作物や家畜を使った料理を口にしているのであった。食生活が変化してから、不思議なことに身長が伸びてきた。当時の身長は百六十五センチであり、同年代の男の中では高いほうだった。だがH・Sはその平均を上回っていた。にもかかわらず、本来ならば中肉中背程度しかないのだと言う。中肉中背。それを冗談だと思っていた。だが、月日が経過して背が伸びた。体を鍛えると筋肉がついてきて、細かった体はかなりがっしりしてきた。そうして今現在、H・Sよりも身長が五センチ高くなっているのであった。
 未だに彼にはわからない事がある。いや、それはこれから先もずっと分からないだろう。
(あいつは一体何のために俺にあんな話をした? 俺を驚かしてからかいたかったのか? それとも、ハンターの仲間入りのお祝いとして、裏世界の事情について知識を与えようとしたのか?)
 そもそも人を信用することの無いAランクハンターが、条件つきとはいえ、なぜ重傷の野生動物保護官を助けようとしたのだろうか。怪我が完治した後でアーネストが裏切らないとも限らないのだから。いや、裏切ればその分手痛い仕返しをするあの男のことだ、裏切るかどうかアーネストを試しているのだろうか。
(将来使い物になると思ったからか? それとも単に憐れんだから? いやあんな奴に限ってそんな事はないはず……けど、聞くのは癪だな)
 H・Sが何を考えて行動しているのか、未だにアーネストにはさっぱり分からないのであった。

 後日のアレックスはちょっとふてくされたような表情だった。彼は、《動物園》のふれあい広場の裏手で犬を散歩させているアーネストを見つけるなり、とんでもない早口でまくし立てた。ファゼットとの話について。ただし話といっても、指名手配されていた状態だった自分が世間では死んだとされている事、薬物中毒と無意識下の命令のために《屋敷》の外にはどうしても出る事が出来ない事、与えられた役割を引き受けねばならなくなったことだけ。その役割を聞いて、アーネストは仰天した。しかしアレックスはアーネストの驚きなど他所に、怒鳴りつけた。
「ねえ、あんたは知ってたの?! オレがとっくの昔に『処刑』されていたってこと!」
 知っている、と答えるしかなかった。泣きそうな顔でアレックスは怒鳴った。
「何で、何で教えてくれなかったんだよ!」
「……教えたところで、お前の立場は変わらないだろ。薬物中毒でなくてもお前は屋敷から出られないんだからな」
「だからって何にも言ってくれないなんて――」
「もっと早くに俺がお前に言ったとしても、何も変わらない。屋敷を支配するあの男の力が強すぎるし、世界中にあの男の手下がいて絶えずあの男に情報を送ってる。俺がお前を屋敷の外へ連れて行けたところで、お前を狙う基地の連中かあの男の手下に捕まるのがオチだ。黙っていたのは悪かったが……」
「でも――ひどいよ……結局オレだけが何にも知らなくてさ、最後になって全部知る事になるんだから――」
 肩を落としてうつむいたアレックスの表情を、見ることはできなかった。しばらく体を震わせていた彼は、いきなりアーネストに抱きついて、泣き出したのだった。
 散々泣いて発散した後、
「ごめん、八つ当たりして」
「気にするな。ぶちまけられる場所がなけりゃ、ニンゲンおかしくなるもんだ」
 アーネストも、たびたびH・Sを使ってストレス発散している。契約どおり彼に従ってハンター活動を続ける限りは、多少殴られても、H・Sは表面上アーネストに何もしないからだ。
「……それにしても、っく」
 アレックスは、赤くなった目をこすった。まだしゃっくりはおさまりきらない。
「何で、オレに、っく、そんな重大な役目、っく、任せたんだろ……。心当たり、ある?」
 アーネストは首を横に振った。彼自身ファゼットをほとんど知らない。H・Sはファゼットについて何も話さない。裏世界においてのファゼットを知っているのはH・Sであるのだが。
「さあな。何か考えがあって任せたんだろ。俺はあの男をよく知らないからな……言えるのはそれだけだ」
 アレックスはしょげた。
 メイドが呼んだので、屋敷へ歩いていくアレックスの背中を見ながら、アーネストはため息をついた。
(知っても知らなくても、あいつはこの屋敷から逃げられない。あの男の力が強すぎる限り)
 屋敷という巨大な牢獄へ、アレックスは戻っていった。

 会議室にはファゼットとAランクハンターだけが呼び集められている。
 ファゼットは告げた。先日、アレックスを書斎に呼んだときに話したことを、そっくりそのまま、ハンターたちに話した。
 暫時の沈黙。
「あ、あ、あれをそんな重要なポストにつけたのですか?!」
 ようやっとH・Sはファゼットに驚愕の言葉を向けた。他のAランクハンターたちは絶句中。
「よりによって、情報を一手に引き受け発信する役目など、あれには荷が重過ぎます!」
「珍しい、彼の心配をしているのかね」
 ファゼットは笑いながら言った。H・Sは赤面し、口を閉じた。が、すぐに、
「ち、違います! あれに必要以上の力を与える事は、あなたにとって不利益にしかならないのです! あなたの力を使うことをなぜお許しになったのですか! あなたの力を盾に、あれは政界に大規模な混乱を起こすかもしれない。最悪の場合、一般人を情報で扇動して暴動を起こさせて政治の転覆を図るかもしれない。あれがあなたに大人しく従っているとは思えない!」
「推量の域を出ない意見であるが、もちろんわたしは彼がわたしに素直に従ってくれるとは思っておらんよ」
 ファゼットは変わらず笑っている。
「そして彼自身も、書斎を去る前に言ったのだ。『あなたの力を利用して、野生動物保護警備隊の基地をひとつと当時の議員たちを全て葬り去ったとしても、あなたは自分を許してくれますか?』とな。明らかに、彼はわたしの力を使って何かするつもりでいる。彼はわたしの望むままには行動しない、間接的に彼はそう言っている」
「それが不安なのです」
「だが、わたしは彼を許すか否かの前に、彼がどんな手を使って外の世界に打撃を与えようとするのか、見てみようと考えている。もちろん、全てが我々にとって完全に不利になる前に手を打てるようにしておいた状態でな。彼にそれだけの役割を与えた理由は、それなのだよ。彼の手腕を見るために、そして、将来の裏世界を担える人材かどうかを、この目できちんと確かめるために。彼がわたしを裏切って裏世界そのものをつぶしてしまったところで、また新しい裏世界が出来るだけの事。麻薬と覚醒剤の世界がほぼ衰退した後で、わたしと父が情報の世界の礎を築いた。彼がその礎を成長させるか、それとも完全に破壊してしまうか、知りたいのだ」
「冒険心旺盛なのは大変結構ですが、それだけであれをそんな重要なポストにつけたところで、あなたには何も得るものなど――」
「得するのは彼だけ、そう言いたいんだね?」
 全てのハンターたちはうなずいた。今や裏世界の頂点に立つファゼットが築いたものが、アレックスの行動ひとつで全て奪われかねないことを心配している。それ以上に、ファゼットがアレックスの手にかけられてしまうことも考えられるのだ。
「義父さん」
 眼帯をつけたハンターが、ぼそりと言った。
「冒険心。本当にそれだけの理由で、あの少年をその重要な地位につけたのですか? 本当にそれだけの理由でなのですか?」
 ファゼットは笑ったまま、首を横に振った。
「今は、まだ言えんよ。後々になったら、そうだな、何年か経てばおのずと君らにも分かってくる。だから今は何も言えん」
 今度は、赤毛のハンターが暗い声を出す。
「書斎を出るその少年に問われたとき、義父さんは何とお返事しましたの?」
「……『許すかどうかは、まだ決めていない』と返したよ。彼はそれで満足したようだった。彼は馬鹿ではない。彼自身は気がついていないのだが、機会を与えてやれば己の好奇心に突き動かされつつもそれを最大限に利用しようとするところがある。裏世界の頂点に立つには未熟ではあるが、わたしの養子に迎えてじっくりわたし自らが教育を施しても惜しくない程の力を秘めているのだ」
「では、義父さんが、その少年を『許さない』のはどんな結果が出たときですか?」
「それは少なくとも、彼が自分の立場を十分に利用せず、わたしの望んだような結果を出さないときだ。わたしの力を利用するなら、存分に利用してもらいたいものだからな」
 皆、眉間にしわを寄せた。
「危険な賭けだと、皆、思っていることだろう?」
 ファゼットは綺麗なデスクに肘杖をつく。
「そう、危険な賭けだ。だがわたしは敢えてこの賭けをしたいと思っているのだ。彼がどれだけの力を持っているか、本当にこの目で見られるチャンスだからな」
「だからといって、あれなんかに我々の入手した情報を送るのは――」
「気に食わないし危なっかしいのだね。うん、そうだろう。だが、これからの彼は、わたし自らが監視するのだ。それなら、少し安心ではないかね?」
「……」
 黙りこくったものの、この場に座っている全てのハンターたちは誰一人として、納得の表情を見せてはいなかった。ファゼットがそんな理由でアレックスに重要な役目を担わせたとは、誰一人として思っていなかったのだから。
 ここにいるAランクハンターの中では誰よりもアレックスを知っているH・Sは、アレックスが何をしようとしているのか、ファゼットの言葉で容易に想像がついた。そして力を得たアレックスによってそれが現実となったときに起こりかねない事態を頭の中で考えるだけで、身震いがとまらなかった。
(とんでもない奴を拾ってしまったものだな……)


 ダンスパーティーの夜、二人は、出会ったその時から燃えるような恋に落ちた。ヨランダが恋をした相手の名前はヘンリーと言った。大手の新聞社『アース新聞』を経営している彼の父親は、新聞と広告用紙によって多額の資産を得ており、そのおかげで、特権階級の仲間入りを果たすことが出来たのだった。これまで栄養剤だけで過ごしてきた日々は、特権階級の住居に引っ越したことで、完全に変わる事となった。一般市民が決して口に出来ない、自然保護法で禁止された、動植物を使った料理。特権階級の仲間入りをして初めて経験する最初の驚きが、食事。ヘンリーの父はたいそう驚いたものだ。息子のヘンリーは、今ヨランダと同じ年齢であったが、幼いときからこの食事に慣れており、一方で栄養剤の味を知っている。自分の父親が一般市民の階級の出であることも知っており、時々栄養剤を口にして過ごしている。
 アレックスは、ヨランダにヘンリーを紹介してもらった。そろそろ防寒着が必要な時期、二人は炎のように熱い恋仲だ。見ているアレックスの方が恥ずかしくなりそうなほど。
 ティータイム。ヨランダは、隣に座っているヘンリーを紹介する。ヘンリーは綺麗に撫で付けられた銀色の髪をさらに丁寧に撫でつけ、にっこり笑ってアレックスを見る。アレックスは簡単に挨拶をして、紅茶を飲みながらヘンリーを観察した。ヨランダとにこやかに笑いながら話すヘンリー。ヨランダと同い年だというのだが、まあ顔つきからしてもそんな感じだろう。見たところ、お人よしそうな顔である。彼女の《屋敷》に招かれたのは初めてではないのか、緊張はしていない。着ている服は上等のものとはいいがたいが、何とか形だけは下品でない程度にキメている。
 アレックスはポットから紅茶を自分のカップに注ぎ、甘い角砂糖をひとつ落とした。ヘンリーとヨランダの楽しそうな会話を聞きながら、紅茶を飲み菓子を口に入れる。聞いているとアレックスの顔がほてってしまいそうなほど、ラブラブな話ばかり。資料室で読んだ事のある詩集から恋愛の詩を引用したりするなど、彼から見ればオーバーな愛情表現。歯の根が浮きそうなほど、とまではいかないけれど、人前でこれだけラブラブな恋人同士というのを見るのは初めてだった。自分の両親もここまでベタベタしていなかった気がするなあ、彼は思った。話の中には、時どきヘンリーの父親が経営する会社の話もあった。ヘンリーは会社では副社長兼編集長の地位にあるという。時々社員と話をしなければならないので、美味くもない栄養剤を口にしなければならないと愚痴をこぼす。最近は彼の手がけた記事によって新聞の売り上げが大幅に上がったとか。しかし、ヨランダはヘンリー親子の会社についてはあまり興味がなさそうだった。会社の経営や事業など、彼女には全く縁の無いこと。それより花や可愛らしい動物を愛でている方が大好きなのだ。
 ヘンリーは、アレックスを見て、ヨランダに問うた。
「ところで、アレックス君はあなたの弟さんですか? それとも従兄弟――」
「違うわ、ヘンリー。この子は、アタシの遊び相手」
「遊び相手?」
「ええ、同時に、お父様のお気に入りの子なのよ」
「養子ではないんですか?」
「違うの、この子はアタシの大事な遊び相手なの」
 ヘンリーが、へえっと言わんばかりの表情でアレックスを見たので、思わずアレックスはうつむいてしまった。ヨランダの言葉を、ヘンリーは一体どう受け止めたのだろう。
「遊び相手……ですか」
 ヘンリーはしばらくアレックスを眺めた。人形と遊び相手。どっちの言葉もヨランダには同じ意味なのだが、その顔を見る限りでは、どうやらヘンリーは違う意味で受け取ったようだ。
「ねえ、ヘンリー。それよりも、《動物園》に行きましょう。あなた動物は好きでしょ?」
 ヘンリーが承諾したので、ヨランダは立ち上がった。
「じゃあ、アレックス。お茶の途中だけど、ごめんなさいねえ。セイレンに片付けさせておいてちょうだいね」
「わかりました」
 二人の後ろ姿を、アレックスは見送った。一緒に並んで歩く二人は、幸せそうだった。しかし結婚するかどうかは、別だろう。
 二人の姿が見えなくなると、アレックスはサンドイッチを一切れ頬張り、紅茶で喉に流しこむ。少し冷めかけているスコーンにたっぷりとクリームとジャムをつけて食べる。クリームのこってりした舌触りとジャムの甘い味が口に広がる。この味は好きだが、考え事をしていると、甘い味など分からない。そしてちょうど、アレックスはスコーンの味が途中から分からなくなっていた。歯は機械的に口の中のスコーンを噛み続け、ほどよい大きさまで噛み砕かれると、喉に送り込まれ、喉を通りづらければ紅茶がそれを洪水のごとく勢いよく喉へ押し流す。
 機械的に次のスコーンやサンドイッチを口に運びながら、アレックスは、ヘンリーの話を思い出している。
(新聞社を経営しているんだっけ)
 ヘンリーは何と話しただろう。彼の父親は大手の新聞社『アース新聞』を経営している。その新聞の名はアレックスも知っている。基地の相談室にいつも置いてあり、彼の住んでいた町でも契約者が特に多い有名な新聞。そしてヘンリーはその新聞社の副社長兼編集長。
(……ヘンリー。使えるかもしれないな)
 アレックスは、カップに残った、冷めかけの甘い紅茶をくいっと一気に飲み干した。
 おやつを食べ終え、綺麗な食器を重ねて一箇所に片付けながら、彼は頭の中でひとつの考えをめぐらせ始めていた。


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