最終章 part1



 K区の格納庫にしまわれている飛行艇の自室にて報告書を作成し、H・Sは転送を終える。今まで使っていた通信回線から、全く別のアドレスを持つ通信回線に送信する。データ容量が今回多いため、送信に時間がかかっている。それでもおよそ三十秒後に「送信完了」の文字がモニターに表示されると、ホッと息を吐く。時計を見ると、午後十一時を過ぎている。しかし眠る気にはあまりなれない。
 それでも寝て体を休めておかなくてはならない。明日の依頼をこなすのに支障が出る。眠くないのに上着を脱いで寝台に寝転ぶ。手を伸ばして、寝台の傍にあるスイッチを押すと、室内の明かりは消えた。室内は暗闇に閉ざされる。
 ため息をついて、目を閉じた。
(なぜあいつに、大事なデータを送らねばならんのだ。義父さんは一体何を考えて、あいつにあんな重要なポストを任せているんだ)
 ファゼットに言われたとおり、Aランクハンターたちは報告書を新しい通信回線へ送っている。その回線の先にいるのは、屋敷の一室を専用の仕事部屋として使うことになったアレックスである。今頃、送られてくる大量の報告にヒイヒイ言いながら、資料まとめをしているころだろう。さらに、先ほど自分の送った情報には、辞書を引かねば全く理解できない専門用語を山ほど、わざとちりばめておいた。アレックスが困ろうが泣こうが、知ったことではない。
(……)
 最初はただの、無知な子供だったはず。だが、ヨランダの依頼で教育を始めた結果、そしてファゼットに頼まれて更に細部を教えた結果、ほんの数ヶ月で講義の内容を吸収してしまった。普通なら目もくれないような分厚くて古い本を読み漁っていただけでも驚きだが、それらの内容までも吸収してしまったのはさらに驚くべきことだった。いやむしろ、ショックを受けてへこんでもそれを短期間で克服し、知りたいことをどこまでも追い求めようとするアレックスの貪欲さには、恐ろしさを覚える。就くべき職を本当に誤ったやつだな。H・Sは思った。
(あの吸収力は半端なものじゃない。義父さんはそれを見て、あんな重要なポストを与えた? いや、それはありえない。……何か考えがあっての事だとわかってはいるんだが、あいつに一体何をさせたいんだ? 下手をすると――)
 ため息が漏れる。
(今まで築き上げてきたもの全てが、破壊されるかもしれないというのに)
 悶々と考えているうち、彼はいつのまにか眠りに落ちていた。

 次々と送られてくる報告に、アレックスは大慌て。
「アレックス様、お夕食です」
 セイレンが入室しても、
「あああああ、今忙しいから、後にして! 後で食べるからさ! これ今夜中に送らなくちゃいけないんだ!」
 紙が次々にプリンターから吐き出されてくる。アレックスはそれを拾い集めていくが、一人分の報告書の枚数が最低でも十枚にもおよび、読むだけでも大変だ。さらにそれを会議用の資料としてまとめなおさねばならない。
「あいつ絶対にイジワルしてるな。こんな複雑な単語を山ほど書いて送ってくるなんて! 絶対わざとやってる!」
 最後に送られてきたのはH・Sの報告書だったが、辞書を引かなければわからないような複雑な単語や専門用語がいくつも紙面に書き込まれており、この報告書を読むときだけは辞典が手放せなかった。それでも彼の送ってきた報告書はほかの報告書に比べると内容がより詳細であり、彼が《子供》たちの中でも特に情報収集に長けていることを示していた。
 部屋にまだいるセイレンに、ついでに辞書を取ってくれるように頼んだ後、アレックスは報告書の中につづられた単語の解読を開始した。
「あ、ありがとねセイレン。ええと、この単語は――」
 深夜二時を過ぎた頃、セイレンにも手伝ってもらい、やっとアレックスは仕事を終えた。結局、冷めてしまった夕食は夜食になった。
「お疲れ様でした。お部屋へどうぞ」
「うん。ありがとう……」
 アレックスは欠伸しながら、セイレンの後についていった。仕事部屋は《屋敷》の一室であり、元々書類整理のために使われていたらしく、仕事に使うデスク以外は書類だらけの棚が左右に陣取っている。揺れの激しい地震でも起ころうものなら、棚から書類の滝が派手に降り注ぐことだろう。
 赤いじゅうたんの敷かれた廊下を通る。途中までは、窓のある通路だったが、ある地点を越えると急に窓がなくなり、ただの通路になった。通路を照らす弱いオレンジの光を頼りに歩き、自室へと入る。
 セイレンがドアを開けると、暗い室内に明かりがともった。
「おやすみなさいませ」
「うん。おやすみ。ありがとう」
 一礼して廊下へ出たセイレンの頬が、ぽっと赤く染まった。
 部屋に入ったアレックスは浴室のドアを開ける。いつのまにか、熱い湯が浴槽に満たされている。一体いつ風呂を入れたのだろうかと思いながら、急いで服を脱いで浴槽に飛び込んだ。
「疲れたなあ」
 連日、アレックスの仕事部屋には様々な情報が送られてくる。これはファゼットがいくつか選んで送っているとの事で、実際の情報はこの数百倍もあるとの事。《子供》たちの送ってくる報告書のほかにも、ラジオや新聞では得られないような大量のニュースがその代表。マスコミに渡す情報量はその中のごくわずかなものであった。マスコミに渡す情報を選ぶのがアレックスの仕事だ。簡単そうに見えて実はとても慎重にやらねばならない仕事だ。滅亡主義者の出現予測地点など、一歩間違えれば大衆がパニックを起こしかねないような危険な情報もある。政治家の愛人の出身など、役に立つのか立たないのかすらわからないものもある。目を通すだけでも大変だというのに、その膨大な情報の中からさらに選ばなくてはならない。選んだ情報は専用の回線を使ってマスコミに送られることになっている。
 花の香りの石鹸で体をごしごし洗い、花とは違う良い香りのシャンプーで髪をわしわし洗う。
(連日これだけの情報を相手にしなくちゃいけないのか。しかもあの量で、世界中を走る情報のほんの一部分に過ぎないってのか?)
 最近、一日のほとんどを紙の中にうずもれて過ごしている気がする。いや、実際そのとおりだ。朝の八時にならないうちから、仕事場として与えられた《屋敷》の一室に閉じこもって、次々に送られてくる膨大な量の紙に目を通さねばならない。各地にはファゼットの部下がマスコミの中に入り込んでおり、アレックスは彼らに情報を渡す。そして渡された情報は新聞やラジオにて取り上げられるのである。各地に渡す情報を自分の手で選ばねばならないプレッシャーが早くもアレックスを支配し始めていた。見るだけなら面白い情報たちだが、それを自分の手で捌いていくのは、全く別物であった。
(新聞社の記者も同じことやってんのかなあ。集めたニュースの中から、人が飛びつきそうなニュースだけを選びださなくちゃならないんだから。とはいえ、今更止めるなんて言えやしないよなあ)
 外は寒いのでずっと浸かっていたかったが、のぼせるのは嫌なので、ほてってきた所で熱い湯から上がる。さっさと体をバスタオルで拭き、厚手の寝間着を着る。綿を使ったものだというそれは――綿自体、アレックスは触った事がない――ふわふわした手触りで温かかった。歯を磨くのが面倒なので、そのまま浴室を出て明かりを消し、続いてベッドに倒れこむ。布団の中に入ると、部屋の明かりは勝手に消えた。
 部屋が暗くなってすぐに、アレックスは夢の世界へと旅立ったが、夢見はあまりにも悪すぎたのだった。
「……書類の海におぼれる夢みてた」
 朝六時。ホットミルクを一口飲んで、アレックスはため息をついた。セイレンはテーブルの上に温かな食事を並べる。
「で、どんどん沈んでいって、最後には書類の滝に進んで、何処までも深いところへおちてったところで目が覚めた」
「お気の毒に……」
「でも、嫌だって言うわけには行かないんだよ」
「さようですか」
 そう、嫌だと言う訳には行かない。アレックスは逆らえない立場にある。だが同時に、それを利用できる立場にもあるのだから。とりあえず役目には慣れておかねば。
(慣れておかないとね。後々のためにも)
 悪夢を見たために浮かない顔であったが、アレックスは朝食を胃袋に詰め込んだ。トースト、ベーコンエッグ、スープ。
「ところで」
 トーストをかじりながら、アレックスは問うた。
「今何月?」
「十一月半ばでございます」
「えっ、十一月か。寒いわけだなあ。もう晩秋だなんて。カレンダーないから全然わからないや」
《屋敷》で生活し始めてから、半年になっていたとは……。早いような遅いような。
(そういえば、この季節だと紅葉が落ちてくるんだっけ。落ち葉なんか見たことないからなあ)
 晴れ渡った窓の外を、赤く染まった葉が舞い落ちていく。住んでいたところには落葉樹がなかったので落ち葉を見た事がないのだ。《資料室》の図鑑で見たきり、本物を見た事はない。
「もみじって、綺麗?」
「はい。舞い落ちる木の葉は、とても美しいものです」
 セイレンの言葉に、アレックスは決めた。
「ねえ、今日は外でお茶してもいいかな? もみじを見たい」
「かしこまりました」
 セイレンはお辞儀した。
「では、本日のティータイムは《動物園》のはずれにある休憩所でお過ごしください。最も眺めの良い場所でございます」
「わ、ありがとう!」
 アレックスの感謝の言葉に、メイドの頬は少し赤くなった。

 朝六時半。
 いつもの音が鳴る前に、H・Sはスイッチを押してアラームを止めた。いつもより少し遅く起きてしまったようだ。
 寝転がったまま、しばらくぼけっと天井を眺める。金属の、何も飾りのない無機質なもので別に面白くもなんともない。見つめているうち、徐々にぼんやりした頭が目覚めてくる。早起きはできるのだが、頭がきちんと目覚めるまでの時間は長い。
 毛布を退けて、寝台の上に起き上がる。頭が重い。風邪でも引いたかと思ったが別に咳も熱もないので、頭が目覚めきっていないのだと結論付ける。
「寒い……」
 外の寒さが、飛行艇の壁を通り抜けて侵入してくる。もう晩秋だ、これから雪の降る季節になる。寒さゆえに動物の何種類かは冬眠してしまいそれらの巣を探すのが大変なのと、雪が積もると足跡などの証拠が残るため、ハンターたちには嫌われている季節だ。それに、彼は寒さが苦手だ。
 食事代わりの黄色い錠剤を口に放り込んで水で飲み下すと、着替える。いつもの紺の服を着る前に、厚手の服をあらかじめ着ておく。せめてもの防寒対策だ。そのくせ、暖房装置を働かせると飛行艇の燃料を余計に消費してしまうという理由で、暖房は最小限にとどめている。
(あのガソリンの臭いが苦手なんだ)
 温風に乗って流れてくるかすかなガソリンのにおい。換気扇をつければにおいは外へ流されるのだが……自分に苦手なものがあることは、アーネストには知られたくなかった。
 着替えた後、寝台に座り、小さな窓を見る。窓の外は格納庫の壁だ。他には何もない。当たり前だ。だが彼は窓に視線を向けてはいたが決して窓を見ているわけではなかった。すぐに視線は床に落ちていった。
(義父さん……あなたはいつも言っていた、『もう少し親離れしたらどうか』と。だが、そう簡単に親離れできそうにない)
 どこか自嘲めいた笑みが口元に浮かんだ。
(あなたを失いたくないから……)
 時計は何も言わずに時を刻み続けた。

 朝七時、小間使いに起こされたヨランダは、優雅にベッドの中で背伸びをした。
「やっぱり今日も、寒いわねえ。来月は雪の季節だし、寒いのはあまり好きじゃないわあ」
 朝食を済ませて着替えた後、ヨランダは小間使いに問うた。
「今日の予定は?」
「本日は午前九時にピアノのレッスンがございます。十一時からは下院議員の方とのお見合いが、そして午後一時からは上院議員の方とのお見合いがございます。本日のお茶の時間は、迎賓館にて各議員のかたがたとの交流をかねておりますので、お早めにお願いいたします」
「またお見合いなのねえ。嫌ねえ、ほんとに。アタシにはヘンリーがいるのにねえ。蹴られるのを分かっててやってくるなんて。お見合いなんてなくしてくれるように、お父様にお願いするしかないかしら」
 小間使いは彼女の愚痴の後、手紙を一通渡す。それの封を開けると、ヨランダの顔は晴れた。
「あら、ヘンリーからじゃないの! 嬉しいわあ」
 ヘンリーからの手紙には、彼女への熱い思いがポエムの形でしたためられている。『愛しています、愛しています』から始まるポエム。読んでいると恥ずかしくなってしまうほど……。しかしヨランダにとっては、その恥ずかしくなりそうなほど熱い思いをしたためてあるポエムはとても嬉しいものであった。
「ヘンリーってば、もう。お礼に、何か送ってあげるべきよねえ」
 彼女は自分の机から、薄い桃色の便箋を取り出し、少し考えてから何かをしたためた。そしてその便箋を封筒に入れると、小間使いに渡す。
「これ、速達でヘンリーの元へ送っておいて。また今度一緒にお茶を飲めるのはいつかしら? 楽しみだわあ」
「かしこまりました、お嬢様」
 小間使いは一礼して退室した。

 朝七時半。ピピピと目覚ましアラームが部屋に響いた。
「あーあ、ちっと寝坊したか……」
 時計を見たアーネストは、欠伸して寝台の上に起き上がった。出発時間は八時だが、寒い最近は機体のエンジンを温めておかなくてはならないので、七時半よりも前に起きなければならない。
「まあいい。愚痴くらいなら聞きなれてる」
 着替えて、食事代わりの黄色い錠剤を口に放り込んで水と共に飲み下すと、彼は部屋を出た。操縦室に向かって歩いていく途中、H・Sの部屋の前を通る。立ち止まって、聞き耳を立ててみる。誰かいる気配はあるが、物音がしない。まだ寝ているのだろうか。足音を忍ばせて歩き出そうとすると、ドアの向こうから何か聞こえた。ごそごそ動いている物音だ。起きているようだ。だが、まだ出てくる気配は無い。着替えているのだろうか。
 そのままアーネストは歩いて操縦室へ入る。大あくびをして背伸びした後、操縦席に座ってエンジンをかける。機体にブウンという小さな振動と音が響き、エンジンが動きだす。しばらく放っておけばエンジンは温まる。
 席の背もたれに体を預け、アーネストはため息をついた。
(あいつ一体何をやってんだ?)
 最近、新聞やラジオのニュースの傾向が変わり始めている。それをいじっているのはアレックスだということは知っているものの……。
 転送装置から朝刊が吐き出される。それに目を通す。季節の行事や流行の健康法などのありふれた記事が載せられている。が、記事の傾向はこれまでとは少しずつ変わり始めている。犯罪の記事があまり載らなくなっている。
(以前の新聞とは違うなあ)
 紙面だけ見ると何の犯罪も起こっていない穏やかな日常だと思いがちだが、その裏では隠された事件が幾つかある。自然保護区C区のアンゴラウサギたちが十匹以上、毛皮のコートの材料にされるためにBランクハンターに盗み出されている。町の小さな薬局の中で、残りわずかな麻薬の苗が密かに栽培されている。バクテリアで分解され始めた空き家はスリの一時的な集会所となっている。
(裏の世界に足つっこんだだけで、これだけ情報が入ってくるんだよなあ)
 一般市民が決して知ることのない情報。情報収集を目的として活動するAランクハンターたちとくっついていると、表の世界にいたときに聞くことのなかったニュースを頻繁に耳にするようになるものだ。しかしアーネストが耳にする情報は、裏世界にあふれる情報のほんのひとかけらでしかない。起こっていること全てをリアルタイムで新聞の紙面に載せようと思ったら、紙が無尽蔵にあったとしても一生涯かかるだろう。それほど、世界中には大量の情報があふれかえっているのだ。
 ファゼットの下にはあらゆる情報が入ってくる。それはアーネストも知っている。ファゼットの知らないことなど無いといってもいいかもしれない。ファゼットは情報の幾つかをアレックスに渡しており、アレックスはその情報の中から更に新聞社や放送局に渡すための情報を選び出す。今、アーネストが目にしているのは、アレックスが選び出した記事だ。
(わざと犯罪の記事を抜いてるのか、取るに足らない記事だと思ったのか……)
 ここ数日、犯罪の記事が新聞に載っていない。大衆の目に触れない場所で犯罪は起こっているのだが……。
(……)
 アレックスが何を考えているのか、わからない。
 操縦室のドアが開く音が聞こえ、静かながら足音が聞こえる。アーネストは後ろを向かず、読みかけの新聞をポイと放った。
「エンジンは温まったな?」
「ああ」
 無愛想な返答を聞き、H・Sは自分の席に座る。放られた新聞を脇へどけ、操縦桿を握った。
「出発だ」
 K区の格納庫が開かれる。飛行艇は上昇し、空へ飛び立った。

「今日の情報はこれだけしかないのかね。やけに少ないね」
 ファゼットは朝食の最中も、己のコンピューターへ送られてくる大量の紙面に目を通し続けている。吐き出された紙は何百枚、いやそれ以上の枚数。アレックスの仕事部屋に送られる情報量の何十倍いやいや何百倍にもおよぶ。ヒイヒイ言っているアレックスとは全く違い、落ち着き払っている。
 ファゼットは新聞を取る。各地で発行されている、それぞれの会社の新聞だ。『アース新聞』『日報ネイチャーズ』『ブレークデイズ』などなど。地域ごとに新聞社があるので、当然彼の手元には朝刊だけでも何百部もある。世界中の新聞を集めている新聞コレクターと思われてもおかしくないほど、その量は膨大なものだ。新聞の重さに耐え切れずに床が抜けてしまいそうなほど……。
 それらにざっと目を通していく。
「どれも似たり寄ったりな記事になっているなあ。各地の情勢を見る力は、まだこれから養っていかねばならんな。平和的な記事ばかりでは、かえって一部の者を警戒させるだけなのだから」
 平和が続きすぎるのは良くない。表には見えない犯罪を時には明るみに出してやり、市民の警戒心を時どき喚起させる必要がある。警察がちゃんと仕事をしているということも知らせてやらねばならない。滅亡主義者による爆破事件があってもそれが報道されないという事があってはならない、マスコミと滅亡主義者はどこかで結びついているのではという噂が流れかねない。ラジオと新聞というマスコミに絶対的な信頼を置いている者たちを手元に置き続けなくてはならないのに……マスコミを完全に手中に握っておくには、まだアレックスはヒヨコだ。
「しかし、ここから先の成長が楽しみでもあるなあ」
 新聞を読むファゼットは、何かを待ち望んでいるような表情を顔に浮かべていた。
「あの少年は、必ず何かをしでかすだろう。少なくとも彼は表世界に対して憎悪を抱いている。それは間違いない。わたしの与えた力を使って、情報にあふれた裏の世界と情報が隠蔽され続ける表の世界とをどのようにひっかきまわしてくれるか、楽しみだな……」
《子供》たちは誰一人として納得していない。アレックスにマスコミを操作できるほどの強い力を持たせたことを、認める様子はない。《子供》たちが案じているのは、ファゼットとファゼットの築き上げてきた全てがアレックスの手によって破壊されることだ。
「そう、《子供》たちは確かにわたしの可愛い子供たちだ。有能で、将来を担う実力もそれなりに備えている。だが、彼らでは決して成し遂げられない事がある。わたしはそれをアレックスにやってもらうつもりなのだ。わたしは必要以上に手を汚さないように注意を払うだけ……」
 アレックスの送ってきた会議用資料にも目を通す。形の上ではなんとかまとまっているとしかコメントできない。抜けている情報があるが、抜けているそれはファゼットも把握済みなので、気にしないことにする。会議ではあまり重要ではないからだ。
「さて、次回の会議が終わり次第、彼には報告書を送っておくとするか」
 ファゼットはよっこらしょと椅子から立ち上がって、手元の金のベルをリンリンと鳴らす。姿を見せた老執事に、ファゼットは命じた。
「回線をつなげてくれ。後で書類を何枚か作らねばならん」
 執事は背中を丸めて、部屋を出て行った。

 アレックスは、ドウブツエンの外れにて紅葉狩りを楽しんでいた。山のような書類から解放され、赤い木の葉や黄色い木の葉に目を奪われている。時折風が吹いてきて、ハラリハラリと葉っぱが舞い落ちると、それをいちいち手で捕まえようとする。晩秋とは思えないほど紅葉は赤く黄色く美しく色づいていた。冬が訪れる前の散り際をアレックスに見せるために枝にしがみついていたかのように、風が吹いていくごとに葉っぱはハラハラと舞い落ちていく。アレックスはそのたびに目をキラキラと子供のように輝かせ、葉っぱを追いかける。
「わあ、綺麗だなあ。秋ってこんなに綺麗なものだったんだ、感激……」
 一方そのころ、ヨランダは迎賓館でとても退屈なティータイムを過ごしていた。客をもてなすための迎賓館はシャンデリアが明るく照らし出し、美しいカーテンやじゅうたん、数々の調度品を映えさせる。プレゼントの山が最初に手渡され、何十人もの上院議員および下院議員の面々が彼女を囲んで紅茶を飲んでいる。たくさんの茶菓子が振舞われており、紅茶も最高級のものだ。だがヨランダにとっては当たり前のものであり、彼らと一緒に紅茶を飲むくらいなら、一人で飲むほうがましだと考えていた。
(つまらないわねえ。アタシとの結婚しか頭にない連中と、形だけの付き合いとはいえお茶を一緒に飲まなければならないなんて。もらったプレゼントは全部使用人にあげちゃいましょ。どうせたいしたものはないでしょうから)
 ヘンリーと一緒ならこの迎賓館で飲んでいても楽しいのに、よりによって大勢の結婚目当ての連中とお茶だなんて退屈でしょうがないわ。ため息をつきたくなるが、我慢する。客の前でそんなはしたない事は出来ない。たとえ、交わされる会話が季節のものであろうがヨランダを褒めるものであろうが、何だろうが……。ティータイムの客たちはそろって彼女のハートを射止めようと美辞麗句を並べ立ててくる。それがわかっているから、彼女はティータイムを全く楽しんでいなかった。早く帰ってくれないものかと、そればかり気にしている。交わされる話もろくに聞いておらず、相槌を適当に打ち続けているだけ。どんな話も、彼女にはただの雑音にしか聞こえてこない。
(あ〜あ。ここにヘンリーがいてくれたらいいのに……)
 早くもアレックスの事は頭から消えうせてしまっていた。
 苦痛に満ちたティータイムはようやく終わり、客たちは皆、彼女のハートを射止められなかったことを露骨に残念がって帰っていった。やっと解放されたとヨランダは大きく息を吐いた。
 自室に戻った彼女は、早くも薄暗くなってきた外を見つめる。空が雲に覆われ始めている。
「そろそろ雪の季節なのね。あの積もりたての雪のように綺麗なヘンリーの髪、また見たいわあ」
 窓に恋人の顔が映ったような気がして、ヨランダの頬は、ぽっと赤く染まった。
 そこで、小間使いがノックをして部屋に入ってきた。ヨランダは振り向き、言った。
「あら、次の予定の時間?」
「いえ。本日のスケジュールは終了でございます。ヘンリー様からお手紙をあずかってまいりました」
 小間使いの差し出したそれを、ヨランダは満面の笑みで受け取った。封をあけ、中に入っているシンプルな白い便箋を開ける。
「あら! 嬉しいわ! また一緒にお茶が飲めるのね!」
 小間使いに、彼女は言った。
「十二月二日に予定が空いたからヘンリーが一緒にお茶を飲みたいそうよ。航空機の着陸許可再発行と予定の組みなおしをお願い」
「かしこまりました、お嬢様」
 小間使いは一礼して、部屋を出て行った。

 十二月。日々忙しくしているアレックスの元に、『手段』が舞い込んだ。
 ヘンリーが屋敷を訪ねてきたのだ。ヨランダは大喜びで彼を自ら出迎えた。外は寒いので、今回のティータイムはヨランダの部屋で行われた。
「ヘンリー、会いたかったわあ! さびしくてさびしくて、あなたのいない生活なんて考えられないわ!」
「自分もですよ、本当にお会いしとうございました。愛しいあなたを想うあまり夜も眠れないくらいです!」
 二人はしっかり抱き合ったが、傍目から見ているアレックスは思わず赤面して目をそらした。人前でこういう事やるなよな。
 ティータイムの間中、ヨランダとヘンリーは二人だけで話し続けており、アレックスは完全に蚊帳の外。アツアツの焼きりんごをフウフウ吹いて少し冷まして口に頬張りながら、二人の会話を聞いている。端から聞くと、聞くに堪えない(描写に堪えない)愛にあふれすぎた言葉の交わしあいばかり。暖炉の火が赤々と燃えているのと同じくらい、アレックスの顔もほてって赤くなってしまった。聞いているだけで本当に恥ずかしくなる。
「失礼いたします、お嬢様」
 ドアがノックされ、彼女の小間使いが入ってくる。
「まことに恐れ入りますが、旦那様がお帰りになっています。旦那様のお部屋に至急おいでくださいませ」
「アラ、お父様ったら! やっとお帰りになったと思ったら」
 ヨランダは頬を膨らませた。が、仕方なく椅子からのろのろ立ち上がる。
「じゃあ、お茶の途中だけどごめんなさいねえ、ヘンリー」
「残念です。でもあなたのお父様がお呼びなのですから、仕方ありません。それでも、一刻も早く戻ってくださるよう願っています」
「まあ、ありがとう!」
 ヘンリーに抱きつき、アレックスの頭をなでて、ヨランダは部屋を出て行った。
 部屋のドアが閉まると、しばらくの間暖炉の火がパチパチ爆ぜる音だけが響いた。部屋に残されたアレックスとヘンリーはしばらく固まっていたが、先に空気を動かしたのはアレックスだった。
「ええっと、ヘンリーさん?」
「は、はい」
 ヘンリーは少し驚いたように、アレックスを見た。アレックスは襟元を一度ととのえて咳払いした後、話をした。そうして十分後、ヨランダが綺麗な箱を抱えて戻ってきた頃、話は終わった。ヘンリーの警戒心を解こうとして会話を始めたアレックスは、今ではすっかり打ち解けているヘンリーを見て内心ニヤリと笑っていた。
「へえ、君は小説を書くのがすきなんですね。あ、そういえば新聞の一部分で素人小説家による連載コーナーを設ける予定なんで、素人作家の募集をかけようと思ってたところなんです。よかったら、『アース新聞』の一コーナーを埋めてもらえません? こちらも選考の手間が省けるから」
「自分でよければ喜んで。書いたものは後でお見せします。必要なら手直ししてください」
「そうですか、ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
 話は成立した。戻ってきたヨランダの方に嬉しそうな顔を向けたヘンリーだったが、顔をそらす直前に、アレックスの顔に異様に冷たい笑みが一瞬だけ浮かんだのを見ることはできなかった。

 ヨランダがヘンリーとアレックスを部屋に呼んでティータイムを始める頃、ファゼットはようやっと屋敷へ到着した。外は粉雪が降っており、辺りを少しずつ白く変えていく。飛行艇から降りて、専用の通路を通り抜け、屋敷に入ると、執事ほか使用人たちが出迎える。部屋に戻ると、すでに部屋の暖炉は赤々と燃えて部屋を温めており、浴槽には熱い湯がなみなみと張られている。
 入浴して着替えたファゼットは、どっこらしょと椅子に座る。
「ふう、最近は寒さが身にこたえる。わたしも歳だなあ」
 ブランデーの入ったホットミルクを飲むと、だいぶ体はリラックスできた。
「おおそうだ! 娘に冬のプレゼントを!」
 彼は嬉しそうな顔で、荷物をまさぐる。そしてその中から美しい緑の紙で包装された箱を取り出した。
「忙しくて、ちゃんとした誕生日プレゼントを送ってやれないしなあ。彼も娘の遊び相手になっている時間などないだろうし」
 すまなそうな顔のまま、ファゼットは金のベルをリンリンと鳴らす。執事がすぐに姿を現した。
「至急、娘をわたしの部屋に呼んでくれ」
 執事が退室して十分ほど経過した後、ヨランダが部屋に入ってきた。
「お父様、お帰りなさい」
 少し不満はあったが、それでも嬉しそうな顔で、ヨランダは父に抱きついた。
「おお、ただいま!」
 ファゼットは嬉しそうに娘を抱き返す。
「さ、遅くなってすまなかったね、誕生日のプレゼントだよ。舞踏会だけでは不満だろう?」
「まあ、素敵! 本当にありがとう、お父様!」
 ヨランダは箱を受け取り、嬉しさのあまりもう一度父に抱きついた。
「お前の欲しがっていたイヤリングとネックレスだよ。両方とも最高の真珠を使っている。お前が今つけているそれよりも大きいぞ」
「本当に嬉しいわ! お父様がアタシの欲しいものを憶えていてくださるなんて!」
「いつも、お前に留守番ばかりさせて誕生日も祝ってやれない愚かな父だよ。お前の欲しいものを覚えておくくらい安い御用だ」
「お父様はお仕事で忙しくしてらっしゃるもの。仕方ないわ」
 ヨランダは父を責める様子も無い。
「それに、今のアタシにはヘンリーがいるもの。お手紙で知らせたでしょ?」
「おお、あの新聞社の若者か。お前もとうとう恋人が出来たのだな!」
 顔で笑っているもののファゼットは嬉しいやら半分寂しいやら。ヨランダはヘンリーの名を口にすると、ぽっと頬を赤く染めた。父以外の男に気持ちを傾けているのだ。これからはヘンリー一筋になってファゼットの事を放ってしまうかもしれない。アレックスの事はただのおもちゃ扱いしているので別に不安などなかった。ヨランダが誰かを対等な存在として扱ったことなど、ほとんどないのだから。だがヘンリーは違った。
「じゃあ、お父様。プレゼントありがとう。ヘンリーのところへ戻るわ。彼に見せてあげたいの」
「おお、そうかね。ではそうしなさい」
 嬉しそうに部屋を出て行ったヨランダ。ドアの閉まる音を聞いたファゼットは、沈んだ顔でため息をついた。
「もうそんな年頃だったのか……」


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