第1話



 暑い夏が訪れた。つい先週、梅雨が明けたとテレビで聞いたばかりだ。梅雨が明けてどんよりした雨雲が去り、それから一気に気温が上がり、蒸し暑さからカラリとした乾いた暑さに換わる。雨を避けて土に潜っていたツチニンたちが活動を始め、木々からミンミンと鳴き声が聞こえてくる。テッカニンも姿を見せ始めたのだ。樹液のでる木にはヘラクロスやカイロスが集まり、毎年のように乱闘を繰り広げる。
「やっと夏が来たんやなあ」
 古井戸にもたれかかり、手桶を満たす冷たい水を頭から浴びる。
「うち梅雨嫌いやし、晴れてくれたほうがさっぱりするわあ」
 ぶるっと身を震わせ、ピィはよちよち歩き出した。
 古井戸の近くにある木造駅から、荷物の積み込みを終えた汽車が発車した。
「いってらっしゃーい」
 見送りの声が聞こえてきた。

 朝の光が辺りを照らす頃、ピィは、汽車に無賃乗車して田舎にやってきた。ビルの森や車の騒音や人ごみから離れて、まだ見ぬ世界を探検しに来たのだ。予定としては一泊二日。とても短い。その理由は、明日の汽車を逃してしまうと、次の発車まで帰れないからだ。その期間一週間。一日くらいなら何も食べずとも平気だが、一週間何も食べないのはさすがにきつい。
「まー、駅の周辺をみて回るだけでもええやろ。せっかく、自然の多そうなところを選んだんやし、楽しまんと損やわ」
 地図も持たずに来たので、迷子にはなりたくない。だが探検はしてみたい。ピィは古井戸から離れ、木造の駅を背に、舗装されていない道をちょこちょこと歩き始めた。広い道の両脇は木々が生い茂り、なかなか綺麗だ。元気に枝を伸ばし、美しい緑色の葉をつけて、精一杯太陽の光を受け止めている。見たところ全てオレンの木。秋には立派な実をつけるだろう。
「町で売っとるのと、どっちが美味いやろ? やっぱこういう所でお天道様の光をぎょうさん浴びとるほうが美味いんやろなー。今食べてみたいけど実っとらんし、実っとっても、うちじゃ手ぇ届かへん。落ちとって泥だらけなだけなら、洗えばええだけの話なんやけどなあ……。こないな場所で、三秒ルールなんて言ってられへんわ」
 周りの木を見ながら、ちょこちょこ歩いていく。青く澄み渡った空、モコモコと姿を現し始めた入道雲、ギラギラ光を投げつけてくる太陽。都会にいると、どれもいっぺんに見る事は出来ない。
「ええなあ。ええ景色やわあ。人間やったらカメラ持ってくるんやろうけど、うちはポケモンやし。それ以前に使い方なんて知らんわ。でもええわ、頭の中に思い出として残しておけば」
 何か見るたびにひとりごとを呟き、ピィはちょこちょこ歩き続ける。道は真っ直ぐに伸びており、地平線の果てまでも続いていきそうだった。途中で坂に変わり、ピィはえんやこらしょと休憩を挟みながら登る。坂は緩いのだが、ピィの短い脚では急な傾斜を登っているのと一緒。一メートル歩かないうちから休憩を挟む。やっと坂の頂上に上り終えるころには、くたくたになっている。だが、
「わあー、こりゃあ広いわ。都会とは比べ物にならへん!」
 ピィは頂上からの景色に思わずうっとり見ほれた。坂道のはるか下には一面の畑が広がっており、夏の実りを迎えている。トマト、ピーマン、ナス、などなど。夏野菜がたくさん実り、カラフルな自然のじゅうたんが出来上がっている。
「きれいやわあ!」
 ピィは思わず足を踏み出す。が、落ちていた大きな葉っぱで足を滑らせ、バランスを崩してひっくり返り、そのまま坂道を転がる。
「きゃああああああああああああああああ……」
 ピンクの小さなボールは、悲鳴を上げて小さくなっていった。

「畑、やっぱり近くで見ると綺麗やわあ!」
 坂を転がり落ちたあげく畑の盛り土の中に勢いよく突っ込んで泥だらけとなったピィは、畑近くの水道管をひねって水を出し、ホースから出る冷たい水を浴びながら畑を見る。赤いトマト、紫のナス、緑のキュウリ、みずみずしいレタス。
「郊外でもこない綺麗な野菜の実っとる畑見たことあらへん! 一個食べてもええやろか? ああ、駄目や駄目や! そりゃドロボーや、そんなことしたらあかん!」
 水浴びをして体をきれいにした後、ホースを振り回して水をばしゃばしゃ周囲に撒き散らし、飛び散るしぶきで虹を作って遊ぶ。飽きるまでホースを振り回してから蛇口をひねって水を止め、近くのトラクターの上によじ登る。
 トラクターの上から、周りを見回す。広大な畑、所々に見える農家、農耕用の機械、さらに奥に見える小高い山。きれいな空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ピィはトラクターの上に座って、しばらく景色を楽しんだ。
 十分ほど経ったころ、突然ピィは飛び跳ねた。
「あっ、あれ何やろ!」
 何かを見つけたピィは、まるでボールのようにトラクターから転がり落ちた後、その「何か」に向かって駆け出していった。

「確かここらへんやったと思うんやけどなあ」
 ピィは、周りを眺めた。目の前には、小高い山のふもと。木々が生い茂っている。道の脇に一本の木製の道しるべがあるほかは、特に何も人工物は見当たらない。後ろは畑、前は山、左右は果て無き道。一見何もなさそうな場所なのに、ピィは何を見つけたというのだろうか。
「この道しるべのへんに、何かへんなもんがおった。それは間違いあらへん。でも、どこ行ってまったんやろ。動いとったでポケモンか人間やろか。ま、ええわ。探せばええんやから。たしかあれは紫っぽいもんやったな。紫なんてナス以外にあらへんし、動くナスなんて聞いたことすらあらへんから、すぐ見つかるやろ」
 ピィは、木製の道しるべを見上げた。両方に矢印のついたその道しるべには、片方には駅へ続く道が、もう片方には小さな村へ続く道が、それぞれ記されている。道しるべの数字を見る限りでは、何キロも離れている村に行くには車か自転車に乗ったほうがよさそうだ。しかしピィは村に行きたいわけではない。この道しるべの近くにいた何かを探しているだけ。
「道しるべの裏でかくれんぼ……なんてありえへんなあ、こんなにほっそい木の棒なんやし」
 ピィは道しるべの裏側を覗き込みながらもひとりごとをやめない。それでも道しるべを手で実際に触って、何かへんなものが無いか確認をとっている。
 別に何も無い。当たり前といえば当たり前。

 がさっ。

 突然道しるべの向こうから聞こえた音に、ピィは思わず顔をあげた。見ると、道しるべの向こうに生える木々の隙間にある小さな茂みが少し揺れている。
「……誰かおるん?」
 ピィが問うた。だが、茂みからはそれ以上物音は聞こえてこない。
「……隠れとるん? それとも、もうおらへんの?」
 茂みからは何も聞こえない。誰もいないのだろう。だがピィは、引き下がらない。茂みに近づいていき、茂みをその短い手でかきわけた。
 奥に、細い道がのびているのが見える。そして、その道には、真新しい何かの足跡。人間の靴跡ではない。これは、
「ポケモンの足跡や。誰かおったんや」
 そう、ポケモンの足跡だ。ひとつふたつではない。中には這いずったような跡も見える。いくつもの跡は細い道の奥へ向かって続いている。だが、途中で途切れているように見えるのは、気のせいか?
「ひょっとしたら、あの紫かもしれん!」
 ピィは茂みに体をねじ込んだ。
「待っとれや、今正体確かめたる!」


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