第1章 part1



 この世界の裏側には、夢魔と呼ばれる生き物たちが住まう別世界が存在する。夢魔とは様々な生き物の夢を糧にして生きる別世界の生き物であり、人間たちの住む世界に姿を現しては、眠っている生き物たちの夢を集めて食べている。だが、あらゆる夢を食べる夢魔は、美味い夢と不味い夢をえり分ける作業は苦手であった。
 人間たちの中に、ごくまれに夢魔の姿を見る事が出来る者がいる。それを知った夢魔たちは早速行動を起こした。夢魔たちは彼らと接触し、美味い夢を食べさせてもらう代わりに有事の際に人間に力を貸すという契約を結ばせたのだ。もちろん夢魔を見ることの出来る全ての人間が夢魔と契約を結んだわけではない。夢魔は人間と契約を結ぶ前に夢の中に現れ、その人間をテストする。そのテストに合格した者とだけ契約を結ぶのである。夢魔の力を悪用されないために。

 夢魔と契約を結んだ人間のことを、夢魔使いと呼ぶ。


「ふああ。進まないなあ」
 井沢啓二は大あくびをした。今年で二十歳になる、近所の四年制大学に通う英文学科の三年生。両親は共働きで、現在は出張により別の場所に一時的に住んでいるため、自宅にいるのは啓二だけ。両親の帰宅は来年の三月になる。
 デスクの上の時計は既に夜十一時を回っている。現在十一月の終わりを迎え、町の商店街はクリスマス商戦が始まっている。店はしまっているが店頭や商店街に飾られた豆電球の数々がそれを物語っている。
 とはいえ、ゼミの宿題の真っ最中である啓二にはクリスマス商戦など関係の無いこと。今、目の前にしているノートに書かれている英文は、明日提出しなければならない宿題なので、今夜中に終わらせなくてはならない。辞書を片手に、翻訳の真っ最中。やっと半分まで終わったところだ。
 ニャオ。
 どこからか、猫の鳴き声が聞こえてきた。啓二は伸びをやめて、部屋の中をきょろきょろ見回す。彼の住んでいるアパートはペット飼育禁止なのだが――
「やあ、ブラックキャット」
 いつのまにか部屋の隅に現れた黒い塊に向かって、啓二はその塊の名前を呼んだ。ブラックキャットと呼ばれたその黒い塊は、すっと立ち上がる。その姿は一匹の巨大な黒猫だった。大型のライオンなみの大きさ。体つきはしなやか、金色の大きな目がキラキラと光り、黒い毛皮はつやつやして撫で心地がよさそうだ。だが、この大きさは一体――
 夢魔ブラックキャットは、啓二の顔を見る。
(けいじ)
 啓二の心の中に、声が響く。これは、ブラックキャットの送ってくるテレパシーだ。夢魔は人語を解し、同時に操る事が出来る。ただし自分の口からその言葉を発するのは不可能なためにテレパシーを使っている。
「わかったわかった。ちょうど僕も気分転換したかったしね」
 啓二は椅子から立ち上がると、背伸びをする。巨大な黒猫は啓二の傍に歩み寄って、その大きな頭を彼の足にこすり付けた。
(ハヤク、デカケヨウ)
「わかったから、仕度が終わるまでちょっと待って」
 啓二はタンスからコートと手袋を取り出し、玄関から靴を持ってくる。コートの上からマフラーを首にぐるぐる巻きつけ、靴を履く。
「じゃ、行こうか」
 巨大な黒猫の背中にまたがる。ブラックキャットは、喉をゴロゴロと鳴らしながら、ぐっと体に力をこめた。巨大な黒猫はフワリと浮き上がる。そして、施錠されている窓に向かって突っ込んだ。ぶつかると思いきや、グニャリと窓ガラスの前の空間がゆがむ。夢魔とその背に乗った啓二が、ゆがんだ空間につっこむと、姿が一瞬だけ消えた。
 次の瞬間、ゆがんだ空間を通り抜けたブラックキャットは、アパートの外へ飛び出した。

 啓二がブラックキャットと契約を結んだのはちょうどこの時期。啓二は当時高校三年生。大学受験のための勉強をしていたが、もともと集中力が長続きしない性質なのと夜中まで起きていることが苦手だったために、夜中前にはもう布団に潜り込んで夢の世界に旅立っていた。そんなある夜、その夢の中に巨大な黒猫が姿を現し、語りかけてきた。
(キミノコト、タメサセテ)
 薄暗い夢の世界で、啓二はその黒猫と向かい合っていた。人ほどもある巨大な黒猫は何もせずじっと啓二を見つめてきた。啓二は臆せず巨大な黒猫の金色の目を見つめ返した。キラキラ輝く金色の目に惹かれ、彼はじっと目を見続けていた。猫がなぜいきなり人の言葉で語りかけてきたのかなど、そんな疑問は頭の隅に追いやられていた。黒猫はしばらく啓二を見つめてから消えてしまい、同時に啓二も夢から覚めた。
 あの黒猫の事が頭から離れなかった。普通ならば夢の内容を何も覚えていないか、覚えていても「ただの夢だ」と片付けてしまうものだが、目覚めてもなお啓二はあの黒猫の姿を鮮明に覚えていた。吸い込まれそうな金色の大きな目が、彼をとらえて離さなかった。
 後日、再び黒猫が夢の中に現れた。
(キミハ、ゴウカクダヨ)
 その短い言葉の意味を知ったのは、目覚めてすぐだった。ベッドのすぐ横に、夢の中の黒猫が座っていた。
(キミハ、ボクノ……アタラシイアルジ)
 夢魔ブラックキャットは、啓二を主として選んだのだった。

 外に出ると、冷たい夜風が吹き付けてきた。コートの隙間から容赦なく風が入ってくる。セーターの網目をくぐって体を冷やしてくる。
「うう、冷えるなあ」
 啓二は思わず、コートの前を合わせなおした。ブラックキャットはそのまま上昇し続け、町が見下ろせるほど高く飛ぶ。道路を走る車のライトや街灯の白い光が夜の町を彩っているのが見えてくる。景色自体は綺麗だが、下を見るのは自殺行為。
(けいじ、けいじ。ゴハン)
 ブラックキャットがねだる。啓二は両手をブラックキャットの背中から放し、高く掲げた。すると、町の様々な場所から幾筋もの光が集まってくる。赤、青、緑、黄、様々な色の光が啓二の手の中に集まり、一つの球体となる。これは、夢を集めたものだ。虹色の球体を、ブラックキャットは嬉しそうに口に入れる。もぐもぐとしばらく噛んだ後、その黒猫の体から真っ黒な霧が出てくる。食べ終わった後、排泄物として夢魔は悪夢の霧を出す。そのまま悪夢の霧を戻してしまうと、眠っているものは悪夢にさいなまれることになる。霧は自動的に啓二の手の中に集まると再び球体に変わる。だがこの球体の色は純粋な白色だった。啓二がその球体を下に向かって放り投げると、パッと球体は弾け、再び光の筋となって方々へ散っていった。夢魔の排出した悪夢を浄化して普通の夢に戻すのも、夢魔使いの役目だ。そうしなければ、夢魔は悪夢しか食べられなくなってしまうから。
 ブラックキャットに夢を食べさせた後、啓二はしばらく夜の散歩を楽しむ。夜景を見るのがすきなのと、他の夢魔使いに遇う事が出来るかもしれないからだ。
 のんびり飛んでいると、遠方を見つめたブラックキャットがいきなり身をこわばらせる。
「どうしたの」
 啓二が問うと、夢魔はフーッと威嚇した。主ではない、前方の誰かに向かって威嚇している。
(アイツ、キライ!)
 目を凝らして見ると、遠くを飛んでいるのは大きな赤い毛皮のシベリアンハスキー。が、それはただの犬ではなく、夢魔の一種族ブラッドドッグである。種族の個体数はブラックキャットと同じくらい。子供としか契約を結ばない夢魔で、主のわがままには何でもつきあう。その一方でブラックキャットは誰とでも契約を結ぶが、気まぐれな性格の者が多く、主のわがままにつきあってやるほど心が広くない。このブラックキャットも例外ではない。啓二がゼミや講義での宿題に追われている時も遠慮なく訪れて夢を食わせろとねだるのだから。……不思議なことにブラッドドッグはブラックキャットを遊び相手として認識しているらしく、ブラックキャットを追い掛け回したがる。一方で追い掛け回されるブラックキャットは、その独特の毛皮のにおいとしつこい追跡ごっこからブラッドドッグを嫌っている。
 前方を飛んでいたブラッドドッグはビルの陰に飛び込んでいき、姿を消した。背中に誰も乗っていなかったので、これから主の下へ向かうのだろうか。
「さ、もう帰ろう。だいぶ体が冷えてきたよ」
 啓二は言った。ブラックキャットは素直に彼の言うことを聞き、アパートへ向かった。美味い夢を食べられたので機嫌がいいのだ。
 アパートへ入ると、啓二は「寒い寒い」と言いながらコートを脱ぎ、靴を玄関まで置きに行った。ブラックキャットは背伸びした後、啓二のベッドの隅に乗ると、毛づくろいを始めた。夢魔の中でも太陽の光が苦手な種族なので朝になれば自分の世界に戻っていくが、夢を食べさせてもらう夜は啓二の部屋に泊まるのがいつのまにか習慣になっている。
「あー、湯たんぽがちょっと冷めちゃったよ」
 啓二はやかんをぬるま湯で満たし、ガスコンロにかけて点火した。湯が沸くと、やかんの湯を湯たんぽに移し、それをタオルで巻いて布団の中に押し込む。だが彼はベッドで寝ずにまた机に向かった。まだ宿題の途中なのだ。
「一時までには終わらせなくちゃ」
 時計は既に十二時を回っていた。啓二は何度も欠伸しながら宿題を続け、一方ブラックキャットはベッドの一角を占領してぐうぐう眠っていた。時計の針が十二時三十分を指すと、やっと宿題が終わる。啓二は安堵のあくびを一つして、寝間着に着替えるのも忘れてベッドにもぐりこんだ。夢魔が反応して目を開けるが、啓二は布団に潜り込むのと同時に寝息を立て始めたので、黒猫はその金色の目をまた閉じた。

 深夜二時を過ぎる頃、廃ビルの上に何者かが降り立った。額に長い角を持ち背中にコウモリのような黒い羽を生やした巨大な黒い馬と、それに乗った全身黒ずくめの謎の人物。光を飲み込むような黒いマントと黒い服、黒い靴。顔には対照的に白い仮面をつけており、それが月光を反射して逆に不気味に顔だけを浮き上がらせている。
 何者かはしばらくビルのてっぺんから町を見下ろしていた。だが、やがて馬に言った。
「行くぞ、ナイトメア」
 何者かがそのがっしりした黒馬の背中にまたがる。巨大な黒馬は大人しく空へ舞い上がった。
 黒馬の体から大量の黒い霧が噴きだして、町の中へ散っていった。
「さあナイトメア、悪夢を撒き散らすがいい。それがお前の役目なのだからな……」
 冷たい夜風に、不気味な男の声が響いていった。


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