第1章 part2



 冷え込みの厳しい朝。幸い雪は降っていないが、風が強いので、耳がちぎれそうだ。啓二は、歩いて大学へ行く前に近くの商店街へ立ち寄って今日の夕飯の食材を買うことにした。講義は午後からなのだから、十二時を過ぎてから行っても問題はない。
「面倒だからカレーでいいか。楽だし」
 一度作ってしまうと三日以上カレーだけで過ごすことになるが、別に構わない。カレーは嫌いではないし、作るのが楽な上に量もあるので、食費の節約にもなる。両親が月に一度生活費と家賃を振り込んでくれるが、彼はできるだけ節約するようにしていた。
 必要な材料を買い物カゴに放り込み、会計を済ませて店を出る。
「うう、寒い」
 ブルッと身を震わせる。強い風が吹きつけ、彼は思わず買い物袋をホットカイロのように抱きかかえた。だがすぐにそれを止める。
「?」
 背筋が、ぞっとする。
「この感触は……」
 夢魔使いにしかわからないそれは、悪夢の気配だった。背筋を撫でられるような、氷が滑り落ちていくような、どちらとも受け取れぬ奇妙な感覚。そして、背筋がぞっとしたその後に頭の中を引っ掻き回されるような痛み。その痛みが強ければ強いほど、悪夢を振りまいている夢魔のランクは高くなる。
「頭が痛い……」
 キンと頭が痛くなり、啓二は片手で頭を支えた。視界がグラリとゆがむ。店の壁にもたれてしばらくあえぐ。痛みは徐々に引いていき、五分程度で収まった。
(これくらい痛いなんて初めてだ。かなりランクの高いやつなんだろうなあ)
 夢魔の出す悪夢は、夢を見ている者たちに嫌な夢を見せるだけではない。夢魔のランクしだいでは、夢魔使いではない人間たちにさえ身体的あるいは精神的なダメージを与えることも可能だ。そしてそれらのダメージを最初に受けるのは、夢魔使いだ。今現在、啓二はその悪夢の力を受けて体調を少し崩した。継続的に悪夢の力を受ければ、さらに啓二の体調は悪化するだろう。頭痛だけではすまないかもしれない。
(誰かが、悪夢を回収していないんだな。誰だかわからないけど、悪夢を回収しないのは困るよ。こっちも悪い夢を見てしまう)
 夢魔使いも眠っていれば夢を見るのだ、悪夢の霧を吸収すれば悪夢を見るのは当然。啓二はため息をついて帰宅した。台所で材料を適度な大きさに切って鍋に入れ、水を計ってそれも鍋へ入れる。コンロにかけて煮えるのを待つ間、米をといで炊飯器に入れてボタンを押す。煮えた頃にルウを割りいれて更に煮る。カレーが出来上がる頃、時計は昼を指した。
「ああ、もうそろそろ行かなくちゃ」
 作ったばかりのカレーを食べずに食パンを齧って、そのまま彼はコートを着てマフラーを乱暴に首に巻き、鞄を引っつかんでアパートを出た。
「昼休みが終わっちゃう!」

 彼の通う四年制大学は、彼の住むアパートから歩いて十分ほどのところにあった。商店街を通り抜けてゆるい坂道を下った先にある。建物はだいぶ古くなっているが体育館などの一部の施設は建て直しの真っ最中。そのため、一部の講義は別の部屋で、体育系の講義はグラウンドで行われている。完成まであと半年。
 大学に到着した啓二は、学生課のある建物に設置されたばかりの電光掲示板を見て、今日の午後の講義が休講かを確認する。休講ではないので、さっさと教室に入る。午後イチの講義は、退屈な文学史。階段状の大きな教室なので、ノートを取るには都合が悪いが転寝するにはちょうどいい。これだけ巨大な教室なのだ、席の場所によっては、寝ていても見つからない。とはいえ、堂々と机につっぷして寝る度胸は、啓二にはそなわっていない。
 啓二が教室の後ろの席に座って、宿題の内容を確認しているとき、誰かが彼の隣の席に座る。啓二はノートから顔を挙げ、
「ん? やあ、澄子」
 おとなしめのファッションで、前髪を眉の辺りでちゃんと切りそろえ、肩の辺りで後ろ髪をちゃんと切りそろえた彼女は、宮元澄子。英文学科の啓二とは違い、彼女は考古学科。彼女との付き合いは高校のときからで、一年次からずっと同じクラスだった。最初の授業の日、啓二の隣の席に座っていた澄子は教科書を忘れてしまった。啓二は教科書を貸した。後日、啓二はノートを忘れてしまい、急いで取り掛かっても宿題が一部完成しなかった。澄子は自分のノートを貸した。それ以降、二人は互いにノートや教科書の貸し借りをする仲になったのである。
 それだけのはずなのだが、最近、啓二は不思議なことに澄子の顔を見ると体が熱くなるのを感じるようになった。風邪を引いているわけでもないのに。そして、
「また宿題やってるの? 講義前でしょう?」
「お、終わってるよ。確認してただけ」
 啓二はノートに目を落とした。ちょうどほかの学生たちがどやどや入ってきて好き勝手に席に着き始め、さらに一分ほど経ってから講義開始のベルが響いたときは、啓二はほっとした。澄子は自分の鞄を開けてノートやテキストを取り出した。
 文学史の講義は退屈そのもので、三十分もしないうちに眠くなり始める。啓二はノートをきちんととっているつもりだが、途中からだんだん筆跡が変化してきた。変化したそれはどうみてもミミズのダンスであり到底読めたものではない。一方澄子のノートは綺麗だ。字はたまに走り書きになるが、重要な項目にはボールペンで赤丸をつけてチェックを入れている。啓二と澄子、どちらのノートが分かりやすいかと言われれば、一目瞭然だ。
 講義終了のベルが鳴り、半分眠っていた学生たちの目が覚める。啓二の目も覚めた。ノートを見るとぐちゃぐちゃのミミズダンスが目に飛び込む。自分で書いたメモなのに、まるきり読めないシロモノになってしまっている。その中ではっきりと読み取れるシロモノは「石川啄木」だけ。なぜその名前だけがはっきりと書かれていたのかは不明。
「あーあ。またぐちゃぐちゃ」
「寝てるのが悪いんじゃないの」
「しょうがないじゃん。タイクツなんだからさ。どーせ文学史なんて単位目当ての講義なんだし、期末試験だってこないだの小テストをそっくりそのまま出すんだから単位取れるって」
 啓二は澄子の顔から目をそらして、ノートを鞄に突っ込んだ。
 次の講義はゼミのため、啓二は澄子と別れて別の建物を目指す。大学の中でも特におんぼろの建物に飛び込んで冷たい風をやり過ごし、階段を上って寒くて小さな教室に飛び込む。彼の所属するゼミの教室だ。三年の学生は彼のほかに三名、四年の学生は二人。そしてゼミを担当するのが名瀬教授。背が高くひょろっとしているので、「小枝」あるいは「ナナフシ」というあだなが密かにつけられているのだが、当の本人はそれを知らない。啓二はレポート提出が遅いので(締め切りには間に合わせているが)、この教授に毎度毎度睨まれている。
「おや、あの井沢くんがちゃんと宿題を間に合わせてくるとは、実にうれしいねえ。赤飯でもたかなくちゃならないかもしれないねえ」
 と講義のたびに言われるくらい……。
 皮肉を我慢しながらゼミを終えた後、啓二はさっさと帰宅する。午後の講義はもうない。夕方四時半を回ったとはいえ、あたりはもう夕焼け色に染まり始めている。赤ではなく黄色っぽいオレンジの空には雪雲が低位置に横たわっている。しばらくしたら天気が崩れるかもしれない。
(雪が降るって言ってたもんなあ)
 啓二はフウと息をはく。はいた息は白くなった。歩いている途中、強い風が絶え間なく襲い掛かってきて、コートやマフラーを剥ぎ取ろうと必死になっている。啓二はそれらを剥ぎ取られまいとしっかりコートとマフラーを押さえつける。
 人ごみを抜けてアパートにやっと帰り着き、ドアを開けて中に入る。冷たく荒れ狂う風はないが、室内には室内独特の寒さがある。閉め切られてこもっている空気が冷たくて重い。啓二は台所へ飛び込み、コートを脱ぐのも忘れてガスコンロの火をつけた。
「ほっ。ちょっとあったかいや」
 やかんに水を入れて青い炎の上に乗せ、啓二はやっとコートを脱いでマフラーと手袋を外した。湯が沸くとそれでほうじ茶を淹れ、ついでにカレーの入った鍋を温めている間に、それを飲んだ。茶を飲むと、体は芯から温まった。
「明日が週末でよかったなあ。布団でぬくぬくしてられるし」
 啓二は低いテーブルの上にカレーライスの入った皿を置いてから、カーペットの上に置かれた座布団に座る。夕食を食べながらテレビを見る。どのチャンネルをつけてもクリスマスに関係したことばかり。つまらないので天気予報を見る。
「あーあ。週末大雪じゃないか。冷えるのは好きじゃないんだよな」
 ブツブツ言いながら夕食を終え、皿を洗う。
「う……」
 啓二の体が傾いた。頭がズキリと痛んで目の前がグラリとゆがむ。洗いかけの皿が湯の入ったたらいの中に落ちて派手に湯を跳ね上げた。
 夢魔の放つ悪夢の力が、また啓二を襲ったのだ。
(また、まただ……)
 数秒ほどで頭痛とめまいは治まった。啓二はフウと大きく息をはいた。しばらくじっとしてから皿を洗い終え、蛇口をひねって湯を止めた。今度は水を出してコップに注ぎ、一気に飲み干すと、だいぶ楽になった。
「夢魔の力か。一体誰なんだ? 悪夢を巻き散らかしているのは」
 ブラックキャットよりはるかに位の高い夢魔の仕業であることに間違いはない。啓二自身、ブラックキャットの放つ悪夢がどの程度のものか知っている。軽めの頭痛程度だ。だが先ほどの頭痛は、めまいが起こるほど酷いものだった。確実に悪夢の力は啓二を蝕み始めている。
 寝ても大丈夫だろうか。啓二はコップをシンクに突っ込みながら思った。
(この状態だと、寝ても悪夢を見るだけだろうなあ。でも寝ないわけにはいかないしなあ)
 夢魔の気配を感じ、彼はカーテンを開けて窓から外を見た。遠くにいても、夢魔の気配は伝わってくる。目を凝らして空を探すと、闇の帳によって覆われてきた西空を何かが横切るのが見えた。鳥のようだ。だがそれはカラスやスズメのたぐいではない。それらよりはるかに巨大で、人が乗れるほどの大きさの鳥だ。
 夢魔の気配は、その大きな鳥が飛ぶ方向から感じ取れる。啓二は呟いた。
「……そうか、シャドウホークだな」
 シャドウホークは夢魔の一種族で、上位に位置する。名前の通り、影のように黒く、巨大なタカの姿をしている。
「ブラックキャットから聞いた事はあったけど、まさかこの目で実物を見られるなんて思わなかったな」
 巨大な夢魔は東の空へと飛んでいく。だがその体からは悪夢の霧を発してはいなかった。

 深夜。
 角とコウモリのような翼を持つ巨大な黒馬が、その体と同じくらい黒い衣装に身を包んだ主を乗せて、町中の夢を集めつくした。集められた夢を食べたナイトメアの体からは、黒い霧が大量に出てきた。黒ずくめの乗り手は、その黒い霧を集めようともせず、反対に、地上へその黒い霧をばらまき始めた。黒い霧は町中に降り注いでいく。
「ナイトメア、夢は美味いだろう?」
 顔につけた真っ白な仮面だけがこの乗り手の不気味さを際立たせている。主に問われた夢魔は、うなずいた。ブルルと首を振ると、黒い霧が出てきた。その霧は風に乗って、町の上へと降りていく。
「だが、お前にはもっともっと悪夢を降らせてもらわねばならん。夢の質は多少落ちてしまうが、お前にはどうしてもその役割を果たしてもらいたいのだ、わかってくれるな?」
 黒馬はうなずいた。
「いい子だ、ナイトメア」
 主は黒馬の首筋を優しく叩いた。ナイトメアは嬉しそうに首を主の手に擦り付けた後、夜空をかけた。
 そのはるか後から、シャドウホークが追っていった。

「う、うう……」
 深夜三時。啓二は布団の中でうなされていたが、いきなり目を開けて飛び起きた。冬だというのにその額には大粒の汗が浮かんでいる。
「ゆ、夢か……」
 凶暴化したブラックキャットにズタズタに引き裂かれて無惨に食い殺される夢を見てしまった。悪夢にも程がある。だからこそ目が覚めたときの安堵感は大きかった。フウと息をはき、啓二は枕もとの目覚まし時計を見る。夜中の三時。起きるには早すぎる。だが二度寝する気にはなれない。なぜなら、眠ればまた悪夢を見るからだ。
 寒いので、布団に包まりなおす。体温で温められた布団が心地よい。その布団は心地よさによって眠りにいざなおうとするが、啓二はその誘惑に勝った。いや、勝たざるを得なかった。夢魔の見せる悪夢を何度も見続ければどうなるか、ブラックキャットから聞かされていたからだ。
 ランクの高い夢魔ほど、悪夢の力も強くなる。精神や肉体を蝕み、消耗させ、やがては死に至る。最初にその影響を受けるのは夢魔使いであり、蝕まれやすいのも夢魔使いだ。普通の人間が悪夢によって蝕まれ始めるよりもずっと早く、夢魔使いたちは己の生命力を削り取られてしまうのだ。夢魔使いでなくとも夢魔が見える者も同じくらい早く消耗させられてしまう。夢魔の存在を感じ取れる特別な人間たちだからこそ、その特別な力の影響を受けやすいのだ。
 啓二はブラックキャットを呼んで暇つぶしにつきあってもらおうかと考えた。契約を交わしている夢魔は自分の意思で空間を渡ってやってくるが、夢魔使い自身が己の望むときに呼び出すこともできるのだ。ただし体力と精神力をかなり消耗するため、契約している夢魔のランクが高かろうが低かろうが、呼び出した直後はくたびれ果てて口をきくどころではなくなる。
(やめよう。それよりゼミの宿題でもしよう)
 寒いので布団から出たくはなかったが、電気のスイッチは離れたところにあるので仕方がない。しぶしぶ布団から出て部屋の電気をつけ、まぶしさに目を慣らしてから鞄を開けて中身を引っ張り出す。ノート、テキスト、辞書、筆記用具。啓二は布団に包まったまま、宿題をやり始めた。
「早く夜が明けてくれないかな」
 啓二が宿題をしている間も、悪夢の霧は町の上に降り注ぎ続けていた。

 夜空をシャドウホークが滑るように飛んでいく。その背中には、夢魔とは対照的に真っ白な衣装に身を包んだ何者かが座っている。顔には真っ黒な仮面をつけており、顔を完全に隠している。この乗り手は一体何者なのだろうか。
 ギャア、とシャドウホークは耳障りな声で鳴き、周りをきょろきょろと見回した。
「見失ったのね」
 背中に乗っている奇妙な人物は冷たい声を出す。ややしわがれているがこれは女の声だ。シャドウホークはぶるっと身震いし、見失ったと返答した。
「あの男は必ず夜にだけ姿を見せるというのに。夢魔の気配はないの?」
 感知できない、夢魔はそう応えた。
「気配もないのね。夢魔の世界へナイトメアは戻ってしまったのね」
 シャドウホークは小さくギャアと鳴いた。
「仕方ない。今夜も諦めなくては」
 主の言葉に従い、シャドウホークは闇の中へ消えていった。


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