第2章 part1



 篠崎良平は、ラーメン屋『一番星』で働くフリーター。少しボサボサの髪を薄茶色に染めているが、ひげはちゃんと剃っている。今年で二十三歳。高校時代から『一番星』でアルバイトとして働いており、大学受験に失敗した卒業後もこの仕事を続けている。主に夕方から閉店時間まで仕事をして、それ以外は寝ていることのほうが多い。
「うーっ、寒くて仕方ないぜ」
 オーダーストップは夜十一時。夜中前に最後の酔っ払った客をたたき起こして送り出した後、片づけと掃除、食器洗いなどを全て済ませる。必要な作業を全て終えた後、やっと帰る事が出来る。良平が店を出たときには、夜中を大幅に過ぎていた。
「早く帰って布団につつまりたいぜ、まったく」
 防寒着の上からブルブルと小刻みに体を震わせる。澄み渡った夜空には、冷たい光を放つ三日月が陣取っている。彼の歩く大通りには人っ子一人見当たらない。街灯の光と月の光だけがあたりをさびしく照らしているのみ。
 早く自宅の安アパートに帰り着こうと、良平は小走りで大通りを走った。が、ふと足を止め、空を見上げる。
 目を凝らすと、三日月の辺りに何か小さなものがいる。飛行機でも鳥でもコウモリでもない。飛行機よりも小さいが鳥やコウモリよりもはるかに巨大な、そしてごく一部の人間にしかその姿を見る事が出来ない、異世界の生き物だ。
「……夢魔か」
 さらによく見ると、夢魔らしきその小さなものの周辺へ、周囲からキラキラと輝く虹色の光がたくさんあつまってくる。どうやらその夢魔は、夢を集めている最中のようだ。虹色の光は見えなくなり、代わりに、さらに目を凝らさねば見えないような霧があたりに広がり始めた。
「悪夢の霧だな」
 その夢魔は、悪夢の霧をばらまきながら、さっと近くのビルの裏側へと飛び去っていった。
「やべーな。悪夢の霧は、その霧を作った夢魔じゃないと回収できないのに。これじゃ悪夢をみちまうよ」
 それでも眠らないわけにはいかないので、良平はしぶしぶ帰宅して、畳の上に敷かれっぱなしの布団にもぐりこんだ。
 数時間後、良平は悪夢にうなされながらも眠りについていた。当然、目覚めは最悪。
「くそー、頭が重い……」
 昼前に目覚めた良平は、食パンを齧りながら、ため息をついた。
「今日がバイト休みでよかった。今日はどこへもでかけねーぞ……だるすぎて動く気しない」
 布団をたたむのも面倒だった。良平は布団の中に再びもぐりこんだ。布団のぬくもりが、再び彼を眠りの世界にいざなった。
 今度は、何の夢も見なかった。
 他の夢魔使いが、夢を回収したのかもしれない。

 レッドフェレット。
 夢魔の中では希少種であり、個体数も少ない。上位の種族ではないが、わがままな性格で夢の選別には特にうるさく、契約を交わした夢魔使いとの衝突が絶えない。夢の選別にうるさい故に、主を選ぶときは特に慎重で、めぼしをつけた人間に何度も接触してやっと契約を結ぶ。ただし、わがままな性格が災いして、どの主とも一年以上続いたためしは無い。
 良平がレッドフェレットと契約を結んでから三年経つ。この夢魔との喧嘩は絶えないが、契約は未だに続いている。喧嘩は多くても、良平にとってはストレス解消できるいい機会。レッドフェレットとしても、食べられる夢を選別できる能力がある夢魔使いをまたしても失うのは惜しい。そのため両者は契約を結び続けているのだ。

「あーもうっ! 食っといて文句言うんじゃねえよ!」
(ウルサイ! マズイモンハ、マズイ!)
 良平とレッドフェレットはいつもどおり喧嘩を始める。良平のアルバイトが終わるのが夜中なので、彼が帰宅している途中で、強引にレッドフェレットが彼を夢集めに連れ出すのだ。そして、そのたびに夢の味がどうのこうのと喧嘩をする。今夜も、さっそく喧嘩を開始した。
(ユメ、アツメナオセ! ヤッパリマズカッタゾ!)
「今更おそい!」
 良平の手の中に集まった黒い霧は、白い光に変わって地上へ降り注いでいった。レッドフェレットは腹立たしそうに体をうねらせる。良平は慌ててその赤い毛皮にしがみついた。そうしないと落ちてしまうから。ここは高度百メートル。落ちたらコンクリートに激突だ。レッドフェレットはこんな高さからでも容赦なく振り落とそうとしてくるので、毛皮をしっかり掴まなければならない。
 容赦なく体をブンブン振ってくるレッドフェレットに良平は抗議した。
「あっ、こら! やめろって言ってんだろ!」
(ウルサイウルサイ! ウマイユメ、サッサトクワセロ!)
「食った後でわがまま言うなっ! もう夢は集めきったんだよ!」
(ヤダヤダ、ヤッパリマズイ!)
「知るかよ! 腹に入れば美味かろうが不味かろうが同じだろ!」
(チガウチガウ! アツメナオセ!)
「もう遅いって言ってんだろ! 我慢しろ!」

「何だかあっちがさわがしいね」
 啓二は東を見た。ちょうど月が昇っており、その月の中に夢魔らしきシルエットがぽつんと見えている。そして、その方向からなにやらギャアギャアと声が聞こえてくる。
「なんか、喧嘩してるっぽいな、あれ」
 ブラックキャットは、ひげをぴくぴく動かした。
(アッ、レッドフェレット!)
 嬉しそうなブラックキャットは向きを変えて、飛んでいこうとする。だが、啓二はそれを止める。
「やめろよ、ブラックキャット。迷惑だろ」
 啓二は月の中をみる。シルエットはしばらくミミズのようにのたくっていたが、やがてどこかへ降りていった。
(イッチャッタ)
 夢魔は残念そうに尻尾をたらした。ブラックキャットにとってレッドフェレットは遊び道具のようなもの。出会えば必ず追い掛け回すのだ。そのためレッドフェレットはブラックキャットをひどく嫌っている。
 啓二はブラックキャットをなだめ、夢を集めようとした。が、ブラックキャットが急にフーッと威嚇し始めたので、
「ど、どうしたの」
 いきなりブラックキャットは身を翻した。啓二は振り落とされそうになったが、毛皮をわしづかみにしたので落ちずに済んだ。身を翻したブラックキャットは、近くの廃ビルの裏へ飛び込む。
(イヤナヤツガ、イル!)
 全身の毛が逆立っているブラックキャット。啓二は身をそっと起こし、ビルの角ごしに気配と姿をうかがう。強い夢魔の気配。背筋がぞっとした。上位の夢魔だろう。そして、月明かりの中、一頭の黒い馬が滑るように夜空を駆けていくのが見えた。
「ナイトメアだ……初めてだ」
 啓二は思わずその黒馬に見とれた。
 額に長い角を持ち、コウモリのような翼を背中にはやした、巨大な黒い馬。最高位の夢魔であり、当然プライドがとても高い。己の乗り手にふさわしい主を見つけるために、レッドフェレット以上に厳しい試練を科す。その試練を乗り越えた人間だけがナイトメアと契約を結べる。その試練の厳しさたるや、相当なもの。百万の人間が試練を受け、残るのが一人か二人というもの。ナイトメアの個体数はそれなりなのだが、試練を乗り越えられる人間のほうがはるかに少ないので、夢を食えないままのナイトメアのほうがずっと多い。だが試練の厳しさだけは変えない。ナイトメアのプライドが許さないからだ。
 啓二がナイトメアに見とれていると、ナイトメアの体から黒い霧が噴出し始めた。だが、その霧は集められず、町へと落ちていく。
「あっ、悪夢の霧が……!」
 ブラックキャットはフーッと威嚇の音を出す。だが、こんなに遠くでは相手に聞こえやしない。
「ねえブラックキャット、あの霧を回収できないかな?」
(ナンデ?)
「このままだと悪夢しか食べられないから」
(ダメダヨ。アクムノキリハ、ソノキリヲダシタムマニシカ、カイシュウデキナインダ。ソレニ、ランクガアマリニモチガイスギルヨ。ボクジャ、アイツニカナワナイ)
「そうか……」
 それでも啓二は素早く夢を集める。悪夢の霧が完全に地上に降り注ぐ前に。薄い虹色の夢の塊をブラックキャットに食べさせる。反応を見る限りでは、あまり美味そうではなさそうだ。ブラックキャットの体から悪夢の霧が出てくる。啓二はそれを手の中に収め、浄化して地上へ戻す。白い光は町に降り注いだが、上から濃い悪夢の霧が降り注いでいった。
「体調悪化は、あのナイトメアが原因かもしれないな」
 啓二はひとりごちた。
「いったん帰ろう、ブラックキャット」
(サンポ、シナイノ?)
「そんな気分じゃないよ。頭が重いんだ……」
(アノ、ナイトメアノチカラダネ、キット)
 夢魔は素直にアパートへ向かった。部屋に入ってブラックキャットの背中から降りた啓二は、一気に体調が悪化した。ナイトメアの悪夢の霧の影響が出たのだ。
「あ、頭が、痛い……」
 啓二は、割れそうな頭痛に襲われ、吐き気がした。霧に覆われていない外にいるときのほうがずっと楽だった。黒い霧が町に降り注いだので、霧の影響を受けやすい夢魔使いにはつらすぎる。
(けいじ……)
 ブラックキャットは心配そうに寄り添ってきた。啓二はベッドに何とか寝転がったが、めまいが酷く、目の前に枕があることすら分からないほどだった。手探りで夢魔の頭に触れ、撫でた。ブラックキャットは喉をゴロゴロ鳴らした。そのまま彼は眠りの闇の中へ堕ちていった。
 翌朝は休日だったが、啓二は夕方まで目を覚まさなかった。

「井沢くん、どうしたの?」
 月曜日、澄子が心配そうに啓二に話しかけてきた。ちょうど昼休みをむかえたばかりで、学生たちは食堂や売店へ向かい、あるいは大学の外へ出て行っている。啓二と澄子はそれぞれの講義が終わってから、啓二は帰宅しようとして、澄子は食堂へ向かっていて、バッタリと出遭ったのだ。
「大丈夫、とは言えないかも」
 啓二は、大学の壁にもたれ、額に手を当てている。頭が重い。鈍痛で朝から悩まされている。
「保健室行ったほうがいいんじゃない? 風邪かも」
「いや、風邪じゃない……」
「でも風邪かもしれないよ。わたしだってちょっと頭重いし、最近へんな夢も見るし……」
 啓二は澄子の言葉をろくに聞いていなかった。
 啓二は澄子と別れた後で帰宅した。今日の午後の講義が休講となったのがありがたかった。足を引きずるようにして何とかアパートまで帰り着く。頭が重い。
 鍵を開け、乱暴にドアノブを回してドアを押し開ける。
 室内に入って鍵をかけたとき、啓二は首をかしげた。
「あれ?」
 なじみの夢魔の気配がする。見回すと、太陽の光が当たらない台所の隅っこに、大きな黒い塊が!
(けいじ?)
 ブラックキャットは、啓二の驚きをよそに、のっそりと立ち上がった。だが、太陽の光が自分に当たらないようにするためか、その場から動かない。
「ブラックキャット……どうして、こんな真昼間に?」
 啓二は台所の隅の夢魔に近づいた。ブラックキャットは喉をゴロゴロ鳴らし、嬉しそうに啓二の体に擦り寄った。
(ダッテ、シンパイダッタンダモン。けいじ、アノアト、ホントウニヨワッテタカラ。コンナニハヤクエイキョウガデルナンテ、オモイモシナカッタヨ。ソレダケ、ナイトメアノチカラガツヨイッテコトナンダケドネ。デモ、ゲンキニナッタミタイダネ、ヨカッタヨ)
 夢魔は首をかしげた。啓二が、ブラックキャットを抱きしめたから。
(ドウシタノ? キブン、ワルイノ?)
「ううん。嬉しいんだよ……ありがとう」
 啓二は、ブラックキャットをぎゅっと強く抱いた。ブラックキャットはもう一度喉をゴロゴロ鳴らした。
 部屋のカーテンを閉める。どんよりとした雲に覆われて暗くなってきた空からは太陽の光があまり降り注いでこないので、部屋はすぐ暗くなった。啓二は部屋の電気をつけて部屋を明るくする。人工の光なら苦手ではないので、ブラックキャットはベッドの定位置でくつろぎはじめる。啓二は鍋のカレーを温め、ついでにやかんで湯を沸かす。カレーライスと緑茶で昼食を済ませてから、啓二はブラックキャットに問うた。
「今朝になったらだいぶ体調は戻ったけど、大学でまた体調を崩したよ……どうしてこんなに浮き沈みが激しいんだい? ナイトメアは最高位の夢魔なんだろ?」
(ウン。ナイトメアハ、タシカニツヨイ。デモ、タイチョウガモドッタリワルカッタリスルノハネ、アクムノチカラガ、ツヨカッタリヨワカッタリ、イッテイジャナイカラダヨ)
 ブラックキャットはごろんと寝転がり、腹を出して大きく背伸びした。
(アノナイトメアイガイニ、アクムヲマキチラシテイルヤツガイル。ナイトメアノチカラト、タマタマ、ソレガマザッテシマッタンダ。ダカラ、ソノブンタイチョウガアッカシテル)
「まだいるのかい?」
 うんざりした口調の啓二に、ブラックキャットは前足を舐めながら答えた。
(イル。デモ、ダレカワカラナイ)
 ハア、と啓二はため息をついた。

「くっそー。頭が痛くて仕方ねえや」
 良平は、熱い湯気の充満する厨房から、ラーメンの載った盆を二つ持って客席へ向かう。客にラーメンと伝票を渡してから厨房へ戻り、次のチャーシューメンとギョーザのセットを運びにかかる。
 仕事して忙しくしている間でさえ、頭は重かった。それ以上体調が悪くならなかったのが唯一の救い。一度だけ熱いラーメンの汁をうっかりとこぼしそうになったのを除けば。
「たっぷり寝たのだけが唯一の救いだな。夢見は良くなかったけど」
 ランチタイムを迎えた店内は満席。アルバイトが一人欠勤したので良平が急遽代わりに出ている。いつもなら不平を心の中で呟いているが、今はこの目の回るような忙しさがありがたかった。忙しく走り回っている間は、嫌なことを忘れていられるから。
「さ、次つぎ! おまっとさーん!」
 ガララと戸が開けられ、五人のサラリーマンたちがどやどや入ってきた。良平は厨房へ向かう前にサラリーマンたちを、片づけを終えた後の空いた喫煙席へ案内した。
「さ、水! おしぼり!」
 良平はくるくる店内を駆け回って忙しく働き続けた。

 雪の降り始めた深夜。
 空を一頭の黒馬が駆けていく。額にのびる長い角、コウモリのような巨大な翼、どこからどう見てもその姿はナイトメアそのものだ。だが、唯一違うのは、その角の少し下に、十字の白い模様がついていることだった。
 額に十字模様のあるナイトメアは、夢を吸い込んでもいないのに、全身からどす黒い悪夢の霧を吐き出した。普通のナイトメアの放つそれよりもはるかに邪悪でどす黒いそれは、町を見る見るうちに包み込んでいく。そして、霧に包まれた町のあらゆる場所から、灰色の光の帯が集まってくる。悪夢に蝕まれ始めた夢たちだ。十字模様のナイトメアは、その灰色の帯を口の中に全て吸い込んだが、今度は悪夢の霧を出すことなく、夢魔の世界へ帰っていった。


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