第2章 part2



 ブラックキャットと一緒に寝ていた啓二は不思議な夢を見た。青白い綺麗な光が辺りを照らす中、十歳頃の少女が彼の前に立っている。どこかさみしそうな顔をしたその少女は、啓二の手を取って歩き出す。啓二も一緒に歩く。少女は何も言わずに歩き続ける。やがて青白い光は一筋の帯になり、少女はそこで啓二の手を放し、青白い光に手を伸ばす。青い光は少女を包み込み、少女は啓二にむかってニッコリと笑い、手を差し伸べた。そして啓二も手を伸ばすと、少女のまとう青白い光が彼自身をも包み込んだ。
「……」
 目が覚めた。
 チュンチュンとすずめが鳴いているのが聞こえる。枕もとのブラックキャットは、もう夢魔の世界へ帰ってしまっていた。
 啓二は起き上がる。昨日までの体調の悪さはどこへやら。すっきりした目覚めだった。
「あの子は……?」
 夢の中に出てきた少女。あの少女に見覚えがあった。だが、どこで見たのだろうか。過去にどこかであったのは確かだ。だが、思い出そうとすればするほど、頭の中にもやがかかっていき、少女の顔がぼやけていってしまう。
(さびしそうな顔だった)
 それだけが印象に残っていた。

「あ、井沢君。顔色良くなったね。風邪、なおったんだ」
 文学の講義の教室にて、澄子は啓二に笑いかけた。啓二はゼミの宿題のノートから顔をあげて、澄子の顔を見た。が、すぐ目を別の場所へ向けてしまったので、啓二は何とか彼女の顔を見ようと努力する。
「うん。僕はよくなったけど、澄子のほうが悪くなってない?」
 澄子の顔色は、眼に見えて悪かった。
「やっぱり、風邪治りきらないのかしら? ちゃんと病院にも行ったのに……」
 澄子の表情も暗くなった。
「講義抜けてさ、保健室行けよ。僕もついてくから」
「でも……」
「いいから! 見てられないよ、そんな疲れた顔」
 啓二は立ち上がると荷物をまとめて鞄につっこみ、澄子を引っ張って講義室を出た。ドアを閉めた直後に講義開始のベルがなった。
 のろのろと歩く澄子を引っ張って啓二は保健室のドアを何とか開けた。
「失礼します」
 だが、誰もいない。
「すみません?」
 呼びかけてみたが、やはり誰もいない。
「しょうがない、ちょっと休ませてもらおうか」
 保健室のベッドのひとつに、澄子は横たわった。息は荒く、顔色は悪い。
「体温計、体温計、と」
 啓二は棚をあさって体温計を探す。だが、後ろから弱弱しい声が聞こえてきた。
「いいの、井沢君……熱、今朝は無かったもの」
「今朝と今じゃ、時間が違うよ。熱測りなおさないと。ほらきっと熱が上がって――」
 言って彼女の額に手を当てた。
「!」
 思わず手を引っ込めた。
 冷たい。
「井沢君……?」
 澄子が不思議そうな顔で見つめてきたので、逆に啓二の体は火照った。
「井沢君、顔、赤いよ?」
「な、なんでもないよっ」
 直後、ドアが開けられて保健室の医者が姿を現した。小太りの保健医は、慌てもせず、咎めもせず、ちょっと訳ありな笑みを浮かべた後、
「あら、お邪魔だった?」
「い、いえその……友達が気分悪いっていうんで、休ませてもらってただけで……」
 友達が、という言葉を搾り出すのに数秒かかった。言い終えた啓二の顔は真っ赤になっていた。保健医は訳ありな笑みのまま澄子を診る。
「風邪にしては様子がおかしいわね。熱も咳もくしゃみもない。やっぱり病院で検査してもらったほうがいいわね。保健室の設備じゃ手に負えないわ」
 三十分ほど休んで澄子の体調が少し回復してから、二人は保健室を後にした。送っていこうかと提案する啓二に澄子は首を横に振った。わずかに頬を染めながら。
「ありがとう。でもいいの、ひとりで、帰れるから」
 彼女はかぼそく言って、どんより曇った西に向かって歩き出していった。
 午後のゼミを、啓二は半ば上の空で受講した。ゼミの内容など、今の彼にはどうでもよかったから。
 どんよりした雲が空を覆いつくし、夕方になるともう街灯の光が無ければ前方も見づらくなってしまうほど。啓二はぼんやりしたまま大学を出て、歩いた。しばらく歩き続け、ふと我に返った。
「あれ?」
 自宅のアパートとは正反対の方向。
「道間違った……」
 引き返そうと回れ右したとき、道の右手側に一軒の花屋がある。「宮元花店」と書かれた看板が目に飛び込んだ。
「あ。ここ澄子の家だっけ」
 高校生だった頃、宿題のプリントを届けに行った事が一度だけある。今は店のシャッターが下りている。今日は定休日のようだ。
 彼は、店の脇に回る。澄子の自宅は店の裏手なのだ。インターホンを押そうかと手を伸ばしかけたが、しばらく躊躇った後、引っ込めてしまった。その時の啓二の顔はトマトのように真っ赤になっていた。
「あ、明日、行ってみよう。今日はもう、おそい……」
 くるりと回れ右した啓二の体はホットカイロが要らぬほど火照っていた。

 この夜も、啓二は不思議な夢を見た。昨夜と同じ少女が姿を現し、啓二の手を引っ張って、どこかへ連れて行こうとして歩いている。啓二は抵抗もせず、歩いていく。やがて周囲は青白い光に満たされ、すぐに青白い光は少女の周りに集まってくる。光を帯びた少女は啓二に微笑みかけた。すると、啓二の体も青白い光を帯びる。青白い光は、夢が覚めるまでずっと二人の体を包み込んでいた。
 夢が覚める前、啓二は、消えていく少女に問うた。
「君は、誰?」
 少女の口から何事か言葉が漏れたが、やっと聞き取れたのは、わずかだった。
「ま……な……」
 夢が覚めると、カーテンから朝日が差し込んでいた。枕もとの時計の針は八時を指している。
「まな」
 啓二は布団の中で、その言葉を繰り返した。
 まな、マナ。少女の名前? 思い出そうとするが、そのたびに少女の姿は霧がかかっていき、見えなくなってしまう。それに少女の名前が「まな」であるとは限らない。彼女の言葉を、彼は完全に聞き取っていないのだ。「まりな」「まなみ」、そんな名前かもしれない。だが、何故なのだろう。啓二は、彼女の名前が「まな」だと確信していた。
(そうだ、『まな』だ。間違いない。でもおかしいな。なぜ『知って』るんだ? あの子の名前が、『まな』だなんて……)

 黒ずくめの乗り手の載ったナイトメアが、悪夢の霧を撒き散らしていたときのこと。家々に降り注いできた悪夢の霧は、眠るもの全てに悪夢を見せる。だが、啓二だけは悪夢を見ていなかった。なぜなら、眠っている彼の体は、まるで守られるかのように青白い光に包まれていたから。

 良平は、眠る時間帯をずらしてから、悪夢を見なくなった。太陽の出る昼間はさすがに夢魔は出てこないので、悪夢の霧を降らせる事は出来ない。夢魔の放つ悪夢の気配だけはどうにもならないけれど。
「昼寝すれば悪夢の霧を浴びずに済むしな」
 だいぶ体力は取り戻せたものの、それでも悪夢の気配だけは良平の体力をわずかずつ削っている。悪夢を撒き散らすのをやめない限り、この嫌な感触だけは消えてくれない。これが消えてくれたら、どんなにいいか。
 良平は、大学帰りの学生たちの群れを喫煙席と禁煙席それぞれに案内してから、水とおしぼりを人数分持っていった。ランチタイムと夜間は、特に店が忙しくなる。
「あーあ。一体誰なんだよ、悪夢をまき散らかすのは」
 熱いラーメンやチャーハン、ギョーザがどんどん並べられ、良平はそれらをてきぱきと運んだ。自分のまかないの時間まで、後一時間。忙しければ忙しいほど、悪夢のあの感触を感じ取る暇が無くなる。良平は店内を飛び回り、どのアルバイトよりもてきぱきと働いたのだった。
 だが、
(マズイ、マズイ!)
 レッドフェレットの文句は増えた。最近食べる夢がどんどん不味くなっているというのだ。しかしどんなに良平が頑張っても、集められる夢の質には限界がある。いくら彼が、他の夢魔使いよりも夢の選別に長ける特別な存在であったとしても。
「しょうがねーだろ! 悪夢をまきちらす奴のせいなんだから!」
(ウルサイウルサイ!)
 喧嘩の回数も増えてしまった。

 深い闇の帳が、空を覆っている。身を切るような寒さと冷たい風が、遠くから雪を運んできている。
「いた」
 シャドウホークの背に乗った、黒い仮面をつけた女は、何かを見つけたようだ。シャドウホークは耳障りな声で鳴き、前方に見える闇に向かって飛んでいく。
 白い仮面をつけた黒ずくめの男とナイトメア。
 ナイトメアが鼻を鳴らして後ろを向いたので、乗り手も後ろを向く。
「!」
「やっと見つけたわ」
 黒い仮面をつけた女は、白い仮面をつけた男の隣へ並ぶ。ナイトメアとシャドウホークは互いに敵意をあらわにしている。
「何の用だ」
「久しぶりに見つけたというのに、冷たいのね」
「……用は何なのだ」
「あなた、何をしようとしているの」
「お前には関係の無いこと!」
 言われて、黒い仮面をつけた女はしばらく黙った。が、
「まだ諦めていないの、あのこと」
 その言葉で黒ずくめの男が激高したことから、女の言葉が的を得ていたとわかった。ナイトメアはシャドウホークに角を突き出し、突き刺そうとする。だがシャドウホークはひらりと身を翻して角をよけた。
「貴様には関係の無いことだと言っただろう!」
「無駄よ」
「無駄だと? 私のしている事が無駄だというのか?」
「ええ、そうよ」
「無駄というのか」
 男はナイトメアをなだめた。鼻息荒い黒馬は、明らかに不満そうな目を主に向けた。
「無駄ではないぞ。ある方法を手に入れたのだ!」
「手に入れた? それは成功するのかしら?」
「もちろんだ。そのためにはまず大量の悪夢を集めねばならんのだ」
「だから、こうして悪夢の霧を撒き散らしているというわけね……寝づらくて、仕方ないわ」
「寝づらい? その程度の悪夢では足りぬ。もっともっと! 悪夢が必要なのだ!」
 男はいきなりナイトメアをけしかけた。ナイトメアは容赦なく、角の先から漆黒の霧を勢いよく噴射した。シャドウホークは降下してよける。だがその霧は辺りに広がり、視界を奪った。
「目くらまし?!」
 シャドウホークが羽ばたいて霧を払ったころには、ナイトメアの姿は影も形も無かった。
 残念そうなシャドウホークをなだめ、
「なぜ悪夢が必要なのかしら」
 女はしばらく考えていた。
 シャドウホークは耳障りな声で鳴いた。明らかに嫌悪感を含んだその鳴き声。シャドウホークが見つめる方向には、ナイトメアが放ったと思われる濃い悪夢の霧があった。
 今宵も町に悪夢が降り注いでいく……。


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