第3章 part1



 町の廃ビルのてっぺんに、普通のナイトメアよりも一回り大きな、額に白い十字模様のあるナイトメアがいる。大きな翼を広げて一声いななくと、町に降り注いでいる悪夢の霧が、いっぺんに、このナイトメアの元へ向かってきた。ナイトメアは悪夢を口から一気に吸い込んだ。悪夢の霧は全て吸い込まれていき、辺りは綺麗な夜景が広がっていた。
 悪夢は消え去った。
 何事も無かったかのように、白い十字模様のあるナイトメアは悠々と飛び立って夢魔の世界へ戻っていった。

 朝十時過ぎ、啓二は大学の書店で雑誌を立ち読みしていた。だが、読んでいるというよりはただ単にページをめくり続けるだけで、最新の映画情報など彼の目には碌にはいっていなかった。腕時計を見て、講義の終わる時間になったのを確認し、雑誌を元の場所に戻してから書店を出た。講義室の並ぶ廊下に行くと、学生の波に埋もれて、前に進みづらくなる。それでも何とか講義室に入る。テキストとノートを出して広げ、講義開始のベルが鳴ってからは黒板とノートにかわるがわる視線を移す。
 真面目に講義を受けているように見えて、実際は啓二の頭の中は『まな』のことで一杯だった。
(何でだろう。何であの子の名前を知ってるんだろう)
 頭の中に、夢で見た少女の顔を思い浮かべる。大雑把な輪郭が思い出されていく。だが、あとちょっとのところで、とつじょ彼女の顔にもやがかかってしまい、完全なものは思い出せなかった。なぜなのだろうか。まるで思い出して欲しくないかのように、少女の顔にもやがかかってしまう。
(なぜはっきりと顔を思い出せない? 名前だけは知っているのに、なぜ顔が分からない?)
 頭の中で考えているうちに講義終了のベルが鳴り、啓二は現実に引き戻された。結局ノートはほとんど何もメモされていないまま、ほぼ白紙の状態だった。学生たちが荷物をまとめて立ち上がり、講義室を出て行く。啓二もそれに倣って講義室を出た。
 学生食堂と売店へ向かう学生たち。啓二はそれに逆らって大学の敷地を出て自宅へ向かった。まだカレールーが残っていたので、昼食にそれを食べようと思ったのだ。
 近くの食堂へ向かうサラリーマンの群れとすれ違い、商店街を歩く。商店街を抜けると、自宅が見えてくる――
「あれ?」
 いつのまにか、「宮元花店」の近くに来ていたのだ。カレーを食べに自宅へ向かっていたはずなのだが……。
「まあいいや、お見舞いに……」
 店頭に出てきた澄子の母親が啓二を見つけた。
「あらお久しぶり、井沢くん」
「あ、こんにちは。お久しぶりです」
 啓二はそこで何と切り出そうか、少し迷った。だが相手が察した。
「ああ、澄子のお見舞いにいらしたの? ありがとう。でも、今日は朝から気分が悪いって、部屋で寝ているわ。病院にも行ったんだけど、疲れがたまっているだけじゃないかって言われたのよ」
 言いながら、手近な花をいくつかとって、花束にしてしまった。
「お見舞いに来たんなら、これくらい持っていっておあげなさいな」
「え、あの、す、すみません……」
 啓二は代金を払おうとして財布を出したが、相手は微笑んだまま首を横に振った。
「いいのいいの。澄子も喜ぶから。あの子、花やぬいぐるみが好きなの」
 無理に花束を持たされ、啓二は背中を押されて家の中へ無理やり通されてしまった。
「さ、どうぞ」
「お、おじゃまします……」
「澄子の部屋は階段を上った突き当たりにあるわよ」
 啓二の背後でドアが閉まった。
 啓二は周りを見回した。玄関は狭く、人が二人立っているのが精一杯といった広さ。啓二はどきどきしながら靴を脱いで上がり、細い廊下を歩く。一歩歩くごとに、階段を一段登るごとに、啓二の心臓は高鳴った。廊下全体にその心音が響くのではないかと思ったくらいだ。
 階段を上った先には短い廊下が伸びている。脇に見える小さな窓から光が差し込んで廊下を照らす。その更に先にはドアがあった。小さな札が下がっており、「います」とだけ書いてある。澄子の部屋である事は間違いない。
 啓二の体がまるで炎のように熱くなった。ノックしようと手をドアに伸ばすが、その手は震えている。緊張のあまり、持たされた花束を握りつぶしてしまいそうなほど、手に力がこもっている。
(何ドキドキしてんだよ。お見舞いに来たって言えばいいだけの話じゃん。緊張することなんか、何も無いのに)
 ごくりとつばを飲み込んだ。それから呼吸を整え、ノックしようと手に力をこめた。
 カチャ。
 ドアがいきなり開いて、啓二は顔面にドアの攻撃を受けた。
「あっ、ご、ごめんな――井沢君?!」
 ドアの向こうから驚きに満ちた声。啓二は、顔を押さえた手の指越しに向こうを見る。澄子が、うろたえた顔で、立っている。桃色のパジャマを着て。なかなか可愛いな、痛みに耐えながら啓二はそんなことを思った。
「ごめんなさい、井沢君! お手洗い行こうと思って、でも気がつかなくって!」
 うろたえている。
「い、いいよ……」
 澄子の部屋の中に通される。椅子を勧められて、啓二は座った。だが座高が低い。啓二は身長のわりに脚が長いので、そう感じたのだ。座るついでに周りを見る。きれいに掃除され整頓されたデスクときちんと閉じられたタンス。自分の部屋とは比べ物にならないと啓二は思った。部屋の中にはせっけんの香りにも似たいい香りがしているが、何のにおいだろう。デスクの隅っこには小さなぬいぐるみがいくつか置いてあり、窓にもぬいぐるみが置いてある。これが女の子の部屋なのかな、啓二は思った。
 デスクのすぐ脇にあるベッドに座って少しもじもじしている澄子を見る。白い毛糸で編まれた肩掛けをかけて、スリッパを履いている。顔は赤く、熱があるようにも見える。不思議なことに、啓二は澄子を長いこと見つめる事が出来なかった。見つめていたいはずなのにすぐ目をそらしてしまう。別に彼女の体型がセクシーだとかそういった理由ではない。
「あ、あの……来てくれてありがとう」
 澄子の言葉で、啓二の顔が耳まで赤くなった。
「い、いいよそんな……僕はフラリと寄っただけで、そんな――」
 なぜかそのことばは消え入るように小さくなっていく。
 しばらく二人は無言だった。壁にかけられた時計がコチコチと時を刻み、時間だけが過ぎていく。啓二も澄子も何とかこの空気をほぐそうと、話題を探している。先に口を開いたのは啓二だった。
「あ、あの、具合どう?」
「えっと、大丈夫」
 昨日に比べれば顔色はよくなっている。が、ちょっと気を抜くと倒れてしまいそうな……。
「昨日も話したと思うけど、変な夢を最近見るの」
 今度は澄子が切り出した。
「夢?」
「そう、変な夢」
 澄子は一呼吸おいた。
「真っ暗な中に、馬が出てくるの。普通の馬じゃない。真っ黒で、角が生えていて、大きな翼を持っていて、額に白い十字模様があった」
 啓二は思わず身を乗り出した。彼女の話す馬の特徴が、ナイトメアにそっくりだったから。だが、ナイトメアの額に十字模様などあるのだろうか。
「背中に乗れって、わたしに言ってるんだけど、わたしが乗ろうとすると急に遠ざかるの。それなのにまた乗れって言うの。それの繰り返し。でも、最後には真っ黒な霧に包まれて消えてしまうの」
 話し続ける澄子の顔色が、少しずつ悪くなっていく。赤かった頬が、少しずつ青ざめてきたのだ。啓二はそれに気がつかなかった。
「体調が悪くなり始めたのは、あの変な夢を見始めてからなの。あの馬に乗ろうとすると、あの馬は逃げていくけど、次第にその距離がどんどん縮まってくの。馬はあまり逃げなくなったけど、あの背中に乗るのが何だか怖くなってきたの。乗ったらそのままどこかへ連れ去られてしまうんじゃないかって、昨日の夢の中で思ったわ」
 彼女の体が震え始めて、初めて啓二は気がついた。
「す、澄子、顔真っ青じゃないか! 体も震えてるし、寝なくちゃ駄目だ!」
 立ち上がった拍子に椅子の足元の小さなカーペットにつまずいて、体勢を立て直すまもなく倒れてしまった。そのままベッドへ倒れこんでしまい、とっさに伸ばした手は布団に向かっていき、
「!」
 はずみで、澄子を押し倒してしまった。
 数秒の硬直のあと、啓二はパッと彼女から身を離して立ち上がった。顔だけでなく全身が真っ赤になっている。澄子も同じく。啓二は何とか弁解しようとしたが、身振り手振りでは謝っているものの、言葉は口から出てこなかった。澄子は押し倒された格好のまま硬直して啓二を凝視している。
「ご、ごめん……わざとじゃない……」
 啓二の口からやっと出てきた言葉はこれだけだった。澄子の目をまともに見る事が出来ない。彼の視線は彼女の顔からベッドへ移ってしまった。心臓が早鐘をうち、その勢いで今にも肋骨を突き破って外に飛び出てきそうなほどだ。床に落とした花束なぞ眼中に入ってすらいない。
「わ、わかってる……」
 やっと、起き上がった澄子が返答したときには、啓二の言葉から三分の時が過ぎていた。

 ドアのノック音。

 ドアが開いて、澄子の母親が入ってきた。手には盆を持っている。粥の入った皿と、ティーカップが載っている。
 ドアが開いた瞬間、二人は同時に彼女を見た。
「あらあら、楽しそうにお話ししてた? お邪魔だったらごめんなさいね」
 彼女は場の空気を読まず、部屋の中に入ってきて、澄子のデスクの上に盆をおいた。その空気を読まない行動のおかげなのか、二人の体の硬直がほぐれた。
「い、いいの、お母さん」
 澄子は消え入るような声で言った。まだ顔は赤い。啓二の顔も茹でたタコのように赤い。
「す、すみません長居してしまって……」
 その言葉が自分の口から出たことすら気がついていない。
「あの、もうお暇します!」
 荷物を引っつかんで、駆け出すように部屋を出て階段を転がるように下りていった。
「あらあら、照れてるのね」
 バタンと階下で聞こえたドアの閉まる音。落ちていた花束を拾い上げた澄子の母はその音を聞いて、何事も無かったかのように微笑む。だが澄子はまだ顔を真っ赤にしていた。

 啓二は澄子の家を飛び出した後、一目散に大学まで走っていた。午後の講義開始を知らせるベルが鳴り響き、ちょうど啓二は正門をくぐった。荒い息をつきながら、なぜ自分がこの場にいるのか考えた。さっきまで澄子の家にいたはず。だが今は大学に戻ってきている。顔は真っ赤になり、体温は高くなっている。走ったせいだと彼は片付けた。
 次の講義が始まるまで時間はたっぷりあったが、自宅へ戻るのも面倒になり、学生食堂で昼食をとろうと思った。が、不思議なことに食欲が無かった。体が、まるで熱い湯船に浸かった後のように火照っていて、汗ばかりが流れてくる。どうしたのだろう。
(風邪かな……?)
 いや、風邪ではなさそうだった。結局何も食べないまま、その後の講義も上の空で受講してしまい、何のメモもとっていないままだった。頭の中は、澄子のことばかり……。帰宅した後、気持ちがおちついてきたからか、やっと食欲が出てきた。昼に食べなかった分、ルーを全部使ってカレーを食べた。空になった皿と鍋を洗ってから、風呂に入るのも忘れて啓二はベッドに潜り込んだ。体が火照っていただけではない、どういうわけか異常なまでに眠くなってきたからだ。まだ七時だったが、彼は部屋の明かりを消して眠りについた。
 眠っている啓二の体は、青白い光に包まれていった。

「もう悪夢を見なくなったなー」
 閉店後、良平は片付けと皿洗いなど必要なことを全て終えてから、帰り支度をしていた。他のアルバイトたちに「おつかれー」と声をかけてから店を出る。雲ひとつ無い夜空は星が綺麗に光っているが、月はあいにく出ていない。今夜は新月なのだろう。
「夢魔使いが悪夢を回収したんだろうな。それにしても、ホントにあっさりと悪夢が消えたな。一気に掃除機で吸い込んだみたいだ」
 そう。まるで悪夢の霧が一気に掃除機で吸い込まれてしまったかのように、悪夢は全く見なくなった。悪夢のあの悪寒も消えてしまった。レッドフェレットの文句は減ったが、その代わりなぜか警戒心をあらわにし始めた。
「それにしても、一体全体何が起きてるっていうんだ。悪夢が何日も続いたかと思えば急にそれがなくなるなんて」
 良平は頭をかき、自宅に帰り着く。そして、ドアを開けようとした。
 いきなり上着の襟首を引っつかまれ、乱暴に引っ張られた。
(ユメ、クワセロ!)
 レッドフェレットは強引に良平を背中に乗せて空へ舞い上がったのだった。
「やめろーっ」
(ヤメルモンカ!)
 いつもの喧嘩が夜空で始まった。


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