第3章 part2



 啓二は闇の中を歩いていた。前方に見える青白い光を目指している。光の元へたどり着くと、あの少女『まな』が姿を現した。少女は何も言わず、啓二の手をとって歩き出す。啓二は何も言わず少女と一緒に歩き出す。周りは少しずつ青白い光によって明るくなってくる。
 いつもの夢。しばらく歩くと、少女は消えてしまうはずだった。だが、少女は消えなかった。
「けいじおにいちゃん」
 消え入りそうな声で、少女は言った。啓二は思わず足を止め、少女を見た。
「えっ……?!」
 何故名前を知っている? その問いは彼の口からは出てこない。少女はにっこり微笑んで、それ以上何も言わず、煙のように消えていった。
「待って!」
 啓二の伸ばした手は虚空を掴んだに過ぎなかった。
 いきなり周囲がグラグラと揺れだした。周囲を照らす青白い光がいっきに散っていき、啓二の夢の世界は完全に崩壊した。
(けいじ! けいじ!)
 啓二はゆすられて飛び起きた。周りを見ると、暗い。まだ朝になっていない。そして、
「わっ」
 思わず身を引いた。闇に浮かんだ二つの金色。
 ブラックキャットの両目がキラキラ光っていたのだ。
「ああ、びっくりした。ブラックキャットか……」
(ドウシタノ)
「い、いや、ちょっとびっくりしただけだよ……」
 暗さに目の慣れてきた啓二は、目覚まし時計を掴み、時刻を見る。時計の針は深夜の三時を指していた。寝たのが七時頃だった。ブラックキャットが起こさなければそのまま朝まで寝ていただろう。
「あれ、もうこんな時間?」
(けいじ、ユメ、タベサセテ)
 ブラックキャットは期待に満ちたまなざしを向けた。本当にこの夢魔は主の都合など考えない。
「起こさずに僕の夢を食べてもいいんじゃない? 君に起こされるまで夢を見てたんだから」
 が、夢魔はしゅんとした。
(タベテミタカッタケド、タベラレナイノ。ダレカガ、けいじヲマモッテルミタイ。けいじノユメヲノゾクコトサエ、ボクニハデキナカッタヨ)
 誰かが守っている?
(ソレヨリ、ハヤクタベサセテ)
「わかったよ。支度するから、ちょっと待って」
(ハヤク、ハヤク)
 ブラックキャットにせかされながら、啓二はまた考えていた。
(あの女の子は一体誰なんだろう? 何であの子を知っているんだろう?)

 風も雲もない、新月の夜。明かりは地上の蛍光灯とわずかに走る車、そして星の瞬きだけ。ブラックキャットは啓二を背中に乗せて、夜空を飛んでいく。
 啓二が夢を集めようとしたとき、いきなりブラックキャットが警戒心をあらわにした。
「どうしたの……」
 黒猫はフーッと威嚇し、体中の毛を逆立てる。
(イヤナモノガイル!)
「嫌なもの?」
 ブラックキャットは周囲を見回し、金色の目を大きく見開いている。何かを探そうとしているかのように。
 上から風が吹き付けてきた。啓二が見上げると、そこには巨大な黒い鳥が!
「わっ……!」
 啓二がぎょっとしている間に、その巨大な黒い鳥は下降してきた。
「あら、こんばんは」
 巨鳥シャドウホークの背に乗った何者かが、啓二に話しかけてきた。ブラックキャットは未だに警戒心を解かない。啓二は、話しかけてきた相手を見て、さらにぎょっとした。なぜって、相手の全身が真っ白な服に包まれていただけでなく、その顔には対照的に真っ黒な仮面をつけていたから。そんな異様な風体の人物にいきなり声をかけられたのだから、誰だって驚くに決まっている。
 啓二が何も返答できないでいると、相手は優雅に笑う。笑い方は上品だ。しわがれた声だが、女のようだ。仮面の下は一体どんな顔なのだろうか……。
「突然ご挨拶してごめんなさいね」
 シャドウホークは耳障りな鳴き声を上げた。ブラックキャットは耳を伏せた。
「あなたに聞きたい事があるの」
 シャドウホークが突然、ブラックキャットの進路を塞ぐ。女は問うた。
「貴方の名前は、『井沢啓二』かしら?」
「!」
「その反応だと、合っていたようね」
 女は笑った。
「もう一つ聞くわ。あなた、『麻奈』を知っていて?」
 まな。
 今度の啓二の反応は微妙だった。
「そう、こっちは忘れてしまっているのね。あなたにとって大事なことなのにねえ。まったく、何も覚えていないというのね?」
「覚えてるも何も……なんで、そんなことを聞くんです……?」
 啓二に言えたのはそれだけだった。女は笑い、シャドウホークもあざけるように笑う。その耳障りな鳴き声を聞いたブラックキャットは、フーッと激しく威嚇した。今にも相手にとびかからんばかりの体勢にまでなったが、相手は気にかけてすらいないようだ。
「あなたにいいこと教えてあげる。十一年前の四月四日を調べてごらんなさい。きっと思い出せるはずよ、『麻奈』のこと」
 シャドウホークに合図すると、巨大な鳥は大きく羽ばたいて、あっというまにはるか上空へと舞い上がっていった。
「また会うかもしれないわね、井沢君」
 女の声は、天から降ってきた。
(イヤナヤツ! けいじヲバカニシタ!)
 巨大な鳥が去った後で、ブラックキャットはうなり声を上げた。啓二は、上空を見上げたまま、ほうけた顔をしていた。
「十一年前の四月四日……」
(ドウシタノ、けいじ)
 夢魔の問いかけに、啓二は答えなかった。

 翌日。この日は朝から粉雪がチラチラと空を舞っている。啓二はコートの前を合わせ、マフラーをきつめに巻いて大学へ行った。図書館が開くまで待ち、開館と同時に飛び込む。耳をちぎるような冷たい風のない室内は、まだ暖房が効いていないとはいえ、それなりに温かかった。
 啓二の自宅にはパソコンがなかった。そのため、過去の出来事を調べようと思ったら、大学図書館にある古新聞を使うしかないのだ。今日は図書館のパソコンが全てメンテナンス状態。本当はパソコンを使いたかったのだが……。
 学生証を見せて入室許可をもらい、短い通路を通って別棟にある専用の部屋に入る。少しほこりっぽい。様々な本がおさめられている棚の列を通り過ぎ、奥にあるドアを開ける。電気をつけ、暗い室内を明るくする。更にほこりっぽい臭いが鼻をついた。大量の新聞の山が、目に入る。
「ええと、十一年前だから……」
 日付を見ながら目当ての新聞を捜す。まだ啓二が小学生だったときのこと、新聞には全く興味なかった。見たとしてもせいぜいその日のテレビ番組をチェックするためだ。
「ええと、四月四日……あった!」
 いくつもの新聞社の新聞がある。片っ端から読んでいく。朝刊、夕刊。
「あっ」
 啓二は声を上げた。
『わき見運転によるひき逃げ犯逮捕。少女死亡』
 一面の記事に、目が引き寄せられた。乗用車のわき見運転で、下校中の少女が跳ねられて即死した事件。だが啓二の目は文章ではなくその側にある写真に釘付けとなっていた。
『西川麻奈ちゃん・8歳』
 突然、啓二の頭の中にかかっていた霧が払われた。夢の中の少女の顔が、はっきりと思い出せたのだ。
 この新聞に載っている少女こそ、『まな』だったのだ。

 啓二がまだ五歳の頃。近所にいた年上の子供たちは小学校へ通っており、年下の子供といえば赤子くらいなものだったので、同じくらいの歳の子供と遊んだ事はなかった。時々母親に公演へ連れて行ってもらい、そこで遊んでいた。母親は他の母親たちとおしゃべりしており、あまり構ってはくれなかった。そんなある日、妙に青白い肌の病弱そうな母親に連れられた、四歳位の少女が公園に遊びに来た。桃色のリボンで髪をなんとか束ねた、可愛らしい、それでいて寂しそうな女の子だった。
「あの……か、貸して……」
 啓二は、素直に遊具を貸した。少女は恥ずかしそうに、嬉しそうに遊具を受け取った。
「わたしね、『まな』っていうの」
 まな。それが少女の名前だった。近所の大きな家に住んでいた。
 啓二と『まな』は友達になった。何度か喧嘩もしたがすぐに仲直りした。啓二は何度か『まな』の家に遊びに行ってみたが、『まな』は寂しそうな顔で首を振るばかり。「おとうさんがだめっていうの」そればかり。
 啓二が小学校に上がる数ヶ月前、父親の仕事の都合で引っ越さねばならなくなった。それを『まな』に伝えると、彼女は泣いた。一緒に連れてってと泣いた。だがそれが許されるはずもなく、啓二は『まな』に見送られて、泣きながら引っ越したのだった。

「何で、忘れていたんだろう……」
 啓二の手から、床にパサリと乾いた音を立てて新聞が落ちた。その古紙の文面に、ポタポタと水滴が落ちていく。
「……麻奈ちゃん……」
 啓二の両目から、大粒の涙がボロボロ零れ落ちていく。今ではハッキリと思い出せる。麻奈と遊んだこと、引越しのとき二人で一緒に泣いたこと、引っ越した後も泣いていたこと、年賀状や暑中見舞いを出したこと。
 なのに、なぜ綺麗に忘れてしまったのだろう。いつから忘れてしまっていたのだろう。さらに麻奈が死んだことさえ知らないでいた。あるいは忘れていた……?
 啓二は両手で顔を覆って泣き出した。
「麻奈ちゃん、麻奈ちゃん……」
 泣いている間、啓二の体は青白い光を帯びていた。だが彼はそれに気がつかなかった。


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