第4章 part1



 啓二が真っ赤に泣きはらした目のままで図書館を出たとき、午前の講義終了のベルが鳴った。学生たちがそれぞれの教室から一斉に出てきて、食堂や売店に向かって歩き出す。啓二はその流れに乗って、大人しく売店まで流れていった。頭の中は麻奈のことでいっぱいだった。売店で何を買ったのか、どこでそれを食べたのか、全く覚えていなかった。
 午後の講義をサボり、啓二はそのまま帰宅した。
 暗雲の垂れ込めていた空が、少しずつ晴れ始めた。しかし啓二の顔は暗いままだった。
「……」
 ドアを閉めて荷物を床に下ろす。部屋のカーテンを閉め、防寒着を脱いで、まるで何かに誘われるかのように彼はベッドの布団に潜り込んだ。数分も経たないうちに彼は夢の世界へといざなわれる。同時に彼の体は青白い光に包まれていった。
 夢の世界で、彼は一人ぼっちになっていた。少女も現れず、青白い光も照らしては来ない。啓二はその夢の世界で一人、立ち尽くしているだけだった。
 ふと、後ろから青白い光が照らしてくるのを知る。振り返ろうとするが、なぜか体はそれを許さない。まだ振り返るなと訴えているかのようだ。誰かの気配が後ろから感じ取れる。だが、振り返れないので相手を見ることはできない。
「なぜここにきたんだい?」
 誰かの手が、啓二の背中に触れる。背中に神経を集中していた啓二は思わずびくっとした。だが、振り返る事は出来ない。何かが、「見てはいけない」と命令しているかのようだ。
「君はまだここに来てはいけないよ。奴に知られるわけには行かないからね」
 その声と同時に、目の前がぐにゃりとゆがみ、周りが白くなり始める。
「さあ、目を覚ませ……」
 気がついたとき、啓二はベッドの中にいた。目が覚めたのだ。起き上がって周りを見回すと、すでに部屋の中は薄暗くなっている。カーテンを閉めたときより更に部屋は暗くなっている。時計を見ると、夕方の五時だった。
「もう夕方か」
 ため息をついて布団から出る。何か夢を見たような気がしたが、どんな夢を見たのかは全く覚えていなかった。
「そういえば、どうして寝たんだっけ……まあいいや」
 夕飯を作ろうと思って冷蔵庫を開けたが、何もなかった。カレーを作ったときに食材を全部使ってしまった。今朝食べたトーストが最後の食料だった。寒いのに買い物に出たくはなかったが、啓二はコートを着て買い物に出かけた。夕飯前なのだから割引弁当でも買おうと思い、身を切るような冷たい風の中を歩いて、店に入る。暖かな風が吹き付けてきて、啓二はほっとした。
 かごの中に野菜をいくつか放り込み、パンや牛乳など他のものも突っ込む。ついでに割引シールはりたての弁当も放り込む。会計を済ませて店を出ると、啓二は異様な悪寒に襲われた。
「うっ……!」
 吐き気がする。冷たいものが背筋を流れ落ちていき、神経を逆なでする。体中から血の気がどんどん引いていく。
「うっ……」
 唾を飲み込んで吐き気をこらえる。店の壁にもたれてしばらく深呼吸を繰り返すと、少し体調が戻った。これは間違いなく、悪夢の力によるものだ。また強力な悪夢が現れたのだ。
(倒れる前に急いで帰ろう)
 啓二は、ゆがむ視界が元に戻るまで待って、急ぎ足で帰宅した。
「あれっ」
 啓二はしばらく駆け足で移動していたのだが、周りの景色を見て思わず声を上げた。なぜって、ここはアパートの前ではなく「宮元花店」だったから。
「へ、変だな。家に向かっていたはず……」
 店はもうしまっており、裏手の家には明かりがついている。冷たい風の中、啓二の体温はみるみるうちに上がっていき、顔は火照った。麻奈のことで頭がいっぱいで、澄子のことをすっかり忘れていた。それに気づくとなおさら啓二の顔は赤くなった。まるでトマトのようだ。心拍数が急に上がり、体の火照りは増した。
(もう、何で澄子のことで顔が赤くなるんだよ。なんでもないはずじゃないか、ただの友達じゃないか。それ以上のことなんて何もないのに)
 インターホンに手を伸ばす。その手は異様に震えている。
「澄子、大丈夫かな」
 でも、もう夕飯時なんだから、お邪魔するのは迷惑だ。そう思って、啓二は回れ右した。顔は未だにトマト並みに真っ赤だったが。
「!!」
 背中を、悪寒が滑り落ちた。
(悪夢の気配!)
 背後からその強い気配を感じる。振り返った瞬間、啓二は絶句した。なぜって、「宮元花店」にどす黒い悪夢の霧が降り注いでいたのだ。
 この店にだけ、悪夢の霧が降り注いでいる。他の場所には一切降り注いでいない。
「なんで、ここにだけ……」
 夢魔の気配を感じ取った。周囲を見回す。居酒屋に行くサラリーマンたちが群れを成して歩いている以外、何もない。
(おかしいな。夢魔の気配もあったのに)
 この悪夢を作り出す夢魔が近くにいるはずなのだ。だが、このままここにいては危ない。ここにいるだけで疲れが出てくる。走ることすら困難になりそうだ。啓二は、悪夢の力で削られていく体力が尽きないうちに、その場を離れた。
 その啓二の後ろ姿を、額に白い十字模様のあるナイトメアがじっと見つめていた。
 側の空間がゆがみ、ナイトメアが一頭姿を見せる。白い十字模様のあるナイトメアは、現れたばかりのナイトメアに顔を向け、続いて啓二を前足で軽く示した。ナイトメアは深く頭を垂れてから、翼を広げて飛び立ち、空間の中へと戻っていった。

 仕事が終わった良平は自宅に帰る途中だった。が、
「またかよ! ちょっとは我慢しろ! この大食い!」
(ヤダヤダ!)
 レッドフェレットに捕まったのだった。レッドフェレットは良平を捕まえるなり背中に乗せ、すぐに急上昇。自力で降りたら確実に墜落死するほどの高さまで飛ぶ。こうなると仕方がないので、良平はしぶしぶ夢を集めて食べさせた。大人しく食べるレッドフェレットだが、悪夢が浄化されて地上へ戻されてから、いきなりもっと食わせろと言いはじめた。
(キョウノユメ、ウマカッタ! ダカラモットクワセロ!)
「もう無理だっつーの!」
 また喧嘩が始まった。
 が、急にレッドフェレットはピタと動かなくなった。全身の毛がゾワゾワ逆立っている。
「どうしたんだよ一体……」
 良平は問いかけ、口をつぐむ。
 馬のいななきが聞こえてきたのだ。
 続いて、何かが拘束で空を横切り、近くにある四年制大学の近くまで飛んでいく。
「な、なんだあれ」
 良平は驚きのあまり、毛皮にしがみつくのも忘れて、大学のほうを見つめた。レッドフェレットは体をこわばらせたまま、動かない。
(アイツガ、キタンダ!)
 レッドフェレットの赤い毛皮は、小刻みに震えた。
 まるで何かにおびえるかのように。
「おい、行ってみない?」
 良平が言うと、レッドフェレットは牙をむいた。
(ウルサイ! イカナイゾ!)
 良平を振り落とそうとしたレッドフェレットの頭をおさえ、良平は向こうを指差した。
「おい、誰だ、あれ」

 夢魔の世界。
 薄紫の空と、緑色の太陽が照らす、不思議な世界。だが草原も森も砂漠も海も川もある。夢魔のランクに応じて住める場所が決まっており、上位の夢魔は巨木のそびえたつ森を住まいにしている。それ以外の夢魔は地べたに近いところに群れを作っている。食事は別世界の生き物たちの夢なので、この世界に何の食べ物がなくても困らない。実際、この世界には夢魔が口に出来るものは何もない。
 ブラックキャットは下位の夢魔だった。主に草原に住み着き、砂漠や海へはめったに出ない。ぬれたり、砂を浴びるのが好きではないからだ。
 群れて眠るブラックキャットたちの中でも一番若いのが、啓二と契約を交わしたブラックキャットだった。他のブラックキャットよりも頻繁に人間の世界へ出かけ、この夢魔の世界に朝の光が差すまで帰ってこないので、他のブラックキャットからは遊び好きな坊やと思われている。実際このブラックキャットは遊び好きだ。ゼミの宿題で忙しくしていても、啓二はなんとか時間を作ってブラックキャットの遊び相手になってくれるから。
(!)
 啓二と契約を結んだブラックキャットは主が呼んだとわかると、すぐに空間を渡ることにした。契約主が夢魔の姿を頭の中に思い浮かべてその名前を唱えると、夢魔に呼び声が届くのである。
(ハヤク、イカナクチャ)

 啓二は汗だくになってベッドの上に倒れこんだ。ぜえぜえと荒い息をつき、激しい消耗のために心臓が早鐘を打っている。異世界の存在に己の呼び声を届けるだけでも消耗が激しいのだ。
(けいじ、ドウシタノ)
 現れた夢魔は、啓二が疲れきっているのを見て、声をかけた。啓二を心配しているのではなく、呼んだのが珍しかったからだ。啓二は話すどころではなかったので身振りで「待ってくれ」と示し、体力が少し回復するまでベッドの上に横たわっていた。
 やっと息切れがおさまると、啓二はフウと息をはいた。
「急に呼んでごめんよ」
(イイヨ、ベツニ。ソレデ、ドウシタノ?)
「あのさ……」
 啓二は話した。澄子の家に、とても強い悪夢の霧が降り注いでいることを。
「悪夢の力がとんでもなく強かった……こないだまで町中を覆っていた悪夢とは比べ物にならないよ。一体誰がそんな事をしてるのか、見当つかないか? 何で澄子の家だけあんなことに……」
 夢魔は喉をゴロゴロ鳴らしていたが、しっぽをパタパタさせた。
(ワカンナイ。ソレダケツヨイチカラヲモツ……ア)
 ブラックキャットが思いついたその時、
 馬のいななき。
 鷹の鳴き声。
 啓二はとっさに窓を開け、外を見る。
「あっ」
 夜空で、シャドウホークとナイトメアがにらみ合っている。目を凝らすと、その背中には、先日出遭った城ずくめの女。ナイトメアには全身黒ずくめの何者かが乗っている。
「行って見る?」
(ヤダヨ、アイツラノケンカニマキコマレルナンテ)
「夢魔同士の喧嘩ってそんなにすごい?」
(ウン。けいじハシラナイカラ、ソンナコトヲシレットイエルンダヨ!)
 ブラックキャットは耳を伏せた。
 ナイトメアとシャドウホークはしばらくにらみ合った後、ビルの陰へと姿を消した。
「ねえブラックキャット、さっきの話なんだけど、ちょっと行って欲しいところがあるんだ」
(ドコヘ?)

 澄子の自宅前まで来なくても、大学の側まできたとき、ブラックキャットはフーッと何かに向かって威嚇し、全身の毛を逆立てた。
「や、やっぱり強すぎる? 澄子の家からまだ離れてるんだけど」
 恐る恐る聞いた啓二。ブラックキャットは威嚇の姿勢をくずさぬまま、
(ツヨスギル……コンナツヨイチカラヲモッテルノハ、アイツシカイナイ!)
「あいつって、誰?」
 突如、上空から強い風が吹き付けて、何かがものすごい勢いで降りてきた。
 ナイトメアだった。
 その背中に乗った、全身黒ずくめ且つ顔につけた真っ白な仮面が、不気味に夜空に浮かび上がっている。
 ブラックキャットはフーッと威嚇した。だがナイトメアは全く気にもかけない。
 黒ずくめの乗り手は、仰天している啓二を見たようだ。
「貴様が、井沢啓二だな?」
「!?」
 昨夜会ったあの白ずくめの女と同じ質問。啓二が何もいえないでいると、相手は、
「死ね!」
 勢い良くナイトメアの翼が羽ばたき、啓二はあっさりとブラックキャットの背中から吹き飛ばされた。


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