第4章 part2



 啓二の体は、ナイトメアの起こした強風にあおられ、一瞬のうちにブラックキャットの背中から吹き飛ばされた。一瞬自分の体がフワリと浮いた奇妙な感覚を覚え、続いて自分の体が落下していくのに気づくのに数秒かかった。
「わああああああああああ!」
 真下は大学の敷地、だがそこは工事中の新しい体育館。鉄筋は、まだ組み立てられたばかりでむき出し。そんなところにぶつかればどうなるかは分かりきっている。だが啓二はそんなことを考える余裕など全くない!
 ブラックキャットが啓二めがけて急降下してくる。だが間に合わない!

 ドサッ。

 何かの柔らかなものの上に、啓二は落ちた。その柔らかなものは、啓二を背中に乗せた途端、痛そうな鳴き声を上げる。
 落下のショックから立ち直っていない啓二は、ぶるぶる震え、目と口を大きく開けた状態で、その何かを見た。ブラックキャットだろうか、いや違う。毛皮が赤い。
 赤いそれは、啓二を乗せたまま、ゆっくりとグラウンドに降り立つ。啓二を振り落とすと、へたりこんでしまった啓二は、自分を助けてくれたその赤いものを見た。犬ではない、フェレットだ。
「あんた、大丈夫か」
 後ろから声をかけられ、啓二は振り向いた。
 髪を明るい色に染めた、歳の似たくらいの青年が立っている。フェレットとこの青年。自分と同じ夢魔使いだとわかるのに時間はかからなかった。
「あ、ああ、ありが……」
 ショックから立ち直れない啓二は礼を言うことすら難しかった。
 ブラックキャットが降り立った。レッドフェレットは毛を逆立てた。
(けいじ、けいじ!)
 ブラックキャットはレッドフェレットに目もくれず、啓二に素早く駆け寄った。啓二はブラックキャットの体に身を預けてもたれかかった。助かった安堵感ゆえに力が抜け、普通に座ること自体難しくなったのだ。
「それにしてもあんた災難だったなー」
 青年が言う。
「あのでっかいナイトメアの翼で吹き飛ばされたんだぜ? あの変な服きたやつ、あんたに恨みでも持ってたのか? あんた、あいつの知り合い?」
 啓二は首を横に振った。知らない。あんな男とはあったこともない。
「あんた、じゃああの男から恨みを買うような真似もしたことないんだな?」
 啓二はまた首を横に振った。あったこともないのに恨みを買うようなことなどできやしないはずだ。
 二匹の夢魔が急に上を見上げる。そして、空間のゆがみの中へ姿を消した。見ると、ナイトメアが上空にまた姿を現し、下りてこようとしている。
「やべ、見つかる!」
 青年は啓二を引きずり、工事現場の側の鉄筋の陰に身を潜める。ナイトメアは地上へは降りてこないまま、しばらく空中にとどまる。黒ずくめの男の声も聞こえたが、遠いので何を言っているのかは聞き取れない。さらに時間がたつと、夢魔の気配は遠ざかっていった。
「ほっ」
 青年は安堵のため息をついた。啓二はやっとショックから立ち直る事が出来た。が、自分のズボンがぬれているのに気づく。落下の恐怖に耐えられず、失禁してしまったようだった。バレなきゃいいがと思ったが、そういうわけには行かなかった。
「あんた、早く帰ったほうがいいよな……なんてーか、その……」
 青年は言葉を詰まらせる。啓二は真っ赤になった。言われなくても分かっている。ブラックキャットとレッドフェレットが空間を渡って再び現れる。レッドフェレットはブラックキャットを威嚇し、遠ざけようとしている。が、ブラックキャットはレッドフェレットにちょっかいを出したくてたまらない様子。
「ブラック、キャット。やめる、んだ」
 震えのまだ残る口で何とかブラックキャットをとめる。ブラックキャットは素直に従い、啓二に擦り寄ってきた。喉をゴロゴロ鳴らして啓二の体に頭をこすり付け、しっぽを啓二の腕に絡ませる。
(けいじ、ダイジョウブ?)
「だい、だいじょうぶ……」
「大丈夫なようには見えないって。俺もついていこうか」
「い、いえ、いいです……」
 啓二は何とかブラックキャットの背中にまたがるが、ズボンがぬれているのでブラックキャットは嫌そうだった。
「ご、ごめん。飛んでいって」
 ブラックキャットはそっと飛び上がったが、あまり高く飛ばないようにした。
「ありがとーございましたー」
「おう、気をつけろよー」
 青年に別れを告げてから、何事もなく家に帰り着くと、啓二はまず下着とズボンを洗濯機へ突っ込み、新しいのをはいた。
「明日が祝日でよかった。ごめんよ、ブラックキャット」
(イイヨ、モウ)
 ブラックキャットは、湿ったユニットバスのタイルに背中をこすり付けている。尿のにおいを落としているつもりなのだろうか。
「洗おうか。人間用の石鹸しかないけど」
(ミズ、キライ)
 起き上がり、背中の毛皮についた水滴を、ブルッと体を震わせて払う。
(ソレハトモカク、アレハ、ダレナノ? けいじノシリアイジャナイノ?)
「知り合いじゃないってば。会ったことないよ。それ以前に仮面なんかつけてちゃ顔わからないよ」
(ソレモソウダネ)
 ブラックキャットは後ろ足で耳をかいた。
 それから、ブラックキャットがベッドの一角を占領して眠ってしまった後、啓二もベッドにもぐりこんだ。
(あれは一体誰なんだろう。僕を確認するなり「死ね!」だなんて……僕に恨みを抱いているのは間違いないけど、僕はあいつに会ったことなんてないぞ)
 頭の隅に、白ずくめの謎の女の姿が浮かんだ。女も仮面で顔を隠していた。
(あの二人、何者なんだ?)
 考えているうちに、何かにいざなわれるように、彼は眠りに落ちた。その体はすぐに青白い光に包まれた。ブラックキャットが目を覚まし、啓二の体をまじまじと見つめる。
(けいじ……?)
 前足を伸ばすが、啓二の手に触れることはできなかった。パチッと静電気のような痛みが走り、夢魔は前足を引っ込めた。
(オナジダ、コノアイダト……)
 啓二を包む青白い光は、夢魔を寄せ付けなかった。やはり何かが啓二を守っているのだ。
(ナンダロウ……キヨラカナヒカリ。コノヒカリハ、タマシイノヒカリ?)
 夢魔は知っている。どんな生き物にも魂は宿るが、それはたった一つしかないことを。
(デモ、コレハけいじノジャナイ。ホカノダレカノタマシイダ……)
 ブラックキャットは感じ取った。啓二の中に、啓二以外の誰かがいる。それが啓二を守っているのだ。
 また前足を伸ばしてみるが、青白い光はパチパチと静電気のような痛みを走らせてきた。触るのは無理だと判断したブラックキャットはまた眠りについた。どうやらこの青白い光は、啓二を守る以外のことをするつもりはなさそうだから。

 建設されかけた、体育館のてっぺん。
「あなた、井沢啓二を殺したのね」
 白ずくめの女は、軽蔑したような口調で、黒ずくめの男に言った。彼女の後ろにいるシャドウホークは耳障りな鳴き声を上げた。
「しとめそこねた。奴は工事現場のどこかに身を潜めたようだ」
 男は悔しそうな声を出す。
「あら、よかったわね。殺してしまわなくて」
「どういう意味だ!」
「そのままの意味よ。それよりあなたがこのばかげた行為を続ける限り、私はあなたを軽蔑するわ。こんなことに手を染めても無駄なのよ」
「無駄ではない!」
 ナイトメアがいなないた。シャドウホークが負けじとけたたましく鳴き喚き、翼を大きく広げた。
「それよりも、なぜ貴様はあの男と接触したのだ」
「どうでもいいでしょう。偶然会えたから確かめただけ。私は井沢啓二に執着などしていないわ。彼が生きていようが死んでいようが、ね」
「フン、偶然か。まあいい。だが、あの男を仕留め損ねても、私の長年の夢の成就にはカケラも影響しない」
 男は素早くナイトメアにまたがった。女もシャドウホークの背中へ飛び乗る。ナイトメアが空間のゆがみを渡り、シャドウホークがそれを追う。
「逃がしはしない!」
 夜空に、馬と鷹の鳴き声が響き渡った。

 目覚まし時計の針が七時を指すと、啓二は目を覚ました。ベッドの一角を占領していた夢魔はもう自分の世界に帰ってしまっていた。
 啓二は洗濯機を回し、洗濯物を干した後、冷たい牛乳を一杯飲んだ。あまり食欲はなかった。きれいに澄み渡った空から、朝の光が差し込んでくる。だが、啓二は空気の冷たさの中に悪夢独特の冷たさを感じ取っていた。昨日見た、澄子の自宅に降り注ぐ悪夢の霧を思い出した。そして、悪夢の霧の近くにあった、とても強い夢魔の気配。昨日ブラックキャットはあの悪夢の力に異様なほど反応した。
(アイツシカイナイと言ってたけど、「あいつ」って誰だ? ナイトメアよりも強いみたいないい方していたけど、ナイトメア以上の力を持つ夢魔なんていたかな)
 ブラックキャットの言葉は最後まで聞けなかった。あの不気味な白仮面の男に邪魔をされたためだ。
(そういえば……)
 昨夜、助けてくれたレッドフェレットの夢魔使いの名前を聞くのを忘れていたのを思い出す。
(また会ったら、改めてお礼を言おう)
 コップを洗って片付けた後、啓二は部屋の掃除を始めた。だが、背筋を撫で続ける悪夢の気配には負けてしまった。掃除に集中できず、五分足らずでやめてしまったのだ。気分が悪くなってくる。澄子の家から離れているのに、悪夢の力は感じ取れてしまう。あんなどす黒い霧に包まれた澄子は、どれほど恐ろしい悪夢をみたことだろう。
(澄子……)
 澄子の顔が頭に浮かぶと、途端に啓二の顔は真っ赤に染まった。一体どうして顔がこんなに赤くなってしまうのだろう。体も熱くなってしまう。啓二は思わず自分の体をぎゅっと抱きしめていた。そうしないと心臓が飛び出してしまいそうな気がしたから。
 コートを引っつかんで家を飛び出す。朝早いために人気のあまりない道を駆ける。大学を通り過ぎ、交差点の車道信号が赤なのを幸い、左右の確認も忘れて飛び出し、さらに走る。悪夢の気配がだんだん強くなってくる。やがて「宮元花店」が見えてくる。シャッターは閉まっている。啓二は息を切らしながらインターホンを押した。しばらくして、澄子の母が出てきた。
「ああ、井沢君。おはよう……」
 その顔は少し暗かった。啓二は荒い息をついていたが、呼吸が落ち着いてくると、
「す、澄子、澄子は大丈夫なんですか!?」
 くってかかるような勢いで、相手に詰め寄った。相手はフウとため息をつき、
「それがねえ、いいとは言えないの。昨日は変な夢を見るから寝てないって言うし……。せっかくお見舞いにきてくれたのにごめんなさいね。安静にさせないといけないから」
「あっ……」
 何か言葉を言おうとした啓二の目の前で、ドアは閉ざされた。
 肩を落とした啓二の上空。澄み渡った青空を、あっというまに雨雲が覆い隠していった。
 一時間以上も啓二は店の前でたたずんでいた。通行人が増えたが、啓二にはさして関心も示さずに通り過ぎていく。やがて啓二はとぼとぼ歩き出したが、帰宅しようとして歩いているのではなかった。目的地などない。ただ歩いているだけだった。十分、二十分、三十分。澄子のことばかり考え続けて、彼は町内をグルグル回り続けていた。時間はどんどん過ぎて、啓二が空腹を覚えた頃、どんよりした空から雨が降り出した。同時に、近くの公園の時計は十三時半を指した。商店街から外れたところにいる啓二は、コートのポケットに財布があるのを確認してから、側の店のドアを開けた。
「へい、らっしゃーい!」
 威勢のいい声が、啓二を出迎えた。次に、店員が急いで駆けつけてくる。ここはラーメン屋のようだ。湯煙とタバコの煙が混じり、客たちは雑談している。
「お一人様ですね、ご案内――」
 湯煙で周りがよく見えない。啓二は、駆けつけてきた店員の顔をやっと見る事が出来た。店員も啓二の顔を見る事が出来た。
「あっ」
「ええっ」
 途端に二人は硬直した。
「あ、あんた――」
 店員の口から驚愕の言葉が漏れた。啓二は目をまん丸にしたまま、言葉も出せなかった。
 目の前にいるのは、昨夜啓二を助けてくれた夢魔使いの青年だったのだ。


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