第5章 part1



「!」
 啓二も、相手の店員も、互いに言葉が出なかった。
 驚きのあまり、両者はしばし見詰め合っていた。
「おい良平! どうしたい、さっさと案内しろや!」
 奥から怒鳴り声が聞こえ、青年はハッと我にかえる。周りから笑い声が起こる。
「おう、わかったあ」
 奥に怒鳴り返してから、青年は啓二に言った。
「じゃ、そういうこって。奥の席に案内するから。テキトーになにか持ってきてやるよ」
「は、はい……」
 案内された席は、店の隅っこにある二人用の小さなところ。だがどうも喫煙席らしく、タバコのにおいがキツイ。我慢我慢。足元に鞄を置いた啓二は煙を通して店内を改めて見回してみた。祝日であるせいか、客は大勢いる。店自体はそこそこ広めで、二十人くらいまで入りそうだ。木製の椅子に座った男たちがわいわい騒いでいる。中には大食い大会でもやっているのかと思われるほど丼を積み重ねている者すらいる。タバコの煙と厨房からの湯煙が天井付近で混じりあい、蛍光灯の光に照らされて奇妙なうねりを作り出しているのが見える。壁には古びた時計がかけてある。学校の校舎や教室にかかっているそれと同じだ。時計の針は一時四十五分を指している。
 しばらく時間が流れる。
「おまちどー」
 先ほどの青年が水とおしぼりと熱々のラーメンセットを持ってきた。ミニサイズのチャーハンと餃子がついている。
「悪いね、水運ぶのすっかり忘れてたよ」
「いえ……」
「そんじゃ、当分店の中走り回らなくちゃならんから、話はまた後で。今日は臨時で出てるだけだから、あと二時間もすれば終わりだよ。それまでくつろいでて」
「はい……」
 啓二が先の言葉を告げるまもなく、青年は足早に厨房へ消えた。それからラーメンや餃子を忙しく運び始め、休む暇もなさそうなほどだ。次に出てきた時は、店の奥にいる客たち宛てにジョッキ入りのビールをいくつも器用に運んでいく。客が帰ればさっさとテーブルの食器を片付けて綺麗に拭き掃除をする。客が新しくくれば空席へ案内して、水を運び注文をとる。新米と思われる店員に指示を出しているところから見ても、あの青年はこの店に長く勤めているのだろう。こなす作業に全く無駄がない。
 啓二はとりあえず胃袋をなだめるために遅い昼食をとった。なかなか美味い塩ラーメンだ。チャーハンもいける。餃子は冷凍食品……と言っていいのかどうか微妙ではあるが。
 のんびりと食事を済ませる。食べ終わると、吠え続けていた胃袋は満たされ、啓二は落ち着きを取り戻した。
「ふう……」
 テーブルの上の食器を向かいまでどかして、啓二はテーブルに肘杖をついた。あの青年は忙しく店内を走り回っている。いったいいつ休んでいるのだろう。昼飯時をすぎれば人はあまり入らなくなるので、その時にスタッフルームで椅子に座っているとか?
(しかしまあ、昨日助けてくれたあの人といきなりこの店で会うなんて考えもしなかったよ。偶然てこわいもんだなあ)
 騒がしい店内は時間がたつにつれて少しずつ静かになっていく。客たちの大半は帰り、残っている客はビールと肴のからあげで猥談を繰り広げている。啓二は自分も時間つぶしに何か頼もうかと考えたが、結局やめた。財布を開けてみたところ、千円札が一枚入っているだけだったからだ。メニューを見たが、彼の食べたセットは八百五十円。千円払うと釣りは百五十円、それ以下の値段の品はないので何も注文できない。時計を見たが、まだ二時半。麺がのびるほどのんびり食べているつもりだったが、そんなに時間はかかっていなかったようだ。青年の言っていた時間までたっぷり一時間以上あるのに、時間を潰せるものは何もない。啓二はテーブルに肘杖をついてどうやって時間を潰すかを考えていたが、やがてうとうとし始めた。
 いつのまにか、彼は夢の世界に旅立っていた。

 啓二は灰色の世界の中にいた。目の前に、巨大な黒馬がいる。黒い翼と長い角、そして額の白い十字模様。その姿は間違いなくナイトメアだった。黒馬は啓二を見下ろし、鼻を鳴らした。明らかに馬鹿にしている。みごとなたてがみをふるい、ナイトメアは大きな翼を広げた。同時に、ブワッと強烈な黒い風が吹き付ける。いや、これは悪夢の力だ。悪夢が風のごとくふきだし、啓二に叩きつけてくる。その悪夢の力が体に触れた途端に体が一気に冷たくなったように感じ、啓二は怯んだ。夢魔は飛び上がり、はるか上の闇の中へと溶け込んでいった。だが、上部に広がる闇の中に十字型の光が浮かび上がった。
 啓二の冷たくなった体に、さらに冷水が浴びせられたような冷たさが。
(貴様……!)
 闇から、声が降ってくる。いや、それは声というより思念の塊のようだった。バシッと乱暴に叩きつけられたその思念で、啓二は頭の中がガンガン痛んだ。
(虫けらの分際で、我に近づくでないぞ!)
 一陣の冷たい風が巻き起こり、啓二の身を切り刻もうとするかのように渦を巻いた。目を開けていられないほどの強い風。だが数秒ほどで風は収まり、啓二は目を開けた。
 闇が急速に晴れていく。そして辺りはあっというまに真っ白に――

 ガクッ。
「はっ……?」
 肘から顔が滑り落ち、啓二は目を覚ました。いつのまにか寝てしまっていた。周りを見ると、客は数えるばかりとなっている。時計を見ると、三時半を過ぎていた。転寝にしては随分長かったなと思いながら、大あくびをして背伸びをする。向かいにどけた食器類は全部片付けられていた。
(さっきの夢は一体……)
 巨大な黒馬の夢。なんだか体がだるい。
「おーい、おまたせ!」
 奥から声が聞こえ、あの青年が私服姿で登場。
「客が少なくなったんでね、ちょっとばっかし早めに切り上げてきたよ。あんたぐっすり寝てたみたいだけど、目え、さめてるか?」
「あ、はい。大丈夫です……」
 頭を振ってシャキッとさせてから、啓二は椅子から立ち上がった。レジで会計を済ませた後、二人は店を出た。
「じゃ、そこらへんで話そうや」
 雨は止んでいた。二人は近くの公園に入ると、話を始めた。遊びに来る子供も犬の散歩で通りかかる主婦もいなかったので、二人は遠慮なく話をした。
 青年の名前は篠崎良平。啓二より二つか三つ年上で、先ほどのラーメン屋でアルバイトをしているとのこと。次は啓二が自己紹介した。
「へー、学生さんね。じゃあ来年は職探しだな〜」
「ええ、まあ」
「しかし今は不況で職が少ないって言うから、マトモなのは難しいだろーねー」
「でしょうね」
 しばらく当たり障りのない会話が続く。それから、話す話題が尽きてしまうと二人はしばし黙った。が、先に口を開いたのは、良平だった。
「……なあ、あんた覚えてるだろ、あのときの真っ黒な服の仮面野郎」
 ナイトメアに乗り、白い仮面を付けた、黒ずくめの服の男。啓二はうなずいた。まあ、あんな奇妙な、物語の悪役を思わせる服装をしているのだから、忘れろといわれても、忘れようが無い。
「やっぱりあんた、知らないのか?」
「知り合いじゃないはずですよ」
 知り合いじゃないはず。断言できなかった。
「少なくとも僕は相手を知りません。……ひょっとしたら過去に面識があったのに、僕が忘れているだけかもしれませんけど」
「うーん、ビミョーな答え」
 良平は額にしわを寄せた。
「しかし、空中から落とすようなことするかね、フツー。やっぱあんたあの変なのから恨みをかってるんじゃあ」
「だから、知らないって言ってるじゃないですか。身に覚えなんかこれっぽっちもありませんよ。もし何かやらかしていたとしても、説明してもらわないとわからないし」
「うーん」
 本当に啓二には身に覚えなどないのだ。かりに何かしていたとしても、覚えていない以上、相手から説明してもらわねば自分が何をしたのかすら思い出せない。
「そういえば」
 啓二は思い出した。あの白ずくめの女。
「なんであんな事言ったんだ?」
「何の話だよ」
 啓二は話した。白ずくめの黒い仮面の女は、啓二に、麻奈について問うたのだ。啓二は麻奈を覚えていなかったが、古新聞を調べてやっと彼女のことを思い出した。
「へー、麻奈ねえ。なんでそんな事聞いたんだよ、その女」
「知りませんよ。ただその人も、僕のことを知っているようでした」
「で、あんたはその変な格好の女とは面識あるのか?」
「仮に面識があったとしても顔を見せてくれないと思い出せません」
「それにしても、なんでそんな昔の事を聞くんだろーなー。あんたが覚えてないだけで、そのへんてこな格好した連中から恨みを買ってるとか? わざわざ十一年も前の記事まで調べさせたんだぜ、やっぱりあんた何かやってるんだよ」
「だからおぼえてないんですってば!」
 啓二は怒鳴った。
「何も知らないのに、いきなり死ねとか言われて空から落とされるんですから、こっちは踏んだり蹴ったりですよ!」
「そ、そういわれてもさ」
 良平は頭をかいた。
「そうだっ。今夜探してみるのはどうだ、あの変な格好の連中! そんで聞いてみるんだよ、なんか恨まれるようなことしたのかって」
「さ、探すんですか?!」
 啓二は面食らった。
「探すんですか? 本気ですかそれ?」
「相手の目的を知るには、これが手っ取り早いだろっ」
 良平の笑顔とは対照的に啓二の顔は青ざめていた。当然。良平がいなければそのまま転落死は免れなかったであろう昨夜の出来事。
「僕に死ねって言うんですか!?」
「だ、だれもそんな事言ってないだろー、探すだけなのに」
 結局良平はゴリ押しした。啓二自身、あの変な格好の連中には関わりたくなかったが、なぜ相手が自分に恨みを抱いている(?)のか、その理由だけ走りたいと考えていた。そのため、最終的には良平の思いつきにしぶしぶ賛同したのだった。
「おし、決まり! 今夜な」
 時間と待ち合わせ場所を決め、二人は別れた。


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