第5章 part2



 帰宅した後、啓二はゼミの宿題をした。夜までたっぷり時間があるので、その間の時間つぶしも兼ねている。
(それにしても、あの二人は一体何者なんだ。なぜ僕を目の敵にするんだ。本当に僕は何も知らないってのに、まったく)
 宿題を終えてからベッドに寝転ぶ。寒いので布団に潜って体を温めようと思ったのだ。だが、不思議なことにすぐに彼は夢の世界へいざなわれた。
 青白い光に満たされた、不思議な世界。その世界に立っている啓二。だが彼の周りには誰もいない。しばらくそのままじっと立っていたが、誰の気配も無い。現れるはずの『まな』も来ない。彼はひとりぼっちで立ち尽くしていた。
「!」
 背後からの気配。振り返ろうとしたが、体は動かなかった。足音が聞こえ、啓二の背後で止まった。
「また来たのかい。来てはいけないと言ったのに。よほど君に見て欲しいんだね」
 何者かは静かな口調で淡々と言った。聞き覚えのある声だが、誰の声なのか思い出せない。
「でも、まだその時じゃない。今知られると、今度こそ君は殺されるだろうからね」
 背中に何か触れる。手だろうか。
「さあ、起きるんだ」
 青白い光は、真っ白な光に変わっていった。
 目が覚めた。目覚まし時計は夕方五時半を指している。外はもうだいぶ暗くなっており、明かりがないと周りがよく見えない。
 ねぼけ眼をこすりながら頭の中で夢を思い出そうとする。夢を見たのは確かなのだが、一体何の夢を見たのか、彼は思い出せなかった。だが、あの青白い光だけは、まぶたの裏に焼きついていた。
「そうだ」
 彼は思い出した。澄子の具合はどうだろうか。朝一番に、いてもたってもいられずに走っていったのに、容態が悪化したからと見舞いを断られてしまった。澄子は回復しているだろうか。それともまだ体調が悪いままだろうか。
 トマトなみに顔を赤く染めている自分に気がつくまで、十秒もかからなかった。

 夜九時半、啓二は、遊びに来たブラックキャットに事情を説明した。昨夜の、ナイトメアに乗った黒ずくめの男と、シャドウホークに乗った白ずくめの女を捜すということを説明した上で、
「というわけなんだ。協力してよ」
(エー、ヤダ)
 夢魔は渋った。
(アンナ、ナイトメアニノッテイルヤツナンカ、オイカケルノモイヤダヨ)
「まあ、そう言わないでよ」
 啓二は時間をかけて夢魔を説得し、結局いつもの三倍以上もの夢を食べさせるという条件で、納得させた。それでもブラックキャットは不満そうだったが。
 待ち合わせ場所は、公園の大きな時計の側。のっぽで目立つのですぐ分かる。
「おーい」
 レッドフェレットに乗った良平が、啓二より少し遅れてやってくる。レッドフェレットに夢を食べさせたのか、夢の白いかけらが赤い毛皮に幾つか引っ付いている。ブラックキャットは途端に目を輝かせた。レッドフェレットは毛を逆立てて威嚇したが、相手にはあまり通用していないようだ。相変わらずキラキラした目のまま、とびかかる隙をうかがっているようだ。
「わりーわりー。ゴネまくってさ、なだめるのに時間かかっちゃったよ」
「いや、僕も今来たところですから」
「じゃ、早速探そうや。あんな変な格好した、指名手配すりゃすぐに通報きそうな連中、すぐに見つかるって」
 が、良平が言うまでもなかった。
 強い悪夢の力が、辺りを覆ったのだ。だがそれはあっというまに通り過ぎていった。わずか数秒間だったが、皆言葉をなくした。あの悪夢の力に当てられた途端、体が凍りついたように動かなくなったのだ。悪夢の力は彼らに構う暇などないと言わんばかりにあっというまに通り過ぎた。だが、それでも身動きが取れなくなるほど体が固くなっていた。
 二匹の夢魔は身震いした。
(マチガイナイ、コノチカラ、アイツノダ!)
 ブラックキャットは全身の毛を逆立てた。レッドフェレットはぴんと背筋を伸ばしたままひげ一本動かせない。
「ねえ」
 啓二は問うた。
「前も言っていたようだけど、あいつって誰?」
 が、夢魔は渋っている。言いたくないようだ。啓二はその名前を聞きたいとは思っていたが、それよりも先ほどの悪夢の力が向かった先が気になる。大学のほうへ行ったのだ。
「ねえ、追ってくれないか、あの力の行った先を」
 ギャッとブラックキャットは甲高い鳴き声を上げた。嫌がっている。
「あの方向がどうしても気になるんだ! 頼むよ!」
 なおも渋る夢魔に、とうとう啓二は、
「とにかく行くんだ!」
 鬼のような形相で怒鳴ってしまった。

 悪夢の霧は大学の上空を通り過ぎたが、その少し先で止まった。その悪夢のどす黒い霧の下には澄子の家があった。
「な、なんで澄子の家に……」
 大学の上空で止まったまま、啓二は身震いした。ブラックキャットはこれ以上近づこうとしなかった。どんなに啓二が声を荒げても。
「何なんだよ、あのすげえ力……これだけ離れても身震い止まらないぜ」
 遅れてきた良平も啓二にならって身を震わせる。寒いのではない、悪夢の力があまりにも強すぎて背筋に冷水を垂らされ続けているような感覚が、冬の冷たい風に混じって皮膚を刺激し続けているからだ。いや、その悪夢の力は冷たい風よりもさらに冷たい。ブリザードのように冷たい。このままここにいたら、凍えて死んでしまいかねない。
 ブラックキャットの体が小刻みに震えている。恐怖だろうか。あの強大な力がすぐ近くを通っていったのだから、圧倒されても仕方の無いことだろう。しかし、啓二はその先に行きたかった。これ以上は夢魔が動いてくれそうに無い。
「ブラックキャット、下ろしてくれ」
 啓二の言葉に、夢魔は思わず主を振り返る。
(けいじ、ナンデ……)
「これ以上行きたくないんだろ、なら僕が直接自分の足で行くよ」
 夢魔はためらったが、強い押しに負け、大学のグラウンドにしぶしぶ下ろした。良平の声が空から降ってきたが、それに構わず、啓二は大学の門を駆け抜けた。ぐるっと周って交差点に出る。まだこの時間帯は少し車が走っているはずなのに、全く音が聞こえない。それどころか、周りの街灯や信号機の光が無い。人もいない。完全に無人。啓二はそれにも構わずひたすら走り続ける。悪夢の霧が濃くなり、前を見るのが困難になってくる。手で払ってもすぐに前を覆い隠してしまう。何度か街灯や街路樹にぶつかりながらも、啓二は走った。
(早く、早く行かなくちゃ、澄子の家へ!)
 前方の霧が晴れてきて、周りが見える。そしてそこは澄子の家。霧が晴れているというのに、先ほどよりも強い力が啓二の体にまとわりつき、締め付けてくる。
「貴様!」
 声が降ってきた。見上げると、月の光に照らされて、大きな黒い馬とそれに乗った人間の姿が屋根の上にあった。ナイトメア、そしてあの黒ずくめの男。
「私の邪魔をしに来たのか」
 ナイトメアは地面に降り立った。強い悪夢の力を放っているが、不思議なことに、先ほどから感じ続けていた力に比べると、はるかに弱かった。では、この辺り一体を覆い尽くすこの強力な悪夢の霧は一体誰が?
 ナイトメアは、啓二を馬鹿にしたようないななきを上げ、踏み潰そうとするかのように前足を高く上げた。大きなひづめが啓二に向かって勢いよく下ろされてきた。
(あぶない!)
 間一髪、啓二は脇へ転がってよけた。自発的にそうしたというより、誰かが彼の体を無理に引っ張って転ばせたというほうが正しそうなよけ方だった。
「ナイトメア、もっとよく狙え! このくずの命など、失われても誰も悲しむことはないからな!」
 言われなくてもと言わんばかりに、もう一度ナイトメアが前足を上げようとすると、
(遊ぶのは止めておけ)
 どこからか声がした。同時に、屋根の上に何かが降り立った。その姿を見たとき、啓二は思わず声を上げていた。
「あっ」
 夢に出てきた、額に二十時模様のあるナイトメアだったのだ。啓二を踏み殺そうとしたナイトメアは脚を下ろし、その額に十字模様のあるナイトメアのそばまで飛んでいく。そして頭を垂れる。どうやらあのナイトメアのほうが格が高いらしい。黒ずくめの男は何やら抗議しているようだが、十字模様のナイトメアは気にもかけていない様子。首をぶるっと振るうと、その大きな黒い体からブワッと霧が勢いよく噴出し、あたりを包み込んだ。啓二の視界はまた霧に包まれてしまう。
 十字模様のナイトメアは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。啓二は何とか霧を払えないかと無駄な徒労をくりかえす。手で払っても無理なのに、それでも霧を払おうとした。
(澄子……!)
 あの十字模様のナイトメアが澄子を狙っている。なぜそう思ったのか、彼自身にも分からない。だがとにかく澄子が狙われているという『事実』を彼は知っていた。しかしながら駆け出そうにも、なぜか足が動いてくれない。悪夢の力に負けて怯んでいる。
(いっちゃだめ)
 誰かがささやいた。啓二は左右を見渡したが、ささやきかけてきた本人は何処にもいなかった。霧が晴れているのに、その姿は何処にも見えない。
(いっちゃだめだよ)
 声がまたささやいた。だが、啓二にはあまり届かなかった。あの白い仮面の男が啓二に向かって大声を上げたから。
「井沢啓二! 今宵こそ貴様の息の根を止めてやろうと思ったが、それはまた後に回してやる。今はこの器を確保するのが先だからな! このために、連日悪夢を振りまきつづけてきたかいがあったというものだ」
「何だって?」
 啓二は仰天した。この男こそが、連日の、悪夢の霧を撒き散らした真犯人だった?! だが一体何のためにそんな事を?
(来たぞ)
 十字模様のあるナイトメアが嬉しそうにいなないた。
 店の中から見える青白い光。そしてその光が店の外へ悪夢の霧に包まれながら現れる。啓二はその明るい青白い光に懐かしさを覚えた。だがすぐに、その顔には驚愕が生まれた。
「!」
 青白い光に包まれているのは、澄子だった。
「澄子っ……!」
 澄子の体は光に包まれたまま浮き上がり、十字模様のあるナイトメアの背中に降りた。寝間着姿の澄子は目を開けていない。男を乗せたナイトメアは、その十字模様のナイトメアに命じられてか、啓二に向かって強い悪夢の霧を勢いよく噴出した。またしても一瞬で周りは悪夢の霧に覆い隠され、何も見えなくなる。
 啓二の足が動いた。啓二は闇雲に走り出したが、店の壁ではない何か別のものにはじかれた。コンクリートでも木でもないそれは、夢魔の作り出す結界だった。
「器はこれで確保した。後は、貴様の命のみ! 麻奈のかたきだ!」
 黒ずくめの男の声がして、ナイトメアの強気のいななきが聞こえた。
(麻奈のかたき?)
 立ち上がった啓二の襟首が何者かに引っ張られ、啓二は後ろに引きずられた。その直後、彼が立ち上がったばかりの場所には、ナイトメアのひづめが食い込んでいた。
(遊びは止めろと言ったであろう)
 十字模様のあるナイトメアの思念。すぐにナイトメアは引き返した。そして、二頭の黒馬は空へ飛び上がり、空間を捻じ曲げて渡っていった。
「待って……!」
 啓二の声は空にむなしく消える。
「澄子、澄子を……!」
 啓二の目から涙が流れた。悪夢の霧が完全に晴れ、良平を乗せたレッドフェレットとブラックキャットが店までたどりついたときには、啓二は地面の上で泣き続けていた。泣いた理由はたった一つだけ、澄子がさらわれてしまったからだった。


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